末吉吉安
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肖像画 | |
| 時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
| 生誕 | 元亀元年(1570年) |
| 死没 | 元和3年3月26日(1617年5月1日) |
| 別名 |
末吉 吉康 末吉 孫左衛門 平野屋 孫左衛門 など |
| 官位 | 従五位追贈 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 豊臣秀頼、徳川家康 |
| 藩 | 天領 |
| 氏族 | 坂上氏庶流伝平野七名家 西末吉家 |
| 父母 | 父:末吉利方 |
| 兄弟 | 道良、利長 |
| 子 | 長方、道明 |
末吉 吉安(すえよし よしやす、元亀元年〈1570年〉 - 元和3年3月26日〈1617年5月1日〉)は、安土桃山時代および江戸時代初期に朱印船貿易で活躍した摂津国大坂および平野の豪商[1][2][3][4]。 江戸幕府の代官・旗本でもあった[1][5][6]。名は吉康とも表される[5][7]。
通称から、名を用いず末吉 孫左衛門(すえよし まござえもん)と称されることも多い。
家系
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戦国時代に当時自由都市の平野を合議制で統治した平野七名家(平野氏)の一門であり、末吉氏を名乗った末吉利方(平野勘兵衛利方)の孫にあたる[7]。子あるいは養子の説もある[6]。末吉利方は伏見銀座の頭取であり、千利休とも親しく交流があった。
末吉氏には、本家の東末吉家(太郎兵衛家)と、利方が興した分家の西末吉家(勘兵衛家、孫左衛門家)とがあるが、吉安は西末吉家の家系である。西末吉家は平野を含めた一帯の代官・旗本としても知られ、のちに江戸に定住している[8]。
名前
[編集]諱は吉安とも吉康とも書かれる[9]。徳川家康と同じ字であることを憚って吉康から吉安に改めたという説や[10]、吉安から吉康に改めたという説がある[11]。通称としては孫左衛門と孫四郎の二つがみられた[12]。苗字についても一様ではなく、「末吉」を称する一方で「平野」と名乗ることもある[1][13]。さらに屋号の平野屋も、苗字と並行して使われていた[1][12]。出家後は同円[2]。
生涯
[編集]吉安は年齢からみると長女まきの子、すなわち利方の孫にあたると考えられる[7]。利方の長男・藤四郎利長は吉安より先に死去しており、利方が1607年(慶長12年)に82歳で死去したため、37歳で吉安が西末吉家の家督を継ぎ、平野の年寄役・伏見銀座の頭役となった[2][3][4][5][7]。同年4月に第一次朝鮮通信使が大坂を訪れた際には、吉安は大坂城主・豊臣秀頼の代官である片桐貞隆の補佐として御馳走役を務めた[7]。
吉安は家督を相続するより前から、すでに幕府公認の銀貨鋳造・精錬機関であった伏見銀座の頭役に名を連ねていて、徳川家康の庇護のもとで銀貨の鋳造事業を主導した[14]。1608年(慶長13年)、吉安は伏見銀座を京都市中の両替町へ移転させ、大坂には出張所(大坂銀座)を設けた[7][6][7]。吉安が屋敷を構えた現在の大阪市中央区本町付近一帯は、当時「末吉孫左衛門町」と呼ばれた[7]。
1614年(慶長19年)の大坂冬の陣においては、吉安は豊臣方ではなく徳川家康に与したことから、豊臣方は平野を焼き払うという報復を行った[7]。直後、吉安は家康の命を受けて徳川方の軍勢を京都から平野へと先導した[7]。その後、徳川家康は住吉大社の社家・津守氏宅に、徳川秀忠は平野の全興寺にそれぞれ本陣を構え、吉安はこれら本陣の普請工事を担った[7]。翌1615年(元和元年)の大坂夏の陣においても、吉安は平野に置かれた秀忠本陣の普請を引き受けた[7]。なお、同じ七名家でも、道頓堀を開削し名前の由来となった成安道頓は、豊臣方で大坂城に籠城したと伝えられる。
両陣の直後、吉安と利方の甥にあたる平野藤次郎政次は、幕府より河内国志紀郡・河内郡の代官に任じられ、旗本としての身分を保証された[1][2][5][6][7][13][12]。正保年間(1644〜1648年)頃の記録によれば、吉安と政次が統治した領域は合計3万石・51カ村あるいは5万石に及んだ[7]。
1617年、大坂で死去[7]。墓は高野山蓮花定院にある[7]。
吉安が東横堀川に架設したとされる橋は、数度の架け替えを経た現在も末吉橋と呼ばれている。末吉孫左衛門町の町名は江戸時代のうちに牧九郎兵衛町と統合されて長堀橋本町となったが、1872年から1982年まで末吉橋通1丁目となっていた(現在の大阪市中央区南船場1丁目の一部)。
末吉船
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吉安は豊臣政権期の1596年(文禄5年)から継続して朱印状を与えられており、江戸幕府の重臣土井利勝、酒井忠世、本多忠勝や金地院崇伝(以心崇伝)らとも親しく、1601年(慶長6年)徳川家康によって朱印船貿易が正式に制度された後も、継続して渡航を行った。1608年(慶長13年)には吉安自らシャムに渡航している[7][1][2][5]。
このような末吉氏による朱印船貿易は末吉船(すえよしぶね)と称され、1604年(慶長9年)から1634年(寛永11年)の30年間に大坂から派遣された朱印船22船のうち、過半の12船が吉安と長男・長方による末吉船であり、吉安が7回、長方が5回の渡航を担った[7][注 1]。 先代の利方から継承した廻船業が朱印船貿易の費用を支えていて、主に呂宋(ルソン)や東京(トンキン)など、インドシナ・フィリピンや暹羅(シャム)・越南といった東南アジア方面を主眼において貿易を行っていた[1][2][3][4][5][6][7][13][12][14]。
清水寺には末吉船の渡航祈願および航海の無事への感謝として奉納された末吉船の絵馬が現存しており、1633年(寛永10年)の奉納とされる[1][5]。吉安の没した1617年から16年後のものであることから、子の長方によって奉納されたと推定される。絵馬には主に、トンキン(東京)からの帰国船が描かれている[1]。
ギャラリー
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末吉船絵馬、1660年より前
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台湾での末吉船、1600年代
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末吉船絵馬、1650年より前
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末吉船絵馬、1627年
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 「末吉孫左衛門」『日本大百科全書 ニッポニカ』小学館。2026年2月23日閲覧。
- ^ a b c d e f 「末吉孫左衛門」『山川 日本史小事典 改訂新版』山川出版社。2026年2月23日閲覧。
- ^ a b c 「末吉孫左衛門」『旺文社日本史事典』旺文社。2026年2月23日閲覧。
- ^ a b c 「末吉吉安」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社。2026年2月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g 「末吉孫左衛門」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ブリタニカ・ジャパン。2026年2月23日閲覧。
- ^ a b c d e 「末吉孫左衛門」『百科事典マイペディア』平凡社。2026年2月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「なにわ大坂をつくった100人 第45回末吉孫左衛門吉康」公益財団法人関西・大阪21世紀協会。2023年2月3日閲覧。
- ^ 出原真哉「近世町支配機構の構造と変遷 : 末吉文書および摂州平野郷年寄文書を中心に (PDF)」(博士論文の要旨)、大阪大学、2003年。2026年2月22日閲覧。
- ^ 宮本又次『大阪町人』弘文堂〈アテネ新書〉、1957年、54頁。全国書誌番号:57002980。
- ^ 曾根研三「大阪平野文化の特殊相」『國學院雜誌』第41巻第5号、1935年、75頁、doi:10.11501/3365131。
- ^ 中田易直「末吉孫左衛門と末吉平野一統」『日本歴史』第501号、1990年、6頁、CRID 1520009408844262528。
- ^ a b c d 「末吉孫左衛門」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社。2026年2月23日閲覧。
- ^ a b c 「末吉孫左衛門」『精選版 日本国語大辞典』小学館。2026年2月23日閲覧。
- ^ a b 「末吉孫左衛門」『Historist』山川出版社。2026年2月23日閲覧。
- ^ 田尻佐『贈位諸賢伝 増補版 上』近藤出版社、1975年、特旨贈位年表 43頁。
