17世紀の危機

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17世紀の危機とは、ヨーロッパ史において17世紀に起きた混乱をまとめた言葉。

16世紀の繁栄[編集]

16世紀大航海時代を迎えたヨーロッパは世界の拡大とともに繁栄を謳歌した。例を挙げると、

などである。ところが16世紀末、宗教戦争が始まると社会は安定を失っていった。

17世紀の危機[編集]

17世紀の危機」の最大の要因としては小氷期の到来により気候が寒冷化したことである。農作物の不作が続いて経済が停滞し、魔女狩りをはじめとする社会不安が増大する。さらにペストの流行で人口が減に転じた。これにより今までの封建的なシステムは崩れ、資本制が広がるようになる。宗教対立が激化したために、王室は財政難の打開を目的に中央集権を進めたが、これに貴族が反発、農民も一揆を起こすようになった。

特に三十年戦争がヨーロッパにもたらした影響は大きく、ほとんどのヨーロッパ中の国が介入した。結果、ヨーロッパのほぼ中央に位置する神聖ローマ帝国の土地は荒廃し、「神聖ローマ帝国の死亡診断書」とも言われるウェストファリア条約が結ばれた。以降、ウェストファリア体制と呼ばれる勢力均衡体制が支配する社会となり、各国の相互内政不干渉が保証される。こうして成立した近代主権国家は、20世紀に至るまでの国際社会の基盤を作り上げた。

主な戦争[編集]

17世紀中、小規模のものも含めて戦争のなかった時期はわずか4年しかなかったとされる。

各国の状況[編集]

イギリス[編集]

イギリスではピューリタン革命名誉革命により、17世紀を通じて国王と議会が対立を繰り返した。優勢だったのは議会であり、18世紀からの責任内閣制のもととなった。

フランス[編集]

フランスではフロンドの乱により、国王と貴族が対立した。優勢だったのは国王であり、絶対王政が強化された。また、ルイ14世は彼の言った「領土の拡張は最も気持ちのいい仕事である」に代表されるように、戦争を繰り返した。

ドイツ[編集]

ドイツでは三十年戦争により、国土が荒廃した。決定的に敗北したハプスブルク家は、以後、オーストリアに活動の中心を移すようになる。ウェストファリア条約で神聖ローマ帝国は事実上解体され、プロイセンとオーストリアの台頭を招くことになる。

オランダ[編集]

オランダは「17世紀の危機」に巻き込まれなかった。気候変動により川や運河が凍結することはあったものの、経済的には発展した。それは、香辛料貿易バルト海貿易により大きな利益を上げることができたからであり、このことから17世紀は「オランダの世紀」とも呼ばれる。

スペイン[編集]

「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたスペインはヨーロッパでの覇権を失い凋落の一途を辿った。八十年戦争ではオランダを喪失し、ポルトガル王政復古戦争ではポルトガルの独立を阻止できなかった。またカタルーニャ地方での収穫人戦争はフランスの介入を招き、フランスとの戦争に発展した。その後ピレネー条約によりスペインはアルトワルシヨンを手放すことになる。

イタリア[編集]

スペインの支配下にあったナポリでは、1647年にマサニエッロの反乱が生じ、支配体制を揺るがした。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 帝国書院『最新世界史図説 タペストリー(四訂版)』