第六次対仏大同盟

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1814年のフランス戦役でのナポレオン

第六次対仏大同盟(だいろくじたいふつだいどうめい, 英語:Sixth Coalition, 1812年 - 1814年)は、ナポレオン1世フランス帝国による覇権に挑戦するため、ヨーロッパ諸国が結成した同盟である。ロシア遠征で多大な損害を被ったフランス軍は、四方から迫る連合軍に圧倒され、ついにナポレオンは退位に追い込まれた。

同盟[編集]

第六次対仏大同盟は、1812年のナポレオンによるロシア遠征の開始を契機として、イギリスロシアの二国間で締結された同盟に始まる。ロシア遠征はフランス軍にとって致命的な損失を招いた。兵員37万が死亡し、20万が捕虜となったのである。半島戦争で傷ついたナポレオンの不敗神話はここに完全に崩れ落ち、フランスに支配されていた諸国は次々に離反していった。

1813年2月27日、プロイセンはフランスとの同盟を破棄して第六次対仏大同盟に参加した。8月にはオーストリアスウェーデンライン同盟諸邦もこれに参加した。ここにイギリスを中心とした大同盟が結成され、フランスに対する総攻撃が開始された。

第六次対仏大同盟に参加した国家は以下のとおりである。

ドイツ・フランス戦役 (1813-1814年)[編集]

ライプツィヒの戦い

プロイセンの参戦[編集]

1813年、ナポレオンは20万の新兵を徴募して、ロシア遠征で壊滅した軍隊を再建した。連合軍では、3月17日にプロイセンがフランスへ宣戦を布告し、旧領の奪回に乗り出した。4月28日にはロシアの将軍クトゥーゾフが病没し、代わってヴィトゲンシュテインが最高司令官となった。

5月2日、ライプツィヒ近郊のリュッツェンでヴィトゲンシュテイン指揮下のロシア軍がネイ軍団を奇襲する。ナポレオンは即座に反撃しこれを破ったが(リュッツェンの戦い英語版)、ヴィトゲンシュテインは兵力を手際よく撤退させ、決定的勝利には至らなかった。ナポレオンはネイに兵力の半数を与えてロシア軍を2方面から追撃し、5月20日-21日、バウツェンの戦い英語版でロシア・プロイセン連合軍に勝利したが、ネイの側面攻撃の開始が遅れたため、またも連合軍の撃滅には至らなかった。しかも、フランス軍も大きな損害を受けた。

6月4日、ナポレオンへ皇后マリー・ルイーズを嫁がせていたオーストリアの仲介で休戦協定が結ばれ、両軍とも兵力を再編した。

半島戦争[編集]

だがそのころスペインでもフランス軍は危機を迎えていた。ウェリントン公率いるイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍は、6月21日のビトリアの戦いをはじめとして、各所でフランス軍を撃破し、フランス本土へと北上しつつあった。

オーストリアの参戦[編集]

7月にはスウェーデンも対仏大同盟に参加した。7月29日、プラハで講和会議が開催されたが、両軍とも譲歩の意思はなく決裂した。8月10日に休戦期間は終了し、8月11日、オーストリアもフランスへ宣戦した。休戦期間中にフランス軍は30万を集結させたが、連合軍の兵力は45万を超え、各戦線でフランス軍への攻撃を開始した。

ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍はトラーヒェンブルク・プランを採用し、ナポレオン本隊との正面衝突を避け、部下の部隊との会戦を志向する戦略を取った。北方では、ベルナドット率いるスウェーデン軍が、8月23日のグロスベーレンの戦い英語版で、ベルリン攻撃に向かっていたウディノ軍団に勝利。さらに、9月6日にはデネヴィッツの戦い英語版で、ウディノ軍団と交代したネイ軍団を破った。東方では、ブリュッヘル率いるプロイセン軍が、8月26日のカッツバッハの戦い英語版マクドナル軍団に勝利した。

南方では、シュヴァルツェンベルクドイツ語版率いるオーストリア・ロシア連合軍が、ザクセン王国の首都ドレスデンを守るサン=シール軍団を攻撃した。これにはナポレオンが増援に駆けつけ、8月26日-27日のドレスデンの戦いとなった。この戦いはフランス軍が勝利したが、オーストリア・ロシア連合軍を追撃したヴァンダムは、クルムの戦い英語版8月29日 - 8月30日)で逆に包囲され、ヴァンダム本人を含む7,000が捕虜となった。こうしてフランス軍は消耗してゆき、兵力差はますます拡大していった。さらに、10月にはフランスの長年の同盟国であったバイエルン王国までもが離反した。

諸国民の戦い[編集]

追い込まれたナポレオンは西方へ撤退し、主力をライプツィヒに集結させた。連合軍がこれに決戦を挑み、1813年10月16日-19日のライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)が開始された。この戦いはナポレオン戦争における最大の戦闘となった。19万のフランス軍に対して36万の連合軍が包囲攻撃をかけ、フランス軍は2倍の兵力差の前に圧倒された。18日にはザクセン王国軍の一部も離反し、19日にナポレオンは撤退を余儀なくされた。撤退の過程でポニャトフスキが戦死したほか、フランス軍は戦死4万、捕虜3万を出して敗走した。このドイツを中心とした戦役を、現在ドイツでは「解放戦争」と呼称している。

1814年フランス戦役[編集]

パリに入城するロシア軍

フランス軍はドイツからの撤退を余儀なくされた。東からはロシア軍、オーストリア軍、プロイセン軍、スウェーデン軍が殺到し、南からはスペインを制圧したイギリス軍がピレネー山脈を越えた。フランス軍は着実に追い込まれていった。1813年12月2日、連合軍がアムステルダムへ入城。12月21日にはシュワルツェンベルク軍がライン川を渡河。1814年1月19日にはブルゴーニュ地方のディジョンが陥落した。

ナポレオンは、「マリー・ルイーズ兵」と揶揄された未熟練の若い新兵たちを率いて、局地的な戦闘でたびたび勝利を収めた。例えば、2月10日から14日にかけての六日間の戦役英語版(五日間の戦役とも)[要出典]と呼ばれる戦いは、ナポレオンの戦歴の中で最高の作戦であったと評価する見方も多い。ナポレオンは、シャンパーニュへ侵攻した10万のブリュッヘル軍に対して、4万の兵力をもって機動作戦を展開し、これを打ち破っている。

3月9日、イギリスの主導により同盟諸国はショーモン条約フランス語版を締結し、1791年当時の国境の回復を条件に停戦を提案したが、ナポレオンは拒否した。しかし、大局的な劣勢は覆しようもなかった。ナポレオンは最後の抵抗を試みたものの、圧倒的な兵力差の前に、アルシー・シュール・オーブの戦い英語版などで敗北した。3月30日、連合軍は首都パリへの攻撃を開始。パリ防衛の任にあたっていたマルモンは降伏し、翌31日、連合軍はパリに入城した。タレーラン=ペリゴールを中心とするフランス臨時政府は停戦のためにナポレオンの退位を決議した。4月11日、ナポレオンはついに退位、降伏条件としてフォンテーヌブロー条約が締結された。

戦後処理[編集]

戦役の結果、ナポレオンは敗北して1814年5月4日にエルバ島の小領主として追放された。ベルナドットは、フランス君主の後継者の地位を狙ったが、対仏大同盟諸国はこれを承認しなかった。最終的に、フランス上院の議決により、フランス革命以来亡命していたブルボン家ルイ18世が帰還して即位し、王政復古がなされた。

ロシア遠征からフランス戦役に至る最終局面において、250万人の兵員が戦争に参加し、うち200万人が死亡したとされる(ロシアだけで100万人という)。スモレンスクの戦いボロジノの戦いドレスデンの戦いライプツィヒの戦いナポレオン戦争中でも特に規模の大きい戦いであった。以降、第一次世界大戦まで西欧でこれほど大規模な戦いが連続して行われることはなかった。

参考文献[編集]

  • 伊奈重誠『名将ナポレオンの戦術』陸軍画報社, 1938年
  • 本池立『ナポレオン―革命と戦争』世界書院, 1993年1月 ISBN 4792721113