アンドルー・ボナー・ロー
| アンドルー・ボナー・ロー Andrew Bonar Law | |
|---|---|
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ボナー・ロー、1900年撮影。 | |
| 生年月日 | 1858年9月16日 |
| 出生地 | ニューブランズウィック州・レクストン |
| 没年月日 | 1923年10月30日(65歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 | グラスゴー高等学校 |
| 所属政党 | 保守党 |
| 称号 | 枢密顧問官 (PC) |
| 配偶者 | アニー・ピトケアン・ロブレイ |
| 親族 | 初代コルレーン男爵(四男) |
| サイン |
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| 在任期間 | 1922年10月23日 - 1923年5月20日[1] |
| 国王 | ジョージ5世 |
| 内閣 | アスキス挙国一致内閣 |
| 在任期間 | 1915年5月27日 - 1916年12月5日[2] |
| 内閣 | ロイド・ジョージ挙国一致内閣 |
| 在任期間 | 1916年12月10日 - 1919年1月10日[3] |
| 選挙区 |
グラスゴー・ブラックフライアーズ・アンド・ハチソンタウン選挙区 ダリッチ選挙区 ブートル選挙区 グラスゴー・セントラル選挙区 |
| 在任期間 |
1900年10月1日 - 1906年1月12日 1906年5月15日 - 1910年12月3日 1911年3月27日 - 1918年12月14日 1918年12月14日 - 1923年10月30日 |
アンドルー・ボナー・ロー(英: Andrew Bonar Law, PC、1858年9月16日 – 1923年10月30日)は、イギリスの政治家。
カナダで生まれたが、12歳のときに帰国して、スコットランドで教育を受けた[4]。鉄鋼業の実業家として事業拡大に成功した後、1890年代に政界進出を検討するようになり[4]、1900年イギリス総選挙で保守党候補として出馬して、庶民院議員に初当選した[5]。1911年にアーサー・バルフォアが保守党党首を退任した後、ウォルター・ロングとオースティン・チェンバレンが党の分裂を恐れて党首選挙から降り、ボナー・ローが代わって党首となった[6][7][8][9]。第一次世界大戦中に成立した挙国一致内閣で植民地大臣、財務大臣といった閣僚職を歴任した[9]。戦後の1922年に保守党と自由党の大連立が解消されるとロイド・ジョージに代わって首相に就任したが、健康状態が芳しくなく、その翌年には辞職した[10]。スタンリー・ボールドウィンが代わって首相・保守党党首となった。
経歴
[編集]前半生
[編集]1858年9月16日、カナダのニューブランズウィック州レクストンで[11]ジェームズ・ロー(James Law、1822年 – 1882年)とその妻イライザ(Eliza、1860年没、ウィリアム・キッドストンの娘)の息子として生まれる[9][4]。父ジェームズは北アイルランド・アルスターの長老派教会の牧師だった[12][13]。5人兄弟の四男であり、2歳年下の妹が1人いる[4]。2歳のときに母を亡くしたため、母の姉妹ジャネット(Janet)がグラスゴーからニューブランズウィックにやってきて、ボナー・ローら5人兄弟を育てた[4]。『オックスフォード英国人名事典』によれば父が陰鬱な性格で、ボナー・ローはその影響を受けたという[4]。1870年に父が再婚すると(再婚相手は校長を務めるソフィア・ウッド(Sophia Wood))、ジャネットは帰国することになり、スコットランドで裕福な親族のもとで教育を受けることをボナー・ローに勧めた[4]。この申し出を受けたボナー・ローはジャネットとともに帰国することになり、以降二度とニューブランズウィックに来ることはなかった[4]。しかし、12歳までニューブランズウィックで育てられたため、現存するボナー・ローの肉声の録音からはカナダ訛りが見受けられる[4]。
ボナー・ローはまずハミルトンにあるギルバートフィールド・ハウス・スクールに入学し、次いでグラスゴー高等学校に転校した[4]。1874年に卒業した後、母方の親族が経営するウィリアム・キッドストン・アンド・サンズ社(William Kidston and Sons)に入社した[4][9]。しかしキッドストン家は1885年に自社をクライズデイル銀行と経営統合させたため、ボナー・ローをウィリアム・ジャックズ・アンド・カンパニー(William Jacks & Co.)に入社させ、グラスゴーの鉄鋼市場の仲買業者とした[4][9]。同社の創業者ウィリアム・ジャックズは1885年イギリス総選挙に自由党候補として出馬しており、自身に代わって経営できる人物として、近しいキッドストン家からボナー・ローが選ばれたという経緯である[4]。銀行業から鉄鋼業に転身したボナー・ローは事業拡大に成功、1888年にヨークシャー州ミドルズブラ、1894年にロンドンで支社を設けた[4]。
キッドストン家が保守党を支持したこともあり[4]、ボナー・ローは保守党の社交界に出席するようになったが、社交界にあって社交活動に無頓着で禁酒主義者であったことが人々の注目を集め、保守党指導者としての道が開いたという[12]。音楽とダンスを嫌い、グルメにもさほど興味を持たなかったものの、娯楽全般を嫌ったわけではなく、ゴルフ、テニス、チェス、オークション・ブリッジを趣味とし、後年に政界の同僚がボナー・ローを会合に誘うときは決まってブリッジを餌にしたという[4]。また鉄鋼業での経験から、数十年前にリチャード・コブデンが主張したような自由貿易がイギリスを利するものではなくなったと信じるようになった[9]。
政界へ
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1890年代に政界進出を検討するようになり[4]、1900年イギリス総選挙で保守党候補としてグラスゴー・ブラックフライアーズ・アンド・ハチソンタウン選挙区から出馬して、4,130票で自由党候補を破って庶民院議員に当選した[5]。政界入りとともに、1901年末をもって鉄鋼業から手を引いた[14]。
1901年2月に第二次ボーア戦争に関する初演説したが、同日にウィンストン・チャーチルも初演説をしたため、ほとんど注目されなかった[4]。1901年中は頭角を表すことがなく、一時は意気消沈したが[4]、1902年4月22日に財務大臣マイケル・ヒックス・ビーチの輸入穀物関税への賛成演説をして賞賛され、同年7月にアーサー・バルフォア内閣の商務庁政務次官に任命された[4][9](1905年まで在任[15])。もっとも、商務庁長官ジェラルド・バルフォア(アーサー・バルフォアの弟)も庶民院議員であり、政務次官としてのボナー・ローはあまり目立たなかった[4]。ボナー・ローはジョセフ・チェンバレンの提唱する関税改革論(保護貿易論)の熱心な支持者であり[12][16]、第一次世界大戦が勃発するまでに自由貿易の問題点や関税改革の必要性を説く演説を多くして、保守党のなかでも注目される人物になった[4]。
1905年に自由党が政権を獲得し、保守党は野党となった[17]。ボナー・ローは1906年イギリス総選挙で再選を目指して、2,974票(得票数2位)で落選したものの[5]、同年5月にダリッチ選挙区の補欠選挙で6,639票を得て当選、議員に返り咲いた[18]。野党転落によりバルフォアが党内で批判の的になり、またチェンバレンが1906年に卒中を起こして後継者争いから脱落したため、次世代の政治家からF・E・スミス、ボナー・ロー、アーサー・スティール=メイトランドが台頭した[4]。
1909年に自由党政権の財務大臣ロイド・ジョージが人民予算案を提出した際にはボナー・ローはこれを「社会主義予算」として厳しく糾弾し、その反対運動を主導した[17]。また1910年から1911年にかけてロイド・ジョージが提出した議会法案にも反対したが、徹底抗戦を主張する「ダイ・ハード」から距離を置き、ロイド・ジョージに譲歩したバルフォアを擁護した[9]。
1910年12月イギリス総選挙ではマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区から出馬して、5,114票対5,559票で自由党候補に敗れた[19]。1911年3月にブートル選挙区で行われた補欠選挙で再び出馬して、今度は9,976票対7,782票で当選した[20]。
保守党庶民院院内総務に就任
[編集]1911年11月、保守党党首・保守党庶民院院内総務バルフォアが議会法可決などで高まっていた党内の不満を抑えるため役職を辞した。後任の党首は決まっておらず、ウォルター・ロングとオースティン・チェンバレンがその座をめぐって争い、党所属庶民院議員による投票が行われることになったが、結局この二人は党の分裂を恐れて共に投票から降りたため、二人に比べて影響力の劣るボナー・ローが11月13日に満場一致で党庶民院院内総務に選出される事態となった[6][7][8][9]。『ブリタニカ百科事典第13版』(1926年)は保護貿易を支持したこと、1911年議会法をめぐり造反せず党首バルフォアを擁護したことがボナー・ローが支持を受けた理由としている[9]。ただこの時点では党全体の党首ではなく、貴族院保守党は第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスによって指導されていた[21][9]。
アイルランド自治問題、関税改革問題
[編集]1912年4月に提出されたアイルランド自治法案において、アルスターがアイルランド自治に含まれることに強く反対した[12][13]。同年の復活祭(4月)の際にベルファストでサー・エドワード・カーソンがユニオニスト(合同維持派)のデモを開催し、ボナー・ローが演説したほか、7月27日のブレナム宮殿での演説では「アルスターはどこまでも抵抗するだろうが、私はそれにいかなる援助も惜しまない」と述べ、アルスター義勇軍の武力抵抗運動を支持することを公然と表明している[22][23][9]。この法案は貴族院で2度否決されたが、1914年に三たび庶民院で可決されると、1911年議会法に基づき貴族院の意向にかかわらず法案が成立される見通しとなった[24]。
ボナー・ロー率いる保守党はアルスター抵抗運動を支持し続け、内乱の危機を煽ることで自由党政府に圧力をかけようとした[25]。アイルランド自治を争点とする総選挙に持ち込めば勝算がある、という算段であった[25]。自由党政権の首相ハーバート・ヘンリー・アスキスは強硬な対抗手段を取らず、ボナー・ローとの交渉を試みたが、妥協にはいたらなかった[26][27]。もっとも、アスキスも総選挙に応じず、保守党内でもオースティン・チェンバレンやF・E・スミスらが反発した[28]。特に南アイルランドのユニオニストは党の指導層が南アイルランドを見捨てるつもりだと仰天し、ロングも保守党の存在意義は合同を守ることであって、アルスターだけを守ることではないと批判した[4]。
1914年7月に入ると、バッキンガム宮殿でジェームズ・ラウザー庶民院議長を座長に保守・自由両党の話し合いがもたれた。ボナー・ローとランズダウン侯爵は、アスキスやロイド・ジョージ、アイルランド国民党の面々とアイルランド自治を話し合ったが、アルスターに自治を認めるかという点で各々が譲らず、7月24日に物別れに終わった[29]。
結局、同月に勃発した第一次世界大戦の開戦のため、アイルランド自治法案を棚上げすることが自由党政府とボナー・ローの間で取り決められたことで、事態は沈静化した[26][29][30](アイルランド自治法自体は1914年9月に成立した[28])。
関税改革に関しては党内でも意見が割れ、特にランカシャー州では食料品に対しいかなる関税もかけるべきではない主張が根強かった[9]。ボナー・ローは1912年12月16日のランカシャー州アシュトン=アンダー=ラインでの演説でなだめようとして失敗し、結局1913年1月14日にランズダウン侯爵と連名で「総選挙で有権者の許可を得ずに、食料品関税をかけることはない」と正式に公約した[9]。
結局、関税改革もアイルランド自治も党内からの反発が絶えず、ボナー・ローが平均で半年ごとに辞任をほのめかすほどの情勢で、『オックスフォード英国人名事典』はボナー・ローが経験不足で政界での盟友が少なく、あくまでも「第2希望」の党首であり、第一次世界大戦が勃発するまで成功できなかったと評した[4]。
アスキス挙国一致内閣の閣僚
[編集]第一次世界大戦が勃発すると、アスキス首相の求めに応じて戦時中は政党間論争を挑まないことを決定し[31]、1914年8月2日にランズダウン侯爵を代表して同盟国フランス、ロシアへの支援に必要な施策を支持すると約束した[9]。イギリスの参戦が決まると、ロンドンやベルファストなどで募兵演説をした[9]。ただしこの段階ではまだ政府と保守党の連合が成ったわけではなく、あくまで休戦という消極的な関係に留まった。保守党平議員は自党の現状を「政治的軟禁状態」と考え、ボナー・ローの誓約に反発した。自由党政府の様々な失策の影響で1915年5月にその不満は爆発した。限界を感じたボナー・ローはアスキス首相と交渉して自由党と保守党の大連立の挙国一致内閣を成立させた[31]。
挙国一致内閣では保守党が閣僚7名を出したものの[9]、主導権は自由党が握っており、保守党はそれほど良い閣僚ポストの配分を受けられなかった。党首ボナー・ローも植民地大臣として入閣したに留まった[32][33]。その代わり、保守党は排除すべき自由党閣僚を強く主張し、特にガリポリの戦いの大敗を取り上げてウィンストン・チャーチルを海軍大臣から左遷させた[4]。また「親独派」と目された大法官の初代ホールデン子爵リチャード・ホールデンを退任させた[4]。
その後、1916年1月に兵役法案(徴兵制導入)を庶民院で可決させたことで[9]、ボナー・ローら保守党と自由党のロイド・ジョージの距離が縮まった[34]。同年6月にはパリ経済会議にイギリス代表として出席して、連合国の間で成立した協定の実施に尽力した[9]。1916年12月にアスキスとロイド・ジョージが決裂するとロイド・ジョージを支持し、そのためにアスキス内閣は総辞職することになった[34]。1916年12月5日に国王ジョージ5世より組閣の大命を受けたが、アスキスとロイド・ジョージの支持が必要である旨奉答した。しかしアスキスはボナー・ローへの協力もロイド・ジョージへの協力も拒否していたため、結局大命を拝辞することになり、12月7日にロイド・ジョージが組閣の大命を受けることになった[35][36]。
ロイド・ジョージ挙国一致内閣の閣僚
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ロイド・ジョージ内閣は保守党との大連立を維持しつつ、自由党アスキス派が離反した内閣となった。そのため保守党が優位な内閣となった。ボナー・ローは財務大臣・庶民院院内総務として入閣し、また戦時内閣を構成する5人の閣僚の一人となった[37][38][39]。ボナー・ローは実質的に内閣の副首相になり、毎朝ロイド・ジョージと2時間ほど会議して、ロイド・ジョージが提案を出して2人で議論した[4]。ボナー・ローによる質疑を経ても通る程度の提案であれば、ロイド・ジョージは提案が閣議と庶民院でも可決されると確信したという[4]。
ボナー・ローは財務大臣として膨大な戦費を捻出する重責を負うことになり、2度の国債発行と度重なる増税で対応した[9]。1917年1月に発行した国債は528万9千人が購入し、合計で10億ポンドが国庫に入った[9]。1917年10月より発行した戦時国債は金額の上限が設けられず、また1回きりではなく当面の間発行を続けるという形になり、1919年1月11日までに14億ポンド以上の国債が発行された[9]。増税については1917年予算で超過利得税を60%から80%に引き上げ、娯楽、タバコ、犬に対する税率を上げ[9]、1918年予算で所得税、小切手に対する印紙税、ビール、スピリッツ、タバコ、マッチ、砂糖に対する税率を上げた[10]。
戦後、ロイド・ジョージからの連立内閣維持の申し出に同意し[10]、1918年12月14日に行われた解散総選挙は二大政党の枠組みではなく政府(ロイド・ジョージとボナー・ロー)が出した推薦状の有無で争うという異例の選挙となった(クーポン選挙)[40]。結果は政府の大勝に終わった[10]。ボナー・ロー自身はグラスゴー・セントラル選挙区に鞍替えして、17,653票(得票率78.8%)で再選した[41]。『オックスフォード英国人名事典』によれば、ボナー・ローはこのとき戦争勝利によりロイド・ジョージは大人気であり、連立解消は選択肢に入らないと考えていたという[4]。
1919年2月13日には財務大臣から王璽尚書に転じる[42]。ロイド・ジョージがパリ講和会議に出席して、本国を留守にしがちになったことから、ボナー・ローは庶民院院内総務に留任した[10]。こうした経緯により、ボナー・ローも講和会議におけるイギリス代表の1人だったが、実際に会議に出席することはほとんどなく、ヴェルサイユ条約に署名した程度となった[10]。国内では1919年春から夏にかけて、特に鉄道と炭鉱における労働争議が増え、ストライキが行われた[4]。保守党内では実業界の人物が多く、労働者の要求に同情的な声が少なかったため、ボナー・ローは融和を目指したものの、「鉄道も炭鉱も国有だったため、これらでのストライキは国へのストライキである。国は自身を守る必要がある」の論理を展開して、1920年国家緊急権法を可決させた[4]。
戦中の激務に加え、戦後も復興や1920年アイルランド統治法などで心労が重なり[10]、1921年3月には病気のため、政府役職・党役職を共に辞した[43][44]。
『オックスフォード英国人名事典』は第一次世界大戦勃発以降、ボナー・ローが保守党党首として成功したと評した[4]。すなわち、連立内閣という「バックドア」を用いて、19世紀中期以来保守党の最も長い野党期を終結させ、1918年総選挙でも333議席という大勝を収めた[4]。同書は連立内閣での功績から、ボナー・ローが「戦争に勝った男」でなくても、「戦争に勝った男のそばに立つ男」にはなったと評した[4]。
- 『ヴェルサイユ宮殿、鏡の間における講和条約調印、1919年6月28日』。作・ウィリアム・オルペン、ボナー・ローも描かれている。
- ロイド・ジョージとのツーショット(1922年)
短期間の首相在職
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辞任後、ボナー・ローは南フランスのカンヌでの休養を経て1921年9月に帰国、12月に庶民院で英愛条約を擁護した[4]。
ボナー・ローの後任の保守党党首にはオースティン・チェンバレンが就任した。彼は保守党内で大連立解消論が高まる中で挙国一致内閣の維持を主張し続けた。しかし解消機運を抑えきれず、1922年10月19日にはカールトン・クラブでスタンリー・ボールドウィンが提案した議案について保守党議員の採決で大連立解消が決議されるに至った。この決議はボナー・ローの大連立反対演説に影響を受けていた。これによりロイド・ジョージとチェンバレンはそろって辞職に追いやられた[45][46][44]。
1922年10月19日にバッキンガム宮殿に呼び出され、国王ジョージ5世より組閣の大命を受けたが、党首に選出されなければ首相に就任できないとして逡巡した[4]。そして、10月23日に全会一致で保守党党首に選出されると[4][10]、同日午後5時30分に再び組閣の大命を受けた[47]。内閣成立直後に解散総選挙を行って安定多数(定数615のうち、保守党が344議席)を確保した[48][10]。ボナー・ロー自身も15,437票(得票率49.9%)で再選した[41]。しかし有力保守党議員の多くがチェンバレンに従っていたため、あまり強力な内閣は作れなかった[49]。
ボナー・ローは「平穏と安定」の政策を採用すると宣言したものの、国内外ともに問題が山積みだった[10]。国内では失業率が上昇、国外では元オスマン帝国領をめぐるローザンヌ会議が難航、またフランス首相レイモン・ポアンカレが(ボナー・ローが直々にパリに向かい、説得を試みたにもかかわらず)ルール占領を強行、スタンリー・ボールドウィン大蔵大臣が1923年1月に対米戦債をめぐる交渉を悪条件でまとめたといった事件が起こっている[10]。
こうした状況でボナー・ローの体調は悪化を続け、1923年4月末には医師サー・トマス・ホーダーの勧めで航海の旅に出た(この間は初代カーゾン侯爵ジョージ・カーゾン外相を首相代理に、ボールドウィン蔵相を庶民院院内総務とした)[50][51]。しかしフランスのエクス=レ=バンでボナー・ローに会った旧友ラドヤード・キップリングがボナー・ローの病状に驚き、ヒックス・ビーチを仲介にホーダーに連絡したことで、ボナー・ローは1923年5月17日にパリでホーダーの診察を受けた[4]。ホーダーはボナー・ローを咽頭癌で余命6か月と診断して(『オックスフォード英国人名事典』はヘビースモーカーだったことが祟ったと評した)、ボナー・ローは19日に帰国して、20日に首相職を辞した[4][52][53]。このとき、ボナー・ローはすでにほとんど話せず、宮殿で国王に謁見することもかなわず、手紙で辞任した[4][53][44]。在職わずか7か月の首相であった[49]。
ボナー・ローの後任には、カーゾン侯爵外相とボールドウィン蔵相の二人が候補に取りざたされた。国王ジョージ5世は長老政治家バルフォアの「貴族院議員は首相にふさわしくない」という意見を採り、ボールドウィンを後継の首相とした(ボナー・ロー自身もボールドウィンを買っていたという)[54]。
死去
[編集]首相退任以降、議員は辞任しなかったものの、登院することもなかった[4]。夏に一時ゴルフができるほど回復したものの、9月以降再び悪化に転じ、10月30日にロンドンのオンズロー・ガーデンズ24番地(24 Onslow Gardens)にある自宅で病死した[4]。遺言状でヘレンズバラにある妻の墓の隣に埋葬されることを望んだが、ウェストミンスター寺院が葬儀を申し出て、内閣もそれを望んだため、ボナー・ローの遺族は同意し、11月5日にボナー・ローの国葬が行われた[4]。
人物・評価
[編集]
社交界にあって社交活動に無頓着で禁酒主義者であった[12]。
1911年の保守党党首就任から1914年の第一次世界大戦まで、関税改革もアイルランド自治も党内からの反発が絶えず、ボナー・ローが平均で半年ごとに辞任をほのめかすほどの情勢で、『オックスフォード英国人名事典』はボナー・ローが経験不足で政界での盟友が少なく、あくまでも「第2希望」の党首だったと評した[4]。一方で大戦期に連立内閣という「バックドア」を用いて、19世紀中期以来保守党の最も長い野党期を終結させ、1918年総選挙でも333議席という大勝を収めた[4]。同書は連立内閣での功績から、ボナー・ローが「戦争に勝った男」(首相ロイド・ジョージを指す)でなくても、「戦争に勝った男のそばに立つ男」にはなったと評した[4]。
首相在任期には有力保守党議員の多くがオースティン・チェンバレンに従っていたため、ボナー・ロー内閣はあまり強力ではないと評された[49]。
栄典
[編集]家族
[編集]1890年にアニー・ピトケアン・ロブレイ(Annie Pitcairn Robley、1866年 – 1909年10月31日、ハリントン・ロブレイの娘)に出会い、同年末までに婚約した後[4]、1891年3月24日に結婚し、彼女との間に以下の7子を儲けた[56]。
- 長男 - 死産[4]
- ジェームズ・キッドストン(James Kidston、1893年 – 1917年) - 第一次世界大戦の第二次ガザの戦いで戦死
- イザベル・ハリントン(Isabel Harrington、1896年 – 1969年) - フレデリック・サイクス少将と結婚。
- チャールズ(1897年 – 1917年) - 第一次世界大戦で戦死
- ハリントン(Harrington、1899年 – 1958年) - 海軍軍人
- リチャード(1901年 – 1980年) - 政治家、初代コルレーン男爵
- キャサリン・イーディス・メアリー(Catherine Edith Mary、1906年 – 1992年) - ケント・コルウェル、ついで初代アーチボルド男爵ジョージ・アーチボルドと結婚。
2人はハネムーン旅行でパリを旅した後、ヘレンズバラに住み、子供の人数が多くなるとキンティロ(Kintillo)に引っ越した[4]。1909年にアニーが死去した後、一家はケンジントンのペンブルック・ロッジ(Pembroke Lodge)に引っ越した[4]。
出典
[編集]- ↑ 秦 2001, p. 511.
- ↑ 秦 2001, p. 513.
- ↑ 秦 2001, p. 512.
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- 1 2 Craig 1977, p. 588.
- ↑ “No. 31180”. The London Gazette (英語). 14 February 1919. p. 2268.
- ↑ マッケンジー 1965, p. 40.
- 1 2 3 君塚 (2011), p. 147.
- ↑ マッケンジー 1965, p. 42.
- ↑ ブレイク 1979, pp. 239–242.
- ↑ マッケンジー 1965, p. 43.
- ↑ マッケンジー 1965, p. 45.
- 1 2 3 ブレイク 1979, p. 247.
- ↑ マッケンジー 1965, pp. 45–47.
- ↑ 小泉 (1989), pp. 75–76.
- ↑ マッケンジー 1965, p. 47.
- 1 2 小泉 (1989), p. 76.
- ↑ 君塚 (2011), pp. 148–149.
- ↑ “No. 28511”. The London Gazette (英語). 7 July 1911. p. 5025.
- ↑ “Public Service – Andrew Bonar Law”. Heroes Centre (英語). 2020年6月3日閲覧.
参考文献
[編集]- Buckle, George Earle (1926). “Law, Andrew Bonar”. In Garvin, James Louis (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 3 (13th ed.). London & New York: The Encyclopædia Britannica Company. pp. 671–672.
- Craig, F. W. S. (1974). British Parliamentary Election Results 1885–1918 (英語) (2nd ed.). London: Macmillan Press. p. 366. ISBN 978-1-349-02298-4.
- Craig, F. W. S. (1977). British Parliamentary Election Results 1918–1949 (英語) (Revised ed.). London: Macmillan Press. p. 87. ISBN 978-1-349-81469-5.
- Green, E. H. H. (13 March 2025) [23 September 2004]. “Law, Andrew Bonar”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/34426. (要購読、またはイギリス公立図書館やウィキペディア図書館への会員加入。)
- 君塚, 直隆『ジョージ5世 - 大衆民主政治時代の君主』(初版)日本経済新聞社、東京都千代田区、2011年。ISBN 9784532261276。
- 小泉, 信三『ジョオジ5世伝と皇室論』(第一刷)株式会社 文藝春秋、東京都千代田区、1989年。ISBN 9784163430607。
- 坂井秀夫『政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として』創文社、1967年。ASIN B000JA626W。
- バーバラ・タックマン 著、大島かおり 訳『世紀末のヨーロッパ 誇り高き塔・第一次大戦前夜』筑摩書房、1990年。ISBN 978-448085554-1。
- 中村祐吉『イギリス政変記 アスキス内閣の悲劇』集英社、1978年。ASIN B000J8P5LC。
- デヴィッド・バトラー 編、飯坂良明、岡沢憲芙、福岡政行、川野秀之 訳『イギリス連合政治への潮流』東京大学出版会〈UP選書205〉、1980年。ASIN B000J8AD6E。
- ブレイク男爵 著、早川崇 訳『英国保守党史 ピールからチャーチルまで』労働法令協会、1979年。ASIN B000J73JSE。
- ロバート・マッケンジー 著、早川崇、三沢潤生 訳『英国の政党〈上巻〉 保守党・労働党内の権力配置』有斐閣、1965年。ASIN B000JAD4LI。
- 村岡健次、木畑洋一 編『イギリス史〈3〉近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年。ISBN 978-463446030-0。
- 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-413030122-0。
- 小関隆『プリムローズ・リーグの時代――世紀転換期イギリスの保守主義』岩波書店、2006年12月8日。ISBN 4-00-024633-X。
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Bonar Law
- アンドルー・ボナー・ロー - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- アンドルー・ボナー・ローの著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library
- “アンドルー・ボナー・ローの関連資料一覧” (英語). イギリス国立公文書館.
- Andrew Bonar Law - gov.uk
- The Bonar Law Papers at the UK Parliamentary Archives
| グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 アンドルー・プロヴァンド |
庶民院議員(グラスゴー・ブラックフライアーズ・アンド・ハチソンタウン選挙区選出) 1900年 – 1906年 |
次代 ジョージ・ニコル・バーンズ |
| 先代 フレデリック・ラザフォード・ハリス |
庶民院議員(ダリッチ選挙区選出) 1906年 – 1910年 |
次代 フレデリック・ホール |
| 先代 トマス・サンズ |
庶民院議員(ブートル選挙区選出) 1911年 – 1918年 |
次代 第2代準男爵サー・トマス・ロイデン |
| 先代 ジョン・マクラウド |
庶民院議員(グラスゴー・セントラル選挙区選出) 1918年 – 1922年 |
次代 アイルランド独立により国名変更 |
| グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会 | ||
| 先代 アイルランド独立により国名変更 |
庶民院議員(グラスゴー・セントラル選挙区選出) 1922年 – 1923年 |
次代 ウィリアム・アレグザンダー |
| 公職 | ||
| 先代 第2代ダドリー伯爵 |
1902年 – 1905年 |
次代 ハドソン・ケアリー |
| 先代 ルイス・ハーコート |
1915年 – 1916年 |
次代 ウォルター・ロング |
| 先代 レジナルド・マッケンナ |
1916年 – 1919年 |
次代 オースティン・チェンバレン |
| 先代 ハーバート・ヘンリー・アスキス |
1916年 – 1921年 |
次代 オースティン・チェンバレン |
| 先代 第27代クロフォード伯爵 |
1919年 – 1921年 | |
| 先代 デビッド・ロイド・ジョージ |
1922年10月23日 – 1923年5月22日 |
次代 スタンリー・ボールドウィン |
| 先代 オースティン・チェンバレン |
1922年 – 1923年 | |
| 党職 | ||
| 先代 アーサー・バルフォア |
保守党党首 1911年 – 1921年 1916年まで党貴族院院内総務ランズダウン侯爵と共同で |
次代 オースティン・チェンバレン 初代カーゾン伯爵 |
| 保守党庶民院院内総務 1911年 – 1921年 |
次代 オースティン・チェンバレン | |
| 先代 オースティン・チェンバレン 初代カーゾン侯爵 |
保守党党首 1922年 – 1923年 |
次代 スタンリー・ボールドウィン |
| 学職 | ||
| 先代 レイモン・ポアンカレ |
グラスゴー大学学長 1919年 – 1922年 |
次代 初代バーケンヘッド伯爵 |