フランクフルト学派

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ホルクハイマー(左)とアドルノ(右)。背後にハーバーマス。
フランクフルトの社会研究所

フランクフルト学派(フランクフルトがくは、Frankfurter Schule)はルカーチグラムシの理論をベースにマルクス主義を進化させ、これにヘーゲル弁証法フロイト精神分析理論の融合を試みた。批判理論による社会理論、哲学を研究したグループの名称。

沿革[編集]

略歴[編集]

1922年夏、ドイツテューリンゲン州イルメナウで第1回マルクス主義研究集会が開催された。
主催者はフランクフルト大学フェリクス・ヴァイルFelix Weil、この会議の主なる目的はマルクス主義の新潮流を模索することであり、一週間に渡る会議においてはマルクス主義に関する話題が議論された。

(多くの時間がF・ポロックの『マルクス主義と哲学』の講義であったと言われている)

この研究会に参加したメンバーはルカーチ・ジェルジカール・コルシュ、当時留学中で両氏からマルクス主義を学んでいた福本和夫、後に日本でスパイ容疑により死刑となるリヒャルト・ゾルゲクララ・ツェトキンF・ポロック、後にフランクフルト学派のメンバーになるカール・ウィットフォーゲルらである。
フェリクス・ヴァイルは第2回マルクス主義研究集会を計画したが、やがて独立した研究機関の設置の必要性を強く感じ、彼の父の出資を受けてフランクフルト社会研究所を設置する。


年表[編集]

第二次大戦前[編集]

第二次大戦中[編集]

この頃社会研究所は財政難に陥り、アメリカに亡命した研究所メンバーは生活に困窮し、様々な副業(大学の臨時講師、法律関係のアドバイザーなど)でしのいだ。やがて戦時となり、多数の政府機関が彼らの持つ知識、情報、頭脳を求めてリクルートした。
一部はO,S,Sの中枢で活動、ドイツと日本の情報分析と戦後政策の策定に深く関与したと言われている。とくにドイツの戦後政策策定に関してはフランツ・ノイマンヘルベルト・マルクーゼらが関わっており、ニュールンベルク裁判ではフランツ・ノイマンが法学の知識を活かして深く関与した。


終戦後[編集]


亡命、再興[編集]

ナチスが政権を獲得すると、メンバーの多くが亡命したため、活動拠点がアメリカ合衆国へと移った。第二次世界大戦後、ホルクハイマーとアドルノがフランクフルト大学に社会研究所を再興し、再び活動はドイツが中心となった。

1960年代、世界各地で大学紛争の渦が巻き起こった時代に、ニューレフトの運動の支柱となる理論を求めて、このグループに注目が集まった。フランクフルト大学における大学紛争では当のアドルノも批判の対象となり、社会研究所は学生たちによって占拠された。アドルノは機動隊を導入して学生を排除し、裏切り者と罵倒された[1]。 一方ドイツに帰国せずアメリカに残ったヘルベルト・マルクーゼは当時のアメリカ各地の大学で起きた大学紛争運動などの活動家に向けて積極的に発言し、「新左翼の教組」というポジションで広く受け入れられた。
同様にフランクフルト学派第二世代のユルゲン・ハーバーマスも新左翼の中で受け入れられ、広く支持された。

特徴[編集]

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルカール・マルクスの視点(弁証法哲学)をもって、科学と哲学の統合による社会哲学(「批判理論」)によって、非合理的な社会からの人間の開放を目指す実践的な姿勢によって特徴づけられる。第一世代とされる人々は、マルクスの「経済学批判」に根拠を求め、資本主義社会が滅びた後に理性の実現を予見し、既存の制度を厳しく批判した[2]

フランクフルト学派は近代の啓蒙思想、合理主義に疑問を持ち、機械化が官僚主義やファシズムなど非人間的な体制をもたらす、と考える傾向が強い[3]

フランクフルト社会研究所設立に関わった思想家、研究者[編集]

フランクフルト学派の主な思想家、研究者[編集]

第1世代

第2世代

第3世代

第4世代

脚注[編集]

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  1. ^ 横井邦彦「フランクフルト学派」(「プロメテウス」34号)
  2. ^ 山口 1984
  3. ^ 横井前掲論文。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]