ヘンリー・キャンベル=バナマン
| ヘンリー・キャンベル=バナマン Henry Campbell-Bannerman | |
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| 生年月日 | 1836年9月7日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1908年4月22日(71歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 |
グラスゴー大学 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
| 所属政党 | 自由党 |
| 称号 | バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)、枢密顧問官(PC) |
| 配偶者 | シャーロット |
| サイン |
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| 在任期間 | 1905年12月5日 - 1908年4月5日[1] |
| 国王 | エドワード7世 |
| 内閣 |
第3次グラッドストン内閣 第4次グラッドストン内閣、ローズベリー伯爵内閣 |
| 在任期間 |
1886年2月6日 - 1886年7月20日 1892年8月18日 - 1895年6月24日[2] |
| 選挙区 | スターリング・バラ選挙区[3] |
| 在任期間 | 1868年11月17日 - 1908年4月22日[3] |
サー・ヘンリー・キャンベル=バナマン (英: Sir Henry Campbell-Bannerman, GCB PC、1836年9月7日 – 1908年4月22日)は、イギリスの政治家。
1899年にサー・ウィリアム・ヴァーノン・ハーコートが退任した後に自由党党首となり、1905年からの自由党政権の最初の首相(在職1905年-1908年)となった。在任中は野党保守党が貴族院で法案を阻止する戦術を取ったため、出来たことは多くなかった。1908年に病により退任し、ハーバート・ヘンリー・アスキスが自由党党首、首相の地位を継承した。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]サー・ジェームズ・キャンベルとその妻ジャネット(ヘンリー・バナーマンの娘)の息子としてスコットランドのグラスゴーにあるケルヴィンサイド・ハウスで生まれた[4]。グラスゴー高校を卒業した後、1851年から1853年までグラスゴー大学で学び、ギリシア語の成績が優秀だったおかげでコーワン金メダル(Cowan gold medal)を受賞した[5]。1854年1月11日にケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに入学した[6]。1858年にB.A.、1861年にM.A.の学位を修得した[6]。大学を卒業した後、父の織物会社に就職して組合員になり、1868年まで務めた[7]。
政界での昇進
[編集]1868年4月、スターリング・バラ選挙区の補欠選挙に出馬した[7]。この補欠選挙ではキャンベルとジョン・ラムジーが出馬しており、2人とも自由党に属したが、キャンベルのほうが革新的とされた[7]。キャンベルは選挙活動で大学における宗教審査の廃止、陸軍と海軍の行政改革、アイルランド国教会廃止、アイルランドでの土地改革を説いたが、494票対565票で落選した[7]。第2回選挙法改正の後、同年11月に総選挙が行われると、キャンベルは再び出馬し、今度は2,192票対1,670票で当選した[7]。以後40年間この議席を保ち続けた[7]。1872年、母方の叔父ヘンリー・バナーマン(Henry Bannerman)の遺言状に基づき、姓をキャンベル=バナマンに変更した[4]。
第1次グラッドストン内閣期の1871年11月から1874年2月にかけては陸軍省財政担当政務次官を務めた。第2次グラッドストン内閣期には、1880年4月から1882年5月まで陸軍省財政担当政務次官、1882年5月から1884年10月まで海軍省政務次官、1884年10月にアイルランド担当大臣を務めた。1886年の第3次グラッドストン内閣では陸軍大臣を務めた[7]。
1892年から1894年にかけての第4次グラッドストン内閣でも陸軍大臣を務めた。グラッドストンが失脚するに至った1893年から1894年にかけての海軍増強をめぐる閣内論争ではグラッドストンの意に反して海軍増強を支持した[8]。グラッドストン辞職後に成立したローズベリー伯爵内閣でも陸軍大臣に留任したが、1895年6月には彼の所管であった陸軍予算問題で政府案が議会の採決に敗れた結果、ローズベリー伯爵内閣が総辞職に追い込まれている[9]。
自由党党首
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以降1905年まで自由党の長い野党生活がはじまった。野党期の1898年暮れに自由党党首サー・ウィリアム・ヴァーノン・ハーコートが辞職するとライバルのアスキスを抑えて、1899年に自由党党首となった[10]。就任直後の1899年5月には演説で保守党のプリムローズ・リーグを「わが国の選挙制度に新しい要素を導入した」と評し、その要素とは贈賄であるとした[11]。
保守党政権の第3次ソールズベリー侯内閣が開始した第二次ボーア戦争をめぐっては自由党は戦争を支持する「自由帝国主義派」(ローズベリー伯爵やアスキスら)、戦争を批判する「親ボーア派」(ロイド・ジョージら)、戦争を支持するが早期に穏当な条件で講和を結ぶべきとする中間派(キャンベル=バナマンら)の3つに分かれた。キャンベル=バナマンは党首として自由帝国主義派と親ボーア派の和合に努めていたが、戦争が泥沼化する中で徐々に親ボーア派的になっていき、イギリス軍のゲリラ掃討戦を「野蛮戦法」と批判するようになった。しかしこれにより自由帝国主義派との溝が深まり、党は分裂寸前にまで陥った。しかし自由帝国主義派のアスキスが調停的立場に転じてくれたおかげで何とか分裂の危機は回避された[12]。
キャンベル=バナマンは1905年11月23日の演説でアイルランドの漸進的自治を訴え、これに反発したローズベリー伯爵が再び反旗を翻した。しかしその頃にはローズベリー伯爵の求心力も衰えており、アスキスがバナマンを支持してくれたおかげでローズベリー伯爵一人が党を去ることで党内紛争を終息させることができた[13]。
首相
[編集]1905年12月、アーサー・バルフォア保守党政権が関税改革論争をめぐって分裂して総辞職した後、国王エドワード7世より組閣の大命を受けた。いまだ自由党内には帝国主義政策をめぐる自由帝国主義派と小英国主義派の二大派閥の争いがあったが、首相となったキャンベル=バナマンは「邪悪な帝国主義に反対するが、常識に基づく帝国主義には賛成する」という折衷的立場をとり、また「大英帝国本国民が帝国を支配するための資質を育成する」として社会改良政策に尽力するという方針をとることによりアスキス、グレイ、リチャード・ホールデンら自由帝国主義派とロイド・ジョージら急進派をともに内閣に取り込み続けることができた[14]。
1906年1月の解散総選挙では、自由党は377議席を獲得するという地すべり的大勝利を得た[15]。
しかし貴族院においては保守党が半永久的に多数派を占めていた。この時代にはまだ庶民院の優越がなかったため、保守党党首バルフォアは貴族院から政府法案を廃案にする戦術を取った。これによりキャンベル=バナマン内閣の提出した重要法案はほとんどが否決されるか骨抜きにされた[16]。特に1906年4月に初等教育から宗教教育を取り除くことを目指した教育法案を廃案にされたことにキャンベル=バナマンは強い怒りを感じ、貴族院権限の縮小の必要性を感じるようになったという。彼は1906年12月20日の庶民院演説で「本院に代表された民衆の意思を効果的に反映させる方法を考慮しなければならない」と訴え、1907年6月24日には庶民院の優越を定めた法律が必要との決議案を庶民院に提出し、これを庶民院に決議させた[17]。
しかしそれを具体化させる前の1908年2月にキャンベル=バナマンは心臓発作を起こして倒れ、医者の勧めに従って同年4月1日に首相職を辞した。代わってアスキスが組閣の大命を受けた[18]。キャンベル=バナマンは退任から間もない1908年4月22日、午前9時15分にダウニング街10番地の官邸で死去した[19]。
キャンベル=バナマンが切望した庶民院の優越を定めた議会法は、続くアスキス内閣期の1911年に達成されることになる[20][21]。
脚注
[編集]- ^ 秦 2001, p. 511.
- ^ 秦 2001, p. 510.
- ^ a b UK Parliament. “Sir Henry Campbell-Bannerman”. HANSARD 1803–2005 (英語). 2013年12月31日閲覧.
- ^ a b Sinclair 1912, p. 302.
- ^ Sinclair 1912, pp. 302–303.
- ^ a b “Campbell [post Campbell Bannerman], Henry. (CMBL854H)”. A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ a b c d e f g Sinclair 1912, p. 303.
- ^ 坂井 1967, pp. 138–139.
- ^ 中村 1978, p. 27.
- ^ 中村 1978, p. 29.
- ^ 小関 2006, p. 112.
- ^ 中村 1978, pp. 30–31.
- ^ 中村 1978, pp. 34–35.
- ^ 坂井 1967, pp. 333–334.
- ^ 坂井 1967, pp. 340, 348–349.
- ^ 中村 1978, p. 38.
- ^ 坂井 1967, pp. 416–417.
- ^ 中村 1978, p. 40.
- ^ Sinclair 1912, p. 311.
- ^ 坂井 1967, p. 460.
- ^ 中村 1978, p. 64.
参考文献
[編集]- 坂井秀夫『政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として』創文社、1967年。ASIN B000JA626W。
- 中村祐吉『イギリス政変記 アスキス内閣の悲劇』集英社、1978年。ASIN B000J8P5LC。
- 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
- 小関隆『プリムローズ・リーグの時代――世紀転換期イギリスの保守主義』岩波書店、2006年12月8日。ISBN 4-00-024633-X。
- Sinclair, John (1912). . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (2nd supplement) (英語). Vol. 1. London: Smith, Elder & Co. pp. 302–312.
関連文献
[編集]- Beach, Chandler B., ed. (1914). . (英語). Chicago: F. E. Compton and Co. p. 316.
- Chisholm, Hugh (1911). . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 5 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 131–133.
- Morris, A. J. A. (3 January 2008) [23 September 2004]. “Bannerman, Sir Henry Campbell-”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/32275. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Henry Campbell Bannerman
- ヘンリー・キャンベル=バナマン - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- ヘンリー・キャンベル=バナマンの著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library
- “ヘンリー・キャンベル=バナマンの関連資料一覧” (英語). イギリス国立公文書館.
- Sir Henry Campbell Bannerman biography from the Liberal Democrat History Group
- Henry Campbell-Bannerman - gov.uk
- Political posters including Henry Campbell-Bannerman on the LSE Digital Library
| グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 ジョン・ラムジー |
スターリング・バラ選挙区選出庶民院議員 1868年 – 1908年 |
次代 アーサー・ポンソンビー |
| 公職 | ||
| 先代 ジョン・ヴィヴィアン |
1871年 – 1874年 |
次代 フレデリック・スタンリー閣下 |
| 先代 ロバート・ロイド=リンジー |
1880年 – 1882年 |
次代 サー・アーサー・ハイター |
| 先代 ジョージ・オット・トレヴェリアン |
1882年 – 1884年 |
次代 トーマス・ブラッシー |
1884年 – 1885年 |
次代 サー・ウィリアム・ハート・ダイク | |
| 先代 初代クランブルック子爵 |
1886年 |
次代 ウィリアム・ヘンリー・スミス |
| 先代 エドワード・スタンホープ |
1892年 – 1895年 |
次代 第5代ランズダウン侯爵 |
| 先代 アーサー・バルフォア |
1905年 – 1908年 |
次代 ハーバート・ヘンリー・アスキス |
1905年 – 1908年 | ||
1905年 – 1908年 | ||
| 党職 | ||
| 先代 サー・ウィリアム・ヴァーノン・ハーコート |
自由党党首 1899年 – 1908年 |
次代 ハーバート・ヘンリー・アスキス |
| 名誉職 | ||
| 先代 ジョージ・ヘンリー・フィンチ |
1907年 – 1908年 |
次代 ジョン・ケナウェー |