ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)

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イギリスの旗 イギリスの政治家
初代カーゾン・オブ・ケドルストン侯爵、ジョージ・カーゾン
George Curzon
1st Marquess Curzon of Kedleston
George Curzon2.jpg
生年月日 1859年1月11日
出生地 ダービーシャーケドルストン
没年月日 1925年3月20日(満66歳没)
出身校 オックスフォード大学ベリオール・カレッジ
所属政党 保守党
称号 初代カーゾン・オブ・ケドルストン侯爵、ガーター勲章士(KG)、スター・オブ・インディア勲章英語版ナイト・グランド・コマンダー(GCSI)、インド帝国勲章英語版ナイト・グランド・コマンダー(GCIE)、枢密顧問官(PC)

任期 1899年1月6日 - 1905年11月18日[1]
女帝
皇帝
ヴィクトリア
エドワード7世

内閣 アスキス挙国一致内閣
ロイド・ジョージ挙国一致内閣
任期 1916年5月15日 - 1917年1月3日

内閣 ロイド・ジョージ挙国一致内閣
ボナー・ロー内閣
ボールドウィン内閣
任期 1919年10月24日 - 1924年1月22日[2]

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 サウスポート選挙区英語版
任期 1886年7月1日 - 1898年[3]

イギリスの旗 貴族院議員
任期 1898年 - 1925年3月20日[3]
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初代カーゾン・オブ・ケドルストン侯爵、ジョージ・ナサニエル・カーゾン、(: George Nathaniel Curzon, 1st Marquess Curzon of Kedleston, KGGCSIGCIEPC1859年1月11日 - 1925年3月20日)は、イギリス政治家貴族

保守党に所属し、インド副王兼総督外務大臣貴族院院内総務英語版などを歴任した。一般にはカーゾン卿Lord Curzon)の呼び名で知られる。

イギリスファシスト連合創設者のオズワルド・モズリー卿は娘婿であり、日本で活動するイギリス人ハーブ研究家ベニシア・スタンリー・スミスは異母弟の曾孫である。

出自[編集]

カーゾンはダービーシャーケドルストン国教会教区牧師を務める第4代スカースデール男爵アーサー・カーゾン(1831年 – 1916年)とその妻ブランチ・センハウス(1837年 – 1875年)の間に生れた11人の子供のうちの長男、第2子であった。母ブランシュはカンバーランド、ネザーホールのジョゼフ・ポックリントン・センハウスの娘であった。

カーゾンは一族の建てたケドルストン・ホールで生れた。彼のノルマン人の先祖たちは、12世紀からケドルストンに住んでいた。母はカーゾンが16歳の時、出産中に力尽きて亡くなった。男爵は厳格な父親で、領主たるもの自らの領地に常に留まるべし、という古くから伝わる家訓を信条としており、「世界中のあちこちを放浪する」などもっての他だと考えていた。こうした狭量な見識を抱く男爵は、1887年から1895年まで息子がイギリス内閣の一員として最もアジアを頻繁に訪れていたことについて、いい顔をしなかった。

父親以上に少年期のカーゾンに影響を与えたのは残忍なガヴァネス、エレン・メアリー・パラマンだった。パラマンの虐待を伴う育児のせいで、カーゾンは攻撃的な性質になり、また強迫観念に取りつかれがちになった。

カーゾンはイートン・カレッジに学び、その後オックスフォード大学のベリオール・カレッジに進んだ。カーゾンはイートン校の教師だった歴史家オスカー・ブラウニングのお気に入りの生徒となり、二人のあまりに親密すぎる師弟関係が問題視されてブラウニングは辞職に追い込まれている[4][5]。イートン校に在籍中、カーゾン少年は大勢の教師や生徒のあいだで非常に好かれ、また同程度に嫌われているという矛盾した存在であった。魅力と嫌悪が共存するという彼に対する奇妙な人物評は生涯続くことになる。

オックスフォード大学では、カーゾンはオックスフォード・カニング・クラブ、オックスフォード・ユニオン、同大学学生連合評議会の部長を務めた。輝かしい大学でのキャリアを積んだ後、1883年にカーゾンはオール・ソウルズ・カレッジの優等フェローに選ばれた(彼は人文学課程の第1学位取得に失敗したが、トマス・モアに関する評論でロシアン・アンド・アーノルド賞を獲得している。カーゾンはこの懸賞論文の存在をその提出開始日直前まで知らず、評論を書きあげたのは、文字通り日付が締切日になったことを時計が知らせた時であったと後に告白している。

10代の時、乗馬中に負った脊椎損傷にカーゾンは生涯苦しむことになり、しばしば傷の痛みで不眠症に陥ったり、金属のコルセットをつけなければならなかった。傷の痛みがもたらす問題が、堅苦しく傲慢であるという彼に対する悪い印象に拍車をかけることになった。

初期のキャリア[編集]

ソールズベリー侯爵李鴻章と並ぶカーゾン(右)

カーゾンは1885年、ソールズベリー卿の私設第2秘書となり、翌1886年にはランカシャー南西部、サウスポート選出の庶民院議員に当選した。カーゾンの処女演説は主としてアイルランド自治およびアイルランド・ナショナリズムを攻撃するものであり、かつてカーゾンはオックスフォード・ユニオンの弁論大会で、これとおおよそ同じ内容の論説を披歴している。演説は才気ばしった雄弁なものであるばかりか、生意気かつ自信過剰ですらあった。

これに続く庶民院での言動は、アイルランド問題および貴族院改革(カーゾンは支持派)に関するものが多かったが、いずれも処女演説と同じような印象を与えるものだった。1891年から1892年にかけ彼はインド省政務次官を務め、1895年から1898年までは外務省政務次官を務めた。

この時期、カーゾンは世界中を旅行した。ロシア中央アジア訪問(1888年 - 1889年)、ペルシアでの長期旅行(1889年 - 1890年)、シャムフランス領インドシナ朝鮮訪問(1892年)のほか、アフガニスタンパミールでの大胆な探索活動(1894年)をも行い、政策的関心と連動している中央アジア、東アジアについて著した数冊の書物を出版した。大胆かつ強迫衝動に悩む旅行者カーゾンは、東洋の生活や地勢に強く魅了されており、アムダリヤ川(オクサス)の水源を探査したことを評価され、王立地理協会から金メダルを贈られている。

しかし彼の多くの旅行の目的はあくまで政治的な関心のもとになされていた。旅行はイギリス領インドと関連するアジアの諸問題を研究するための包括的な計画の一部をなしていた。同時に、この旅行はまたカーゾン自身の自尊心、大英帝国の帝国としての使命に対する確信を強めることにつながった。

最初の結婚(1895年 - 1906年)[編集]

仕留めた獲物の虎の前に立つカーゾンと妻メアリー、1903年

1895年、カーゾンはアメリカ合衆国、シカゴの百万長者レヴィ・レイターの娘で美人の誉れ高いメアリー・ヴィクトリア・レイターと結婚した。舅となったレイターはルター派を信仰するドイツ系移民で、フィールド&レイター百貨店(現在のマーシャル・フィールズ)の共同設立者の一人だった。

メアリーは1904年の晩夏に重い病に陥り、2度と回復しなかった。1906年7月にメアリーの病気は再発し、同月の18日に彼女は夫の腕に抱かれながら36歳で息を引き取った[6]。メアリーの死はカーゾンの生涯において、私生活上の最もつらい出来事だった。メアリーはケドルストンの教会に埋葬されたが、カーゾンは亡き妻を顕彰するため、同教会の北側の身廊に美しいゴシック様式の礼拝堂を建設した。カーゾンは国教会信徒として熱心でも因襲的でもなかったが、飾らない信仰心を保ち続けた。後年になると、カーゾンは「メアリーのいる天国に行けるので、死は怖くない」と、ときおり口にするようになったという。

夫妻は強い絆で結ばれた幸福な結婚生活のあいだに3人の娘をもうけた。長女のメアリー・アイリーンレーヴェンスデール男爵位を父から相続し、一代貴族の資格によって貴族院に席を占めた。次女のシンシアはサー・オズワルド・モズリーの最初の夫人となった。末娘のアレグザンドラ・ナルデラ(愛称ババ)はエドワード8世の厩舎長で花婿付添人を務めたエドワード・メトカーフ少佐(愛称フルーティー)と結婚した。ババは後に姉シンシアの夫オズワルド・モズリーの愛人となった。姉妹の継母グレース(カーゾンの再婚相手)もモズリーと不倫関係に陥り、彼との間にエドワードという名の婚外子を産んだ。メアリー・アイリーンまでもが、妹と結婚する以前のモズリーと短期間ながら関係を持っていた。

インド副王(1899年 - 1905年)[編集]

1899年1月、カーゾンはインド副王に任じられた。カーゾンは任命に際してダービー郡に由来する、カーゾン・オヴ・ケドルストン男爵(アイルランド貴族)に授爵された。この爵位はアイルランド貴族の爵位(アイルランド貴族最後の授爵例)であったため、カーゾンは父の死によってスカースデール男爵位(グレートブリテン貴族)を継承するまでは、イギリスに帰国した場合、庶民院に復帰することも可能であった。

カーゾンがインドに到着したのは1897年から1898年まで続いた辺境地域の反乱が鎮圧されて間もない時期であった。このため彼は北西部の独立志向の強い部族に格別の注意を払っており、北西辺境州を新たに創設し、懐柔策を混ぜ合わせながらも強権的な統治を行った。彼の任期中、北西部で起きた最初の軍事衝突はメースド部族ワジール部族(どちらもパシュトゥーン人)に対する軍事遠征だった。

ロシアの強大化に対する根深い不信感からカーゾンはイギリスの対ペルシア貿易を奨励し、1903年にはインド副王自らペルシア湾を訪問している。1903年12月、カーゾンは形の上だけでもロシアの進出に先んじる目的から諜報員フランシス・ヤングハズバンドチベットへの軍事遠征英語版を行わせている。チベットの貧弱な防衛軍との激しい戦闘の後、遠征軍はラサに入城し、1904年に両者の間で和平が結ばれた。ロシアがラサに進駐することはなかった。

インド国内では、カーゾンはインドの教育、灌漑、警察その他の政府機関を調査するため多くの委員会を創設した。インド副王としての任期の後半、カーゾンはこの委員会からの報告をもとにして法律を制定していた。1904年8月にインド総督として再任されると、カーゾンは1905年7月のベンガル分割を断行し、同州の住民から激しい反発を受けた。この分割は1911年に取り消されている。インド統治委員会における軍人の立場について、インド駐留イギリス軍の最高司令官キッチナー伯爵と意見の違ったカーゾンは彼と対立したが、カーゾンはこの時本国政府の支持を得ることが出来なかった。カーゾンは1905年8月に総督職を退き、イングランドに帰国した。副王在任中、カーゾンはタージ・マハルの再建事業を行い、事業の成功に満足を表明している。

カーゾンの副王在任中にインドで起きた飢饉は、610万人から900万人の命を奪ったといわれる[7]。カーゾンは今日では、このインドの大部分の地域が巻き込まれて数百万人の死者を出した飢饉に対し、ほとんど対策を打たなかったとして非難を受けている[8]。しかしカーゾンは実際には飢饉と戦うための様々な方策を実施し、飢饉救済のために300万人から500万人の人々に食料を配給し、減税を行い、灌漑事業に莫大な予算を費やした[9]

一方でカーゾンは以下のように発言している、「乱費同然のフィランソロピーによってインドの経済状況を危険にさらせば、いかなる政府も深刻な非難を免れない。そして、見境のない慈善活動によって国民を軟弱にし、国民の独立不羈の精神を腐敗させるいかなる政府もまた、公的な犯罪を犯したことになる」[7]。そして、カーゾンは食糧の配給量を「危険なほど多い」と考えていったん削減し、寺院で被害調査を行った後で救援物資の量を元に戻している[7]

アイルランド貴族代表議員(1908年)[編集]

1908年、カーゾンはアイルランド貴族代表議員に選ばれたため、庶民院への復帰を断念することになった。1909年から1910年にかけ、カーゾンは自由党政府が提案する貴族院の立法上の拒否権廃止に対する積極的な反対運動を展開した。1911年、いずれもダービー郡の地名に由来するレーヴェンスデール男爵スカースデール子爵カーゾン・オブ・ケドルストン伯爵(いずれも連合王国貴族)に授爵された。このうちレーヴェンスデール男爵位には娘たちとその直系男系男子への継承を、スカースデール子爵位にはカーゾンの父とその直系男系男子への継承を認める特別規定が、それぞれ定められていた(伯爵位は通常通りカーゾン自身の直系男系男子のみが継承可能)。カーゾンはロイド・ジョージの戦時内閣に、1916年12月から貴族院議長として参加した。カーゾンは女性参政権に反対し続けていた(彼は反選挙権同盟の初期の指導者だった)が、貴族院はあくまでも女性参政権に賛成していた。

2度目の結婚(1917年)[編集]

恋愛小説家エリナー・グリンとの長年にわたる関係の後、カーゾンは1917年にアラバマ出身の裕福な未亡人グレース・エルヴィナ・ハインズと再婚した。後年、カーゾンは政治的には不遇な状態にもかかわらず「the means of Grace」(恩顧を得るすべ/グレースの財産)を楽しんでいる、という冗談が飛び交った。グリンは朝刊にカーゾンの婚約の記事が出るまで、カーゾンと関係を続けていたという。グレースは最初の結婚で3人の子供をもうけていた。彼女は不妊治療や何度かの流産を経験したが、カーゾンの切望する息子、つまり男子相続人を産むことが出来なかった。このことが夫婦関係の崩壊につながっていき、夫妻は離婚をしないまま事実上の離別状態になった。

1917年、カーゾンはイースト・サセックスボディアム城を購入した。14世紀に建てられたこの城は、イングランド内戦の時期に内部が全焼していた。彼はボディアム城に大規模な改修を施し、城をナショナル・トラストに遺贈している。

外務大臣(1919年 - 1924年)[編集]

1919年10月にカーゾンは外務大臣に任じられた。イギリス政府が1919年12月に提案したソ連・ポーランド間の国境線は、カーゾンの名前に因んでカーゾン線と名付けられた。その後に起きたポーランド・ソビエト戦争でポーランドはカーゾン線よりも東部の領土を獲得したが、第2次大戦後にはポーランド国境は西に押し戻された。カーゾン線は現在もポーランドと東側の近隣国とのおおよその国境線となっている。

カーゾンは首相ロイド・ジョージに軽んじられていた。首相は彼を尊大でうぬぼれが強いと思っており、首相のカーゾンに対する扱い方は、まるでロールス・ロイスに駅へ小包を届けさせるような具合である、と言われていた。ロイド・ジョージはずっと後になって、自分の閣僚に対する扱いはウィンストン・チャーチルのそれとはまるで違う、と述べた際に以下のように発言している、「私の閣僚たちは皆重んじられていた、カーゾン以外は」[10]。それでもカーゾンはいくつかの中東問題に取り組んだ。彼はエジプト独立(1922年)に関する交渉を行い、イギリス委任統治領パレスチナを分割して、遅きに失した感は否めないものの、ファイサルの弟アブドゥッラーのためにヨルダン王国を創設した。

カーゾンは1919年11月11日の休戦記念日の記念式典の責任の大半を引き受けていた。ロンドンでの戦勝記念パレードのために、高名な建築家サー・エドウィン・ラッチェンスの手になる石膏製の戦没者記念慰霊碑を制作させていたのもカーゾンであり、この慰霊碑は好評だったため石で作りなおされ、現在も残っている。1921年、カーゾンはケドルストン伯爵、およびカーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵(いずれも連合王国貴族)に授爵された。

ロイド・ジョージ連立内閣に席を占めていた多くの保守党指導者と違い、カーゾンはチャナク危機に際してもロイド・ジョージの協力を得られず、保守党の陣笠議員によるカールトン・クラブ会議での投票の結果、1922年10月に連立内閣が解消されると同時に大臣の座を失いかけた。しかし、カーゾンは新たに成立したアンドリュー・ボナ・ローの保守党内閣で引き続いて外相を務めることになった。1922年から1923年にかけ、カーゾンはドイツの賠償金支払いを求めてフランス軍がルールを占領したことに関して、フランスと外交交渉を行った。カーゾンはフランスの首相(前大統領でもある)レイモン・ポアンカレについて「ぞっとするような小男」と描写している。

1923年5月にアンドリュー・ボナ・ローが首相を引退した時、カーゾンは後継指名を受けることが出来ず、スタンリー・ボールドウィン内閣で外相留任を言い渡された。その年の初めにボナ・ローの引退と蔵相ボールドウィンの後継指名の噂を聞いて不満を表明し、自分が首班となるべき理由を書き連ねた長い手紙をボナ・ローに送ったにもかかわらず、である。この後継指名については、たびたびその経緯が取りざたされる。元首相アーサー・バルフォアなど党の指導者たちの個人的な助言を受けての決定ではあったが、より重要なのはカーゾンの立場に難があったことだった。貴族院議員が首相となることは、庶民院における最大野党で爵位貴族を少数しか抱えていない労働党の攻撃材料になりかねず、また民主主義の時代に富裕な貴族が保守党を指導することが危険と見なされたのである[11]

ボナ・ローの意見の詳細と称する、しかし実際にはボールドウィンの支持者によって書かれた手紙が国王の個人秘書スタンフォーダム卿の元に届けられているが、これが最終決定にどれほどの影響力をもったのかは定かでない。バルフォアは国王に首相は庶民院に席を占めていることが不可欠だと助言したが、個人的にカーゾンを嫌ってもいた。ジョージ5世もカーゾンを嫌っており、この助言を喜んで受け入れ、スタンフォーダム卿に外相をロンドンに呼びつけてボールドウィンが次期首相になると知らせるよう命じた。カーゾンは自分が首相になれると喜び勇んで列車に乗りこみロンドンにやって来たが、真実を知らされると思わず泣き出した。カーゾンは後にボールドウィンのことを「最も取るに足らぬ男」と書いているが、しかしボールドウィン内閣で外相を引き続いて務め、ボールドウィンを保守党党首に推している。

死去[編集]

カーゾンは1924年1月にボールドウィン内閣が総辞職するまで外相を務めた。そしてボールドウィンが1924年11月に政権を奪回すると、カーゾンは枢密院議長に任じられた。カーゾンは翌1925年3月まで同職に留まっていた。この月のある日にケンブリッジに滞在中、カーゾンは膀胱から大量に出血した。カーゾンはその翌日にロンドンに戻り、3月9日に手術を受けた。彼は長年鞭打ってきた体にガタが来たことを悟り、回復を諦めた。1925年3月20日、カーゾンはロンドンで亡くなった。66歳だった。亡き最初の妻メアリーの棺と同じ木から造られたカーゾンの棺はいったんウェストミンスター寺院に収められた後、先祖代々の家に戻され、3月26日に一族の地下納骨堂内のメアリーの棺の隣に安置された。

彼の死によってカーゾン・オブ・ケドルストンの男爵位、伯爵位、侯爵位、およびケドルストン伯爵位は消滅したが、スカースデール子爵位は特別継承規定によってスカースデール男爵位と共に甥が継承した。レーヴェンスデール男爵位も同様に特別継承規定によって長女のメアリー・アイリーンが継承した。現在同爵位を保有するのは次女シンシアの息子ニコラス・モズリーである。

評価[編集]

ダッカ大学のカーゾン・ホール

公的生活および私生活でこれほどの運の転変を経験した政治家はほとんどいない。カーゾンの経歴における栄誉と失望の混在ぶりは他にほぼ類を見ないものである。彼は最後の、そして様々な意味でのヴィクトリア朝最後のインド副王だったが、彼の任期は辞職という形で終わり、表彰の名誉はなく、報酬にも与らなかった。10年以上の政治的空白の後、カーゾンは政府に戻った。ところが世界レベルの見識と経験を持っていたにもかかわらず、カーゾンはロイド・ジョージ内閣では最後の数週間しか外務大臣としての力を十分に行使出来なかった。ローザンヌ会議で自らの評判を回復したものの、首相になるという彼の最終目標は国王ジョージ5世によって挫折させられた。

カーゾンの死後、彼が若い頃から目指していた地位についに手が届かなかったことに対する同情が生れた。彼が機会を逸したことに関する哀悼の念は、ウィンストン・チャーチルが著書『Great Contemporaries』(1937年)の中で以下のように要約している、「夜明けは黄金、真昼は青銅、黄昏は鉛だった。しかしその全てが一応の輝きを放つまで磨かれた」。

1938年に建てられた、ミドルセックスのウィレスデンにあるカーゾン・クレセント保育園は、カーゾンがフェローとして名を連ねたオール・ソウルズ・カレッジの近くにあるため、カーゾンの名前に因んだと信じられている。バングラデシュダッカ大学の理学部が置かれているカーゾン・ホールは、カーゾンの名前にちなんだものである。カーゾン・ホールの建物は1904年、カーゾン本人が落成式を主宰したものである。

称号[編集]

  • 1898年、インド副王に任じられるに伴い、カーゾンはダービー郡のカーゾン・オヴ・ケドルストン男爵に授爵された。この爵位はアイルランド貴族の爵位であり、アイルランド貴族は自動的に貴族院に席を占める資格を有しなかったため、庶民院議員となることは可能だった。
  • 1916年、カーゾンは父の死により爵位を継承し、グレートブリテン貴族である第5代スカースデール男爵となった。この称号は1761年に創設されたものである。
  • 1921年、国王誕生日に際しての叙爵に伴い、カーゾンは連合王国貴族であるカーゾン・オブ・ケドルストン侯爵、ケドルストン伯爵に授爵された。

脚注[編集]

  1. ^ 秦(2001) p.101
  2. ^ 秦(2001) p.511
  3. ^ a b UK Parliament. “Mr George Curzon” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年2月28日閲覧。
  4. ^ ". . . Oscar Browning (1837-1923), who had been sacked from Eton in September 1875 under suspicion of paederasty, partly because of his involvement with young George Nathaniel Curzon" in Michael Kaylor, Secreted Desires 2006 p.98
  5. ^ "His intimate, indiscreet friendship with a boy in another boarding-house, G. N. Curzon [...] provoked a crisis with [Headmaster] Hornby [….] Amid national controversy he was dismissed in 1875 on the pretext of administrative inefficiency but actually because his influence was thought to be sexually contagious" in Richard Davenport-Hines, Oscar Browning DNB
  6. ^ Maximilian Genealogy Master Database, Mary Victoria LEITER, 2000
  7. ^ a b c Davis, Mike. Late Victorian Holocausts. 1. Verso, 2000. ISBN 1-85984-739-0 pg 158
  8. ^ Mike Davis : Late Victorian Holocausts
  9. ^ David Gilmour's Curzon and Ruling Caste. In Curzon he writes that 3.5 million were on famine relief, in Ruling Caste he writes it was over five million.
  10. ^ Michael Foot: Aneurin Bevan
  11. ^ しかしながら、1940年にハリファックス卿が首班指名を受ける障害になったのは貴族院議員だからではなかった。もしハリファックスがチャーチルに勝っていれば、彼は特別措置で庶民院に席を占める予定だった。また1963年、ヒューム伯爵ハリシャム卿が首相候補となった際には、当時成立したばかりの法律に従って爵位を返上することを許されている。

著作[編集]

  • Curzon, Russia in Central Asia in 1889 and the Anglo-Russian Question, (1889) Frank Cass & Co. Ltd., London (reprinted Cass, 1967), Adamant Media Corporation ISBN 978-1-4021-7543-5 (February 27, 2001) Reprint (Paperback) Details
  • Curzon, Persia and the Persian Question (1892) Longmans, Green, and Co., London and New York.; facsimile reprint:
  • Curzon, Problems of the Far East (1894; new ed., 1896) George Nathaniel Curzon Problems of the Far East. Japan -Korea - China, reprint, ISBN 1-4021-8480-8, ISBN 978-1-4021-8480-2 (December 25, 2000) Adamant Media Corporation (Paperback)Abstract
  • Curzon, "The Pamirs and the Source of the Oxus", 1897, The Royal Geographical Society. Geographical Journal 8 (1896): 97-119, 239-63. A thorough study of the region’s history and people and of the British - Russian conflict of interest in Turkestan based on Curzon’s travels there in 1894. Reprint (paperback): Adamant Media Corporation, ISBN 978-1-4021-5983-1 (April 22, 2002) Abstract. Unabridged reprint (2005): Elbiron Classics, Adamant Media Corporation. ISBN 1-4021-5983-8 (pbk); ISBN 1-4021-3090-2 (hardcover).
  • Curzon, The Romanes Lecture 1907, "FRONTIERS", By the Right Honorable Lord Curzon of Kedleston G.C.S.I., G.C.I.E., PC, D.C.L., LL.D., F.R.S., All Souls College, Chancellor of the University, Delivered in the Sheldonian Theater, Oxford, November 2, 1907full text.
  • Curzon, "Tales of Travel" First published by Hodder & Stoughton 1923, (Century Classic Ser.) London, Century. 1989, Facsimile Reprint. ISBN 0-7126-2245-4, Soft Cover. Reprint with Foreword by Lady Alexandra Metcalfe, Introduction by Peter King. A selection of Curzon's travel writing including essays on Egypt Afghanistan Persia Iran India Iraq Waterfalls etc. 12 + 344p., Includes the future viceroy’s escapade into Afghanistan to meet the “Iron Emir”, Abdu Rahman Khan, in 1894.
  • Curzon, "Travels with a Superior Person", London, Sidgwick & Jackson. 1985, Reprint. ISBN 978-0-283-99294-0, Hardcover,Details A selection from Lord Curzon's travel books between 1889 and 1926, "The quintessence of late Victorian travel writing and a delight for modern readers " Illustrated with 90 contemporary photographs most of them from Curzon's own collection. Includes "Greece in the Eighties" pp. 78–84, " Edited by Peter King. Introduced by Elizabeth Longford. 191p. illus. maps on endpapers.

参考文献[編集]

  • Bennet, G. H. (1995). British Foreign Policy During the Curzon Period, 1919–1924. New York: St. Martin's Press. ISBN 0-312-12650-6.
  • Carrington, Michael. A PhD thesis, "Empire and authority: Curzon, collisions, character and the Raj, 1899–1905.", discusses a number of interesting issues raised during Curzon's Viceroyalty, (Available through British Library).
  • Goudie A. S. (1980). "George Nathaniel Curzon: Superior Geographer", The Geographical Journal, 146, 2 (1980): 203–209, doi:10.2307/632861Abstract
  • Gilmour, David (2003). Curzon: Imperial Statesman. Farrar, Straus & Giroux. ISBN 0-374-13356-5.
  • Katouzian, Homa. "The Campaign Against the Anglo-Iranian Agreement of 1919." British Journal of Middle Eastern Studies 25 (1) (1998): 5–46.
  • Nicolson, Harold George (1934). Curzon: The Last Phase, 1919–1925: A Study in Post-war Diplomacy. London: Constable. ASIN B0006AMLTW
  • Ronaldshay, Earl of (1927). The life of Lord Curzon. Vol. 1-2. (London)
  • Ross, Christopher N. B. "Lord Curzon and E. G. Browne Confront the 'Persian Question'", Historical Journal, 52, 2 (2009): 385–411, doi:10.1017/S0018246X09007511
  • Wright, Denis. "Curzon and Persia." The Geographical Journal 153 (3) (1987): 343–350.

外部リンク[編集]

議会
先代:
ジョージ・オーガスタス・ピルキントン英語版
サウスポート選挙区英語版選出庶民院議員
1886年1898年
次代:
サー・ハーバート・ネイラー・レイランド英語版
公職
先代:
サー・ジョン・エルドン・ゴースト英語版
イギリスの旗 インド担当省政務次官英語版
1891年1892年
次代:
ジョージ・ラッセル英語版
先代:
サー・エドワード・グレイ準男爵
イギリスの旗 外務政務次官英語版
1895年1898年
次代:
サー・セント・ジョン・ブロドリック閣下英語版
先代:
第17代ダービー伯爵
イギリスの旗 空軍長官英語版
1916年1917年
次代:
初代カウドレー子爵英語版
先代:
初代クルー侯爵英語版
イギリスの旗 王璽尚書
1915年1916年
次代:
第27代クロフォード伯爵英語版
イギリスの旗 貴族院院内総務英語版
1916年1924年
次代:
初代ホールデン子爵英語版
イギリスの旗 枢密院議長英語版
1916年1919年
次代:
アーサー・バルフォア
先代:
アーサー・バルフォア
イギリスの旗 外務大臣
1919年1924年
次代:
ラムゼイ・マクドナルド
先代:
初代パーモア男爵英語版
イギリスの旗 枢密院議長
1924年1925年
次代:
アーサー・バルフォア
先代:
初代ホールデン子爵英語版
イギリスの旗 貴族院院内総務
1924年1925年
次代:
第4代ソールズベリー侯爵
官職
先代:
第9代エルギン伯爵
イギリス領インド帝国の旗 インド副王兼総督
1899年1905年
次代:
第4代ミントー伯爵
党職
先代:
第5代ランズダウン侯爵
保守党貴族院院内総務英語版
1916年1925年
次代:
第4代ソールズベリー侯爵
先代:
アンドルー・ボナー・ロー
保守党党首英語版
オースティン・チェンバレンとともに

1921年1922年
次代:
アンドルー・ボナー・ロー
名誉職
先代:
第3代ソールズベリー侯爵
Lord Warden Cinque Ports (Lord Boyce).svg 五港長官英語版
1904年1905年
次代:
プリンス・オブ・ウェールズ殿下
学職
先代:
初代ゴッシェン子爵英語版
Oxford University Coat Of Arms.svg オックスフォード大学学長英語版
1907年1925年
次代:
初代ケイヴ子爵英語版
先代:
ハーバート・ヘンリー・アスキス
グラスゴー大学学長英語版
1908年 — 1911年
次代:
オーガスティン・ビレル英語版
イギリスの爵位
新設 初代カーゾン・オブ・ケドルストン侯爵
1921年 – 1925年
次代:
廃絶
初代カーゾン・オブ・ケドルストン伯爵
1911年 – 1925年
初代スカースデール子爵英語版
1911年 – 1925年
次代:
リチャード・カーゾン
初代レーヴェンスデール男爵英語版
1911年 – 1925年
次代:
アイリーン・カーゾン英語版
グレートブリテンの爵位
先代:
アルフレッド・カーゾン
第5代スカーズデール男爵
1916年 – 1925年
次代:
リチャード・カーゾン
アイルランドの爵位
新設 初代カーゾン・オブ・ケドルストン男爵
1899年 – 1925年
次代:
廃絶
先代:
第4代キルメイン男爵英語版
アイルランド貴族代表議員
1908年 – 1925年
廃止