イマヌエル・カント

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イマヌエル・カント
Immanuel Kant
イマヌエル・カントの肖像
生誕 1724年4月22日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国ケーニヒスベルク
死没 1804年2月12日(満79歳没)
プロイセン王国の旗 プロイセン王国ケーニヒスベルク
時代 18世紀の哲学
19世紀の哲学
地域 西洋哲学
ドイツ
学派 ドイツ観念論
啓蒙思想
研究分野 認識論存在論形而上学
自然哲学科学哲学
倫理学
社会哲学政治哲学法哲学
主な概念 理性批判
定言命法
超越論哲学
物自体
署名
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イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、ドイツ哲学者思想家。プロイセン王国出身の大学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。フィヒテシェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる。後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼし、その影響は西田幾多郎など日本の哲学者にも強く見られる。

生涯[編集]

イマヌエル・カントは1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で馬具職人[1]の四男として生まれた[2]。生涯のほとんどをその地で過ごしそこで没した。両親はルター派の敬虔主義を奉じていたため、カントはその濃厚な影響のもとに育った[注釈 1][3]

1732年ラテン語学校であるフリードリヒ校に進んだ。1740年にはケーニヒスベルク大学に入学する。当初、神学をこころざしたが、ニュートンの活躍などで発展を遂げつつあった自然学に関心が向かい、哲学教授クヌッツェンの影響のもと、ライプニッツニュートンの自然学を研究した。

1746年、父の死去にともない大学を去る。学資が続かなくなったのに加えて、最近の研究ではクヌッツェンにその独創性を認められなかったことも大学を去る動機になったと推定されている。この時大学に論文(いわゆる『活力測定考』)を提出しているが、ラテン語でなくドイツ語であったこと、また、学内の文書に学位授受についての記録が残っていないことなどから、正式な卒業ではなく中途退学に近いものであったと思われる。卒業後の7年間はカントにとってはくるしい時期で、ケーニヒスベルク郊外の2、3の場所で家庭教師をして生計をたてていた[4]

1755年、(正規に出版されたものとしては)最初の論文『Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels(天界の一般的自然史と理論)』で太陽系星雲から生成されたと論証した。この論文は印刷中に出版社が倒産したため[4]極少数のみが公刊された[注釈 2]。4月、ケーニヒスベルク大学哲学部に学位論文『火について』を提出し、6月12日、これによりマギスターの学位を取得。9月27日、就職資格論文『形而上学的認識の第一原理の新しい解釈』で公開討議をおこない、冬学期より同大学の私講師[5]として職業的哲学者の生活に入る。

1756年、恩師クヌッツェンの逝去により欠員が出た員外教授の地位を得るため、それに必要な2回の公開討議の第1回目の素材として『物理的単子論』をあらわす。4月12日に第1回目の公開討議がおこなわれるが、プロイセン政府がオーストリアとの七年戦争を直前にひかえ、欠員補充をしない方針を打ち出したため、員外教授就任の話は白紙となる。1764年、ケーニヒスベルク大学詩学教授の席を打診されたがカントはこれを固辞。また、1769年エルランゲンイェーナからも教授就任の要請があったが、遠隔地の大学だったせいかそれとも地元のケーニヒスベルク大学から既に非公式の招聘が来ていたせいか(後述するように翌年の1770年に教授就任)、これらも断っている[5]

1764年、『美と崇高との感情性に関する観察』出版。

1766年、『視霊者の夢』を出版[注釈 3][6]。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている[7]

「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スウェーデンボルクが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」

他にいくつかの小著作を出版し哲学教師を続けていたが、1770年、カント46歳のときに転機が訪れる。ケーニヒスベルク大学から哲学教授としての招聘があり、以後、カントは引退までこの職にとどまる。就職論文として『可感界と可想界の形式と原理』(原文:ラテン語)をあらわす[注釈 4][8]。前批判期のもっとも重要な著作の一つで、後の『純粋理性批判』につながる重要な構想が述べられている。

大学教授としてのカントは、哲学のみならず、地理学自然学人間学などさまざまな講義を担当した。話題は多様であっても、穏やかなカントの学者生活の日々は『純粋理性批判』の出版で劇的に変化した。彼は一気にドイツ哲学界の喧騒にみちた論争の渦中に入り込んだ。『純粋理性批判』はその難解さと斬新な思想のために同時代の読者に正しく理解されず、さまざまな議論が起こったのである。特にジョージ・バークリーの観念論と同一視して批判する者が多く、カントは小著『プロレゴーメナ』を出版して自身の哲学的立場を明らかにし、また、『純粋理性批判』の前半部、超越論的演繹論を改稿した第2版(今日ではB版と呼ぶ)を出版して誤解を解こうと努めた。

カントの当初の構想では、『純粋理性批判』は単独でその批判の全貌を示すものになるはずであった。しかし、構想の大きさと時間の制約により理論哲学の部分のみを最初に出版した。残る実践哲学および「美と趣味の批判」は後に『実践理性批判』および『判断力批判』として出版されることになった。これらを総称し「三批判書」と呼ぶ。

カントは哲学的論争の渦中にいたがその学者人生は順調であった。晩年にはケーニヒスベルク大学総長を務めた。しかし、プロイセン王立ベルリン・アカデミーにカントは招聘されなかった。

カントの構想では批判は形而上学のための基礎付けであり、それ以降の関心は形而上学へ向かった。またカントの哲学には道徳への関心が濃く、すでに批判のうちに表明されていた道徳と宗教および神概念への関心は宗教哲学を主題とするいくつかの著作へと向かった。

カントは三批判で表明された既成宗教への哲学的考察をすすめ、『単なる理性の限界内における宗教』をあらわしたが、これは当時保守化の傾向を強めていたプロイセンの宗教政策にあわず発売を禁止された。カントは自説の正しさを疑わず、また、学者同士の論争に政府が介入することには反対であったが、一般人が自由な言論によって逸脱に走る危険性を考慮してこの発禁処分を受け入れた。

1804年2月12日に逝去。晩年は老衰による身体衰弱に加えて老人性認知症が進行、膨大なメモや草稿を残したものの、著作としてまとめられることは遂になかった[9]。彼は最期に砂糖水で薄めたワインを口にし、「これでよい」(Es ist gut.) [注釈 5]と言って息を引き取ったという。当時のドイツの哲学者は論敵をも含めてカントの死に弔意を表した。死去から半月以上経過した2月28日になって[注釈 6]大学葬がおこなわれ、市の墓地に葬られた。その墓は現在もカリーニングラードに所在し、墓碑銘には「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」(『実践理性批判』の結びより)と刻まれている。

思想[編集]

ロシアカリーニングラードにあるカント像

概説[編集]

一般にカントの思想はその3つの批判の書にちなんで批判哲学と呼ばれる。しかし、カント自身はみずからの批判書を哲学と呼ばれるのを好まなかった。カントによれば、批判は哲学のための準備・予備学であり、批判の上に真の形而上学としての哲学が築かれるべきなのである。ドイツ観念論はカントのこの要求にこたえようとした試みであるが、カントはこれをあまり好意的には評価しなかった。また、ドイツ観念論の側でもカントを高く評価しながら、物自体と経験を分離したことについてカントを不徹底とも評価し、いわば、カントを克服しようとしたのである。

カントの思想は以下の3つの時期に区分される。

前批判期
『純粋理性批判』刊行前、初期の自然哲学論考から就職論文『可感界と知性界について』まで
批判期
1768年-1790年。『純粋理性批判』以降の三批判書を含む諸著作。これ以降、後批判期を含めて批判哲学と呼ぶ
後批判期
1790年-1804年。第三批判『判断力批判』以後に刊行された著作および遺稿『永遠平和のために』も書いた

前批判期[編集]

初期のカントの関心は自然哲学にむかった。特にニュートンの自然哲学に彼は関心をもち、『引力斥力論』などニュートンの力学ニュートン力学)や天文学を受容した上でそれを乗り越えようとする論文を書いた。自然哲学においてはことに星雲による太陽系成立について関心を示した(星雲説)。そこでは銀河系が多くの恒星が重力により集まった円盤状の天体であると正しく推論している。また1755年のリスボン大地震から受けた衝撃で、地震の発生メカニズムに関する論文を書いている。そのメカニズム自体はその後誤りとされたが、地震を超自然によるものではなく自然によるものと仮定して考える先駆的な試みと考えられている。

一方で、カントはイギリス経験論を受容し、ことにヒューム懐疑主義に強い衝撃を受けた。カントは自ら「独断論のまどろみ」と呼んだライプニッツヴォルフ学派の形而上学の影響を脱し、それを経験にもとづかない「形而上学者の夢」とみなすようになる(『視霊者の夢』)。自然科学と幾何学の研究に支えられた経験の重視と、そのような経験が知性の営みとして可能になる構造そのものの探求がなされていく。

また、カントはルソーの著作を読み、その肯定的な人間観に影響を受けた。これは彼の道徳哲学や人間論に特に影響を与えた。

こうして、知性にとって対象が与えられるふたつの領域とそこでの人間理性の働きをあつかう『可感界と知性界について』が書かれる。この時点で後年の『純粋理性批判』の基本的な構想はすでに現れていたが、それが一冊の本にまとまるまでには長い年月を要することになる。

批判哲学[編集]

従来、人間外部の事象、物体について分析を加えるものであった哲学を人間それ自身の探求のために再定義した「コペルニクス的転回」は有名。彼は、人間のもつ純粋理性、実践理性、判断力とくに反省的判断力の性質とその限界を考察し、『純粋理性批判』以下の三冊の批判書にまとめた。「我々は何を知りうるか」、「我々は何をなしうるか」、「我々は何を欲しうるか」という人間学の根本的な問いがそれぞれ『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』に対応している。カントの批判とは否定ではなく吟味をさす[注釈 7]

認識論[編集]

カントによれば、人間の認識能力には感性悟性の二種の認識形式がアプリオリにそなわっている。感性には純粋直観である空間時間が、悟性には因果性などの 12 種の純粋悟性概念(カテゴリー、すなわち範疇とも称する)が含まれる。純粋悟性概念は時間限定たる図式(schema)によってのみ感性と関係する。

意識はその二種の形式(感性と悟性)にしたがってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できないが、少なくとも課題として必要とされる概念とされる。理性推理による理念はいわば絶対者にまで拡張された純粋悟性概念である。あるいは超越者がその代表例であり、これをカントは物自体(Ding an sich)と呼ぶ。

いわゆる二律背反においては定立の側では完全な系列には無制約者が含まれると主張される。これに対し、反定立の側では制約が時間において与えられた系列には被制約者のみが含まれると主張される。このような対立の解決は統制的ではあっても構成的ではない理念に客観的実在性を付与する先験的すりかえを避けることを必要とする。理念は与えられた現象の制約系列において無制約者に到達することを求めるが、しかし、到達して停滞することは許さない規則である(『純粋理性批判』)。

なお、『プロレゴメナ』によれば、純粋悟性概念はいわば現象を経験として読み得るように文字にあらわすことに役立つもので、もしも、物自体に関係させられるべきものならば無意義となる。また、経験に先行しこれを可能にする超越論的(transzendental)という概念はかりに上記の概念の使用が経験を超えるならば超越的(transzendent)と呼ばれ、内在的(immanent)すなわち経験内に限られた使用から区別される。

倫理学[編集]

理性概念が(直観を欠くために)理論的には認識されえず、単に思惟の対象にすぎないことが『純粋理性批判』において指摘されたが、これら理性理念と理性がかかわる別の方法が『実践理性批判』において考察されている。『実践理性批判』は、純粋実践理性が存在すること、つまり純粋理性がそれだけで実践的であること、すなわち純粋理性が他のいかなる規定根拠からも独立にそれだけで充分に意志を規定しうることを示すことを目標としている。

カント道徳論の基礎であるこの書において、人間は現象界に属するだけでなく叡智界にも属する人格としても考えられ、現象界を支配する自然の因果性だけでなく、物自体の秩序である叡智界における因果性の法則にも従うべきことが論じられる。カントは、その物自体の叡智的秩序を支配する法則を、人格としての人間が従うべき道徳法則として提出する。

道徳法則は「なんじの意志の格律がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ(Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)」という定言命法として定式化される。

カントは純粋理性によって見出されるこの法則に自ら従うこと(意志の自律)において純粋理性が実践的に客観的に実在的であることを主張し、そこから自由の理念もまた実践的に客観的実在性をもちうると論じた。道徳法則に人間が従うことができるということが、叡智界にも属する存在者としての人間が自然的原因以外の別の原因を持ちうる、すなわち自由であるということを示すからである。

また、神・不死の理念は、有徳さに比例した幸福(すなわち最高善)の実現の条件として要請される。

美学・目的論[編集]

最後にカントは狭義の理性ではないが、人間の認識能力のひとつ判断力について考察を加え、その一種である反省的判断力を「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」と定式化し、これを美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種に分けて考察を加えた。これが『判断力批判』である。この書は、その後展開される実践論、美学などの基礎として評価されている。またハンナ・アーレント以降、『判断力批判』を政治哲学として読む読み方が提示され、現代哲学においてカントの占める位置は極めて重要であるといえよう。

批判期以降のカント(後批判期)は、ふたたび宗教・倫理学への関心を増した。とくにフランス革命にカントは重大な衝撃を受け、関心をもってその推移を見守っていた。後期著作の道徳論や人間論にはその知見が投影されている。その道徳論は義務論倫理として現在の二大規範倫理学の一方をなしている。

歴史哲学[編集]

カントは人類の歴史を、人間が己の自然的素質を実現するプロセスとして捉える。人間にとっての自然的素質とは、本能ではなく理性によって幸福や完璧さを目指すことである。

政治哲学[編集]

人倫の形而上学』の『法論』におけるカントは、自然法が支配し人々が物や人に対しての暫定的な自然権をもつという自然状態を想定し、その暫定的な権利を確定的なものへとするために各人は自然状態から抜け出し共通の裁判官を抱く国家を形成して社会状態へと移行するべきである(カントにおいてこれは義務である)とするロック的な社会契約説を展開している。

しかし、国家は他の国家との間により上位の共通な権力を持たないために権利を巡った競合を繰り広げることになり、お互いに対してはなお自然状態にある。国家にとっての自然状態(戦争状態)を脱して恒久的な平和をもたらすことは人類にとっては現実には到達し得ないが到達すべきであるような理念である。カントは、この恒久的な平和状態へと近づくために、世界市民法と自由な国家の連合を構想している。『法論』や『永遠平和のために』で述べられているこの構想は、国際連盟結成の思想的基盤を用意した。「永遠平和のために」の中では当時の中国や江戸日本の対外政策を評価している[注釈 8]

宗教哲学[編集]

カントは宗教を、道徳の基礎の上に成り立つべきものであるとしている。神は、幸福と徳の一致である「最高善」を可能にするために要請される。この思想は理性宗教の立場であるが、啓示宗教を排除しようというものではない。

人間学[編集]

カントは、哲学には、「わたしは何を知ることができるのだろうか」(Was kann ich wissen?)、「わたしは何をすべきなのであろうか」(Was soll ich tun?)、「わたしは何を望むのがよいのだろうか」(Was darf ich hoffen?)、「人間とは何だろうか」(Was ist der Mensch?)という4つの問題に対応する4つの分野があるとした上で、最後の問題について研究する学を「人間学」であるとした。高坂正顕は、カント哲学の全体を人間学の大系であるとしている。

地理学[編集]

カントはケーニヒスベルク大学で1765年から自然地理学の講義を担当し、地理学に科学的地位を与えた[10]。カントは地理学と歴史学の違いを場所的記述を行うのが地理学で、時間的記述を行うのが歴史学であるとした[10]。この見解は後世の地理学者の常識となった[10]

また、「道徳地理学」(Die moralische Geographie)の講義では、日本とラップランドで親殺しをした子に対する刑罰が異なる、具体的には日本では子の家族もろとも極刑に処されるが、ラップランドでは働けなくなった父を殺すことは母が子を扶養するならば許される、という事例を用いて、地理的環境が異なれば倫理や道徳も異なると説いた[11]

エピソード[編集]

名と姿[編集]

カントの両親は、彼をエマヌエル(Emanuel)と名づけたが、長じてカントはヘブライ語を知り、その知識からイマヌエル(Immanuel)とみずから改名した(「イマヌエル」עמנואלとはヘブライ語で「神は我らと共にあり」という意味である)。カントの容貌については、弟子の証言によると、青く小さな、しかし輝く瞳をもった小柄な人物であった。身体は骨格、筋力ともにやや貧弱。正装する時には服が身体から滑り落ちるのを防ぐため、いわゆる「留め具」が欠かせなかったという。身体の割に頭は若干大きめだった。なお、虚弱という割には最晩年まで命にかかわるような病気とは無縁で、顔色もすこぶるよかったらしい。

青少年教育批判[編集]

カントは、規則で生徒たちを縛り上げる厳格な教育方針で知られたフリードリヒ学校に入学し、その教育方針を身をもって経験した。しかし、後に彼は、この学校の教育方針について批判を記した。啓蒙の哲学者カントの面目躍如と言える。

独身主義者カント[編集]

カントは生涯独身を通した。彼が哲学の道に入る契機となったニュートンも独身であったが、彼の場合は、仕事に忙殺され恋愛の暇がなかったと言われる。カントの場合は、女性と距離を置き、積極的な求婚をしなかったためだとされる。真相は不明で、カントもまた、ニュートンのように仕事に忙殺されていた可能性も否めない。

教育者カント[編集]

カントはケーニヒスベルク大学の哲学教授となったが、その授業の様子を、当時の弟子のひとりであるヘルダーが伝えている。ヘルダーによれば、カントの講義は精彩に富み魅力あるものであった。カントはいきいきと語る熱心な教師であった。カントが旺盛な知的好奇心を持ち、その話題が豊かであったことからも、教師としてのカントの姿が彷彿とされる。

規則正しい人カント[編集]

カントは規則正しい生活習慣で知られた。早朝に起床し、少し研究した後、午前中は講義など大学の公務を行った。帰宅して、決まった道筋を決まった時間に散歩した。あまりに時間が正確なので、散歩の通り道にある家では、カントの姿を見て時計の狂いを直したと言われる。これは、カントの性格の一部でもあったようで、素行の悪さの故に従僕ランペを解雇したあと、新しい従僕になじめず、メモに「ランペは忘れ去られるべきである」と書き付けた。

ある日いつもの時間にカント先生が散歩に出てこないので、周囲の人々はなにかあったのかと騒ぎになった。実はその日、カントはジャン=ジャック・ルソーの「エミール」を読みふけってしまい、いつもの散歩を忘れてしまったのであった。カントはルソーに関し、『美と崇高の感情に関する観察』への『覚書』にて「わたしの誤りをルソーが正してくれた。目をくらます優越感は消えうせ、わたしは人間を尊敬することを学ぶ」と述べている。

趣味人カントの食卓[編集]

規則正しい散歩の後、カントは、夕方から友人を集めて会食した。カントの論敵の一人であるヨハン・ゲオルク・ハーマンは、同時に親しい友人でもあり、しばしばこの食事会の客となった。カントは、ウィットに富む談話を好み、世界の最新情報にも通じ、その話題の広さには会食者も感嘆した。しかし、客が哲学の話題に触れると、露骨に嫌な顔をしたと言われる。

近くにいた人物の回想で、ヤハマン『カントの生涯』(木場深定訳、角川文庫、新版理想社)に、多くの逸話がある。

カントの言葉[編集]

  • 私自身は生まれつき研究者である。無学の愚民を軽蔑した時代もあった。しかしルソーが私の謬りを正しくしてくれた。私は人間を尊敬することを学ぶようになった。
  • 歴史的意味においてでないかぎり哲学を学ぶということはできない。かえって理性に関しては、哲学的思索をすることを学び得るばかりである。
  • あることをなすべき(soll)であると意識するがゆえに、そのことをなすことができる(kann)と判断するのであり、道徳法則がないとすれば彼にはいつまでも知られるはずのない自由(Freiheit)をおのれのうちに認識するのである。

著作・論文・講義[編集]

  • 1747年04月22日 - 『活力測定考』Gedanken von der wahren Schätzung der lebendigen Kräfte
  • 1754年06月 - 「地球が自転作用によって受けた変化の研究」
  • 1754年09月 - 「地球は老化するか、物理学的考察」Die Frage, ob die Erde veralte, physikalisch erwogen
  • 1755年03月 - 『天界の一般的自然史と理論』Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels
  • 1755年04月 - 学位論文「火に関する若干の考察の略述」
  • 1755年09月 - 就職論文「形而上学的認識の第一原理の新しい解釈」Principiorum primorum cognitionis metaphysicae nova dilucidatio
  • 1756年01月 - 「地震原因論」Von den Ursachen der Erdenschütterungen bei Gelegenheit des Unglücks, Welches die westliche Länder von Europa gegen das Ende des vorigen Jahres betroffen hat
  • 1756年 - 「地震におけるきわめて注目すべき出来事について」
  • 1756年 - 「続地震論」
  • 1756年04月 - 「物理的単子論」Metaphysicae cum geometria iunctae usus in philosohia naturali, cuius specimen I. continet monadologiam physicam
  • 1756年04月 - 「風の理論の説明のための新たな註解」
  • 1757年04月 - 「自然地理学講義草案および予告」Entwurf und Ankündigung eines collegii der physischen Geographie nebst dem Anhange einer kurzen Betrachtung über die Frage: ob die Westwinde in unsern Gegenden darum feucht seinen, weil sie über ein großes Meer streichen.
  • 1758年04月 - 「運動および静止の新説」
  • 1758年10月 - 「オプティミズム試論」
  • 1762年 - 「三段論法の四つの格」
  • 1763年 - 『の存在証明の唯一の可能な証明根拠』Der mögliche Beweisgrund zu einer Demonstration des Daseins Gottes
  • 1763年 - 「負量の概念を哲学に導入する試み」Versuch den Begriff der negativen Größen in die Weltweisheit einzuführen
  • 1764年 - 『と崇高の感情に関する観察』Beobachtungen über das Gefühl des Schönen und Erhabenen
  • 1764年 - 「頭脳の病気に関する試論」Versuch über die Krankheiten des Kopfes
  • 1764年 - 『自然神学と道徳の原則の判明性』Untersuchung über die Deutlichkeit der Grundsätze der natürlichen Theologie und der Moral
  • 1766年 - 『形而上学によって解明された視霊者の夢』Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik
  • 1768年 - 「空間における方位の区別の第一根拠」Von dem ersten Grunde des Unterschiedes der Gegenden im Raum
  • 1770年 - 『可感界と可想界の形式と原理』De mundi sensibilis atque intelligibilis forma et principiis
  • 1781年 - 『純粋理性批判』第一版 1. Auflage der Kritik der reinen Vernunft
  • 1782年 - 『学として現れるであろうあらゆる将来の形而上学のための序論(プロレゴメナ)』 Prolegomena zu einer jeden künftigen Metaphysik, die als Wissenschaft wird auftreten können
  • 1784年 - 『啓蒙とは何か』Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung
  • 1784年 - 「世界市民的見地における一般史の構想」Idee zu einer allgemeinen Geschichte in weltbürgerlicher Absicht
  • 1785年 - 『人倫の形而上学の基礎づけ(道徳形而上学原論)』Grundlegung zur Metaphysik der Sitten
  • 1786年 - 『自然科学の形而上学的原理』
  • 1786年 - 『人類史の憶測的起源』Mutmaßlicher Anfang der Menschengeschichte
  • 1787年 - 『純粋理性批判』第二版 2. Auflage der Kritik der reinen Vernunft
  • 1788年 - 『実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft
  • 1790年 - 『判断力批判』 Kritik der Urteilskraft
  • 1791年09月 - 『弁神論の哲学的試みの失敗について』
  • 1792年04月 - 「根本悪について」
  • 1793年04月 - 『単なる理性の限界内での宗教』 Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft
  • 1793年09月 - 「理論と実践に関する俗言について」
  • 1794年05月 - 「天候に及ぼす月の影響」
  • 1794年06月 - 「万物の終焉」Das Ende aller Dinge
  • 1795年 - 『永遠平和のために』 Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf
  • 1797年 - 『人倫の形而上学』 Die Metaphysik der Sitten
  • 1798年 - 『学部の争い』Der Streit der Fakultäten
  • 1798年 - 『実用的見地における人間学』
  • 1800年9月 - 『論理学』 Logik
  • 1802年 - 『自然地理学』
  • 1803年 - 『教育学』
  • 1804年 - 「オプス・ポストムム」 遺稿
    • 岩波書店 - 新訳版『カント全集』 全22巻、2000年-2006年

注釈[編集]

  1. ^ しかし、カントは、成人後はけっして敬虔主義の信者ではなく、定期的に教会にかようことはしなかった。
  2. ^ 1791年に抄録が、1797年に論文集に採録され、後にピエール=シモン・ラプラスの宇宙論とあわせ「カント・ラプラスの星雲説」といわれる。
  3. ^ エマヌエル・スヴェーデンボリ(またはスウェーデンボルイ、英語読みではスウェーデンボルグ)の千里眼という超常現象については、それが存在するのか自分は判断できないとして、読者に判断を委ねている。
  4. ^ 『感性界と叡智界の形式と原理について』と訳されることもある。
  5. ^ カントの最期の言葉については「おいしい」と翻訳すべきとする解釈もある。石川文康 『カント入門』 ちくま新書・筑摩書房、1995年5月。ISBN 978-4-480-05629-0
  6. ^ 真冬だったことに加えて遺体は水分が抜けて半ばミイラ化しており、埋葬を急がなくて済んだためという。
  7. ^ 「批判」という意味の英単語"critic"の由来となったギリシア語の"krino"は、元来良い物を選別(=吟味)するという意味である。
  8. ^ 「だから中国と日本が、そのような(極悪非道な)客人たちを試した上で、以下の措置を取ったことは賢明であった。すなわち中国は来航は許したが入国は許さなかった、日本はそれどころか来航さえもオランダ人というただ一つのヨーロッパ民族にしか許容しなかったし、しかも日本人はそのオランダ人さえ捕虜のように扱い、自国民との共同関係から排除しているのである」「カント『永遠平和のために』のアクチュアリティ」平子友長(東京唯物論研究会会報2005-12 一橋大学機関リポジトリ)[1]PDF-P.4

出典[編集]

  1. ^ 『哲学の歴史』86頁
  2. ^ 『哲学の歴史』81頁。
  3. ^ 『哲学の歴史』 86-87頁
  4. ^ a b 『哲学の歴史』92頁
  5. ^ a b 『哲学の歴史』93頁
  6. ^ 須田朗『視霊者の夢のカント』(哲学会誌17、1982)pp.1‐20
  7. ^ K・ペーリツ編、甲斐実道、斎藤義一訳、『カントの形而上学講義』(三修社、1979)pp222-227
  8. ^ 『哲学の歴史』94頁
  9. ^ 池内紀の『世の中にひとこと』(NTT出版)の「どうか私を子供と思ってください」には七十五歳から老いを感じたカントが手元にメモ用紙を用意していて、人と会うと、名前と用件を書いてもらい、一人になると、じっとメモを見つめていたということが書いてある。しかし、やがてそれもできなくなる。人の識別がつかなくなっていったからである、という。「日本人学者によるカントの伝記が、ほとんどこのことに触れていないのはどうしてだろう?」ともいう。
  10. ^ a b c 青野(1970):4ページ
  11. ^ 青野(1970):246ページ

参考文献[編集]

  • 加藤尚武編 『哲学の歴史 7 理性の劇場-18-19世紀カントとドイツ観念論』 中央公論新社、2007年ISBN 9784124035247
  • 青野壽郎 『大学教養-人文地理学』 森北出版、1970年、再訂版、297頁。

入門書[編集]

関連項目[編集]

日本のカント学者(故人)[編集]

外部リンク[編集]