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エドワード・グレイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代ファラドンのグレイ子爵
エドワード・グレイ
Edward Grey
1st Viscount Grey of Fallodon
生年月日 1862年4月26日
出生地 イギリスの旗 イギリスイングランドロンドン
没年月日 (1933-09-07) 1933年9月7日(71歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリスイングランドノーサンバーランドファラドン英語版
出身校 オックスフォード大学ベリオール・カレッジ
所属政党 自由党
称号 ガーター勲章受勲者(KG)、枢密顧問官(PC)、ロンドン動物学会会員(FZL)、ノーサンバーランド州副知事(DL)
配偶者 ドロシー・ウィドリントン
パメラ・テナント
親族 第2代準男爵ジョージ・グレイ(祖父)
第2代グレイ伯爵(曽祖伯父)
内閣 キャンベル=バナマン内閣、第1次・第2次アスキス内閣
在任期間 1905年12月10日 - 1916年12月10日
内閣 第4次グラッドストン内閣、ローズベリー伯爵内閣
在任期間 1892年8月18日 - 1895年6月20日
イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 ベリック・アポン・ツイード選挙区英語版
在任期間 1885年11月24日 - 1916年7月7日
イギリスの旗 貴族院議員
在任期間 1916年7月27日 - 1933年9月7日
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初代ファラドンのグレイ子爵エドワード・グレイ英語: Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon KG PC DL FZS1862年4月26日 - 1933年9月7日)はイギリス政治家自由党に所属し、党内ではアスキスらとともに自由帝国主義者の代表的人物の一人として知られた。自由党政権下の1905年から1916年にかけて外務大臣を務めた。三国協商を推進し、ドイツに対して包囲網や建艦競争を仕掛け、第一次世界大戦を招いた。

1882年(ファラドンの)準男爵位を継承し、1916年にファラドンのグレイ子爵に叙された。

経歴

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外務大臣就任まで

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1862年4月25日に陸軍軍人ジョージ・ヘンリー・グレイ中佐(グレイ伯爵家の分流の第2代準男爵ジョージ・グレイの息子)とその妻ハリエット・ジェーン・ピアソンの間の息子として生まれた[1][2]

ウィンチェスター・カレッジを経てオックスフォード大学ベリオール・カレッジで学ぶ[2][3]

1882年9月9日に祖父の第2代準男爵サー・ジョージ・グレイの死により第3代準男爵位を継承した[1][2]

亡き父のいとこにあたる初代ノースブルック伯爵トーマス・ベアリングの口利きで、サー・イヴリン・ベアリングの秘書となった。さらに10月には、現役の財務大臣ヒュー・チルダースの秘書に選ばれて政治経験を積んだ[3]

1885年ベリック・アポン・ツイード選挙区英語版から自由党庶民院議員に選出された。1916年に貴族院議員に転じるまでこの選挙区から当選をつづけた[1][3]

グレイは第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズハーバート・ヘンリー・アスキスリチャード・ホールデン英語版らとともに自由党内で帝国主義的外交を主張する「自由帝国主義派」の議員だった[4][5]

1892年から1895年にかけて第4次グラッドストン内閣とローズベリー伯爵内閣において外務政務次官英語版を務めた[6][1]。在任中の1895年3月、政府の対アフリカ政策を審議中の庶民院で、答弁に立ったグレイが「(フランスがアフリカ・ナイル川国境へ侵攻するという噂について)侵攻はイギリスに対する非友好的な行為である」と発言した[7][3]。フランスを強く非難するグレイの発言は波紋を呼び、ローズベリー首相に辞任を申し出たが、慰留されて踏みとどまった[3]

1905年には婦人参政権運動家アニー・ケニー英語版から演説を妨害され、婦人参政権を認めるか態度表明を要求されたが、グレイは回答を拒否し、それに反発したケニーらが騒動を起こして逮捕されるという事件があった[8]

外務大臣(1905年-1916年)

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外務大臣に就任した直後のグレイ(1906年1月)

1905年12月の保守党政権バルフォア内閣から自由党政権キャンベル=バナマン内閣への政権交代によりグレイが外務大臣に就任した。ロシアに赴任していたサー・チャールズ・ハーディングが呼び戻されて、グレイを補佐する外務事務次官英語版に付けられた[9]

グレイ時代から外務官僚が英国の外交政策に大きくかかわるようになった。19世紀末までは外務官僚が外交政策の決定に関与することなどほとんどできなかったのだが、グレイは当時の外務大臣としては異例の庶民院議員であったため、与野党の対立が激しくなっていた20世紀初頭にあって、事務方に政策の立案や実行を任せるケースが多かった。そして当時の外務官僚には反ドイツ主義者が多かった[10][11]。その筆頭が、アーサー・ニコルソン外務次官(ハーディングの後任)とその部下サー・エア・クロー英語版外務次官補で、ともに仏露との協商関係の強化をはかってドイツに対抗せよとグレイに訴えつづけた[10][12]。ただグレイとクローはともにニコルソンを嫌っているなど、外務官僚のほうも一枚岩というわけでもなかった[12]

キャンベル=バナマン内閣の外相として

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1914年の第3代準男爵サー・エドワード・グレイ

政権交代直後にキャンベル=バナマンとグレイは、旧保守党政権の首相だったバルフォア、外相だった第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスと四者会談を行い、外交については継続性を維持することを確認している[13]。実際に自由帝国主義者であるグレイの外交は前保守党政権とほとんど変わらないものだった。帝国への積極介入、親仏外交、対独強硬外交など保守党政権時代から一致した外交政策がとられた[14]

第一次モロッコ事件をめぐって1906年1月から4月にかけて開催されたアルヘシラス会議においてもフランスを支持し、モロッコにおける各国の権益の均等を謳いつつ、フランスの権益を優先的に認める内容の議定書の締結を主導した[15]

またグレイは駐英ロシア大使のアレクサンドル・フォン・ベンケンドルフと親密な関係を持ち、英露連携を推進[16]1907年8月にはロシアと英露協商を結んだ。ペルシャについては北部をロシア、南部をイギリスの勢力圏とし、アフガニスタンについてはイギリスの勢力圏とし、チベットについては双方不干渉という英露の権益対立を互譲的に解決した。これにより50年に渡る中央アジアでの英露の覇権争い(グレート・ゲーム)は終わり、三国協商関係が成立した。これ以降、イギリスはフランス・ロシアと連携してドイツとの本格的な敵対関係に入った[14]。ドイツとの建艦競争のため、閣内においてアスキスやレジナルド・マッケナらとともにドレッドノート型戦艦の積極的建造を訴える「大海軍派」として行動し、デイヴィッド・ロイド・ジョージら「小海軍派」と対立した[17][18]

アスキス内閣の外相として

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ハーバート・アスキス首相、グレイはアスキスのもと足かけ8年以上も外相を務めた。

1908年4月からのアスキス内閣でも外相に留任した。アスキスは外交のほとんどをグレイに委ねた[19]

1908年10月にオーストリア=ハンガリー帝国ボスニア・ヘルツェゴビナ(1878年ベルリン条約によりオーストリア支配下にあったが、名目上オスマンが宗主権をもっていた)の併合宣言とブルガリアのオスマンからの独立宣言があり、ドイツがこれを支持する一方、セルビアやロシアは反対した。グレイもベルリン条約の締結国の同意なしにこのような宣言を一方的にすることは認められないと考え、国際会議を提唱した。協商関係に入っていたロシアやフランスもそれを支持したが、オーストリアが国際会議にかけられることに乗り気ではなかった。またグレイ自身も「事前の合意なき国際会議を開いても無意味」という考えから慎重な面があり、露仏と足並みがそろっているとはいえなかった。結局1909年2月にはオーストリアとトルコの二国間で併合を事実上認める議定書が交わされたことで会議外交で解決する機を失った[20]

ドイツとの緊張緩和のため、1909年2月には国王エドワード7世の訪独を実現させた。事務次官ハーディングを同行させてドイツ当局と交渉を行ったが、懸案の建艦競争もバグダッド鉄道の件も解決できずに終わった[21]

1911年7月1日、ドイツは、フランスがモロッコで起きた反仏反乱を鎮圧するために出兵したのに対抗し、モロッコ・アガディールに砲艦を派遣。第二次モロッコ事件が発生した。グレイはドイツがモロッコから同港を獲得すれば英本国と英領アフリカ植民地、南米との交易が脅かされると恐れ、ドイツに対して断固たる姿勢を取る必要があると決断した。7月4日にも「英国の権益にも大きな影響を及ぼすので、我々が参加しないような新しい取り決めを認めることはできない」とドイツ政府に通告[22]。モロッコを勢力圏と見做していたフランスもドイツへの反発を強め、ヨーロッパ情勢は一触即発となった。9月17日にグレイはマッケナ海相に「ドイツは奇襲攻撃を仕掛けてくるかもしれない。海相はこれに対して準備をしなければならない」という警告を発し、戦争準備を開始させた[23]。しかし1911年11月4日には独仏両国間でフランスがモロッコを保護国とすることをドイツが認める代わりにフランス領コンゴの一部をドイツへ割譲するという協定が締結されたため、第二次モロッコ危機は収束した[24]

同年、日本との日英同盟が延長期限を迎えたが、アスキス首相は延長を閣議決定した[25]。このとき、大陸進出をつづける日本を警戒したサー・クロード・マクドナルド駐日大使が同盟の終了を具申してきた。しかしグレイも同盟の継続を選び、「同盟の延長見送りは日本に良くない印象を与える」としてマクドナルドの意見をしりぞけた[26]

全体としてグレイ外交はフランスやロシアに密着しすぎていたため、第一次世界大戦を招来することになったといえる[27]。ただし、グレイもドイツとの緊張緩和を模索しつづけていた。例えば1908年、駐オーストリア大使から独墺両国の離間策が具申されたときにグレイは「(ヨーロッパではすでに)適正な均衡(a fair of equilibrium)が存在している」と反対したほか、1912年に行われたホールデン使節団英語版[注釈 1]、ポルトガル領植民地・バクダッド鉄道をめぐる英独合意などもグレイによる対独宥和の結果といえる[29]

サラエボ事件

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サラエボ事件を描いたイラスト

1914年6月28日、オーストリア皇位継承者夫妻がボスニアの州都サラエボでセルビア人に暗殺された(サラエボ事件)。イギリスは当初、サラエボ事件が国際関係にあたえる影響は小さいと楽観視しており、グレイの部下のニコルソン外務次官が「サラエボで起こった悲劇がさらに複雑なことになることはないと信じる」とコメントしたほどだった[30]。グレイも駐独大使カール・フォン・リヒノフスキー公爵ドイツ語版から「ベルリンは同盟国オーストリアを抑えるつもりだ」と聞いていたこともあり安堵していた[12]

しかし7月24日、オーストリア政府がセルビア人の実行犯の背後には大セルビア主義の民族団体とそれを支援するセルビア政府がいるとして最後通牒を突きつけたことで、楽観論はもろくも崩れ去ることとなった。

28日にオーストリアがセルビアに宣戦布告し、これ以降、ドイツ・オーストリアの同盟国側、ロシア・フランス・イギリスの協商国側との世界戦争に拡大していくこととなる。グレイは28日以降も外交努力をつづけ、リヒノフスキー駐独大使にはイギリスがフランス側につくことを匂わせた一方、ポール・カンボンフランス語版駐仏大使にはイギリスはフランスに対する義務はないと述べて、全体的に中立の姿勢をとった[31]

29日にはアスキス首相も戦争不可避と考えるようになっていたが、内閣では中立派が多数だった[注釈 2]。同日の閣議では、ドイツがベルギーの中立を犯した場合、イギリスが行動するのかが議論となった[34]

このころ外務省では、参戦の意思を明確にしないグレイに批判が集まっていた。アーサー・ニコルソン外務次官が「フランスへの支援を拒んだのは本当か」とグレイを詰問し、サー・エア・クロー英語版外務次官補も「戦争が起こった場合にイギリスが友を支援しないなら協商には何の意味もない」と綴ったメモをグレイに送りつけた[35]。外務官僚から突き上げをくらったグレイは参戦派に転じ、8月1日には秘書に「自分は翌日の閣議で闘うつもりだ」と述べた[36]

閣議で参戦を主張

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グレイ子爵の肖像画(ジェイムズ・ガスリー作)

参戦を決めたグレイは、参戦が決まらなければ辞職する覚悟で8月2日の閣議に臨んだ。午前の閣議が始まる前、ドイツがルクセンブルクに侵攻したという知らせが届いた[37]。閣議は案の定難しいものとなり、参戦派と中立派が激しく対立した。グレイがイギリス海峡におけるドイツ艦隊の航行禁止を提案したところ、レジナルド・マッケナ内務大臣が「海峡は中立にすべき」と反論し、さらにグレイが「その場しのぎには意味がない」と応酬した[37]。午前の閣議の結果、イギリス海峡においていかなる軍事行動も認められないとドイツ側に伝えられることとなった。

引き続き午後も閣議がひらかれることとなり、グレイはその席で「ベルギー侵攻が起きた場合、イギリスは参戦せざるを得ない」と強硬に主張した[38]。閣議後、政府の意思はいまだ統一されていなかったが、アスキス首相はカンボン大使にフランス支持を約束する手紙を送った[注釈 3][38]

翌3日も閣議がひらかれ、ドイツのベルギー侵攻が差し迫っていること、ベルギー王アルベール1世が国王ジョージ5世に宛ててベルギー支援を求める手紙があったことが伝えられ、中立派の重鎮デビッド・ロイド・ジョージ財務大臣が「私は政府に留まる、ベルギーのことだ」と参戦派に転じたことで流れが変わった[39]。ロイド・ジョージは中立派の面々に閣内にとどまるよう説得し、アスキス内閣は参戦を決意した[32][40]

同日グレイは議会において、グラッドストン元首相の「イギリスにはベルギーの中立を守る条約のもと、義務というよりむしろ権利がある」という言葉を引用してベルギーの中立擁護を訴え[41]、フランスとの間に結んでいた軍事協定に基づきイギリスも参戦すべきであると演説した[42]

わが国は見過ごすことができない。わが国の視界に入るところで行われていることに対し、軍を動かさず冷静に眺め、何もしないでいることなど不可能だ。
これがこの国の気持ちだと思っている。
[中略]
グラッドストン氏は次のように述べている。

『…この国が歴史のページを汚す最も恐ろしい犯罪が行われるのを、かくして罪に加担するのを黙って見ていることができるのかどうか…』

[中略]

もしわれわれが名誉と国益を守るという責務から逃れてしまったら、われわれの道義的な立場も他国からの尊厳も失われてしまうだろう[43]庶民院、1914年8月3日[44][45]

グレイの演説を受け、野党の保守党労働党アイルランド議会党英語版も反対はせず、戦時中は党派争いを停止して政府を支持することを表明した。これにより挙国体制ができた[3][46]。庶民院での演説を終えたグレイは外務省の執務室に戻り、窓の外をながめて「ヨーロッパの街という街からあかりが消えていく。そしてわれわれは生涯それを二度と見ることはないだろう」とつぶやいたという[3][43][47]

8月4日、イギリスはドイツに宣戦布告して第一次世界大戦に突入した。

第一次世界大戦

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加藤高明外務大臣。1915年。

戦争勃発後、ドイツ東洋艦隊がイギリス貿易ルートを妨げる脅威となったた。8月6日、グレイは日本に戦争支援を要請し、加藤高明外務大臣もこれをきっかけに参戦を考えるようになった[48]。このとき、日本の宣戦布告によってオーストラリアニュージーランド米国の疑念を招くことを心配したグレイは、日本に対し正式参戦を控え、限定された軍事行動をとることを求めた。そのため、制約を受けることを嫌う加藤外相と対立してしまい、ウィリアム・グリーン駐日大使が両者の関係が決裂しないように奔走することとなった[49]

なお全体的に、戦時中のグレイの活動は停滞した。(『英国人名辞典』によれば、この時期について「戦争の行方を決定づけるのは戦場や海上での戦いであり、外交が独立して活動できる余地はほとんどなかった」としている[3]。)

1915年5月からの挙国一致内閣でも外相に留任した[50]。同時期イタリアを協商側に引き込む、秘密交渉を行った[51]


1916年7月27日に連合王国貴族ファラドンのグレイ子爵に叙され[1]貴族院議員に列した[52]

しかし眼を患っており、視力が落ちすぎていたため、1916年12月の政変で首相がアスキスからデイヴィッド・ロイド=ジョージに代わったのを機に外相を辞した。11年間の在任はイギリス外相の最長在任記録だった[6]

外相退任後

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この後2、3年は公的生活から遠ざかって安静にし、視力が回復した[53]

ロイド・ジョージ政権の求めに応じて、1919年から1920年にかけて在アメリカ合衆国イギリス大使を務めた[54]ワシントンにいたのは3か月程度で[53]、この際、ウッドロウ・ウィルソン大統領に国連加盟問題で対立する合衆国議会上院)と妥協するよう求めたが[注釈 4]、うまくいかなかった[3]

1933年9月7日に死去した。子供はなく、ファラドンのグレイ子爵位は廃絶した。準男爵位ははとこチャールズ・グレイが継承した[1]

人物・評価

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ハンプシャーを流れるイチェン川英語版
  • 釣りを趣味とした。ウィンチェスター・カレッジ在学中、近くを流れるイチェン川英語版フライ・フィッシングにはまったことが始まりだった[56]。イチェン川沿いのイチェン・アバス村英語版で週末を過ごすようになり、親族のノースブルック伯爵に釣り小屋を借りている[57]。1899年には『フライ・フィッシング(Fly-Fishing)』という著書を出した[53]
  • 鳥類愛好家だった。1927年に『鳥類の魅力(The Charm of Birds)』という著書を出版している[3]。きっかけは週末を過ごすイチェン川沿いで始めたバードウォッチングで、鳥類の知識をかなり身に着けていたという[57]。1923年に野鳥保護区にはじめて法的な枠組みをあたえる法案を提出した(ただし廃案に終わった[3]
  • 1890年、イチェン・アバス村にコテージを建てて夫妻で住んだ。グレイは週末にかようこの村を「日常生活から離れた特別で神聖な生活」と呼んでいる[57]。妻ドロシーはイチェン・アバス村を愛する一方、大のロンドン嫌いで、グレイがロンドン・ウェストミンスターで政治の仕事をしていること自体を疑問視していたという[57]

評価

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晩年のグレイ子爵を描いた肖像画(1920年)

グレイの評価を巡っては、歴史家のスタイナー(Steiner)とジョン・チャムリーの間で論争となった。スタイナーは第一次世界大戦にイギリスが参戦していく過程においてドイツの外交・軍事政策が攻撃的だったのでイギリス側がどのように努力しても戦争回避は困難だったと主張する。一方チャムリーはグレイには当初対独開戦の意思がなかったとしても、英仏協商に縛られた柔軟性のない外交によりドイツとの対決を招き、第一次世界大戦になってしまったと主張する。一方スティーブンソンは第一次世界大戦の直接の原因とされる建艦競争は開戦前にイギリスの勝利で終わっており、むしろドイツとフランス・ロシア間の陸軍競争が主たる原因としている。この立場もグレイがいかなる外交をしようと結局大戦は不可避だったという結論になるため、グレイ擁護論である[27]

ただしスタイナーもグレイの眼疾と議会での多忙により、イギリス外交は外務官僚たちの意思が大きく反映されるようになってしまい、こうした「グレイの取り巻き」たちが三国協商・反ドイツ一辺倒の外交を推進した結果がイギリスの第一次世界大戦参戦ではないかという分析をしている[58]

なお、グレイ自身は対ドイツ外交について1909年2月に以下の言葉を残している[59]

ドイツの完全な孤立もドイツによる大陸支配も、イギリスにとっては戦争を意味するのです。
これら両極のあいだに横たわるかなり広い道をヨーロッパ政治は進んでいくべきでしょう。1909年2月

栄典

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爵位/準男爵位

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1882年9月9日の祖父ジョージ・グレイの死去に以下の準男爵位を継承した[1][2]

1916年7月27日に以下の爵位を新規に叙された[1][2]

勲章

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グレイの紋章。ガーター勲章を受勲していることが判る。

その他

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家族

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1885年10月20日にドロシー・ウィドリントン(Dorothy Widdrington)と最初の結婚をしたが[1]、彼女は1906年に事故で命を落とした[53]。1922年にパメラ・ジュネビエーブ・アデレイド・テナント(Pamela Genevieve Adelaide Tennant)と再婚した[1]。しかしいずれの結婚でも子供はできなかった[53]

脚注

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注釈

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  1. 1912年1月にリチャード・ホールデン英語版を使者としてドイツに派遣し、「イギリス海軍の優位をドイツは認めるべき、ドイツはこれ以上海軍増強を行ってはならない、代わりにイギリスはドイツが植民地拡大するのを邪魔しない」という交渉をもちかけた。しかしイギリス国内でウィンストン・チャーチル海相が「ドイツにとって海軍は贅沢品」という失言をした結果、独皇帝ヴィルヘルム2世の心証を著しく害してしまい、結果的にホールデン使節団はドイツ側に拒絶され、失敗に終わった[28]
  2. アスキス首相、ウィンストン・チャーチル海軍大臣が参戦を唱えた[32]。一方で、中立派のデビッド・ロイド・ジョージ財務相初代モーリー子爵ジョン・モーリー英語版枢密院議長ジョン・バーンズ英語版商務庁長官第7代ビーチャム伯爵ウィリアム・ライゴン英語版厚労相、サー・ジョン・サイモン法務長官ハーバート・サミュエル自治相、ジャック・ピーズ英語版教育相、トマス・マキノン・ウッドスコットランド担当相ウォルター・ランシマン英語版農相らが介入を拒んで、閣内分裂の危機が起きていた[33]
  3. アスキス首相は本音でいえば戦争が嫌であり、知人に手紙で「戦争や戦争につながりそうなことは、いつもロンドンの暴徒には人気だ…こんなはしたないことは大嫌いだ…」と綴っている[38]
  4. 国連加盟による集団安全保障が従来の中立主義モンロー主義)に反するとして上院が強く反発し、結局アメリカ合衆国は国連に加盟できなかった[55]

出典

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  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 Heraldic Media Limited. Grey of Fallodon, Viscount (UK, 1916 - 1933) (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2019年3月24日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 Arthur G.M. Hesilrige『Debrett's peerage, and titles of courtesy, in which is included full information respecting the collateral branches of Peers, Privy Councillors, Lords of Session, etc』Wellesley College Library、London, Dean、1921年、425頁
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 Robbins, Keith (23 September 2004) [2004]. “Grey, Edward, Viscount Grey of Fallodon”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/33570. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  4. 中村祐吉 1978, p. 19.
  5. 坂井秀夫 1967, p. 330.
  6. 1 2 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 300.
  7. 君塚, 直隆『イギリス政府と日清戦争 - ローズベリ内閣の対外政策決定過程日本西洋史学会大阪府豊中市〈西洋史学(The studies in Western history)〉、1995年、200頁。
  8. 村岡健次 & 木畑洋一 1991, p. 247.
  9. 君塚直隆 2012, p. 200-201.
  10. 1 2 藤山 (2019), p. 35.
  11. 君塚直隆 2012, p. 302.
  12. 1 2 3 ボストリッジ (2019), p. 228.
  13. 君塚直隆 2012, p. 201.
  14. 1 2 佐々木雄太 & 木畑洋一 2005, p. 89.
  15. 君塚直隆 2012, p. 201-215.
  16. 君塚直隆 2012, p. 250.
  17. 村岡健次 & 木畑洋一 1991, p. 237.
  18. 坂井秀夫 1967, p. 398.
  19. 中村祐吉 1978, p. 70.
  20. 君塚直隆 2012, p. 268-277.
  21. 君塚直隆 2012, p. 317-323.
  22. 坂井秀夫 1967, p. 466.
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  25. ニッシュ & ロウ (2007), p. 185.
  26. ニッシュ & ロウ (2007), p. 186.
  27. 1 2 佐々木雄太 & 木畑洋一 2005, p. 92-93.
  28. 坂井秀夫『政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として』創文社、1967年、491頁。ASIN B000JA626W
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  42. 村岡健次 & 木畑洋一 1991, p. 257.
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  55. 牧野雅彦『ヴェルサイユ条約 マックス・ウェーバーとドイツの講和』中央公論新社、2009年、251-252頁。ISBN 978-4121019806
  56. ボストリッジ (2019), p. 225.
  57. 1 2 3 4 ボストリッジ (2019), p. 226.
  58. 佐々木雄太 & 木畑洋一 2005, p. 79.
  59. 藤山 (2019), p. 43.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
デイヴィッド・ヒューム英語版
ヒューバート・ジャーニンガム英語版
ベリック・アポン・ツイード選挙区英語版
選出庶民院議員

1885年英語版1916年英語版
次代
フランシス・ブラック英語版
公職
先代
ジェイムズ・ローサー英語版
外務政務次官英語版
1892年–1895年
次代
ジョージ・カーゾン
先代
第5代ランズダウン侯爵
外務大臣
1905年–1916年
次代
アーサー・バルフォア
党職
先代
初代クルー侯爵
自由党貴族院院内総務英語版
1923年–1924年
次代
第7代ビーチャム伯爵英語版
ビジネス
先代
初代リドリー子爵英語版
ノース・イースタン鉄道英語版会長
1904年–1905年
次代
ジョン・ロイド・ウォートン英語版
外交職
先代
初代レディング伯爵
在アメリカ合衆国イギリス大使
1919年–1920年
次代
サー・オークランド・ゲデス英語版
学職
先代
初代ケイヴ子爵英語版
オックスフォード大学総長英語版
1928年–1933年
次代
初代アーウィン男爵
イギリスの爵位
爵位創設 初代ファラドンのグレイ子爵
1916年1933年
廃絶
イギリスの準男爵
先代
ジョージ・グレイ
(ファラドンの)第3代準男爵
1882年–1933年
次代
チャールズ・グレイ