アーネスト・ベヴィン

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アーネスト・ベヴィン
Ernest Bevin
Ernest Bevin cph.3b17494.jpg
生年月日 (1881-03-09) 1881年3月9日
出生地 イギリスの旗 イギリスサマセット州ウィンズフォード村
没年月日 (1951-04-14) 1951年4月14日(70歳没)
所属政党 労働党

在任期間 1945年 - 1951年
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アーネスト・ベヴィンErnest Bevin1881年3月9日 - 1951年4月14日)は、イギリス政治家労働組合のリーダー、労働党の党員である。彼は、強力な「運輸一般労働組合英語版(TGWU)」[1]の共同創設者の一人であり、1922年から1940年までその書記長を務め、戦時連立内閣においては労働大臣を務めた。

ベヴィンは、英国の雇用状況と国内産業に対する労働力の供給を、最小限のストライキと分裂にとどめつつ、最大限のものにすることに成功した。彼の最も重要な役割は、終戦後の労働党内閣(1945年から1951年)で外務大臣を務めたことだった。彼は米国の財政援助を獲得して、共産主義に強く反対し、北大西洋条約機構(NATO)の創設を後押しした。ベヴィンの在任期間には、イギリス委任統治領パレスチナの終焉とイスラエル国家の創設も見られた。

前半生[編集]

1920年当時のベヴィン

ベヴィンはイギリスのサマセット州ウィンズフォード英語版村で生まれた。母であるダイアナ・ベヴィンは、1877年以降、自分のことを未亡人だと言っていた。父親については知られていない。1889年、母親を亡くした後、ベヴィンは、デヴォン州コップルストーン英語版村に移り、腹違いの妹の家族とともに暮らした。正式な教育を受けたことはほとんどなく、ごく短期間、二つの村の学校に出席した後、デヴォン州のクレディションにあるヘイワード・スクールに1890年-92年まで通っていた[2]。後に、ベヴィンは子供の頃のことを回顧して、家族の中の読み書きのできない大人達が助かるように新聞を声を出して読んで欲しいと頼まれたことを述べている。

11歳の時に、肉体労働者として働きに出、その後ブリストル大型トラックの運転手として働き、そこでブリストル社会主義者協会英語版の会員となった。1910年に港湾労働者組合(ドッカーズユニオン英語版)ブリストル支部の書記に就任、1914年には同組合の全国書記長になった[3]

ベヴィンは大きな体格の屈強な男性で、政治的に傑出する頃までに体重も相当に重くなっていた。強い西部訛りのアクセントで話し、それ故ある時には内閣のメンバーがベヴィンの話すのを聞いて、「ヒュー・アンド・ナイ(ヒュー・ゲイツケルナイ・ベヴァン、どちらも労働党の政治家の名)」と言っているのか、それとも「ユー・アンド・アイ(あなたと私、の意)」と言っているのか分からない、といったことが起きたりした。ベヴィンはバプティスト信徒伝道者として当時から演説能力を磨いていたが、労働党のプロ活動家になるため、伝道師の職業は諦めた[4]

ベヴィンは、ブリストルのワイン商でワイン試飲鑑定士の娘であるフローレンス・タウンリィと結婚した。 彼らは1人の子供、娘クイーニィ(1914-2000)を授かった。 フローレンス・ベビン(1968年死去)は、1952年に大英帝勲章デイム・コマンダー(DBE)に任命された[5]

運輸一般労組[編集]

1922年に、ベヴィンが創設者の1人として携わった運輸一般労働組合 (TGWU)[1]は、すぐに英国最大の労働組合になった。組合の書記長選挙で、彼はイギリスの優れた労働階級指導者の一人となり、彼らは労働党において最も強い支持者となった。政治的に彼は労働党の右派であり、共産主義や直接的な行動に強く反対していた。その理由の一端としては、彼が被害妄想的な反ユダヤ主義者で、共産主義をイギリスに敵対する「ユダヤ人の陰謀」と見なしていた、とも伝えられている[6]。ベヴィンは1926年にイギリスのゼネラル・ストライキに参加したが、そこに熱意はなかった[要出典]

ベヴィンは議会政治に大した信念を持っていなかったが、それにもかかわらず結成時からの労働党会員であった。1918年の総選挙ではブリストル中央区で戦うもうまくいかず、保守連合のトーマス・インスキップ英語版に敗北した。ベヴィンは、初めての労働党(出身の)首相ラムゼイ・マクドナルドとの関係が疎遠で、1931年の経済危機においてマクドナルドが保守派と国家政府を結成した(このためマクドナルドは労働党から追放された)際にも、彼に驚きはなかった。

1931年の総選挙で、ベヴィンはゲーツヘッドで争うよう残りの労働党指導者らに説得され、これが成功すればTGWUの書記長でいられることを理解した。国家政府の圧倒的勝利は、ゲーツヘッド(の選挙戦)にて自由党トーマス・マグネイ英語版を相手に大差で敗北する結果に終わった[7]

ベヴィンは、組合員への物的恩恵は直接交渉を通じて獲得するもので、ストライキ行動は最後の手段として使われるべきだ、と信じていた労働組合員だった。 例えば、ベヴィンは30代後半に、有給休暇を従業員のより広い範囲に拡大するという労働組合会議(TUC)によるキャンペーンを推進し、成功に導く手助けを行った[8]。これがついには1938年の休日賃金法(Holiday Pay Act 1938)になり、1939年6月までに有給休暇の資格を有する労働者が約1100万人に増加した[9]

外交政策の興味[編集]

1930年代に労働党は分裂して弱体化し、ベヴィンは保守派が支配的となった政府と実践的な問題について協力した。ところがこの期間中、彼はますます外交政策に関わるようになった。彼は、ファシズムに断固反対で、イギリスのファシスト勢力宥和政策にも反対だった[10]。1935年、イタリアは最近のアビシニア(エチオピアの旧称)侵攻に対する制裁措置によって処罰されるべきだと主張し、彼は労働党の平和主義者に手厳しい批判を行い、労働党党首のジョージ・ランズベリーが「周囲に良心を広めよう(hawking his conscience around)[注釈 1]」党会議でそれに関してどうすべきか尋ねていると非難した[11]

ランズベリーは辞任し、彼の後任で首相になったのが、1931年の総選挙でランズベリーやスタッフォード・クリップスと共に労働党として再選を果たした元労働党の大臣3人のうちの1人、クレメント・アトリーである[12] 。1935年11月の総選挙後、新たに議会に戻ったハーバート・モリソン英語版が、首相を巡ってアトリーに挑戦するも敗北した。後にベヴィンは、1947年にモリソンとクリップスがアトリーに対してさらなる陰謀を企んだ時、アトリーに盤石の支持を与えた(個人的には彼を「リトル・クレム」と言っていた)。[13]

戦時中の労働大臣[編集]

第二次世界大戦期の英国情報省英語版の依頼によるベヴィンのスケッチ

1940年、ウィンストン・チャーチル第二次世界大戦の苦難期間に国家を運営するために挙国一致内閣を結成した。チャーチルは、平和主義な労働組合へのベヴィンの反発と彼の仕事欲求に感銘を受け(チャーチルによると、ベヴィンは「私の時代に労働党が輩出した最も傑出した人物である」)、ベヴィンを労働兼徴兵大臣の地位に任命した[14] 。当時のベヴィンは実際には国会議員ではなかったので、結果生じた憲法上の逸脱を取り除くために、彼のための議員の地位が急いで見つけられ、ベヴィンはロンドン選挙区のワンズワース中央の庶民院議員として庶民院の反対もなく選出された[15]

国家緊急権(国防)法はベヴィンに労働力と人材配分の完全な管理を与え、彼はこの前代未聞の権威を、戦争に勝つ手助けのためだけでなく、戦後未来における労働組合の交渉上の地位を強化するために使うことに決めた[16]。ベヴィンはこんな冗談を残した。「グラッドストンは1860年から1930年まで大蔵省にいたと言います。私は1940年から1990年まで労働省に行くつもりです」、これはグラッドストンの経済政策が大蔵省の方針を統制したのと同じくらい長く、彼が労働省で自分の教義を残そうと切望していたことを示唆するものである。結局、彼の(遺した)管理法は約40年間行われ、ジェームズ・キャラハン政権下における不満の冬の後に、英国の労働組合がベヴィンの教義を極端に受け取って、ゼネラル・ストライキを通じて政府の政策を変えようとした。1980年代初頭のマーガレット・サッチャー政権の改革まで、彼が導入した産業的解決策は戦後政権の移り変わりがあっても大部分が変わらずに残った。

戦時中、ベヴィンは軍隊徴集兵約48000人 を石炭産業で働かせる(これらの労働者はベビン・ボーイズ英語版として知られるようになった)ことに責任を負っていた一方、労働者階級の人々の賃金と労働条件の大幅改善を確保するために自身の立場を利用していた[17] 。彼はまた、最終的に何百万人もの軍事要員と民間の戦争労働者を平時経済に戻す復員計画を策定した。ベヴィンは、労働党が連立政権を離脱した1945年まで労働大臣だった。ヨーロッパ戦勝記念日に、彼はホワイトホールの群衆を見下ろしているチャーチルの隣に立っていた。

外務・英連邦大臣[編集]

アーネスト・ベヴィン(左)とクレメント・アトリー、1945年

1945年の総選挙後、アトリーはベヴィンを財務大臣に、ヒュー・ダルトン英語版外務・英連邦大臣に任命する心づもりだったが、最終的に心変わりして彼らの役職を交換した。その理由の一つに、労働者の国内政策において主導的役割を果たす予定のハーバート・モリソン英語版とベヴィンとの間で関係が希薄だったようだ、との説がある[18]

当時は公立学校から外交官が募集されており、ベヴィンが言うには、恐らく年老いて反抗的なエレベータ操作員のほかに、 外務省で何らかの仕事を満足にやれるとは自分に想像できなかった。ベヴィンを賞賛して、外務省常任秘書官のアレクサンダー・カドガン英語版は「彼は多くのことを知っていて、いくらかの量を読む準備がされており、読んだ内容を取り入れているように思え、自分の考えをまとめあげたり、反対する誰かに彼(そして我々)の視点で対抗することができる」と記した[14] 。チャームリィによって別の視点が提供されており、ベヴィンは難解な幾つかを読んだり書いており、アンソニー・イーデンによって頻繁に注釈が作られた形跡は外務省文書の検証では殆ど見られなかった。これはベヴィンが自分の顧問との口頭議論の後で自己決断の大部分にたどり着くのが好きだったことを示唆している[18]

しかしながら、非常に強い個性の人物ベヴィンが「彼の役人の手の内」にいたという、チャールズ・ウェブスターセシル・オブ・チェルウッド子爵など同時代人の懸念を、チャームリィは否定している。ベヴィンの成功の大部分は彼がそれら役人の視点を共有したためだとチャームリィは主張している。ベヴィンの初期の経歴は共産主義者達の激しい嫌悪を彼に残し、彼は共産主義者を仕事嫌いの知識人達だと見なした。

米国[編集]

歴史家のマーティン.H.フォリーは、ベヴィンがただ従うだけの親米ではないと主張する。その代わりに、彼は米国の批判を中和したイギリスの見解を反映するようワシントンにある大使館を後押しした。彼は、イギリスの問題は一部が米国の無責任によるものだと感じていた。ベヴィンは米国の態度に不満だったのである。彼の戦略はワシントンをイギリス政策の支援に回らせることにあり、イギリスは米国の支持を得てナチスに対する犠牲を補うべきだと主張した。フォリーが言うには、ベヴィンは冷淡な実利主義ではなく、無批判な親米派でもなかった、また彼は英国外務省によって操られた人形でもなかった[19]

財政[編集]

1945年にイギリスは戦争の結果として事実上破産したが、世界的権力を残そうとして、巨大空軍と徴兵陸軍を依然として維持していた。1945年12月にベヴィンは、国家破産の唯一にして真の回避手段として、米国からの低金利39.5億ドルの融資を確保する重要な役割を担った。彼はもともと50億ドルを依頼していた[20]

再建費用は輸出の収益を最大化するために家庭内の緊縮を必要としたが、イギリスの植民地や他の顧客国は彼らの準備金を「スターリング残高[注釈 2]としてポンドにする必要があった。返済する必要のない追加資金は1948年-50年にマーシャル・プランからもたらされ、これはまた英国にビジネス慣行の近代化と貿易障壁の排除を求めることになった[22]

欧州[編集]

ベヴィンは軍事同盟内で西ヨーロッパをまとめる方法を模索した。初期の試みの1つが、1947年にフランスと締結したダンケルク条約英語版であった[23] 。西ヨーロッパの安全保障体制に対する彼の決意は、1948年のブリュッセル条約の署名に心血を注ぎこませた。それは、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを集団安全保障のための仕組みに引き入れ、1949年のNATO結成の道を開くことになった。NATOは主にソビエトの拡大に対する防衛措置を目的としていたが、それはまたメンバーをより緊密に一緒に結びつけ、平行して(各国同じペースで)軍隊を近代化させ、イギリスからの武器購入を奨励した[24]

イギリスは依然としてフランスと緊密に連携しており、両国は1960年まで米国やソ連とともに国際サミットでの主要なパートナーとして扱われ続けた。大まかに言うと、1956年スエズ危機での失態と欧州大陸の経済復興が終わった1950年代後半まで全てにイギリスの外交政策が残っていたが、今では「共同市場」として団結し、再評価されることとなった[25]

帝国[編集]

ベヴィンは、ナショナリズムの成長で直轄統治がもはや実施不能になった大英帝国に感傷的ではなく、1947年にイギリス領インド帝国や近隣植民地からの迅速なイギリス撤退を承認した内閣の一部であった。まだこの段階では、イギリスは依然として中東(エジプトは1952年まで、イラクとヨルダンは1959年まで)やキプロスとスエズ(1956年まで)といった主要拠点において従属国のネットワークを維持しており、アフリカ諸国の支配をこの先何年間も残すことを期待して、ベヴィンは東アフリカに巨大な新しい基地の建設を承認した。ベヴィンは「我々は植民地帝国に物的資源を有している。もし自分達がそれらを開発すれば...我々は米国やソ連に従属していないことを明確に示すことになるだろう」と書いた。この時代の植民地輸出は、主にマレーシアのゴム、西アフリカのココア、西インド諸島の砂糖とサイザルで、年間1億5000万ドルを稼いだ。1948年末までに、植民地輸出は戦前より50%高まったが、一方で1948年前半に植民地輸出はイギリスの輸入の10.4%を占めた。戦後にイギリスが、フランスとオランダが極東帝国を復興するのを手伝ったのは、これが3番目の超大国圏の形成につながることを期待してのものであった。ベヴィンはダンケルク条約がこの方向への一歩となるだろうとダフ・クーパー英語版(パリ駐在英国大使)に同意し、またクーパーが初提案した時の1944年におけるイーデンの反対については、そうした動きがもはや通じなかったことでソビエトを仲間外れにできるかもしれないと考えた[26]

1947年12月、ベヴィンは、米国がイギリスの「中東における戦略的、政治的、経済的立場」を支持してくれるだろうと(無駄に)望んでいた。1950年5月、ベヴィンはロンドンの外相会談で 「米国当局は最近、我々が賢明に思っていたよりも大きな尺度の欧州の経済統合を採用するよう我々に圧力をかけてきたようだ」と語った(彼は欧州石炭鉄鋼共同体を設立するシューマン計画に言及した)。1950年5月、彼は米国と英連邦との関係からイギリスは「他のヨーロッパ諸国とは性質が異なり、根本的に彼らと全面的な統合はできない」と述べた[27]

冷戦[編集]

ベヴィンは断固たる反共産主義者であり、ソビエト連邦の批判者であった。1946年の会議で、ソ連のモロトフ外相はソビエトの政策を守りながら英国の提案を繰り返し攻撃し、そして全面的な不満の中でベヴィンは立って、急に大臣の方へ向かっていき、警備員に制止される前に叫んだ「私はこれで十分だ『くたばれ!』」[注釈 3][29]

冷戦の初期に、彼は米国に強力な反共産主義の外交政策をとるよう強く勧めた。彼は朝鮮戦争におけるイギリス戦闘作戦の主導者だった。北大西洋条約機構(NATO)と戦後ヨーロッパへの援助に向けたマーシャル・プランという戦後欧州の2つの主要機関は、これら期間におけるベヴィンの努力がなし遂げた成果の大部分であった。保守党と大差ないこの政策は[注釈 4]一部の若手の労働党下院議員には不満の元であり、1945年議会の早期に彼らはより多くの左翼外交政策を推進するための「キープレフト」集団を結成した[22]

1945年に、ベヴィンは庶民院で「国家が説明責任を負う世界の人々によって直接選出された議会の研究があるべきだ」と語り、国際連合議会会議の創設を提唱した[30]

原子爆弾[編集]

アトリーとベヴィンは、労働党の親ソビエト派(ベヴィンが嫌悪した集団)からの激しい反対にもかかわらず、イギリスの原子爆弾生産という決定に協力した。この決定は小さな閣内委員会によって密かに行われた。1946年10月、ベヴィンはこの委員会に「これ以上の費用がかかろうとも我々はこの代物を保有しなければならない...我々はその頂点に血染めのユニオンジャックをはためかせ続ける必要があるのだ」と語った。それは威信と国家安全保障の両方の問題であった。費用を根拠にこの爆弾に反対する閣僚、ヒュー・ダルトン英語版スタッフォード・クリップス士爵が1947年1月の会議から除外され、そこで最終決定が下された[31][32][33]

パレスチナとイスラエル[編集]

エルサレムの安全保障区域は、ベヴィンの外務省任期中に「ベヴィングラッド(ベヴィンの漸次移行策)」とも言われた

イギリス委任統治領パレスチナが終焉してイスラエル国が創設された当時、ベヴィンは外務大臣だった。この区域における外交政策で、ベヴィンはイギリスが表明した目標(これには状況の平和的解決および意志にそぐわない人口移動の回避が含まれる)を達成することに失敗した。ベヴィンの中東情勢の扱いに関して、少なくとも1人の解説者デビッド・リーチは、ベヴィンが外交的な精巧さを欠いていたと指摘している[34]

ベヴィンは不適切で不快な発言をすることで悪い状況をさらに悪化させる傾向がある、とリーチは主張する。彼は紛れもなく物事をあけすけに話す人物で、そのいくつかの発言が配慮不足のため多くの人を攻撃していた。評論家は彼が反ユダヤ主義であると非難している。パレスチナへの移住を望んでいたホロコーストの生存者10万人のユダヤ人難民を直ちに認めるようトルーマン大統領がイギリスに圧力をかけてきたとき、1つの発言が激烈な怒りを生み出してしまった。ベヴィンは、ユダヤ人を認めるよう米国の圧力がかかってくる原因として「パレスチナにユダヤ人10万人が収容されているためというのは、米国の、特にニューヨークのアジテーションである。彼らはニューヨークに多すぎるユダヤ人を望まなかったのだ[35]」と労働党の集会で語った。

彼は、米国国務長官のジェームズ・F・バーンズが語ったことを単に再表明していた[14] 。戦後にユダヤ人移民の制限を撤廃することを拒んだため、ベヴィンはシオン主義者の怒りを貰ってしまった。歴史家のハワード・サッチャー英語版によると、彼の政敵リチャード・クロスマン英語版、議会の同僚の労働党議員で戦争後の欧州ユダヤ・パレスチナ問題に関するアングロアメリカ委員会英語版の親シオン主義派のメンバー、は委任統治領が終焉を迎える期間中のベヴィンの見解が「シオン賢者の議定書(反ユダヤ主義の偏見を煽るために書かれた偽書)におおむね合致している」と吹聴した。サッチャーの記述では、クロスマンは「ベヴィンの演説の要点は...ユダヤ人がイギリスと彼個人に対しての陰謀を成功裏に組織したことである」と公言していた[36][37] 。ベヴィンの伝記作家アラン・ブロックは、ベヴィンが個人的な反ユダヤ主義によって動機づけられていたという意見を否定した[38]

イギリスの経済的脆弱さと米国の財政支援への依存(イギリスは1946年に大規模な米国の融資を受けて1947年半ばにマーシャル・プランが開始された)は、彼に代替案を殆ど残さず、パレスチナ政策に対する米国の圧力に屈することとなった。1947年1月に再開されたロンドン6カ国会議英語版で、ユダヤ側の交渉者は隔壁を受け入れる準備のみできており、アラブの交渉者は単一国家(それは自動的にアラブが大多数となる)だけとした。どちら側もイギリス統治の下での限定的な自治は受け入れないとした。合意に達しない場合、この問題を国連に任せるとベヴィンは脅したが、いずれの代表者もこの脅迫に心揺らぐことがなかった。ユダヤ側の代表者はベヴィンがはったりを言っていると確信していたからであり、アラブ側は国際連合総会以前に自分たちの根拠が優勢であると確信していたからである。そのためベヴィンは「パレスチナ問題の熟慮解決を国連に要請する」と発表した[39]

1週間後、パレスチナでの存在感を維持するというイギリスの戦略的論理は、同年8月にインドから撤退する意図が発表された時に削除された[39]。国連がパレスチナの将来を指示できるようになる決定は、1947年2月にパレスチナのイギリス委任統治が「機能不全」になったというアトリー政権の公式宣言によって正式なものとなった。その結果として生じたパレスチナ分割決議で、ベヴィンは「大多数の提案はアラブ人にとって明らかに不公平で、良心ある我々がどのようにそれを和解させればいいのか見えてこない」と発言した[40]

委任統治の残りの期間中、ユダヤ人とアラブ人コミュニティ間の戦いが激化した。 委任統治の終了とイギリスのパレスチナ最終撤退は、イスラエル独立宣言と1948年の第一次中東戦争によって明白なものとなり、5つのアラブ諸国がこのコミュニティ間の戦いに介入した。アラブ軍は、イギリスの士官によって軍隊が訓練され統率された最も実動力ある国家ヨルダンによって率いられた[41]。この戦争はイスラエル(のパレスチナ獲得)をもって終結し、ユダヤ国家創設のため国連によって割り当てられた領土に加えて、アラブ国家創設のために国連によって割り当てられた委任統治領の大部分をも管轄に組み入れた。残りはヨルダンとエジプトの間で分けられた。数十万人もの圧倒的多数のアラブ市民が場所を追われた[42]

ベヴィンは、一般にシュテルンギャングとして知られている過激派のユダヤ人武装組織イルグンレヒによって実行に移されたイギリス軍への攻撃に激怒した。キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件までハガナーは直接攻撃を少なくとどめ、その後は違法な移民活動に限定した[39] 。機密解除されたイギリスの情報ファイルによると、イルグンとレヒは1946年にベヴィン自身を暗殺しようと企てていた[43][44][45]

ベヴィンは、イラクとの間でアングロイラク条約英語版(1948年1月15日署名)を交渉し、イラクの外相ムハマド・ファデル・アル=ジャマリ英語版によれば、パレスチナから撤退するイギリスの事業は全ての領土が速やかにアラブ占領になるような形で行われた[46]

死後[編集]

ロンドン南部サザーク区にあるアーネスト・ベヴィンの胸像

健康状態の悪化で、1951年3月にベヴィンはやむなく王璽尚書(Lord Privy Seal) への異動に同意した。彼は「私は支配者(Lord)でもないし、枢密院(Privy)[注釈 5]でもないし、アザラシ(Seal)でもない」と語った、と言われている[48] 。 彼は翌月に亡くなり、まだ自分の(公文書送達用の)赤い箱に鍵を持ったままだった。彼の遺灰はウェストミンスター寺院に埋葬されている。

1952年にスタッフォード・クリップスの死に際して、アトリー(この時は野党側の指導者)がBBCによる追悼放送に招かれたとき、彼はアナウンサーのフランク・フィリップスによって気遣われていた。放送後、フィリップスは飲み物のためアトリーを接客室に連れて行き、会話をするために言った。

「スタッフォード殿を亡くされてご心痛だろうとお見受けします、士爵」
アトリーは彼を凝視した「あなたはアーニー・ベヴィンをご存知だったかな?」
「私は彼に会ったことがあります、士爵」と、フィリップスは答えた。
「私が亡くなったことを悔やんでいるのはその人物だよ」

歴史家であり伝記作家でもあるアラン・ブロックは、彼について次のように評している。

ベヴィンは、19世紀前半のカースルレーカニングパルマーストンらによって創り出された伝統の流れを汲む最後の外務大臣だ。20世紀の外務大臣としては、ソルズベリーグレイオースティン・チェンバレンの後に続くのだが、(ありがたいことにイギリスの権威が低下して)その後継者となる人物は現れなかったのだ[49]

ベヴィンの胸像はロンドン南部のトーリー通り英語版にあるデヴォンマンション英語版の向かい側、旧セント・オレヴズ・グラマー・スクール英語版の敷地にある。

関連項目[編集]

注釈[編集]

  1. ^ あまり一般的でない単語hawkingが使用されているのは、政治的に「タカ派(hawk)」団体と言う意味も含めてのこと(両方の意味まで日本語に訳せないので解説)。
  2. ^ イギリスは世界恐慌を機に金本位制を放棄して、スターリング・ポンドを基軸通貨とするブロック経済(スターリングブロック)政策を推し進めた。この経済圏にある植民地国家は準備金としてスターリング・ポンドを保有することが義務づけられ、これがスターリング残高(英sterling balances)である[21]
  3. ^ 彼が叫んだ言葉『ave!』は、歓迎(ようこそ)と別れ(さようなら)どちらの意味でも使われる間投詞[28]。彼の真意としては「(おいソ連、どれもこれも反対してくれて、ありがとよ)、くたばれ!」で相手に詰め寄ったため、警備員に制止されたというわけである。
  4. ^ 保守党は労せずして成果を手に入れたため、「アンソニー・イーデンは脂肪が増えたのではないか?(怠け者は太ってしまうので)」と党首が揶揄された。
  5. ^ Privyには「野外トイレ」の意味もあるが主にアメリカ英語の用法で[47]、英国人のベヴィンがこの意図だったかは不明 。ベヴィンは大臣就任後の措置でようやく庶民院 (下院)議員になった経緯から、ここでは「枢密院(Privy Council)」ではないと解釈した。

脚注[編集]

  1. ^ a b 運輸一般労組」コトバンク、世界大百科事典 第2版(平凡社)より。Transport and General Workers’Unionは「運輸一般労組」と訳されている。
  2. ^ 'From the hedgerows of Devon to the Foreign Office' - Roger Steer. Devon Life Magazine, July 2002.
  3. ^ Transport and General Workers' Union: Ernest Bevin Papers”. JISC. 2017年3月16日閲覧。
  4. ^ Tombs, Robert (2014). The English and their History: The First Thirteen Centuries. Penguin. ISBN 9780141976792. https://books.google.co.uk/books?id=1b7QBAAAQBAJ&pg=PT647&lpg=PT647&dq=ernest+bevin+baptist+lay+preacher&source=bl&ots=B2hoN8o9Gh&sig=N0CA9018MCxvFx7kOXfp8Y6SQ34&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjfy_K18tvSAhXLIsAKHUDoAOYQ6AEILzAE#v=onepage&q=ernest%20bevin%20baptist%20lay%20preacher&f=false. 
  5. ^ Stephens, Mark (1981). Ernest Bevin - Unskilled Labourer and World Statesman. London, UK: Transport and General Workers Union. p. 19. 
  6. ^ Peter Weiler, Ernest Bevin (Manchester: Manchester University Press, 1993), pp. 170-71
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  8. ^ Ernest Bevin by Peter Weiler
  9. ^ Eric Hopkins, A Social History of the English Working Classes 1815-1945
  10. ^ The Labour Party and the Economics of Rearmament, 1935-1939”. University of Exeter. 2017年3月16日閲覧。
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関連文献[編集]

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  • Greenwood, Sean. "Bevin, the Ruhr and the Division of Germany: August 1945-December 1946," Historical Journal (1986) 29#1 pp 203–212. Argues that Bevin saw the Ruhr as the centerpiece of his strategy for the industrial revitalization of Europe. He insisted on keeping the Soviets out, and this position made him one of the principal architects of a divided Germany. in JSTOR
  • Pearce, Robert. "Ernest Bevin: Robert Pearce Examines the Career of the Man Who Was Successively Trade Union Leader, Minister of Labour and Foreign Secretary" History Review (Dec 2002) online
  • Williams, Francis. Ernest Bevin: Portrait of a Great Englishman (Hutchinson, 1952) online
  • Wrigley, Chris. "Bevin, Ernest (1881–1951)", Oxford Dictionary of National Biography (Oxford University Press, 2004); online edn, January 2008 accessed 2 June 2013 doi:10.1093/ref:odnb/31872; brief scholarly biography

外部リンク[編集]