スペンサー・パーシヴァル

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スペンサー・パーシヴァル
Spencer Perceval
Spencer Perceval by George Francis Joseph.jpg
生年月日 1762年11月1日
出生地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国メイフェア
没年月日 (1812-05-11) 1812年5月11日(49歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス、ロンドン
出身校 ハーロー校
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
所属政党 トーリー党

在任期間 1809年10月4日 - 1812年5月11日
国王 ジョージ3世
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スペンサー・パーシヴァルSpencer Perceval, 1762年11月1日 - 1812年5月11日)は、イギリス政治家。イギリス史上唯一の、暗殺された首相である(逆に暗殺したベリンガムもイギリスの首相を暗殺した唯一の人間と語られている[1])。

略歴[編集]

生い立ち[編集]

アイルランド貴族の第2代エグモント伯ジョン・パーシヴァルの七男として生まれた。パーシヴァル家は弁護士や政治家、軍人を多く輩出した一族である[2]。父はプリンス・オブ・ウェールズフレデリック・ルイスの側近であったが、スペンサーが10歳の時に亡くなった。ハーロー校からケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進んだ。法廷弁護士として働いた後、1796年に議員となった。

政治家として[編集]

自身のイングランド国教会福音主義運動への信仰から、ウィリアム・ピットの推し進めたカトリック解放法案には賛成していなかった。彼が大蔵大臣を務めた頃、ウィリアム・ウィルバーフォースの提出した奴隷貿易廃止案が可決された。また、ナポレオン・ボナパルトによる大陸封鎖で外国貿易が損害を被っており、1811年にはラッダイト運動が巻き起こった。

ジョージ3世が回復する見込みのない精神障害に陥ると、パーシヴァルはこれをいかに切り抜けるかを問題とした。摂政王太子をたびたび務めてきたプリンス・オブ・ウェールズ、ジョージ(のちのジョージ4世)と彼は対立関係にあった。ジョージが王室費の増額を求めるたびはねつけてきたのを根に持たれており、ジョージはホイッグ好みでパーシヴァルを罷免する気であった。しかし、ジョージの側近たちがパーシヴァル罷免を思いとどまらせたため、王太子と首相は緊張関係にあった。

暗殺[編集]

パーシヴァル暗殺を描いた絵
右端で取り押さえられているのが暗殺を実行したジョン・ベリンガム

1812年5月11日、パーシヴァル政権の経済政策に不満を持つ精神障害者ジョン・ベリンガム英語版によって、パーシヴァルは下院のロビーで至近距離から銃弾を浴び、即死した。

出典[編集]

  1. ^ "あの19世紀の英国殺人者の顔が再現される【写真】". Sputnik. 24 November 2018. 2020年10月7日閲覧
  2. ^ 松川実「特許のフェア・ユースと著作権のフェア・ユース(24)」『青山法学論集』第58巻第2号、2016年9月、doi:10.34321/19520ISSN 0518-1208 

関連図書[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代
ヘンリー・ペティ卿
財務大臣
1807年 – 1812年
次代
ニコラス・ヴァンシッタート英語版
先代
ポートランド公爵
イギリスの首相
1809年 – 1812年
次代
リヴァプール伯爵