アーモン・ゲート

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アーモン・レオポルト・ゲート
Amon Leopold Göth
Amon goeth 1946.jpg
1946年のアーモン・ゲート
渾名 「ルブリンの血に飢えた犬」
「プワショフの屠殺人」
生誕 1908年11月11日
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア・ハンガリー帝国
ウィーン
死没 1946年9月13日
Flag of Poland.svg ポーランド共和国
クラクフ
所属組織 Flag Schutzstaffel.svg 親衛隊(SS)
軍歴 1930年‐1945年
最終階級 SS-Hauptsturmführer Collar Rank.svg 親衛隊大尉
除隊後 絞首刑
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アーモン・レオポルト・ゲートAmon Leopold Göth, 1908年12月11日1946年9月13日)は、ドイツナチス親衛隊将校第二次世界大戦中、クラクフ・プワシュフ強制収容所の所長を務めた。戦後にポーランドの法廷から戦争犯罪人として起訴され、ユダヤ人虐殺の責任を問われて死刑判決を受け、刑死した。親衛隊における最終階級は親衛隊大尉 (SS-Hauptsturmführer)[1]

スティーブン・スピルバーグの映画『シンドラーのリスト』の悪役として著名。愛称はモニー (Mony)[2]

生涯[編集]

生い立ち[編集]

アーモン・フランツ・ゲート (Amon Franz Göth) とその妻ベルタ(Bertha、旧姓: シュヴェント〈Schwendt〉)の間の一人息子としてオーストリア=ハンガリー帝国首都ウィーンに生まれた。父フランツは軍事専門書を扱う「アーモン・フランツ・ゲート出版社 (Verlagsanstalt Amon Franz Göth)」のオーナーだった。ゲート家はカトリックを熱心に信仰する家庭で経済的には上層中産階級に位置した[3]。当時高級だった自家用車も所有していた[4]

父フランツは海外出張が多く、母ベルタがその留守に会社を預かって経営を行っていた。両親ともに仕事が忙しかったため、父方の叔母のケーテ (Kathy) がゲートを養育した[4][2]

ゲートはウィーンの小学校を卒業した後、実科ギムナジウムを出る。その後、ヴァイトホーフェン・アン・デア・ターヤドイツ語版の大学で経済学を学んだ[5][3]

卒業後にはウィーンに戻り、父の会社で働いた[5]

ナチス親衛隊[編集]

学生時代からナチズムに共感し、1925年国家社会主義ドイツ労働者党オーストリア支部(オーストリア・ナチス)の青年組織に参加した[3]。やがて不統一なオーストリア・ナチスより護国団の方に惹かれ、1927年には護国団の中でも特に反ユダヤ主義が強い「シュタイアーマルク郷土防衛ドイツ語版」のウィーン支部に入団した。しかし1930年にオーストリア・ナチスと護国団の議会選挙共闘の試みが失敗した後には、ナチスに賛同してシュタイアーマルク郷土防衛から離れている[6]

1931年5月31日にナチ党に正式な党員として入党している(党員番号510,764)[6][1]1932年親衛隊(SS) に入隊した(隊員番号43,673)。1930年入隊とする資料も存在するが、正規の入隊は1932年であると思われる)[6]。1933年春に親衛隊軍曹 (SS-Scharführer) に昇進[7]

ドイツでナチ党が政権を取った1933年、オーストリアではナチ党への警戒が高まり、ナチ党は非合法政党にされた。オーストリアのSS部隊はテロ活動を本格的に行うようになった。ゲートも1933年に反ナチ的なオーストリア政府公務員に対して暗殺テロを行い、ドイツへ国外逃亡している。以降ゲートはドイツとオーストリアを密入国で行き来するようになった。1934年7月にナチ党員によるオーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースの暗殺事件があり、オーストリアで6000人のナチ党員が逮捕された。ゲートもこの際に逮捕された一人だった。しかしゲートは脱走に成功し、ドイツのミュンヘンへ逃れている[8]

しかしミュンヘンで親衛隊地区VIII区指導者アルフレッド・ビグラードイツ語版親衛隊上級大佐と対立を深め、1934年から1937年にかけて親衛隊を追放された[7]。その間はミュンヘンで家業の出版業に従事していたという[8]。1937年に親衛隊への復帰を許され、1938年春にアンシュルス(ドイツによるオーストリア併合)があると、ウィーンに戻った[9]。親衛隊のフルタイム隊員となり、ウィーンに駐留する一般親衛隊部隊「第89親衛隊連隊」(SS-Standarte 89)に所属した[9]親衛隊人種移住本部の許可を得て1938年10月23日にインスブルック生まれのアニ-・ガイガー (Anny Geiger) と結婚した[9]。彼女との間に3人の子供を儲けており、うち2人が無事成長した[10]。1940年11月に親衛隊曹長 (SS-Oberscharführer) に昇進した[11]

1940年カトヴィッツ(旧ポーランド領。ポーランド侵攻後、ドイツ領に編入された)へ派遣され、ドイツ民族対策本部 (VOMI) カトヴィッツ支部で現地のドイツ民族を保護・編入する作業にあたった[12][11]1941年11月には親衛隊少尉 (SS-Untersturmführer) に昇進[13]1942年8月からは「ラインハルト作戦」の執行責任者であるルブリン地区親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニク親衛隊少将の事務所で勤務し、ルブリン・ゲットーはじめ各地のゲットー解体の作戦に従事した[14]。その際の残虐さからゲートは「ルブリンの血に飢えた犬」と呼ばれた[15]

プワシュフ収容所所長[編集]

プワシュフ収容所内に残るゲートの住居。このバルコニーから囚人を狙撃していた

この「功績」でゲートは、1943年2月11日に「クラカウ(クラクフ)地区親衛隊及び警察指導者のプラショフ(プワシュフ)強制労働収容所」 (Zwangsarbeitslager Plaszow des SS– und Polizeiführers im Distrikt Krakau) の所長に任命される[15]。親衛隊少尉クラスとしては異例の所長就任であるが、東部戦線の戦況悪化で人員が不足していたのがその原因とみられる[16]。「親衛隊及び警察指導者の強制労働収容所」は強制収容所と違って統一的な規則がなく、所長であるゲートが絶対的権限を有した[16]。所長就任の際に囚人たちに向けて「俺はお前たちの神だ。ルブリンで俺は6万人のユダヤ人を片づけた。次はお前たちの番だ」と演説した[17]

1943年3月13日から3月14日にかけて行われたクラクフ・ゲットーの解体もゲートが陣頭指揮をとっており、大勢のユダヤ人を殺害しつつ、働ける者は自らの強制収容所へと移送した。1943年7月にはフリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーSS大将とユリアン・シェルナーSS准将から推薦を受けて二階級特進があり、親衛隊大尉 (SS-Hauptsturmführer) となった[16][18]

所長になったばかりの1943年春から夏にかけてはプワシュフ収容所は、ゲートの限界を知らぬ恣意的な殺戮によって支配されたという[19]。身長193cm、体重120kgの巨漢であったゲートは、すぐにサディスト的性向を示し、毎朝狙撃銃で囚人を狙撃し、その遺体をロルフとラルフと名付けた二頭の飼い犬に食いちぎらせることを日課としていた。ゲートに直接殺害された囚人は500人以上にのぼり、そのため「プワショフの屠殺人」というあだ名をつけられることになった。囚人を処刑したのちはその記録を逐一記録カードに収めた。これはその親類も残さず抹殺するという目的があり、収容所に不満分子が残ることを恐れたための措置であった。

またゲートは国庫に収められるべきユダヤ人から没収した財産を横領しており、その金で豪勢に暮した。屋敷でパーティー三昧の生活を送り、毎週新しい靴を作らせ、自家用馬や自家用車を数台所有していた[20]

しかしプワシュフ収容所が親衛隊経済管理本部 (WVHA) 管轄の強制収容所 (Konzentrationslager) となった1944年1月以降にはゲートも恣意的な射殺を控えざるを得なくなったという。親衛隊経済管理本部は看守が奴隷労働力たる強制収容所囚人を恣意的に殺害することに目を光らせており、囚人の処刑・拷問には本部の許可を得ることを義務付けていたからである[21]

ゲートは部下の親衛隊員に対しても冷酷に接し、ささいな罪状で親衛隊の規律委員会や警察に引き渡した。さらに自身はおおっぴらに闇取引を行った。彼の部下の親衛隊員たちはがまんの限界に達し、結束して親衛隊捜査判事で親衛隊中佐コンラート・モルゲンドイツ語版博士に訴状を送った。その中には「我が軍の兵士が東部戦線で死んでいるのに、ゲートはパシャのように暮らしている」と書いてあった[22]

プワシュフ収容所はブラシ、ガラス製品、繊維製品、靴の製造を行っていたが、いずれも戦争遂行に絶対的に必要な物とは言えなかったため、この収容所は常に閉鎖の危険があった。しかしまるまると肥っており、重い糖尿病を患っていたゲートは前線に送られることを嫌がり、なんとか贅沢三昧な生活を続けようとプワシュフ収容所の存続に努力していた[23]

失脚[編集]

1944年9月13日、休暇中で故郷ウィーンに帰っていたゲートは、コンラート・モルゲン博士によって横領容疑と囚人虐待容疑により現地で逮捕された[24]。ルブリン強制収容所所長ヘルマン・フロアシュテットブーヘンヴァルト強制収容所所長カール・オットー・コッホも同罪によりモルゲン博士によって逮捕され、処刑されている。

1945年初頭に証拠不十分でミュンヘンの裁判所はゲートに無罪判決を出しているが、ゲートは親衛隊から除隊することとなった[25]。またこの間の拘置所生活でゲートはだいぶ痩せた[26]

1945年1月にはブリュンリッツドイツ語版オスカー・シンドラーの工場を訪問している。シンドラーは怯えるユダヤ人たちに「何も心配することはない。彼はもはや単なる民間人にすぎない。」と述べて安心させたという[27][28]

戦後[編集]

1945年8月29日に撮影された囚人アーモン・ゲート

ダッハウ強制収容所の跡地に設けられた捕虜収容所に収容されたゲートは、ドイツ国防軍の制服に着替え、アメリカ軍に対し自分は復員兵であると申告した。しかし正体がばれ、アウシュヴィッツ強制収容所所長のルドルフ・ヘスと共にポーランドに護送された。

1945年7月にクラクフに護送されたゲートに対し、8月から9月まで裁判が行われた。ゲートにかけられた罪状は、プワショフ収容所における8000人殺害の責任、クラクフ・ゲットーにおける2000人の虐殺に対する共同責任、いくつかの収容所での数百人の処刑に対する責任だった。検察側証人として法廷に呼んだユダヤ人の名前を読み上げる検察官に向かいゲートは「何? そんなにたくさんのユダヤ人がまだいるのか?豚どもは一匹も残ってはいないはずだったのにな」と叫んだ[29]

裁判でゲートは自分はただの軍人に過ぎず、上官の命令に従っただけと主張した。罪状については他の親衛隊員の責任であって自分には一切の責任はないと語った。証人たちがゲートの殺人を証言する際には顔を背けたり、証言が誤りであると異論をはさんだりした。しかし結局ゲートは死刑判決を受けた。ゲートは自分が人間社会に役立つ一員であると力説して減刑嘆願書を書いたが、却下された[30]

翌年9月13日にクラクフにて執行された。方法は絞首刑であったが、長身であったため2度もロープが切れて失敗した。3度目の刑執行でようやくロープで首の骨が折れて絶命した[31]。最期の言葉は「ハイル・ヒトラー」だった[30]。処刑の際の様子は、現在でも動画投稿サイトなどで目にすることができる。

遺体は焼却され、遺灰はビスワ川に流された[25]

人物[編集]

身長は193センチ。当時のドイツ人としてはかなりの長身だった[32]

ゲートの書記をしていた囚人ミ―テク・ペンパーによればゲートは陽気な人間でよくゲラゲラ笑っていたというが、ユーモアのセンスは全くと言っていいほどなかったという[33]

ゲートの邸宅で家政婦をしていた囚人へレーナ・ヒルシュはゲートの裁判でゲートについて次のように証言した。「『俺が命令したらそれは神聖だと思え』と彼は一度ならずそう言いました。ゲートは自分の全能に酔っていて人を怖がらせて喜んでいました。危険になりそうな囚人はあっさりと片付けました。自分はプワシュフの『無冠の王』であると思い、無条件の服従を要求したのです」[34]

複数の囚人の証言によればゲートはその日の気分でアクセサリーを変えたので、彼が殺人を犯す恐れが高い時が外見から分かったという。白い手袋マフラー、つば付きの軍帽かチロリアンハットを被っている時は殺人を行う可能性が高かったという[35]

オスカー・シンドラーの妻エミリエ・シンドラードイツ語版はゲートについて「彼は二重人格者で一方ではウィーン人がそうするように紳士としてふるまい、他方では自分の支配下に置かれたユダヤ人に対して休みなくテロ行為を働いて苛め抜いた物でした。アーモン・ゲートは血も涙もなく冷淡に人を殺すことができ、同時にクラシック音楽のレコードから聞こえてくる雑音はいかに小さな物でも聞き分けることができました」と述べている[36]

映画『シンドラーのリスト』でも描かれている通り、シンドラーとは仲が良かった。シンドラーはゲートを愛称の「モニー」で呼んでいた。シンドラーは低賃金ユダヤ人労働者を確保するためにゲートの好意を常に必要としていた。ヘレーナ・ヒルシュの証言によれば他の工場主たちもゲートの好意を必要としていたが、彼らはゲートのどんちゃん騒ぎには付き合わず、シンドラーだけがいつも付き合い、そのためゲートはシンドラーを一番の親友と思っていたという。そのことについてヘレーナは「シンドラーは超えてはならない限度を超えていました。」「アーモン・ゲートもオスカー・シンドラーもどちらも権力をもっていたんですが、一方はそれを殺人に、もう一方は人の命を助けるために使ったんです」と述べている[37]

家族[編集]

ゲートは3回結婚している。最初の結婚は1934年に両親の勧めで行ったものだが、1年ほどしか続かなかった[38][39]

1938年10月23日インスブルック出身のアニ-・ガイガー (Anny Geiger) と2度目の結婚をしている[9]。彼女との間に三人の子供を儲けた。長男ペーターは生後9か月で死去。長女インゲ (Inge) は1990年代初めに死去。次男ヴェルナー (Werner) は1960年代の終わりに死去した[10]

プワシュフの所長をしていた頃、ルート・イレーネ・カルダー (Ruth Kalder) と恋仲になった。彼女はオーバーシュレージエングライヴィッツ出身でこの頃にはオスカー・シンドラーの秘書をしていた。器量の良い秘書だったルートは、シンドラーの指示でゲートに色目を使って取り入ったのだが、それがきっかけで本当にゲートの愛人になったという経緯だった。ゲートとともにプワシュフで贅沢三昧の生活を送った。ヘレーナ・ヒルシュの証言によればルートは収容所で起こっていることは知りたくないようだったという。四六時中顔パックして寝っ転がり、銃声が聞こえないよう音楽の音量を大きくしていたという[40]。1945年11月にルートとの間にモニカ・クリスチアーネ・ゲートを儲けた。ルートは戦後も亡き夫ゲートを擁護し、インタビューでは「彼は残酷な殺人者ではなく、他の人と違いあはありません。他の親衛隊員と同じでした。アーモンが数人のユダヤ人を殺害したことは否定しませんが、多数ではありません。あのような収容所は遊園地ではないのです」と答えている[41]。彼女アh1983年1月9日に病気の苦しみと家族への負担の心配からミュンヘンで睡眠薬を飲んで自殺している[38][42]

モニカは1970年にナイジェリア黒人の留学生との間に娘ジェニファーをもうけるが、仕事との両立が難しく教会の養護施設に預け、その後養子にだしている。ジェニファーは後に祖父アーモン・ゲートについての本『Amon』(邦題:祖父はアーモン・ゲート)を出版する[43]。その後モニカは1971年にドイツ人と結婚し、1976年に娘イヴァッテを儲けた[44]。イヴァッテはヘロイン中毒者になり、その治療生活が続いている。イヴァッテは2001年に息子を儲けているが、その子にダーヴィット・アーモン・ゲートと名付けている[45]

2002年、マティアス・ケスラーはモニカに二日間にわたるインタビューを行い、その内容を書物『Ich muss doch meinen Vater lieben, oder?』(邦題: 「それでも私は父を愛さざるをえないのです 『シンドラーのリスト』に出てくる強制収容所司令官の娘、モニカ・ゲートの人生」)にまとめて出版している。彼女は2005年にインタビューで「父親の行いは恐ろしく、忌むべきものだった。その記録が詳細に残されているのは良いことだ。まだ生存している戦争犯罪人は追及されるべきだ」と発言している(外部リンク)

ゲートの父のアーモン・フランツ・ゲートは息子と違って長いナチ党員歴を持つわけではなく、1933年3月の総選挙でのナチ党の大勝を見て慌てて入党した所謂「3月党員」(日和見主義者を皮肉って呼んだ呼び方)だった[46]。戦後、フランツはルートへの手紙の中で「あのモニーがもうこの世にいないとは今もって信じられません。息子はきっとどこかで生きている。そう思っていました。」と述べるとともに、ユダヤ人の共産党管理官に財産を奪われ、またゲートの先妻のアニーから慰謝料の追加支払いがないと訴えられたことによる経済的苦境を述べている[47]

『シンドラーのリスト』[編集]

スティーブン・スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』(1993年)では、ゲート役をレイフ・ファインズが演じた。映画ではシンドラーと対象的な双子的存在の悪役として描かれる[48]。ファインズが演じたゲートのキャラクターは、2003年アメリカ映画協会が行った、アメリカ映画100年の悪役ベスト50で15位に選ばれた。

参考文献[編集]

日本語文献

英語文献

  • Crowe, David (2007) (英語). Oskar Schindler: The Untold Account of His Life, Wartime Activites, and the True Story Behind the List. Basic Books. ISBN 978-0465002535. 
  • MacLean, French (1999) (英語). The Camp Men: The Ss Officers Who Ran the Nazi Concentration Camp Systemt. Schiffer Pub Ltd. ISBN 978-0764306365. 

出典[編集]

  1. ^ a b MacLean 1999, p. 87.
  2. ^ a b ケスラー 2008, p. 73.
  3. ^ a b c Crowe 2007, p. 218.
  4. ^ a b テーゲ 2014, p. 35.
  5. ^ a b ケスラー 2008, p. 351.
  6. ^ a b c Crowe 2007, p. 219.
  7. ^ a b Crowe 2007, p. 220.
  8. ^ a b Crowe 2007, p. 221.
  9. ^ a b c d Crowe 2007, p. 223.
  10. ^ a b ケスラー 2008, p. 49-50/353.
  11. ^ a b Crowe 2007, p. 224.
  12. ^ ペンパー 2007, p. 75-76.
  13. ^ ペンパー 2007, p. 71.
  14. ^ ペンパー 2007, p. 71-76.
  15. ^ a b Crowe 2007, p. 227.
  16. ^ a b c ペンパー 2007, p. 72.
  17. ^ テーゲ 2014, p. 40.
  18. ^ Crowe 2007, p. 233.
  19. ^ ペンパー 2007, p. 150.
  20. ^ テーゲ 2014, p. 45.
  21. ^ ペンパー 2007, p. 144-145/150.
  22. ^ ペンパー 2007, p. 168-169.
  23. ^ ペンパー 2007, p. 109-110.
  24. ^ ペンパー 2007, p. 167.
  25. ^ a b ケスラー 2008, p. 352.
  26. ^ ケスラー 2008, p. 85.
  27. ^ ケスラー 2008, p. 86.
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  29. ^ テーゲ 2014, p. 65-66.
  30. ^ a b テーゲ 2014, p. 66.
  31. ^ テーゲ 2014, p. 18-19.
  32. ^ テーゲ 2014, p. 49.
  33. ^ ペンパー 2007, p. 196.
  34. ^ ペンパー 2007, p. 143.
  35. ^ ケスラー 2008, p. 45.
  36. ^ テーゲ 2014, p. 34.
  37. ^ テーゲ 2014, p. 57-58.
  38. ^ a b ケスラー 2008, p. 353.
  39. ^ テーゲ 2014, p. 36.
  40. ^ テーゲ 2014, p. 73-75.
  41. ^ テーゲ 2014, p. 105.
  42. ^ テーゲ 2014, p. 108.
  43. ^ テーゲ 2014, p. 8-10.
  44. ^ ケスラー 2008, p. 354.
  45. ^ ケスラー 2008, p. 355.
  46. ^ ケスラー 2008, p. 72.
  47. ^ ケスラー 2008, p. 69.
  48. ^ テーゲ 2014, p. 58-59.

関連項目[編集]