カジミェシュ3世 (ポーランド王)

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カジミェシュ3世ヴィエルキ
Kazimierz III Wielki
ポーランド王
Kazimierz III sarcophagus figure.jpg
在位 1333年 - 1370年
戴冠 1333年4月25日
出生 1310年4月30日
コヴァルポーランド
死去 (1370-11-05) 1370年11月5日(満60歳没)
クラクフ、ポーランド
埋葬 1586年5月
ヴァヴェル大聖堂、クラクフ
配偶者 アルドナ・オナ・ゲディミナイテ
アーデルハイト・フォン・ヘッセン
クリスティナ・ロキチャンカ
ヤドヴィガ・ジャガンスカ
子女 エルジュビェタ
アンナ
王家 クヤヴィ・ピャスト家
王朝 ピャスト朝
父親 ヴワディスワフ1世
母親 ヤドヴィガ・ボレスワヴヴナ
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カジミェシュ3世ヴィエルキ(Kazimierz III Wielki、1310年4月30日 - 1370年11月5日)は、ポーランド王(在位:1333年 - 1370年)。大王(Wielki)の異称で呼ばれる。ヴワディスワフ1世(短身王)の3男で、母はヴィエルコポルスカボレスワフ(敬虔公)の娘ヤドヴィガ

現在ポーランドで発行されている50ズウォティ紙幣の、表面側の肖像に採用されている。

称号[編集]

生涯[編集]

ヤン・マテイコによる肖像画

1333年、父の死により王位を継ぐ。この頃のポーランドは分裂状態から統一され、内部は比較的安定していたが、今度は神聖ローマ帝国ドイツ騎士団、さらにはボヘミアなどからの外圧を受けるようになる。

これに対して、カジミェシュ3世は武力ではなく外交による解決で臨んだ。まず、1335年にボヘミアと交渉し、大金の支払いと引き換えに和睦した。次いで1343年ローマ教皇クレメンス6世の仲介の下にドイツ騎士団と交渉し、領土の一部を譲ることで和睦した。そして神聖ローマ皇帝カール4世に対しては、一時的に戦争状態にもつれ込んだものの、シレジアの帰属など国境問題を解決することで和睦に持ち込んだのである。後に孫娘のエリーザベトがカール4世の4番目の妃になっている。

その後、カジミェシュ3世は東方に進出し、ハールィチ・ヴォルィーニ戦争を起こしてウクライナなどを支配下に収め、ポーランド王国の領土を倍増させた。

カジミェシュ3世の功績は外交や軍事だけでなく、内政においても大きな成功を収めている。長年にわたりポーランドは、貴族の権力が大きかったため国王の権力が弱体化し、国内が分裂状態に陥ることが多かった。カジミェシュ3世はこれを防止するため、司法制度を整備して貴族による権力濫用を押さえ込んだのである。また、政治的・経済的な弱者である農民を手厚く保護してその生活改善に努めた。さらに西ヨーロッパで迫害されたユダヤ人を保護し、国外からの移民による植民も積極的に奨励するなどして、ポーランドは商業的にも大きく発展することとなったのである。1347年にはポーランド王国の基本法を制定し、1364年には首都クラクフに国内初となる大学ヤギェウォ大学を設立させるなど、このカジミェシュ3世の時代にポーランドは大国に発展することとなったのである。

1370年、カジミェシュ3世は狩猟中に落馬して死去した。カジミェシュ3世には男子がなく、後継者には最も近い男系親族(従甥)であるグニェフコヴォ公ヴワディスワフ、女系の孫にあたるスウプスク公カジミェシュ4世の名前が挙がっていた。カジミェシュ3世は後継者に孫のスウプスク公を選んだうえで、スウプスク公と自分の支援者であった甥のハンガリー王ラヨシュ1世との間で自分の「王国」を二分するように遺言した。ところが司教や大貴族たちは、ポーランド王国の再統合を無に帰しかねない王の遺言を拒絶し、王位とドブジン地方を除く王国の全領土をラヨシュ1世に相続させた。

カジミェシュ3世は軍事・外交・内政のいずれにおいても大きな成功を収めたため、「カジミェシュ大王」とも称され、また弱小農民を手厚く保護するなどの善政を敷いた経緯から「カジミェシュ農民王」と称されることもある。カジミェシュ3世の時代、ポーランド国王の王権は安定し、国家は整備されて大国に成長したのである。史書においては、カジミェシュ3世のことを、「木造のポーランドに現れて、煉瓦のポーランドを残して去った」と賞賛している。

結婚と子女[編集]

1325年、カジミェシュ3世はリトアニア大公ゲディミナスの娘アルドナと最初の結婚をし、間に2人の娘をもうけた。アルドナは1339年5月26日に亡くなった。

1341年9月29日、カジミェシュ3世はヘッセン方伯ハインリヒ2世の娘アーデルハイトと再婚したが、新妻を気に入らず結婚後すぐに別居した。アーデルハイトは1356年に実家のヘッセンに戻った。

アーデルハイトとの結婚を解消したがっていたカジミェシュ3世は、王妃のいる身でボヘミア人の愛妾クリスティナと重婚した。クリスティナはプラハの豪商ミクラーシュ・ロキチャーニの未亡人であり、彼女自身の出自は不明である。クリスティナは夫の死の翌年にプラハ宮廷に女官として入っていた。カジミェシュは彼女をプラハから連れ出し、ティニェツベネディクト会修道院の院長を説得して、二人の結婚式を行わせた。この結婚は秘密結婚だったが、すぐに巷間に知れ渡ることになった。アーデルハイトは重婚状態にあるのを嫌い、夫の許しも得ずにヘッセンの実家に戻った。カジミェシュはアーデルハイトの肩を持つ教皇インノケンティウス6世の警告を無視してクリスティナとの同棲を続けた。この結婚生活は1363年ないし1364年まで続き、その後二人は離別した。夫妻の間に子供はなかった。

1365年頃、カジミェシュ3世はシロンスク地方のジャガン公ヘンリク5世の娘ヤドヴィガを4番目の妻に迎え、間に3人の娘をもうけた。

  • アンナ(1366年 - 1422年6月9日)…ツェリェ伯ヴィリェムと初婚、テック公ウルリヒと再婚、最初の結婚でもうけたアンナは後にポーランド王妃となった
  • クネグンダ(1367年 - 1370年)
  • ヤドヴィガ(1368年 - 1407年頃)…1382年頃に結婚したとされるが、詳細は不明

この結婚をした時点ではアーデルハイトも、そしておそらくクリスティナも生存しており、このヤドヴィガとの結婚も重婚と見なされた。このためヤドヴィガの産んだ3人の娘たちが嫡出と言えるかどうかははっきりしなかった。アンナとクネグンダは1369年12月5日に教皇ウルバヌス5世によって嫡出子と認められた。一番下の娘ヤドヴィガも父の死後の1371年10月11日、教皇グレゴリウス11世により嫡出の認定を受けている。

先代:
ヴワディスワフ1世
ポーランド王
1333年 - 1370年
次代:
ルドヴィク1世