商人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search

商人(しょうにん、しょうひと、あきびと、あきんど、あきゅうど)

  • しょうにん。商売を職業としている者。本稿で後述。
現代と区別して、商売を行っていた歴史上の職業を扱う。商売を商い(あきない)ともいうことから「あきんど」と読むこともあるが、くだけた読みであり、公式の場では用いない。
  • しょうにん。商法学における基本概念の一つ。商人 (商法)を参照。
  • しょうひと。中国の古代王朝の一つである商()の国民若しくは出身者、又は彼らの子孫。中国で最も早くから、ある場所で安価で購入した物資をその物資に乏しい別の場所で高価で売却して差益を稼ぐことを生業とする者が現れた民族といわれており、上述した「しょうにん」の語源となったと言われているが、これは俗説のようである。[独自研究?]
  • 比喩或いは皮肉として、戦争において売買を行う人物、がめつい人物を「商人」と評することがある。[誰?]

概要[編集]

商人(しょうにん)とは、第1次第2次産業の生産者と需要者の間に立って商品を売買し、利益を得ることを目的とする事業者(第3次産業)を指す。主に顧客間の仲介を専門とする卸売商・小売商のような商品売買業者を指すが、このほかに運送業倉庫業金融業保険業広告業など商品を取り扱わない形態を含めて広く考える立場もある。

コーリン・クラークの産業分野の区分では、農業・工業以外に従事する業種とされた。これが第3次産業である。

概説[編集]

「商人」は、日本語であり、対訳語とされる英語の「Merchant」にそのような概念はないが、近代以前に活躍した商店主を指す。この使い分けは、江戸時代までの商人と明治維新後の実業家の経営形態が大きく異なるために発生すると考えられる。しかし海外まで含めるとどこまでが商人で、どこからが実業家や経営者なのかは、線引きがなく習慣的と指摘できる。

歴史[編集]

起源[編集]

商(殷)が、周によって滅ぼされたときは「万里朱殷」といわれるように「人々は皆殺しされ村々の大地は血みどろになった」の様態であったが、避難した人々もいた。彼らは各地で「商人」とよばれた。彼等は故郷を失い、土地も所有してなかったから「交易」を生業とせざるを得なかった。時の経過とともに、出世地は関係なく「交易(あきない)を生業にする人」のことは「商人」と呼ばれるようになった。通俗的に商業は、人類の文明が発展する途上、狩猟農耕手工業の次に余剰生産物を交換して利益を得る形態として発展したと考えられている。ただしその起源までさかのぼることは、記録がないため難しく、どの時代に最初の商業が成立したのかは、推察の域を出ない。形態として物々交換から始まり、やがて媒介物を用いる貨幣経済に発展した。

取引を専門に行う者が現れる以前、交易は、共同体首長に属する者や共同体全体で行った。交易の専門家が現れると共同体の外部と取引を行う者と共同体の内部で取引を行う者は、区別された。交易者の動機は、義務や公共への奉仕である身分動機と利得のために行われる利潤動機に分かれていた。身分動機の交易者は、共同体から与えられた特権や義務を有し、世襲や同業者組合(ギルド)によって生活を保証された。これは、共同体内の産業を保護するためであったり、専売制により税収を得るなどの目的があった。

共同体全体で交易を継続して行う場合もあり、かつての海路や水路を用いたフェニキア人ヴァイキングプトゥン人、砂漠のベドウィントゥアレグハウサ人、宗教を背景に持つユダヤ人アルメニア人などが含まれる[1]

古代(紀元前-8世紀)[編集]

メソポタミアシュメールバビロニアには、身分動機の交易者であるタムカルムがおり、王により設定された財を交易した。シュメール文字による商取引による記録(4350年前の粘土板)も残っており、この発明(文字と粘土板による記録)によって、取引や交換の管理が容易となった[2]古代ギリシアでは、ポリス外で取引する者をエンポロス、ポリス内で取引をする者をカペーロスと呼び、利潤動機の交易者としてメトイコイと呼ばれる自由身分の外国人が存在し、メトイコイの多くはエンポロスとして働いた。対外交易が行われる場には両替商がいた[3]

中国においては、前漢に塩の専売制が布かれ国の重要な収入となった。また塩鉄論が起こり、も専売制が布かれた。古代エジプトでは、パピルスの専売制が布かれ、製造方法も秘密とされた。これがもとで羊皮紙が作られるようになったと言われている。

それまで私的な事情とされ、見逃され続けて来た性行為そのものを商品として扱う売春行為に踏み込んだ国家も登場する。古代ローマ帝国では、健全な国民生活を目指し、アウグストゥスによって姦通罪やユリウス正式婚姻法が発せられ、売春や婚外交渉を禁止した。

この時期、ユーラシア大陸の西端に隆盛したローマ帝国と東端に興った・漢帝国の交易は、後代に渡って莫大な利益を生み、北方の「草原の道」、大陸内陸部の「オアシスの道」、大航海時代の「海の道」をシルクロードと呼んだ。ただし、それ以前からスキタイ匈奴突厥などの遊牧民族が東西の文化交流、交易で活躍したと考えられる。ソグド人は、アケメネス朝の記録に初めて名前が記され、中央アジアの遊牧民族国家として中国の唐代まで商胡と呼ばれ、シルクロードで活躍し、ソグド語がシルクロードの共通語ともされるほど栄えた。

経済圏の拡大により、物々交換に代わって通貨が使用されるようになるが、それでも大量の貨幣を持ち運ぶのが支障になるため、古代エジプトカルタゴは、パピルスや革を利用した一種の紙幣を交易に利用したが、ローマ帝国によって断絶した。

中世(8世紀-11世紀)[編集]

ローマ帝国に代わったイスラム帝国の拡大によってイスラム法(シャリーア)のもとで商慣習が統一され、アッバース朝成立後の8世紀以降は地中海西アジアインド洋で商業が急激に発達した。地中海のユダヤ、エジプト、シリア商人とシルクロードのソグド人を含む内陸の商人、ペルシア湾やインド洋の商人はイスラーム圏の影響の元で活動し、ムスリム商人は、中国のでも取引を行った。商人たちが協働するための制度として、イタリアのコンメンダやソキエタス(ヴェネツィアのコレガンティア)、東ローマ帝国のクレオコイノーニャ、イスラーム世界のキラード、ムダーラバなどが整備され、共同で事業経営をするシルカという制度も発達した。タージル(アラビア語で商人)と呼ばれるイスラーム圏の大商人は、ワジールなどの政府要職に任命され、ワクフ(基金を集め公共サービスを行う者、その習慣)によって都市機能を維持して社会的地位を高めた。

11世紀頃の人物とされるディマシュキーは、先駆的な商業書である『商業の美』において、商人をハッザーン、ラッカード、ムジャッヒズに分け、その役割と重要性について論じている[4]。ハッザーンは、倉庫業や卸売で市場において高い時期に売り、安い時期に貯蔵する。つまり売買時期の差額で儲ける。ラッカードは、運送業や行商で商品の値段が高い場所で売り、安い場所で買う。空間的な差を利用して差額で儲ける。ムジャッヒズは、貿易業者や大規模な問屋で各地の代理店も使って貿易を行い、時間と空間の差を組み合わせて儲ける者である[5]

イスラム商人の活躍に対してソグド人は、安史の乱によって大打撃を受け、次第に姿を消した。ソグド人を重用したウイグルも唐朝との馬やラクダの交易で繁栄したが、唐との関係が悪化すると交易も断たれる。

イタリアの商人は、十字軍をきっかけに北ヨーロッパとの関係を強め、ジェノヴァピサヴェネツィアは、十字軍を援助して戦利品や特権の獲得に加えて債権も得た。ただし十字軍の債務を放棄する国家も現れ、貸し倒れになった銀行もあった。またイタリア商人は、直接、イスラム教圏と取引するようになる。

イタリア商人の台頭に対してヨーロッパ在住ユダヤ人は、イスラム教圏在住ユダヤ人との取引を独占することで公的に認められた唯一の交易商人としての保護を失った。また迫害によって農業や手工業、公職からも追放されたため貸金業や質屋、両替商として活動の場を移すことになる。ドイツを中心とする北ヨーロッパ在住の「金貸しのユダヤ人(アシュケナジム)」のイメージは、ここから来ている。しかしそれらの市場も次第に奪われるようになった。15世紀、イベリア半島のレコンギスタが終結し、迫害が強まって多くのユダヤ人は、オスマン帝国や地中海沿岸に移住した。

8世紀の中国は、唐朝の中頃で758年に塩と鉄の専売制を布いた。特にシルクロードの由来ともなった絹の人気をはじめ数々の手工業は、官営化され産業が保護された。また”行”と呼ばれる商売をする場所、扱う商品を決められた同業者組合が作られた。現在の「銀行」もこれが語源といえる。政府が管理する行商の集まる市場が長安は、東西に二ヵ所、洛陽は、南北西の三ヵ所に開かれた。10世紀の中国は、五代から宋代にかけて技術の進歩により農業や手工業が促進し、生産量だけでなく特産品が増え、地域の経済格差が広がった。特に有名なのが景徳鎮をはじめとする青磁、白磁などの窯業である。この事は、商人にとって射幸心を刺激される土壌であり、大いに栄えた。大規模な商業圏を移動する行商人を客商と呼び、地元商人を座商とした。また倉庫業を営む邸店、小売店の舗戸、仲介人は、牙人と呼ばれた。さらに地域ごとに活動する商幇などが活躍した。経済圏は、中国内部に留まらず西アジアや東南アジアにまで広がった。宋朝は、唐代に根付いたの人気に着目し、専売制が布かれ茶商が栄えた。また茶器・茶道具として様々な美術品が販売・生産されるようになった。

日本の文献で専門の商人が現れるのは、8世紀以降である[6]。それ以前は、貨幣経済が浸透せず711年蓄銭叙位令まで発せられた。平城京には、都城の内部に官営の市が設けられ、市籍をもつ商人が売買を行った[6]平安京には、東西の市が設けられ、市籍をもたぬ商人もふくめて売買がなされ、各地の特産物などが行商された[6]院政期や平氏政権の時期には、京都をはじめとして常設店舗をもつ商人が現れ、彼らは、寺社権門勢家と結びついて自らの力を保持ないし拡大しようとした[6]貞観6年(864年)には、市籍人が貴族皇族に仕えることを禁じた命令が出されている。日本も独自の貨幣を鋳造したが、手間を省くために宋銭を使用するようになったが偽造貨幣が出回った。これを鐚と呼んだが、偽造貨幣と知られながら宋銭の半値で使用された。

近世(11世紀-16世紀)[編集]

銀行は、資金調達や財政管理の能力によって権力者への影響力を強めた。イタリア商人の北ヨーロッパに対する債権は、商品の形をとりシャンパーニュの大市などで取引をされた(債権売買)。イタリア商人は、教皇庁の財政とも結びつき、教会の収入を送金する金融業を行うようになる。フィレンツェバルディ家ペルッツィ家などの銀行家は、王侯貴族に貸付をし、彼らの財政収入を担保とした[7]。取り分けメディチ家は、隆盛を極めた。北ヨーロッパでは、ハンザと呼ばれる遠隔地商人が都市の有力市民となり、都市間の商業同盟を結んでドイツを中心にハンザ同盟が成立した。これらの経済的繁栄は、文芸復興に結びつき華やかな文化を育てることになる。しかしオスマン帝国の伸長と16世紀大航海時代が始まると大量の銀、金がヨーロッパに流れ込み通貨の価値が下落する価格革命が起こる。

13世紀から14世紀まで中国の元朝では、モンゴル人は、交易に加わらず、特権ムスリム商人(オルトク)によって帝国内の財政や交易を担当させた。またモンゴル帝国は、金朝の制度を継承して紙幣(交鈔)を発行させた。やがてモンゴル帝国が零落するとシルクロードやムスリム商人の活動圏は、オスマン帝国が継承し、その莫大な収益を独占した。またオスマン帝国は、地中海にも進出したためイタリア商人を排斥し、代わってイスラム教圏に住むユダヤ人セファルディムが活躍した。さらに欧州から移住するユダヤ人も国内に住まわせた。同じく滅びた元朝に代わって明朝が中国に興るとモンゴル人によって荒廃した華北に代わって経済の中心も江南に移った。江南の農業生産量は、華北を凌ぐまでになり蘇州松江の収穫のみで食料が賄えるとして「蘇松熟すれば天下足る」という言葉が作られ、農作物を各地に転売する農本思想が重用された。

13世紀にイスラム商人は、東アフリカ、ペルシア湾からインド洋、東南アジアのマラッカ海峡に至るまでの海路上で活躍した。またこれによって東南アジアでイスラム教が広がった。マレーシア半島に興ったマラッカ王国は、代表的なイスラム国家であり交易ルートの中心的役割を果たし、南シナ海との中継貿易で繁栄した。東アフリカでは、アイユーブ朝、マムルーク朝エジプトが興り、ここでは、カーリミー商人と呼ばれ、イタリア商人と貿易した。

メキシコ高地では、特権商人のポチテカが遠隔地交易によってアステカの征服に貢献していた。

日本では、有力権門や寺社の雑色神人供御人が、その権威を背景に諸国と京都を往復して交易を行うようになる。彼らは、荘園制度の崩壊により権門や寺社を本所(名目上の領主)として仰ぎ、自分たちは、奉仕の義務と引き換えに諸国通行自由・関銭免除・治外法権などの特権を保障された集団「」を組織した。特に大山崎油座は、畿内一円に大きな勢力を誇った。金融は、神に捧げられた上分米や上分銭を資本として神人たちによって行われ、13世紀以降は、利銭も行われた[8]。鎌倉時代から室町時代にかけて活躍した貸金業者は、土倉、酒屋と呼ばれた。彼らは、次第に本所から実権を奪い取って自治を始める町衆まで現れた。は、町衆によって自治され「東洋のベニス」と呼ばれる栄華を誇った。豪商たちは、高価な輸入品や権門や寺社の所有する宝物を手に入れると、これらを鑑賞する茶の湯を起こした。

近代(16世紀-19世紀)[編集]

イスラム商人は、欧州列強が海外進出を続ける中、東南アジアやインド洋から姿を消した。1509年ディウ沖の海戦でポルトガル海軍がマムルーク朝エジプト海軍とインド諸侯連合軍を撃破して、アラビア海を獲得して東南アジアへの海路を確保した。翌年1510年には、インド西岸ゴアを制圧、また翌年1511年には、ポルトガルは、マラッカ王国を占領した。1535年にポルトガルは、デイウ島に要塞を建設してインド洋の制海権を確固とし、イスラム商人は、その後、ダウ船などが細々と活動するのみとなった。

17世紀の危機によりヨーロッパの各国は、財政危機を迎える。その中でオランダは、好景気にあり、この時代の経済活動の中心は、香辛料貿易と呼ばれた。オランダ東インド会社が結成され、先に活躍していたポルトガルスペインを撤退させ、江戸幕府と結んで貿易の独占を目指した。結果、東南アジアの交易ルートを独占し、ここから17世紀は、「オランダの世紀」とまで呼ばれた。これらの欧州国家の東南アジア、西アジアにおける戦いは、香辛料・茶・アヘン・絹など需要の高い商品の獲得、次いで他国が同じ商品を流通させることで価格が下落することを嫌って独占する事が目的だった。

大英帝国も香辛料貿易を求めてタイのアユタヤ、日本の平戸に商館を置いたがオランダによって妨害を受け、アンボイナ事件でインド攻略に方針転換を迫られた。イギリス植民地時代に起源を持つのがインドのタタ財閥である。英国は、関税によりインドの綿織物産業を駆逐して自国の製品を輸出した。一方で英国は、茶、磁器、絹を清朝から大量に輸入して貿易赤字に苦しんだ。このためインドでアヘンを栽培させ、それを清朝に輸出して赤字を取り戻そうと考えた。清朝は、アヘンを禁止し、英国のアヘン商人を取り締まったためアヘン戦争が勃発する。

中国では、人口増加と共に経済が拡大した。明朝に引き続き清朝でも山西商人新安商人らが活躍した。

16世紀のオスマン帝国では、カピチュレーションによりヨーロッパの商人を国内で活動させる特権商人とした。やがて18世紀には、チューリップ時代と呼ばれ、国力の低下が進んだが、これを打開するためにヨーロッパの文化を取り入れるべきだという風潮が生まれた。しかし対欧州戦争に敗れ、各地も独立・離反して経済活動が縮小し続けた。軍事力が低下し続けるとカピチュレーションの特権商人も各国との不平等条約の足掛かりにされた。

北米、及びアメリカ合衆国は、はじめスペインやポルトガル、オランダ、フランス、イギリスなどの植民地の中継地点として経済的に繁栄した。1776年に合衆国は、独立宣言を行い1846年メキシコ割譲により「アメリカ本土」と呼ばれる現在の北米大陸地域を領有するようになる。西海岸でゴールドラッシュが起こると世界各地から一獲千金を求めて人々が集まって経済が活発になった。1853年、織物行商人だったリーヴァイ・ストラウスは、ジーンズを鉱山労働者に販売して大成功を収めた。土佐ジョン万次郎もゴールドラッシュに参加した一人とされる。

18世紀後半、英国をはじめ産業革命により、「カンパニー」と呼ばれる形態が登場し、商人と実業家を別けるとすると、この時期である。しかし経営が近代化されても労使間は、そうとは言えず団結禁止法などが施行され、労働者に対する締め付けが起こった。1834年ロバート・オウエンの指導で「全国労働組合大連合」が結成されるなど労働者運動が起こったがなかなか実らなかった。しかし各国に運動が広がりを見せた。

日本は、近世にかけて商人がその生業を専門化・分化させていった[6]。戦国時代を経て座は、解体されたが問屋仲買小売という現代につながる流通形態の発生がみられ、それぞれに株仲間を結成した[6]。株仲間は、加入者数を制限して売買を独占し、近世初期には物資供給の安定という効果があったが、商品経済の進展の深まりとともに円滑な取引の阻害要因となった[6]寛永年間において、江戸で3千持っていた者は、幾人というくらいしかいなかった[9]。ところが元禄も末になると、奈良屋茂左衛門冬木弥平次などは、一代で40万両も持つに至っている[10]。一一両の見積もりからすれば、これらの商人は、40万石の大名並みの財力を有していたことになる[11]

元禄年間は、一攫千金の「夢」から商人がリスクを覚悟で挑戦する時代で、この時期を元禄バブルと呼ぶ人もいる[12]。これが元禄期の終わりと共に中国朝鮮オランダとしか交易できなくなったことで、国内の商売(開拓・活動範囲)が限られ、下手に夢を見て商人同士で潰し合いをすると酷い争いが生じかねなくなったため、価値観の転換が行われるようになる[13]享保年間までに商家では「家訓」が大量に作られるようになり、道徳を守り、信用を重んじ、家を永続させよといった「生活」に重点が置かれた内容となる[14](夢から生活の中に夢を包む形態)。いわば「永続主義」となり、この価値観から日本では、100年以上続く商家や企業が多い一因ともなっているとされる[15]

江戸幕府は、商人に対して非課税であった。しかし実際には、幕府は、商人から税収を得ており江戸時代を通じて数回行われたのが御用金である。大名ら公権力と結びついた商人を御用商人と呼ぶ。また商人司と呼ばれる商人を統制する役職が各藩に置かれた。

近世以降の日本の主な商人
  • 酒田
池田惣左衛門 - 鐙屋
  • 会津
簗田藤左衛門 - 簗田屋
  • 直江津
蔵田五郎左 - 越後屋
  • 甲府
甲州財閥[16]
  • 小田原
宇野藤右衛門 - 虎屋
  • 駿府
友野二郎兵衛 - 友野屋
  • 清洲
伊藤惣十郎 - 伊藤屋
  • 安土
西川仁右衛門 - 山形屋
角倉素庵 - 角倉屋
角倉了以 - 角倉屋
茶屋四郎次郎 - 茶屋
茶屋又四郎 - 茶屋
  • 大坂
末吉孫左衛門 - 平野屋
淀屋常安 - 淀屋
今井宗久 - 納屋
今井宗薫 - 納屋
呂宋助左衛門 - 納屋
津田宗及 - 天王寺屋
津田宗達 - 天王寺屋
  • 大湊
角屋七郎次郎 - 角屋
  • 敦賀
道川兵衛三郎 - 川舟屋(敦賀)
  • 小浜
組屋源四郎 - 組屋
組屋宗円 - 組屋
  • 紀伊
紀伊国屋文左衛門[17] - 紀伊国屋
  • 姫路
鴻池直文 - 鴻池屋
小西行長 - 小西屋(姫路)
小西隆佐 - 小西屋(姫路)
  • 尾道
渋谷与右衛門 - 大西屋
  • 赤間関
掘立直正 - 下関屋
佐甲藤太郎 - 下関屋
  • 浦戸
播磨屋宗徳 - 播磨屋
  • 博多
神屋紹策 - 神屋
神屋宗湛 - 神屋
島井宗室 - 博多屋
  • 本庄宿
戸谷半兵衛[18] - 中屋
森田豊香 - 酒屋

その他

近代(19世紀-20世紀)[編集]

株式は、オランダ東インド会社が最初と言われているが産業革命以降、新しい事業を起こすには、これまで以上に資本が必要になった。それまで会社設立は、国王の権威のもとに行われていた勅許会社だったが19世紀には、自由化が目指された。アメリカでは、英国からの独立後、各州政府によって会社設立は、許可制となっていた。これらは、銀行業や運河工事、鉄道会社など運営に費用がかかり公的な事業が中心であった。その後、規制が緩和され、自由化された。1868年には、イギリス労働組合会議(TUC)が結成された。その他にも労使間交渉を目的とした団体が結成され始める。これにより株式会社は、株主会議や社員持ち株など民主的な要素も加えられ、前時代的な要素が取り除かれ、ようやく経営形態・労働環境共に近代化された。

アメリカ合衆国の軍艦は、オランダ東インド会社の”傭兵”として長崎に寄港していた。しかし英国の伸長によりオランダも日本に寄り付けなくなるとアジア政策を重視して開国を目指し、日米修好通商条約を結ばせた。これによりアメリカは、太平洋の反対側までも経済圏に収めることになった。19世紀末には、工業生産量が英国を追い抜き、黄金時代と呼ばれる時代になる。この時期のアメリカには、ヘンリー・フォード、ジョージ・ウェスティングハウス、トーマス・エジソン、ジョン・ロックフェラーなどの著名な発明家や実業家が登場している。

開国後、日本においても株式会社が設立されるようになった。坂本龍馬亀山社中が原形と言われている。ただし、近代化にいち早く成功したヨーロッパ人には、明治期の日本商人は、道徳的とは映らず、マックス・ヴェーバーは『世界宗教の経済倫理』第二部『ヒンドゥー教と仏教』の中において、封建時代の倫理観の名残があることを次のように説明している。「明治維新によってが解体され、代わって官僚支配が導入され、封建時代に高く評価された名誉観念は一部に継承された。だが、封建的な名誉観念から、市民的な企業倫理は生まれるべくもなかった。維新後、ヨーロッパの実業家は、しばしば日本人の大商人の低級な商業道徳を嘆いた。その一因は商業を相互欺瞞の形式と考える封建的な思想によって説明されよう[19]」として、ヴェーバーはヨーロッパ人としての視点から、明治期の日本商人が信頼に重きを置いておらず、その原因を封建期における駆け引きにあるとし、名誉観念(武士道)から近代商業の倫理は、生じえないとまで断じている。明治維新後に政府と結びついて官民癒着で進められた企業を政商と呼んだ。これが武士に代わって商人が政治を動かそうとした名誉観念の一つであろう。

1911年に中国の清朝で辛亥革命が起こった。これによって中国も社会の様々な分野が近代化され、新安商人などが姿を消した。

出典・脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 『人間の経済1』p.164
  2. ^ クリストファー・ロイド野中香方子 『137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史』 文藝春秋 18刷2014年(1刷2012年) p.150.取引されていたものは、黒曜石大麦ワイン・希少な石、などとされる。
  3. ^ 『人間の経済1』10章
  4. ^ 佐藤『イスラーム商業史の研究』p.74
  5. ^ 加藤博『イスラム経済論』書籍工房早山、2010年。 p96
  6. ^ a b c d e f g 胡桃沢(2004)
  7. ^ 『中世イタリア商人の世界』p.44
  8. ^ 『日本の歴史を読み直す(全)』p.61
  9. ^ 稲垣史生 『三田村鳶魚 江戸武家辞典』 青蛙房 新装版2007年 p.224.
  10. ^ 同『江戸武家辞典』 p.224.
  11. ^ 同『江戸武家辞典』 p.224.
  12. ^ 守屋淳 『最高の戦略教科書 孫子』 日本経済新聞出版社 15刷2016年 ISBN 978-4-532-16925-1 p.259.
  13. ^ 守屋淳 『最高の戦略教科書 孫子』 pp.259 - 260.
  14. ^ 守屋淳 『最高の戦略教科書 孫子』 p.260.
  15. ^ 守屋淳 『最高の戦略教科書 孫子』 p.260.
  16. ^ 近世の甲府城下町では甲府城南西に新府中が造成され城下町が形成され諸商人が存在しており、表通りに屋敷を構える家持層の大店では、甲府城下の中心部である八日町の若松屋や桝屋が代表的な商家として知られる。近代には消費都市としての低迷や旧城下町の衰退により甲府商家も没落し、若尾逸平、風間伊七、八嶋栄助ら座方に出自を持つ甲州財閥が新興勢力として台頭した。甲府商家では大木家が甲州財閥として地位を保っている。
  17. ^ 元禄期の長者番付に「横綱 紀伊国屋文左衛門 五十万両」とある。江戸幕府の年収が八十万両とされることからも、一代で築いた財力の大きさがうかがえる。
  18. ^ 近世期における商家の番付表『関八州田舎分限角力番付』内で「西方筆頭の大関」として記載されている(「分限」とは地位・財産を指す)。近世当時、横綱は地位ではなく、称号であり、従って実質上、戸谷半兵衛家は19世紀の関東で上位に位置する商人と認識されている。
  19. ^ 長部日出雄 『仏教と資本主義』 新潮新書 2004年 ISBN 4-10-610063-0 pp.90 - 91.

参考文献[編集]

  • 網野善彦 『日本の歴史をよみなおす(全)』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2005年。
  • フィリップ・カーティン 『異文化間交易の世界史』 田村愛理・中堂幸政・山影進訳、NTT出版、2002年。
  • 胡桃沢勘司 「商人」『日本大百科全書』 小学館編、小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。ISBN 4099067459
  • 佐藤圭四郎 『イスラーム商業史の研究』 同朋社、1981年。
  • 清水廣一郎 『中世イタリア商人の世界』 平凡社〈平凡社ライブラリー〉、1993年。
  • カール・ポランニー 『人間の経済 1』 玉野井芳郎・栗本慎一郎訳 / 『人間の経済 2』 玉野井芳郎・中野忠訳、岩波書店、2005年。

関連項目[編集]