オズワルド・モズレー

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イギリスの旗 イギリスの政治家
オズワルド・モズレー
Oswald Mosley
Sir Oswald Mosley, 6th Bt by Glyn Warren Philpot.jpg
生年月日 1896年11月16日
出生地 イギリスの旗 イギリス ロンドンシティ・オブ・ウェストミンスター
没年月日 1980年12月3日(満84歳没)
死没地 フランスの旗 フランス パリオルセー
出身校 ウィンチェスター・カレッジ
所属政党 保守党→)
無所属→)
労働党→)
(新党→)
イギリス・ファシスト同盟
配偶者 シンシア・モズレー
ダイアナ・モズレー

内閣 ラムゼイ・マクドナルド
在任期間 1929年 - 1930年
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第6代準男爵、サー・オズワルド・アーノルド・モズレー(Sir Oswald Ernald Mosley, 6th Baronet、1896年11月16日 - 1980年12月3日)は、イギリスの政治家。

イギリス・ファシスト同盟指導者。息子は弁護士国際自動車連盟(FIA)元会長のマックス・モズレー

略歴[編集]

生い立ち[編集]

ロンドンに第5代準男爵の子として生まれ、のち第6代準男爵となる。イギリス最古のパブリック・スクールウィンチェスター・カレッジからサンドハースト陸軍士官学校(1914年1月に入学)という、上流階級子弟の典型的なエリートコースを進む。ただし、同年6月に同校を退学処分となっている。1920年にジョージ・カーゾンの娘シンシアと結婚(3人の子をもうけたが、シンシアは1933年に腹膜炎で死亡)。

政界[編集]

第一次世界大戦に従軍後、22歳で保守党から代議士で当選(1918年-1924年)。その2年後に保守党を脱党。暫く無所属となるも、1924年労働党に入党。1926年に再度、代議士となる(1926年-1931年)。1929年に労働党のラムゼイ・マクドナルド内閣にランカスター公領相として初入閣を果たす。

しかし、保守的な党の体質に幻滅し1930年に大臣を辞して離党、より強力な政府の統制を主張して「新党」を結成する。だが、翌1931年総選挙では、新党は自らを含めて候補者が全員落選の憂き目に遭う。

ファシスト[編集]

1932年ドイツイタリアを訪問。ドイツでのナチスの盛り上がりやイタリアのムッソリーニ率いるファシスト政権の成果を目の当たりにして、帰国後に自らの党を「イギリス・ファシスト同盟」に改称。ファシストとしての立場を鮮明とする。

労働党の内紛や世界大恐慌による社会不安からモズレーのファシスト同盟は人気を得、1934年には党員数がピークに達した。しかし、この頃から反ユダヤ主義を主張し始めると人気に陰りが出てきてしまい、国政進出は終に果たせなかった。

ドイツのナチ党総統ヒトラーは、思想を同じくするモズレーの台頭を期待していたといわれている。1936年に2人目の妻、ダイアナ・ミットフォードDiana Mitford)と結婚した際、結婚式はベルリンで挙行されヒトラーとゲッベルスが出席した。そのため、第二次世界大戦中はイギリス情報局保安部(MI5)の監視対象となっていた。

没落[編集]

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、モズレーは党員と支持者にイギリス政府と軍への支持と協力を呼びかけるが、1940年逮捕・拘禁され、ファシスト同盟も解散させられた。

戦後、釈放されると1951年アイルランドへと出国するが、1959年に帰国して総選挙に出馬。その後も何度か国政復帰を試みるものの、かつての人気を取り戻すことはできず政界復帰は成らなかった。この前後に、国王を退位したエドワード8世(ウィンザー公爵)と親交を持った。1968年に自叙伝『我が生涯』を執筆後にパーキンソン病に罹り、フランスパリ郊外のオルセーで死去した。

カリカチュア[編集]

P・G・ウッドハウスの小説『ジーヴス』シリーズには、彼をモデルにしたと思われる「ロデリック・スポード」という人物が登場する。彼は「黒シャツ隊」ならぬ「黒ショーツ隊」なるファシスト集団を率いている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]