アーネスト・ベヴィン

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アーネスト・ベヴィン
Ernest Bevin
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生年月日 (1881-03-09) 1881年3月9日
出生地 イギリスの旗 イギリスサマセット州ウィンズフォード村
没年月日 (1951-04-14) 1951年4月14日(70歳没)
所属政党 労働党

在任期間 1945年 - 1951年
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アーネスト・ベヴィンErnest Bevin1881年3月9日 - 1951年4月14日)は、英国人の政治家、労働組合のリーダー、労働党の党員である。彼は、強力な「運送業ならびに一般労働者労働組合英語版(TGWU)」の共同創設者の一人であり、1922年から1940年までその書記長を務め、戦時連立内閣においては労働大臣を務めた。ベヴィンは、英国の雇用状況と国内産業に対する労働力の供給を、最小限のストライキと分裂にとどめつつ、最大限のものにすることに成功した。彼の最も重要な役割は、終戦後の労働党内閣(1945年から1951年)で外相を務めたことだった。彼はアメリカから財政的援助を獲得し、インドから、そして中東地域のほとんどからイギリスの勢力を引き上げさせた。共産勢力に対しては強く反対を唱え、北大西洋条約機構(NATO)の創設に尽力したのである。

生涯[編集]

前半生[編集]

イギリス、サマセット州ウィンズフォード村に生まれる。母であるダイアナ・ベヴィンは、1877年以降、自分のことを未亡人だと言っていた。父親については知られていない。1889年、母親を亡くした後、ベヴィンは、デヴォン州モーチャード・ビショップに移り、腹違いの妹の家族とともに暮らした。正式な教育を受けたことはほとんどなく、ごく短期間、二つの村の学校に出席した後、デヴォン州のクレディションにあるヘイワード・スクールに1890年から通い出して1892年には卒業している。[1]後に、ベヴィンは子供の頃のことを回顧して、家族の中の読み書きのできない大人達が助かるように新聞を声を出して読んで欲しいと頼まれたことを述べている。

11歳の時に、肉体労働者として働きに出、その後ブリストルで大型トラックの運転手として働いた。ブリストルでベヴィンは、ブリストル社会主義者協会の会員となっている。1910年、彼は船舶労働者組合ブリストル支部の書記に就任する。そして1914年には同組合の全国幹事長となる。

ベヴィンは、その肉体を見れば、大きな男で、強靱な体力の持ち主だった。また、彼自身が政治活動で傑出した存在となる以前に、かなりの体重となっていた。強い西部訛りのアクセントで話し、それ故ある時には内閣のメンバーがベヴィンの話すのを聞いて、「ヒュー・アンド・ナイ(ヒュー・ガイトスケルナイ・ベヴァン、どちらも労働党の政治家の名)」と言っているのか、それとも「ユー・アンド・アイ(あなたと私、の意)」と言っているのか分からない、といったことが起きたりした。ベヴィンは自分がバプティストの平信徒説教師の時から演説の腕を磨き、労働党の活動家になっていなければ、説教師の職を選んだであろうというほど打ち込んでいた。

運送業ならびに一般労働者の労働組合[編集]

1922年、ベヴィンは「運送業ならびに一般労働者労働組合英語版(TGWU)」を皆と共に創立した。この労組は、すぐにイギリス最大の労働組合となった。ベヴィンが書記長に選ばれたことに伴い、彼は労働者のリーダーの中でも中心的な存在の一人となったのである。そして同時に、労働党員の中で最も強く主張することができる立場に立ったのである。政治的なものの見方からすれば、ベヴィンは労働党の中でも右よりの存在だった。共産主義に対しても、また直接的な行動に出ることについても、強く反対していたのである。この時反対した理由のいくぶんかは、彼が偏執的な反ユダヤ主義者だったのと、共産主義を「イギリスに対するユダヤ人達の策謀」だと考えていたからだ、という説がある。[2]ベヴィンは1926年のイギリスでのゼネラル・ストライキに参加はしたものの、彼は情熱を持っていたわけではなかった。

閣僚[編集]

戦時連立内閣において労働大臣を務めた。終戦後の労働党内閣(1945年から1951年)で外相を務めた。彼はアメリカから財政的援助を獲得し、インドから、そして中東地域のほとんどからイギリスの勢力を引き上げさせた。共産勢力に対しては強く反対を唱え、北大西洋条約機構(NATO)の創設に尽力した。

先の世界大戦後に、カイザーの体制を崩壊させなかったほうが、われわれにとってはよかったと思う。ドイツ人を立憲君主制の方向に指導したほうがずっとよかったのだ。彼らから象徴を奪い去ってしまったがために、ヒトラーのような男をのさばらせる心理的門戸を開いてしまったのであるから。 — 1945年7月、於ポツダム会談[3]

家族[編集]

結婚し、娘を一人もうけている。

評価[編集]

歴史家であり伝記作家でもあるアラン・ブロックは、次のように評している。

ベヴィンは、19世紀前半のカースルレーカニングパルマーストンらによって創り出された伝統の流れを汲む最後の外務大臣だ。20世紀の外務大臣としては、ソルズベリーグレイオースティン・チェンバレンの後に続くのだが、(ありがたいことにイギリスの権威が低下して)その後継者となる人物は現れなかったのだ[4]

出典[編集]

  1. ^ 'From the hedgerows of Devon to the Foreign Office' - Roger Steer. Devon Life Magazine, July 2002.
  2. ^ Peter Weiler, Ernest Bevin (Manchester: Manchester University Press, 1993), 170-171
  3. ^ 君塚直隆. “立憲君主制の国、日本――カイザーの体制を崩壊させなかったほうが・・・”. https://synodos.jp/society/21460 2018年4月30日閲覧。 
  4. ^ Alan Bullock, Ernest Bevin: Foreign Secretary 1945-1951 (1983) p75