アルトゥル・ショーペンハウアー

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アルトゥル・ショーペンハウアー
Arthur Schopenhauer
アルトゥル・ショーペンハウアー
ショーペンハウアーの肖像(27歳頃)    L・S・ルール画
生誕 (1788-02-22) 1788年2月22日
Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg ポーランド・リトアニア共和国グダニスク
死没 (1860-09-21) 1860年9月21日(72歳没)
Flag of the German Confederation (war).svg ドイツ連邦フランクフルト・アム・マイン
時代 19世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 観念論
実存主義
研究分野 自然哲学生理学現象学
形而上学認識論存在論
倫理学道徳
美学色彩論芸術
数学論理学
言語哲学言語学
宗教哲学宗教
魔術
超常現象
主な概念 意志
意志としての世界と表象としての世界
生きんとする意志の肯定と否定
意志と知性
厭世観
署名
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アルトゥル・ショーペンハウアー: Arthur Schopenhauer,1788年2月22日 - 1860年9月21日)は、ドイツ哲学者[1]。主著は『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)[1]。 ショーペンハウエル、ショウペンハウエルとも[2]

生涯[編集]

アルトゥール・ショーペンハウアーは1788年、富裕な商人であった父ハインリヒと、名門トロジーネル家の出身であった母ヨハンナ・ショーペンハウアーの長男としてダンツィヒに生まれる[3]

1793年(アルトゥール5歳)、ダンツィヒがプロイセンに併合された際に一家はハンブルクへ移住、1797年(9歳)には当時の国際語であったフランス語習得のためルアーヴルの貿易商グレゴアール・ド・ブレジメール家に二年間預けられる[3][4]。以後長く友情が続くこととなる、グレゴアールの息子でアルトゥールと同年であったアンティームと親交を結び、この地で幸福な時間を過ごす[3][4]

ハンブルクに帰った1799年(11歳)より約四年間、商人育成のためのルンゲの私塾に通学[3][5]。アルトゥールはギムナジウムへの進学を希望したが、息子を商人にしようとする父に反対される[5]。結局後に商人になるという約束のもとで二年間のヨーロッパ周遊の途にのぼることとなる[5]

1800年(12歳)、家族と共に三ヵ月のプラハ旅行へ、1803~1804年(15~16歳)にはやはり家族と連れ立ってヨーロッパ周遊大旅行(オランダ、イギリス、ベルギーフランス、オーストラリア、シュレージェン、プロイセン)へ出ている[5][4]。これらの旅行は父の商用旅行を兼ねておこなわれてい、アルトゥール自身の旅日記が残されているが、上流階級との交流や劇場、美術館訪問などが記されていると同時に、路上の物売り、大道芸人、みすぼらしい旅館や居酒屋、旅人たちの労苦、民衆の貧窮、過酷な強制労働、絞首刑の場面など社会の底辺の悲惨と苦しみにも目が向けられ、しばしば激しい衝撃を受けていたことが窺われるが、その多くの感想には早くも厭世主義的な気分や判断がみられる[4][5][6]

ハンブルクに帰ってきた翌年の1805年(17歳)一月、商業教育を受けるために当時のハンブルクで最も優れた実業家にして、ハンブルク市参事(閣僚に相当)であったイェニッシュの商会に入ったが、四月に父が不慮の死を遂げる[5][7]。1806年(18歳)、伝統あるショーペンハウアー商会が解散すると、義務的に続けられる商業教育と精神的な仕事への渇望との板挟みに会い苦しむようになったが、翌1807年(19歳)、既にワイマールに移住していた母からの手紙で、学問の道に進むことへの助言と励ましを与えられ、これがアルトゥールの将来を決定することになる[8][9]。六月にハンブルクを去りゴータのギムナジウムに入り、十二月にはワイマールのギムナジウムに転じる[8]

1809年(21歳)、ゲッティンゲン大学に入学し医学部に籍をおきながら、最初の哲学の師となるG・E・シュルツェのもとで哲学を学び、翌1810年(22歳)には哲学部へ移る[8][10][11][12]。かねてよりシェリングに傾倒していた若きショーペンハウアーにシュルツェは、今後の勉強の目標はカントプラトンであり、この二人を十分会得するよう忠告する[13][12][10]。1811年(23歳)、復活祭の休暇にヴィーラントの招きでワイマールを訪れた際には、「哲学はまだちゃんとした専門学科とはなっていない……」とのヴィーラントの話に対して、「生きるということは困難なことです。わたしは、その困難さについて探求するために一生を送ろうと思います」と答えている[12][14][15]。この秋ベルリン大学に移り、ドイツの国民的哲学者であったフィヒテの下で本格的な哲学研究を始めると、この時期からさまざまな思索を書き留めるようになる[12][14][15]

1812年(24歳)、ベルリン大学でのフィヒテとシュライエルマッヘルに対する尊敬が軽蔑と否定に変わり、これに反し古典文献学者ヴォルフを学者としても人間としても高く評価する[12]。1813年(25歳)春、戦争の危険を感じ第四学期の済まないうちにベルリンを去りワイマールの母のところへ帰ったが間もなく母と気まずくなり、ルードルシュタットのホテルにこもって博士学位論文『根拠の原理の四つの根について』を完成、イエナ大学に提出し、十月十八日に哲学博士の学位を得る[12][16][17]。刊行された論文の最初の読者となったゲーテはその才能を高く評価し、自身の指導のもとに色彩現象を研究するよう懇請する[16][18]

1814年(26歳)五月に母と完全に仲たがいしてドレスデンに移住するまでに、東洋学者フリードリヒ・マイヤーを通じて古代インド哲学、とくに『ウプネカット』を知るようになり、これによってショーペンハウアーの来るべき全思想が決定づけられることとなる[16]。1815年(27歳)、色彩論『視覚と色彩について』を完成、翌1815年(28歳)これが刊行され、ゲーテに送る[16][19]。1817年(29歳)、主著『意志と表象として世界』に対する準備工作が、三月から始めた「全体を、関連する論説でもって人々に把握させ得るようにすること」の範囲では終了し、翌1818年5月、『意志と表象としての世界』完成、原稿を書店に渡した後イタリアに旅立つ[19]。1819年初め、『意志と表象としての世界』がF・A・ブロックハウス書店から刊行されたが、商業的には不成功に終わる[19]。六月にミラノにて父の遺産の一部を預けておいたダンツィヒの銀行が倒産したの報を受け、この事件の整理にワイマールに戻る[19][20]。ゲーテと再会し、ゲーテはこの時のショーペンハウアーについて「多くの人から見誤られている、しかも知るにむずかしい、立派な業績をもつ若い人――ショーペンハウアー博士の訪問は私を刺戟し交互の啓蒙へと進ませる」(『年代記』)と記した[19]

1820年、ベルリン大学講師の地位を得るが、当時ベルリン大学正教授であったヘーゲルの人気に抗することができず、間もなく退職。1831年以降は、フランクフルトに隠棲。同地で余生を過ごす。

誰とも結婚せず、生涯独身のまま、その一生を終えた[21]

思想・影響[編集]

カント直系を自任しながら、世界を表象とみなして、その根底にはたらく〈盲目的な生存意志〉を説いた[1]。この意志のゆえに経験的な事象はすべて非合理であり、この世界は最悪であって人生は苦であり、意志の諦観・絶滅のみがわれわれを解脱に到達させる[1]。この厭世観的思想は、19世紀後半にドイツに流行し、ニーチェを介して非合理主義の源流となった[1]

本人は「仏陀エックハルト、そしてこの私は、本質的には同じことを教えている」と述べている[22]

ショーペンハウアーは芸術論・自殺論が有名であるが、むしろ博学で、法律学から自然学まであらゆるジャンルを網羅した総合哲学者としての側面が強い。

仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家[23]であり、その哲学は多くの哲学者、芸術家、作家に重要な影響を与え、生の哲学実存主義の先駆と見ることもできる。フリードリヒ・ニーチェへの影響は有名であるが、その他にもリヒャルト・ワーグナールートヴィヒ・ウィトゲンシュタインエルヴィン・シュレーディンガーアルベルト・アインシュタインジークムント・フロイトオットー・ランクカール・グスタフ・ユングジョーゼフ・キャンベルレフ・トルストイトーマス・マンホルヘ・ルイス・ボルヘスなど様々な学者、思想家、文筆家に影響を与え、その哲学は現代思想においても受け継がれている。日本でも森鴎外をはじめ、堀辰雄萩原朔太郎筒井康隆[24]など多くの作家に影響を及ぼした。

フィヒテシェリングの哲学は、この哲学史上およそ例のないみじめな似非哲学のさきがけと批判した。[25]

著作[編集]

日本語訳[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 岩波小辞典哲学 P96 岩波書店 1958年
  2. ^ ネイティヴによる「Arthur Schopenhauer」の発音”. Forvo. 2013年12月11日閲覧。
  3. ^ a b c d 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』 第2巻 P333 年譜部 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  4. ^ a b c d 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』鎌田康男解説序文「 ショーペンハウアーの修業時代」P6 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  5. ^ a b c d e f 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』 第2巻 P334 年譜部 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  6. ^ 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』鎌田康男解説序文「 ショーペンハウアーの修業時代」P7 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  7. ^ 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』鎌田康男解説序文「 ショーペンハウアーの修業時代」P14 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  8. ^ a b c 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』 第2巻 P335 年譜部 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  9. ^ 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』鎌田康男解説序文「 ショーペンハウアーの修業時代」P15、16 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  10. ^ a b 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』鎌田康男解説序文「 ショーペンハウアーの修業時代」P18 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  11. ^ 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』鎌田康男解説序文「 ショーペンハウアーの修業時代」P20 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  12. ^ a b c d e f 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』 第2巻 P336 年譜部 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  13. ^ ヴィルヘルム・グヴィナー『身近に接したショーペンハウアー』、「全集 別巻 ショーペンハウアー生涯と思想」(白水社)より。
  14. ^ a b 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』鎌田康男解説序文「 ショーペンハウアーの修業時代」P24 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  15. ^ a b 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』鎌田康男解説序文「 ショーペンハウアーの修業時代」P25 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  16. ^ a b c d 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』 第2巻 P337 年譜部 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  17. ^ 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』鎌田康男解説序文「 ショーペンハウアーの修業時代」P28 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  18. ^ ショーペンハウアー全集1『根拠率の四つの根について』生松敬三訳 『視覚と色彩について』金森誠也訳 P335 訳者あとがき部 〈白水社〉、1972年
  19. ^ a b c d e 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』 第2巻 P338 年譜部 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  20. ^ 西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』 第2巻 P339 年譜部 中央公論新社〈中公クラシックス〉、2004年
  21. ^ 岡田尊司 『愛着障害』 p.289、光文社、2011年
  22. ^ 『笑うショーペンハウアー』[要ページ番号]
  23. ^ ショーペンハウアーとウスペンスキー
  24. ^ 筒井康隆『漂流 本から本へ』P74~76(朝日新聞社
  25. ^ ショーペンハウアー; 鈴木芳子 (2013/5/20). 読書について. 光文社. 

参考文献[編集]

  • 『ショーペンハウアー 生涯と思想』 白水社、ショーペンハウアー全集 別巻
  • ラルフ・ヴィーナー編著『笑うショーペンハウアー』(酒田健一訳)白水社、1998 ISBN 4560024006
  • G・ジンメル 『ショーペンハウアーとニーチェ』(吉村博次訳)白水社、2001 ISBN 4560024294

  『岩波小辞典哲学』栗田賢三 古在由重編 岩波書店 1958年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]