第五次対仏大同盟

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第五次対仏大同盟
ナポレオン戦争対仏大同盟
Napoleon Wagram.jpg
オラース・ヴェルネが描いたヴァグラムの戦いでのナポレオン
1809年4月10日から10月14日
場所 中央ヨーロッパ、イタリア、オランダ
結果

フランスの勝利、シェーンブルンの和約

領土の
変化
衝突した勢力

第五次対仏大同盟:

  1. ^ (in rebellion against Bavaria)

フランスの旗 フランス第一帝政

指揮官
フランスの旗 ナポレオン・ボナパルト
マクシミリアン1世
ウジェーヌ・ド・ボアルネ
Flag of the Duchy of Warsaw.svg ユゼフ・ポニャトフスキ
State flag of Saxony before 1815.svg フリードリヒ・アウグスト1世
戦力
オーストリア 340,000名[1]
イギリス 85,000名[2]
275,000名[3]
被害者数

合計170,000名[4]

  • 戦傷者 90,000名
  • 捕虜 80,000名

合計140,000名[5][4]

  • 戦死者 30,000名
  • 戦傷者 90,000名
  • 捕虜 20,000名

第五次対仏大同盟(だいごじたいふつだいどうめい, Fifth Coalition, 1809年4月9日 - 1809年10月14日)は、ナポレオン1世フランス帝国による覇権に挑戦するため、オーストリア帝国イギリスが結成した同盟である。主要な戦闘は中央ヨーロッパで生じ、フランス、オーストリア共に非常に高い損害率を計上した。イギリスは既にヨーロッパ大陸では半島戦争を継続していたが、さらにワルヘレン戦役(英語版)で遠征軍を送り、オーストリア戦線を緩和しようとした。しかしこの遠征は失敗に終わり、オーストリア戦線の緩和にほとんど効果がなかった。バイエルンドナウ川にて多くの戦闘が行われた後、7月始めにヴァグラムの戦いで死闘が行われ、フランスに有利な状態で戦争は終結した。

シェーンブルンの和約でフランスは近年で最も過酷な条件をオーストリアに突きつけた。メッテルニヒカール大公はハプスブルク帝国の保護を原則として外交交渉に望み、仏墺間の平和と有効を約束することを見返りに、より穏便な和約をナポレオンに締結させる事に成功した[6]。オーストリアは大半の代々の領土はハプスブルク家の領土の一部であり続けたが、フランスはコロシュカ地方カルニオラアドリア海の港を獲得し、ガリツィアワルシャワ公国に割譲され、チロルザルツブルクバイエルン王国に編入された。オーストリアは全国民の1/5に当たる300万人の国民を失った[7]

第五次対仏大同盟が終了した後も、イギリス、スペインポルトガルは半島戦争を継続し、フランスと戦争状態にあった。1812年ロシア戦役までの間、中央ヨーロッパと東ヨーロッパの間で平和が続いたが、ロシア遠征の後の1813年に第六次対仏大同盟が結成された。

背景[編集]

1808年、ナポレオンの覇権は欧州の全域に及びつつあった。しかし、海上ではイギリスが依然として制海権を握り海上封鎖を続けていた。またスペインではフランスの統治が現地住民の反感を呼びゲリラが各地で決起していた。イギリスはアーサー・ウェルズリーを派遣してスペインの反乱勢力を支援させた。いわゆる半島戦争が開始されたのである。こうした陸海でのナポレオンのつまづきを見たオーストリア帝国は、1809年4月9日イギリスと第五次対仏大同盟を結成し、1805年のプレスブルクの和約で失った領土の奪還へと乗り出した。

フランス革命戦争[編集]

ヨーロッパは戦争に巻き込まれ、1792年以来革命政権対仏大同盟と戦い続けた。5年の戦争の後、1797年にフランス第一共和政第一次対仏大同盟を屈服させた。さらに1798年には第二次対仏大同盟が結成されたが、対仏大同盟は再び敗北した。1802年3月、第一頭領のナポレオン支配下のフランスは唯一交戦していたイギリスとアミアンの和約を結んだ。このとき10年間で初めて、全ヨーロッパに平和が訪れた。しかし両国には解決されていない多くの問題があり、アミアンの協定を履行する事は難しかった。フランスがヨーロッパで征服した領土を保持する事を認められた時、イギリスは1793年以来征服してきた領土を返還しないことに憤慨した。一方フランスはイギリス軍がマルタから撤退しない事を気にしていた[8]。1803年5月イギリスはフランスに宣戦布告した。

第三次対仏大同盟[編集]

戦争が再開された時、ナポレオン(1804年に皇帝に即位した)はイギリスへの上陸作戦を立案し、この目標を達成させるために1803年からの2年間の多くを時間を費やした。1804年12月、イギリスとスウェーデンの同盟が成立し、第三次対仏大同盟が結成された。1804年と1805年の間イギリス首相のウィリアム・ピットは狼狽しながら外交活動を行い、新たに対仏大同盟を作ってイギリス上陸の脅威を緩和していた。イギリスとロシアの相互不信はフランスのいくつかの政治的失策によって緩和されており、1805年4月に両国は同盟を締結した[9]。ナポレオンの地固めによって北イタリアは彼の支配下の王国に組み込まれ、オーストリアはフランスに二度敗北した事の記憶が新しく、復讐を望んでいたためオーストリアはこの同盟に数ヶ月後に加入した[10]

1805年8月にフランスの大陸軍はロシア軍が介入する前に、オーストリアを戦争から追い出す事を望んで、ドイツ諸国に侵攻した。9月25日、機密が守られた状態で、熱狂的に行軍を行い、200,000のフランス軍は260km前面のライン川を渡り始めた[11]。マックはバイエルンウルムの要塞にオーストリアの主軍を集結させた。ナポレオンはマックの軍が北へ行き来した所をフランス軍が迂回して、オーストリア軍の後方に回り込む事を望んだ。ウルムでの機動は見事に実行され、10月20日にマックと23,000名のオーストリア軍はウルムで降伏し、この戦役を通して60,000名のオーストリア兵を捕虜にした[11]。11月にフランス軍はウィーンを占領し、12月の始めにはアウステルリッツでロシア、オーストリア連合軍に対して決定的な勝利を収めた。アウステルリッツの勝利はロシア軍を中央ヨーロッパから追い出し、オーストリアに屈辱を味わわせた。12月26日にオーストリアはプレスブルクの和約に調印した。

第四次対仏大同盟[編集]

アウステルリッツの戦いヨーロッパにおける勢力均衡を大きく変えた。プロイセンは自国の地域の安全保障に脅威を感じ、1806年にロシアと共にフランスに宣戦し、第四次対仏大同盟を結成した。1806年の秋に18万のフランス軍がテューリンゲンの森を経由してプロイセンに侵攻した。この動きをプロイセンは察知しておらず、フランス軍はザーレ川の右岸と白エルスター川の左岸に沿って進んだ[12]。10月14日に決定的な行動が行われた。ナポレオンは90,000名の軍と共にホーエンローエをイエナにて壊滅させた。しかし27000名の第3軍団を率いたダヴーはカール・ヴィルヘルム・フェルディナントフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が率いる63000名のプロイセン軍の攻撃をアウエルシュタットにて阻止して破った[13]。フランスは北ドイツで激しい追撃を行い、プロイセン軍の残党は掃討された。フランスはポーランドに進攻し、プロイセンを救援できなかったロシア軍と邂逅した。ポーランドは1795年にプロイセン、オーストリア、ロシアによって分割された。

ロシア軍とフランス軍は1807年2月にアイラウの戦いで激しい戦闘が行われなかったが決着は付かなかった。この時の損害は30,000から50,000名ほどであった。ナポレオンはこの戦いの後、軍を再編成し、数ヶ月間ロシア軍を追いかけた。このポーランドでの動きは1807年6月14日のフリートラントの戦いで頂点に達した。この戦いでフランス軍はロシア軍を潰走させた。この結果7月にティルジットの和約が結ばれて2年の流血に終止符が打たれ、フランスはヨーロッパ大陸で支配的な地位を占めるまでに昇りつめた。一方プロイセンは著しく弱体化し、フランス・ロシアの両国によってヨーロッパの国々の論争が解決されるようになった。

半島戦争[編集]

オレンジ戦争(英語版)の後、ポルトガルは2つの政策を採用した。ブラジルの皇太子でポルトガルの摂政のジョアン6世はフランスとスペインと共にバダホス条約に調印し、イギリスと貿易を行っている港を封鎖した。一方ポルトガル最古の同盟国であるイギリスとのウィンザー条約は無効になっておらず、イギリスはポルトガルとの貿易を許し、秘密外交を維持した。しかしフランス・スペイン艦隊がトラファルガーの海戦で敗れるとジョアンは公然とイギリスとの貿易と外交を行うようになった。

このようなポルトガル政府の政策の変化を受けて、ナポレオンはポルトガルに軍を派遣した。1807年10月17日ジャン=アンドシュ・ジュノー指揮下の24,000名[14]のフランス軍はスペインの協力の元でピレネー山脈を渡り、ナポレオンの大陸封鎖を強化するためポルトガルへ向かった。これが6年に渡って行われる半島戦争の始まりであり、半島戦争で苦戦する事でフランス帝国の多くの力が奪われた。1808年の冬を通してフランス外交官はスペインの内政干渉を行う事が増え、スペイン王室の不和を掻き立てようとした。1808年2月16日、ナポレオンがブルボン朝の政治的派閥の仲裁を仲介することを公言した時フランスの陰謀が明るみにでた[15]ジョアシャン・ミュラが12万の軍を引き連れスペイン入りし3月24日にマドリードに到着した[16]。マドリードは数週間後に占領に反発して激しい暴動が発生した。フランスの侵略に対する抵抗は瞬く間にスペイン全土に広がった。7月のバイレンの戦いでのフランスの衝撃的な敗北はナポレオンの敵対者に希望をもたせ、フランス皇帝にこの事態に直接介入すべきという事をある程度説得させた。ナポレオンによって率いられた新たなフランス軍はスペイン軍に打撃を与えた後、秋にエブロ川を渡った。ナポレオンは12月4日に80,000名の兵を引き連れてマドリード入りした[17]。彼はムーア(英語版)のイギリス軍に打撃を与えた。イギリス軍は速やかに海岸まで追い出され、コルーニャの戦い(英語版)を最後にスペイン全土から撤退した。

オーストリア単独の抵抗[編集]

オーストリアは直近の敗北の復讐をするために、これまでと異なるフランスとの対立方法を模索したが、スペインの反仏感情を悪化させる事しかできなかった。オーストリアはロシアの援助は考慮していなかった。なぜなら1809年にロシアはイギリス、スウェーデン(同様の理由でオーストリアはスウェーデンの援助を考慮できなかった)、オスマン帝国と戦争をしていたからだ。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の政府の一部は当初オーストリアを助けたがっていたが、ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインのオーストリアとの文通はフランスによって妨害され、1808年9月の大会に調印せざるを得なくなった[18]。この文通にはプロイセンがオーストリアを支援する計画が書かれていた。イギリスはフランス帝国と6年間戦争をしていた。オーストリアの財務大臣の報告書では第三次対仏大同盟時に兵を動員して以来の大軍を維持し続けると1809年の半ばには国庫が尽きるだろうと予想されていた。しかしカール大公はオーストリアがまだナポレオンと対決するための準備が出来ていないと警告した。このカール大公の姿勢は彼を所謂"平和主義"へと陥らせたが、彼は軍を退役する事を望むように見えなかった。1809年2月8日、フランスとの戦争の支持者はついに帝政をフランスへの戦争を行う事を密かに決意させる事に成功した。

オーストリアの改革[編集]

1805年のアウステルリッツとそれに続くプレスブルクの和約はオーストリア軍に改革が必要な事を示していた。ナポレオンはアウステルリッツの後カール大公をオーストリアの王位に付かせる事を提案し、この事はカール大公の兄であるオーストリア皇帝フランツ2世に深い猜疑心を駆り立てる事になった。カール大公はオーストリア軍の改革の先鋒を勤める事が許されたにもかかわらず、フランツは軍事顧問であり続け、最高司令官としてカール大公の活動を監督した[19]

1806年、カール大公は軍と部隊戦術の新しい指針を発した。主な戦術的な革新は集団の概念であり、兵士たちの間を閉じる事で対騎兵の集団を作った[19]。しかしオーストリア司令官は革新を嫌がり、カール大帝が直接監督する場合を除いてめったに集団戦法を使わなかった[19]ウルムとアウステルリッツの敗北に続き、オーストリアは1805年にマックの元で導入された1個大隊を4個中隊で編成する事を止め、1個大隊を6つの中隊で編成するように戻した[19]。問題は改革を行ったにも関わらず続いた。オーストリアがフランス軍と戦うには散兵が不足しており、騎兵はしばしば個別の部隊として軍全体に分散して配備されており、明らかにフランス軍に対して打撃を与える事を妨げていた。カール大公がフランスの軍団の司令構造を真似ようとしたが、オーストリアの軍事的支配層は主導権を奪われることにしばしば慎重であり、物事が決定される前には紙に書かれた重い命令書と長々と続く計画に頼っていた[20]

オーストリアではまた別の改革が行われ始めた。オーストリアは多くの将校、熟練兵、正規兵を失い、同盟を結ぶこともできなくなったため、フランスが早期に使い始めた徴兵を取り入れるようになった。このときまでにフランスは戦闘に熟練した歴戦の兵士を中心とした常備軍を形成する観点から徴兵に頼らなくなった。ナポレオン戦争の初期には奇妙な逆転が生じ、ほとんど経験を持たないフランス人がプロのオーストリア軍との戦いにしばしば徴兵された。しかし第五次対仏大同盟では多くのオーストリアの徴兵された兵は全く戦闘経験が無く、ほんの基礎的な訓練と装備のみで、幾多の戦争を戦い熟練し、十分な装備を持つフランスの大陸軍との戦場に送られた。

オーストリアの準備[編集]

カール大公と宮廷評議会はフランスへの攻撃の戦略で意見が別れた。カール大公は主軍によってボヘミアを突破し、北ドイツのフランス軍を孤立させ、速やかに決戦に挑もうとした[21]。オーストリア軍の大部分は既にボヘミアに集中し、これは自然な作戦遂行であった[21]。宮廷評議会はドナウ川がカール大公と彼の弟のヨハン大公の軍を分断する事を理由にカール大公の作戦に反対した[21]。彼らはウィーンとの連絡網を安全に維持出来るようにドナウ川の南から主軍は攻撃するべきだと主張した[21]。結局は、彼らは貴重な時間を失う前に道を譲った。オーストリアはベルガルド(英語版)指揮下の38,000名のボヘミアの第一軍団とコロヴラート(英語版)指揮下の20,000名の軍勢はボヘミアの山々のシャムの道からレーゲンスブルクを攻撃した。オーストリアの中央と予備兵力はホーエンツォレルンの第3軍団、ローゼンベルグの第4軍団、リヒテンシュタインの第一予備軍団はシェルディング(英語版)を経由して、レーゲンスブルクを攻撃した。左翼はルイ大公の第5軍団、ヒラーの第6軍団とキーンマイヤー(英語版)の第2予備軍団の合計61,000名で攻勢されており、ランツフートへ向かいながら側面を防衛した[22]

エアフルト会議[編集]

ティルジットにてナポレオンはアレクサンドルを賞賛したが、1808年の9月から10月に行われたエアフルト会議(英語版)までに、ロシアの宮廷では反フランス感情が高まり、新たな仏露同盟を脅かそうとしていた。ナポレオンと外務大臣のシャンペイン(英語版)はナポレオンがスペインの半島戦争を解決して、迫りくるオーストリアとの戦争の準備をするために仏露同盟を再確認しようと模索した。ナポレオンと前外務大臣のタレーランの間で意見の食い違いがあり、タレーランはナポレオンと彼の戦争政策がフランスを破滅に導いていると結論を下し、密かにアレクサンドルにナポレオンの野望に抵抗するよう忠告した。

エアフルト会議ではイギリスに対してフランスとの戦争をやめるよう呼びかける事、ロシアのフィンランドの征服をフランスが承認する事、オーストリアとの戦争が開始された際にロシアはフランスを”可能な範囲で”助力する事が合意された[23]。10月14日に両皇帝は祖国へと出発した。6ヶ月後、予想されていたオーストリアとの戦争が開始され、アレクサンドルはナポレオンとの合意をわずかに応え、フランスに対して、最小限の援助をした。それにも関わらず、シェーンブルンの和約でロシアは少なくとも中立を維持するために、オーストリアのポーランド領の一部であるテルノーピリを受け取った。1810年までに主に大陸封鎖令の実施による経済的圧力によって両皇帝はお互いに戦争をする事を考え始めた。エアフルトは両指導者にとって最後の会議となった。

フランスの準備[編集]

ナポレオンのオーストリアに対する予定と意図の全容は定かではない。ナポレオンは1809年の冬のスペイン戦役から丁度パリに戻ってきた時で、南ドイツのフランスの方面司令官のベルティエに新たに形成されそうな戦線に対しての部隊の展開と集結の計画を教えていた。彼の大まかな考えでは来たる戦役では1805年と同様にドナウ川が主戦場になり、北イタリアに侵攻してくるオーストリア軍はマルモンボアルネの率いる軍の配置によって拘束されると予想していた[24]。ナポレオンは誤った理解により、オーシストリアの主軍はドナウ川の北から攻撃してくると考えていた[25]。3月30日、ナポレオンはベルティエに手紙を書き、その中でレーゲンスブルク近辺に140,000名の兵を集結させる意図を説明した。レーゲンスブルクはオーストリアの攻撃を予定している場所から遠く北に位置していた[26]。ナポレオンはオーストリアの攻勢が4月15日より早く開始されることはないと予想しており、彼のベルティエを通した2つの命令は上記の仮説に大きく基づいていた。これらのオーストリアの作戦に対する誤解によって、フランス軍は戦闘開始時に部隊を適切に展開できなかった。前線のフランス軍と同盟軍は18万に達したが、当時フランス軍の精鋭はスペインにあり、集結できたのは二線級の部隊であった。だがナポレオンはオーストリア軍の分散状況を見抜き、即座に反撃に転じた。

1809年オーストリア戦役[編集]

Map of Europe showing French armies in Southern Germany and Austrian armies assembling to the southeast.
1809年2月のヨーロッパ情勢

この戦いは改革を行ったオーストリア軍がフランスの熟練兵と徴集兵の連合が競り合った。主な戦闘は1809年の4月から7月まで行われ、ナポレオンは過去の戦役と比べて早期に勝利を達成した。しかし第五次対仏大同盟はナポレオンとフランス帝国が勝者となれた最後の時でもあった。

オーストリアの侵攻[編集]

Smaller map of Europe, showing mostly Germany and detailing the advance of the Austrian army against the French
4月17日から19日にかけての両軍の状況。オースリア軍が孤立したフランス第3軍団を攻撃しようと戦略的に重要な都市であるレーゲンスブルクへ向かっている。

1809年4月10日、カール大公率いる20万のオーストリア軍主力はイン川を渡り、フランスの同盟国バイエルンへの侵攻を開始した。同時にフェルディナント大公の軍団がワルシャワ公国へ、ヨハン大公の軍団がイタリアへ侵攻した。悪路で、雨水が凍っていたため、オーストリア軍の最初の1週間の進軍は遅かったが、バイエルン軍は徐々に後退していった。オーストリア軍の攻撃はナポレオンの予想よりも1週間早く行われたため、彼の不在の間ベルティエの役割は全てにおいてとても重要なものになった。ベルティエの長所は参謀能力にあり、野戦軍司令官としては不十分であった。さらに悪いことにパリからのいくつかのメッセージは遅れて、本部に到着する頃には誤っている情報として伝わったため、ベルティエの短所をより悪化させた[27]。一方ナポレオンはベルティエに手紙を書き、オーストリアの攻撃が4月15日までに行われた場合、フランスの将軍はドナウヴェルトアウクスブルクの周辺で会わなければならないと伝えた。ベルティエは多くのオーストリア軍の圧力にも関わらず、命令文にこだわり、ダヴーとその指揮下の第三軍団をレーゲンスブルクへと呼び寄せて、都市まで後退するよう命じた[27]

大陸軍は両翼が121kmに分断されており、この間はバイエルン軍による薄い哨兵線によって結合していた。フランス元帥のベルティエと兵卒は要領を得ない行軍と反転に明らかに苛立っていた[28]。16日にはオーストリアの前進によりバイエルン軍がランツフート近郊まで後退し、夕方にはイーザル川を安全に渡れる地点を確保した。17日、ナポレオンがパリから猛烈な行軍でドナウヴェルトに到着した。カール大公は戦役の開始が成功した事で自身を祝い、ダヴーとルフェーヴルの孤立した軍団を両翼包囲によって殲滅しようと計画した。多くのオーストリア軍が既にイーザル川を渡り、ドナウ川に向かっている事にナポレオンが気付いた時、フランス全軍をイルム川の後方へ48時間以内に展開する事を要求し、ベルティエの過ちが行われず、戦力の集中が達成出来ることを願った[29]。彼の命令はダヴーの元へ向かっているオーストリア軍の数を過小評価していたため、非現実的であった。ナポレオンはカール大公がイザール川を超えさせた軍団は1個軍団のみであると考えていたが、実際にはオーストリア軍は5個軍団がレーゲンスブルクに向かっており、総数は80,000名であった[29]。ナポレオンは左翼の崩壊を防ぐために速やかに対策を講じる必要があった。

ランツフートの機動[編集]

Another map of Europe, this time showing French units attacking the exposed Austrian flank from the southwest
ランツフートの機動とオーストリア軍がバイエルンから追い出される様子。

ダヴーは問題に気づき、2000名の守備隊を残してレーゲンスブルクから彼の軍団を撤退させた[30]ケールハイムとバート・アプバッハの間を北上するオーストリアの隊列は、19日の早い時間にノイシュタット・アン・デア・ドナウに向かい西に進んでるフランスの4つの隊列と遭遇した。オーストリアの攻撃は緩やかでまとまりが無く、熟練のフランスの第3軍団に速やかに撃退された。ナポレオンはダヴーの防御している地点で戦闘が行われている事を理解しており、ダヴーがオーストリア軍を撃退する新たな戦略を既に考案していた。一方オーストリア軍は北のマッセナの軍団を攻撃した。マッセナは全オーストリア軍の戦線を包囲し、ダヴーへの攻撃を緩和するために南西のフライジングランツフートを攻撃した。マッセナの軍団には後にニコラ・ウディノの軍も加わった[31]。ナポレオンは別働隊がオーストリアの後方を掃討する間ダヴーとルフェーヴルを合わせた軍団がオーストリア軍を釘付けできる自信があった。

フランスの攻撃が始まると中央のオーストリア第5軍団はアーベンスベルクの戦い(英語版)で敗北し、フランスが進軍するための道を引き渡した。しかしナポレオンはこの時誤った仮説を元に動いていた事が目標を達成させることを困難にさせた[32]。マッセナのランツフートへの前進はとても多くの時間を必要としたので、ヒラーがイザール川を渡って退却する事を許した。レーゲンスブルクへ出入りできるドナウ川の橋は、東岸は破壊されていなかったため、オーストリアは川を渡り、フランスの望みであった敵軍の完全な殲滅は達成出来なかった。20日、オーストリア軍は10,000名の損害、30の大砲、600の弾薬箱、7000の車両の損害を被ったが、依然として戦闘力を保持していた[33]。その日の午後に、ナポレオンは戦闘していたのがオーストリアの2個軍団に過ぎず、カール大公はシュトラウビングを超えて東に退却する機会があった事を思い知った。

21日、ナポレオンはダヴーからトイギ・ハウゼンの戦い(英語版)についての公文書を受け取った。ダヴーは依然として彼の陣地を保持していたが、75,000名のオーストリア軍と対峙するために36,000名の増援を送った[34]。ナポレオンが最終的にカール大公が東に撤退しなかった事を知った時、ランツフートの機動として知られる作戦で使用するための大陸軍の主力を再編成した。ヒラーを追撃している20,000名のベシェール配下の軍勢を除いた、戦力として使用できる全フランス軍はエックミュールを攻撃することでオーストリアを罠にはめ、包囲されている戦友を救い出そうと努力した[35]。4月22日カール大公は40,000の兵をローゼンベルグとホーエンツォレルンに預けてダヴーとルフェーヴルを攻撃し、アバッチへ行軍させて、右岸の支配権を獲得するためにコロウェットとリヒテンシュタイン指揮下の2個軍団を切り離した[36]。しかし午後1時半にナポレオンが到着した時、南から銃声が聞こえた。ダヴーは数で劣っているにもかかわらず、直ちに全戦線で攻撃を命じた。第10系歩兵連隊はLeuchlingの村を強襲し、多くの損害を被りながらUnter-Leuchlingの森を占領した[37]。さらにナポレオンの増援は速やかにオーストリアの左翼を打撃を与えた。こうしてエックミュールの戦い英語版はフランスの勝利に終わり、カール大公はドナウ川を渡りレーゲンスブルクへと撤退する事を決意した。ナポレオンはシュトラウビングを占領するためにマッセナを東に進める一方、残りの軍は逃亡するオーストリア軍を追撃した。ランヌ元帥の壮烈的な突撃の後、フランスはレーゲンスベルクを占領(英語版)したが、大部分のオーストリア軍はボヘミアに退却する事に成功した。ナポレオンは注意を南のウィーンへと変えて、ヒラーの軍と連戦し、この時の最も有名な戦いは5月3日に行われたエーベルスベルクの戦い(英語版)であった。10日後ウィーンは4年ぶりに2回目の陥落をした。

アスペルン・エスリンクの戦い[編集]

Closeup map of Austria showing French and Austrian armies close to each other.
1809年5月22日のアスペルン・エスリンクの戦いでの戦略的状況。

5月16日、17日にカール大公指揮下のオーストリアの主軍はマルヒフェルトに到着した。マルヒフェルトはウィーンの北東のに位置する平原で丁度ドナウ川を渡った場所にあり、オーストリア軍の訓練にしばしば使われた。カール大公はナポレオンが渡河することを決めた河岸から数km離れた場所に軍の大部分を集中させた。20日カールはビッサムの丘の観測者からフランス軍がカイザーエーベルスドルフで橋を建造している事を聞いた[38]。カイザーエーベルスドルフはローバウ島の丁度南西にあり、マルヒフェルトに通じている。21日カール大公はフランス軍がカイザーエーベルスドルフから大挙して渡河していると結論を下し、98,000名の兵に292の大砲を同行させて、5つの縦列を形成して進軍するよう将軍に命じた[39]。フランス軍は橋頭堡を西はアスペルン、東はエスリンクという村に置いた。ナポレオンは抵抗にあうとは予想しておらず、ローバウ島からアスペルン・エスリンクに繋がる橋は柵で守られておらず、オーストリアの軽武装されたに非常に攻撃されやすい状態であった[40]

アスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンに勝利したカール大公

アスペルン・エスリンクの戦いは5月21日の午後2時30分から始まった。アスペルンとアウ基礎自治体の森に対する南への最初の貧弱な攻撃にオーストリアは完全に失敗したが、カール大公はこれに固執した。結局オーストリアは村全体を占領したが東側の半分は失った。第4縦隊と第5縦隊は長い行軍を行ったため、オーストリアはエスリンクを6時まで攻撃しなかった[41]。フランスは21日を通してエスリンクへの攻撃を押し返すことに成功した。22日の午前3時に戦いは始まり、4時間後フランスはアスペルンを奪還した。ナポレオンは71,000名の兵と152の大砲を対岸に展開していたが、それでもまだフランス軍は危険な程に数で劣っていた[42]。ナポレオンはオーストリアの中央に対して大規模な攻勢を行い、第3軍団が渡河するために十分な時間を確保しようとした。ランヌは3個歩兵師団と共に前進し、1.6kmほど動いたがオーストリアはカール大公の個人的な雄雄しさと第15歩兵連隊の示威行為に刺激され、フランス軍に砲撃の雨を浴びせたため、フランス軍は退却した[43]。午前9次フランスの橋は再度破壊された。カール大公は1時間後に大規模な攻撃をしかけ、アスペルンを占領したが、エスリンクは依然として占領する事は出来なかった。しかし数時間後オーストリアは穀物庫によって忠実に守られた地点を除きエスリンクの全てを奪還した。ナポレオンはジャン・ラップ(英語版)指揮下の近衛師団の一部を送ると応えた。ジャン・ラップはエスリンクを攻撃し、オーストリアを駆逐するというナポレオンの指示に大胆にも逆らった[44]。カール大公は大砲による容赦のない砲撃を続け、ランヌ元帥も犠牲になった。損害を減らすためにフランスは全軍をローバウへと後退させた。このアスペルン・エスリンクの戦いでカール大公はナポレオンに初めての黒星をつけた。兵員の損害もさることながら、最も信頼する部下のランヌが戦死するという、ナポレオン自身にとって非常に辛い敗北であった。

ヴァグラムの戦い[編集]

Closeup map of a battlefield, showing French forces moving towards Austrians positions.
1809年7月初めのヴァグラムの戦いでの戦略的状況。

アスペルン・エスリンクの戦いで敗北した後、ナポレオンは6週間以上計画を立案し、改めてドナウ川を渡ろうと試みるまでの間、万一に備えた[45]。フランスはより多くの軍勢と大砲を連れてきて、次の渡河の成功を保証するためのよりよい防衛手段を講じた。6月30日から7月の初旬にかけてフランスはドナウ川をもう一度渡ろうとし、188,000名の軍がマルスフェルトを通ってオーストリア軍へと行軍した[45]。フランスの進軍に対して前哨部隊のノルトマンとヨハン・フォン・クレーナウ(英語版)の師団はすぐに抵抗することは制限されていた。ハプスブルクの主軍は8kmほど離れた場所に駐在しており、その中心はヴァグラムという村であった[46]。渡河に成功した後、夜間にオーストリア軍が退却する事を防ぐ為、ナポレオンは全線で攻撃を命じた。第57戦列歩兵連隊と第10軽歩兵連隊はBaumersdorfという村に対して、猛烈な攻撃を仕掛けフランスの速やかな勝利を導こうとしたが、結局オーストリア軍はその場を動かず、フランスのさらなる圧力を防いだ。英雄的なオーストリアのヴィンセント騎兵隊の攻撃により、第10連隊と第17連隊は撤退を余儀なくされ、フランスは何も得られず退却した。ウジェーヌマクドナルの左翼に対するさらなる攻撃では何も得られなかった。ベルドナットの軍による攻撃が後で行われたが残念な結果に終わり、右翼のダヴーは夜の暗さのために交戦を停止する事を決意した。こうして戦いの初日をフランスはマルスフェルトで終えたが、これらの努力にも関わらず、戦果はほとんど得られなかった。

ヴァグラムの戦いのナポレオン

7月6日カール大公は彼の弟のヨハン大公の迅速な行軍が要求される両翼包囲を計画した。この時ヨハンは戦場から東に数kmの地点にいた。ナポレオンの計画ではオーストリアの左翼への展開はダヴーの第3軍団に任せ、残りの軍がオーストリア軍を押さえつける事を想像していた。コロヴラートの第3軍団に支援されたクレーナウの第6軍団は2日目の午前4時から戦闘を開始しフランスの左翼を粉砕し、後にフランスはアスペルン・エスリンクの両方を放棄せざるを得なくなった[47]。一方その間衝撃的な部隊の展開が夜通しで行われた。ベルナドットはアダークラアという村の中心と要所から出ていくように彼の軍に一方的に命じ、この動きはフランス全軍の陣形をひどく傷つけるものであった[47]。ナポレオンは激怒し、2個師団と騎兵によって支援されていたマッセナの軍団をこの危機的な村を奪還するために送った。最初の段階では困難な戦いが行われたが、マッセナはモリトールの予備兵力を投入した。この予備兵力は緩やかではあったがアダークラアを全てフランスの手に戻したものの、オーストリアの激しい砲撃と反撃によって再度失った。ダヴーの攻撃のための時間を稼ぐためにナポレオンはシャンピオン配下の胸甲騎兵をオーストリアの戦線に送ったが、効果は得られなかった[48]。中央と左翼を守るためにナポレオンは112の大砲によりオーストリアに砲撃を開始し、オーストリアの戦列の穴を引き裂いた[49]。ダヴーの兵士はオーストリアの左翼に進軍し、ナポレオンはマクドナルドの3つの小さな師団を戦列の穴に投入し、長方形の陣形でオーストリア軍中央に進軍させた。この陣形はオーストリアの大砲により攻撃を受けながらも、なんとか中央まで突破したが騎兵がなかったため、決定的な勝利を掴む事は出来なかった。それにも関わらず、カール大公はオーストリアの陣地が完全に破壊されるのは時間の問題だと理解し、正午から数時間経った後、ボヘミアへの撤退を命じた。彼の弟のヨハン大公は午後4時に戦場に到着したが、戦況を変えるには既に遅すぎ、同様にボヘミアに徐々に退却していった。

フランスは2日間ずっと行われた危険な戦闘により消耗しきっていたため、すぐにはオーストリア軍を追撃しなかった。回復した後、フランス軍はオーストリア軍を追撃し、7月中旬にはズノイモで追いついた。この地でカール大公は休戦条約にサインし、ナポレオンは戦闘の終了に同意した。フランスとオーストリアの軍事的衝突は事実上終了したが、数ヶ月後にこの戦争の結果を公式にするための外交上の論争が求められた。

その他の戦域[編集]

イタリア、ダルマチア[編集]

イタリアではヨハン大公がナポレオンの継息子のウジェーヌ・ド・ボアルネに立ち向かった。オーストリアは4月にサチーレの戦い(英語版)で数度のフランスの攻勢を撃退し、その結果ウジェーヌはヴェローナアディジェ川まで退却した。しかしウジェーヌはオーストリアを北イタリアから再度追い出そうとより熟考した攻勢を仕掛けた。ヴァグラムの戦いまでにウジェーヌはナポレオンの主軍と合流した[50]ダルマチアでは名目上ウジェーヌの指揮下のマルモンがストイチェヴィッチ将軍と交戦していた。マルモンは4月30日に山岳への攻勢を開始したが、グレンツ歩兵(英語版)に撃退された[51]。しかしマルモンはウジェーヌのように戦闘のペースを指示する事で初めの戦闘の妨げとなる事をしなかった。彼は攻勢を撤回し、ヴァグラムのナポレオンと合流した。

ポーランド[編集]

ワルシャワ公国では、ユゼフ・ポニャトフスキが4月19日にラシンの戦い(英語版)の戦いでオーストリアを破り、オーストリア軍がヴィスワ川を渡る事を妨げた事で、オーストリア軍は占領したワルシャワから撤退せざるを得なくなった。その後、ポーランドはガリシアに侵攻し、いくつかの成功を収めたが、この攻勢は多くの損害によって失速した。オーストリアでのいくつかの戦いに勝利したが、意図が不明瞭なロシア軍の存在に妨害されて、それ以上の進軍は出来なかった[52]。結局ヴァグラムでオ-ストリアの主軍が敗北した事がこの戦争の運命を決定した。

オーストリアのワルシャワ公国への進攻の後、ロシアはフランスと同盟を結び、渋々オーストリアとの戦争に加入した。セルゲイ・ゴリーツィン(英語版)将軍指揮下のロシア軍は1809年6月3日にガリツィアを通過した。ゴリーツィンは可能な限り遅く行軍し、オーストリアとのいかなる対立も避けるよう指導した。オーストリア軍とロシア軍の間では小競り合いしか発生せず、ほとんど損害も出なかった。オーストリアとロシアの司令官は頻繁に文通を行い、実際に作戦上の諜報活動を共有していた。ロシアの師団長であるアンドレイ・ゴルチャコフ将軍はフェルディナント大公に丁寧な手紙を送ったがポーランド軍に途中で捕えられた。ポーランド人はこの手紙をナポレオンに送り、コピーをアレクサンドルに送った。その結果アレクサンドルはゴルチャコフを更迭した。更にゴルチャコフとポニャトスキーの間では常に意見が食い違っていた。ロシアはガリツィアでポニャトスキーを支援する事になっていた。しかしシェーンブルンの和約の結果ロシアはテルノーピリを受け取った[53]

ドイツ[編集]

Black and white engraving showing armed soldiers and peasants walking through the streets
ナポレオンのバイエルンの同盟のくびきを絶つためにオーストリア人が鼓舞することで、チロルのアルプス地方の人々が1809年に武器を取って蜂起したが、最終的には失敗に終わった。

チロルではアンドレアス・ホーファー(英語版)がバイエルンの規則とフランスの支配に対して反乱を主導し、初期は孤立した状態ではあるが勝利を収めた。しかしフランスがヴァグラムで勝利すると反乱は鎮圧された。ホーファーは1810年に銃殺刑執行隊によって処刑された。

ザクセン州ではキーンマイヤー指揮下のオーストリアと黒い軍勢の連合軍はより成功し、ゲフレースの戦い(英語版)でジャン=アンドシュ・ジュノー指揮下の軍団を破った。その後首都のドレスデンを占領し、ナポレオンの弟のジェローム・ボナパルト指揮下の軍を押し返すと、オーストリアはザクセン州全域を支配下に置いた。しかしこの時までに、オーストリアの主軍はヴァグラムで敗北しており、ズノイモの休戦(英語版)に同意していた[54]

しかしフリードリヒ・ヴィルヘルムはこの休戦を拒否して戦い続け、ドイツを横断してヴェーザー川の入り口まで進軍した。そこから彼らはイギリスへと航海し、イギリス軍に参加した[55]

ホラント[編集]

ホラント王国でイギリスはオーストリア戦線の圧力を緩和しようとワルヘレン戦役(英語版)を開始した。イギリス軍は、イベリア半島に派遣している軍を上回る39,000名以上の大軍を7月30日にワルヘレンへ上陸させた。しかしこの時既にオーストリアは戦争で敗北していた。ワルヘレン戦役はほとんど戦闘が行われなかったが、一般的に"ワルヘレン熱"と呼ばれるマラリアチフスの合併症と考えられる病気のため、多くの死傷者がでた。イギリス軍は4000名以上を失い、残りの軍は1809年12月に撤退した[56]

結果[編集]

The allies of France are mainly concentrated in Europe while the allies of Austria include Britain and the latter's overseas territorial possessions in Canada and India, among other regions.
第五次対仏大同盟に参加した国家。:第五次対仏大同盟の加盟国 :フランス第一帝政とその属国、植民地、同盟国。

フランスはオーストリアを完全に破ったわけではなかったが、1809年10月14日、シェーンブルンの和約が締結され、オーストリアは重い政治的な苦役を課せられた。この和約の結果フランスはコロシュカ地方カルニオラアドリア海の港を獲得し、ガリシアはワルシャワ公国に与えられ、チロルのザルツブルクはバイエルン王国に渡され、ロシアはテルノーピリ地方を割譲によって手に入れた。オーストリアは全人口の20%に当たる300万人の人口を失った。フランツ1世は賠償金として8500万フランを支払い、ナポレオンの兄のジョゼフをスペインの王として承認し、大陸封鎖令の遵守する事に同意した[57]。オーストリアの敗北によってフランツ1世の娘マリア・ルイーザはナポレオンと婚約した。危険な事にナポレオンはマリア・ルイーザとの婚約でオーストリアが将来の脅威となる可能性を排除出来たと考えていたが、ナポレオンの考えているようにハプスブルク家と家族の結束を持つことはなかった。

このころナポレオンの覇権は、オランダハンブルクローマなどを併合したフランス帝国の他、支配下のイタリア王国、兄ジョゼフ・ボナパルトが王位にあるスペイン、弟ジェローム・ボナパルトが王位にあるヴェストファーレン王国、義弟のミュラが王位にあるナポリ、同盟国のスイス連邦、ライン同盟ワルシャワ公国に及び、ナポレオンの絶頂期と評される。

この戦いによる影響はフランスにとって全てが良い影響ではなかった。この戦争の間チロルとヴェストファーレン王国で反乱が発生したが、これはドイツ人の間でフランス支配への不満が高まっている事を示していた。シェーンブルンの和約が締結された数日後、ナポレオンが閲兵している間にフリードリヒ・スタップス(英語版)という名の18歳のドイツ人がナポレオンに近づき、皇帝を刺そうと試みた。しかし折よくラップ将軍によって途中で捕えられた[58]。この時までにドイツ人ナショナリズムはあまりにも強く根付いていたが、第五次対仏大同盟の戦争はナショナリズムを更に高めるために重要な役割を果たした[58]。1813年までに第六次対仏大同盟は中央ヨーロッパの支配のためにフランスと戦っていたが、ドイツ人はフランスの支配に激しく反対し、連合国を大きく支えた。

この戦いはフランスの軍事的優越とナポレオンのイメージを密かに傷つけた。アスペルン・エスリンクの戦いはナポレオンのキャリアの中で初めての大規模な敗北であり、多くのヨーロッパ諸国に歓迎された。オーストリアは戦略的な洞察力と戦術的能力がフランスの専売特許ではない事を証明した[59]。実際フランスは戦術的欠点によって苦しんでいた。フランス歩兵の練度の低下によって歩兵の縦列による機動を避ける事が増え、敵陣を突破する際に兵数に頼るようになった。このような部隊の展開はヴァグラムのマクドナルドの攻撃が最も際立っていた[59]大陸軍はアウステルリッツやイエナで失った多くの熟練兵を徴集兵で補ったため、戦術的な柔軟さは損なわれて質的な優位を失いつつあった[60]。その上、ナポレオンの軍は多くの外国人が部隊を占めるようになり、士気が低下した。しかしナポレオンは最初のフランスの危機的な状況を打倒したように、通例通りの明敏さで指揮を取ったにも関わらず、彼の軍の規模の増大はナポレオンの印象的な精神的能力でさえ緊張させた[60]。戦争の規模はあまりにも増大し、ナポレオンでさえ完全に対応する事が難しくなり、この教訓は1812年のロシア遠征で悪い形で繰り返された[60]

関連事項[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Chandler p. 673. Austria sent about 100,000 troops to attack Italy, 40,000 to protect Galicia, and held 200,000 men and 500 guns, organized into six line and two reserve corps, around the Danube valley for the main operations.
  2. ^ The British Expeditionary Force to Walcheren: 1809 The Napoleon Series, Retrieved 5 September 2006.
  3. ^ David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 670.
  4. ^ a b Bodart 1916, pp. 44.
  5. ^ Bodart 1916, pp. 129.
  6. ^ Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire. p. 144.
  7. ^ David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 732.
  8. ^ Chandler p. 304.
  9. ^ Chandler p. 328. The Baltic was dominated by Russia, a situation with which Britain was uncomfortable as the region provided valuable commodities like timber, tar, and hemp, crucial supplies to Britain's Empire. Additionally, Britain supported the Ottoman Empire against Russian incursions towards the Mediterranean. Meanwhile, French territorial rearrangements in Germany occurred without Russian consultation and Napoleon's annexations in the Po valleyincreasingly strained relations between the two.
  10. ^ Chandler p. 331.
  11. ^ a b Andrew Uffindell, Great Generals of the Napoleonic Wars. p. 15.
  12. ^ David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 469.
  13. ^ Chandler pp. 479–502.
  14. ^ Todd Fisher & Gregory Fremont-Barnes, The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire. p. 197.
  15. ^ Fisher & Fremont-Barnes pp. 198–99.
  16. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 199.
  17. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 205.
  18. ^ Napoleon – Felix Markham, p. 179
  19. ^ a b c d Fisher & Fremont-Barnes p. 108.
  20. ^ Fisher & Fremont-Barnes pp. 108–9.
  21. ^ a b c d David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 676.
  22. ^ Chandler pp. 676–77.
  23. ^ "The Erfurt Convention 1808". Napoleon-series.org. Retrieved 2013-04-22.
  24. ^ Chandler p. 671.
  25. ^ Chandler p. 672.
  26. ^ Chandler p. 673.
  27. ^ a b Chandler pp. 678–79.
  28. ^ Chandler p. 679. At midnight on 16 April, Berthier wrote the following to Napoleon: "In this position of affairs, I greatly desire the arrival of your Majesty, in order to avoid the orders and countermands which circumstances as well as the directives and instructions of your Majesty necessary entail."
  29. ^ a b Chandler p. 681.
  30. ^ Chandler p. 682.
  31. ^ Chandler p. 683.
  32. ^ Chandler p. 686.
  33. ^ Chandler p. 687.
  34. ^ Chandler p. 689.
  35. ^ Chandler p. 690.
  36. ^ Chandler p. 690.
  37. ^ Chandler p. 691.
  38. ^ Andrew Uffindell, Great Generals of the Napoleonic Wars. p. 174.
  39. ^ Uffindell, p. 175.
  40. ^ Uffindell, p. 177.
  41. ^ Uffindell, p. 177.
  42. ^ Uffindell, p. 178.
  43. ^ Uffindell, pp. 178–79.
  44. ^ Uffindell, p. 179.
  45. ^ a b David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 708.
  46. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 134.
  47. ^ a b Fisher & Fremont-Barnes p. 139.
  48. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 141.
  49. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 142.
  50. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 122
  51. ^ Fisher & Fremont-Barnes p. 123.
  52. ^ 1809: thunder on the Danube, Jack Gill
  53. ^ Mikaberidze pp. 4–22.
  54. ^ F. Loraine Petre, Napoleon and the Archduke Charles. p. 318.
  55. ^ Haythornthwaite p.147
  56. ^ The British Expeditionary Force to Walcheren: 1809 The Napoleon Series, Retrieved 5 September 2006.
  57. ^ David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 732.
  58. ^ a b Chandler p. 736
  59. ^ a b Richard Brooks (editor), Atlas of World Military History. p. 115.
  60. ^ a b c Brooks (editor) p. 114.

参考文献[編集]

関連書籍[編集]