セルビア王国 (近代)

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セルビア王国
Краљевина Србија  (セルビア語)
セルビア公国 (近代)
モンテネグロ王国
1882年 - 1918年 ユーゴスラビア王国
セルビアの国旗 セルビアの国章
国旗国章
国歌: Боже правде(セルビア語)
正義の神
セルビアの位置
セルビア王国(1914年)
公用語 セルビア語
宗教 セルビア正教
首都 ベオグラード
国王
1882年 - 1889年 ミラン1世
1889年 - 1903年アレクサンダル1世
1903年 - 1918年ペータル1世
首相
1887年6月13日 - 1887年12月31日ヨヴァン・リスティッチセルビア語版
1891年2月23日 - 1892年8月21日ニコラ・パシッチセルビア語版
1912年9月12日 - 1918年12月1日ニコラ・パシッチセルビア語版
変遷
成立 1882年3月6日
セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国建国1918年12月1日
ブカレスト条約1913年8月10日
通貨セルビア・ディナール
現在セルビアの旗 セルビア
モンテネグロの旗 モンテネグロ

セルビア王国(セルビアおうこく)は、1882年から1918年にかけてバルカン半島に存在した国家である。1817年成立のセルビア公国を前身としている。第一次世界大戦によるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊後、1918年成立のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に発展する形で消滅した。首都はベオグラード

歴史[編集]

セルビア公国の成立[編集]

完全独立と王制への移行[編集]

露土戦争に参戦して戦勝国となったことで、ベルリン条約の結果セルビアはオスマン帝国の宗主権から独立した。

ベルリン会議でセルビアに隣接するボスニアヘルツェゴビナオーストリア=ハンガリー帝国の占領下に置かれたにもかかわらず、会議におけるロシアの非協力もあって、セルビアはオーストリア=ハンガリー帝国に接近していった。1882年には、オーストリア=ハンガリーの承認のもとで王政に移行し「セルビア王国」となった。1885年には東ルメリ自治州の併合問題を巡ってブルガリアと開戦したが、これに敗れて翌年ブカレスト条約を結んだ。

1903年6月11日、陸軍士官らにより王宮でセルビア国王のアレクサンダル1世が王妃のドラガ・マシンとともに銃撃され、夫妻はまだ息があったにもかかわらず宮殿2階の窓から投げ落とされ殺害された、という5月クーデターセルビア語版英語版が起こった。これによって王位がオブレノヴィッチ家からカラジョルジェヴィッチ家ペータル1世に移ると、オーストリアを重視する政策を改め、周辺国やロシアとの友好を重視する政策に転換した。この結果、1906年には「豚戦争」と呼ばれるオーストリア=ハンガリー帝国との関税戦争が起こり、両国関係は悪化の一途をたどることになった。

1908年テッサロニキ青年トルコ革命が勃発すると、オーストリア=ハンガリー帝国は1878年以来実効統治していたボスニア・ヘルツェゴビナを完全併合した。このことはセルビアとオーストリアの関係を一挙に悪化させ、サラエヴォ事件の遠因となった。

1912年オスマン帝国イタリア王国との戦争に敗れてリビアを奪われると、ブルガリア・セルビア・モンテネグロギリシャはこれに乗じてバルカン同盟を結成し、オスマン帝国に宣戦した(第1次バルカン戦争)。この戦争はバルカン同盟が勝利し、戦後ロンドン条約でマケドニアを獲得し、モンテネグロ以外の三国がこれを分割した。ところがマケドニアの分配をめぐって三国の思惑が紛糾し、セルビア・モンテネグロ・ギリシャとルーマニア・オスマン帝国がブルガリアに宣戦した(第2次バルカン戦争)。敗北したブルガリアは、同盟国に接近していった。

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公が、ボスニアの首都サラエヴォを行進中に「黒い手」(黒手組)の大セルビア主義ガヴリロ・プリンツィプに暗殺されるサラエヴォ事件が起こった。そして1ヶ月後の7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦したことで第一次世界大戦が勃発した。セルビアは同盟国に徹底的敗北を喫して一時は滅亡の危機に追い込まれるが、1917年アメリカ合衆国が連合国側に参戦したことで、最終的には戦勝国となった。

1918年、敗戦により解体したオーストリア=ハンガリー帝国から分離(正式には1919年サン=ジェルマン条約により確定)したクロアチアスロベニアボスニア・ヘルツェゴビナの3地域及びモンテネグロ王国と合同して、セルビア王国はユーゴスラビアの母体であるセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)を形成することで発展的に解消した。

国境の変遷[編集]

国内の様子[編集]

経済[編集]

セルビアにおいて最も主要な産業は農業畜産といった第一次産業であり、特に輸出用の豚の飼育が盛んであった。オスマン帝国への反乱の指導者となったカラジョルジェ・ペトロヴィッチやミロシュ・オブレノヴィッチも元々は豚を扱う商人であった。これは、豚を扱う商人のもとに資本が蓄積し、豚商人が地域の名望家となったことを意味している。一方で公国・王国時代を通じて工業化は進まなかった。豚戦争の時代には新たな販路の開拓や食肉加工業の発達などがあったが、工業製品は他国からの輸入に切り替わるにとどまった。

歴代国王[編集]

オブレノヴィッチ家(王国)[編集]

  1. ミラン1世1882年 - 1889年
  2. アレクサンダル1世1889年 - 1903年

カラジョルジェヴィッチ家(王国)[編集]

  1. ペータル1世1903 - 1918年 セルビア王、1918年 - 1921年 セルブ・クロアート・スロヴェーン王)

関連項目[編集]