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ロバート・ステュアート (カースルレー子爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第2代ロンドンデリー侯爵
ロバート・ステュアート
Robert Stewart,
2nd Marquess of Londonderry
トマス・ローレンスによる肖像画、1817年。
生年月日 1769年6月18日
出生地  アイルランド王国ダブリン
没年月日 1822年8月12日 (満53歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリスケントLoring Hall
出身校 The Royal School, Armagh
ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ
所属政党 ホイッグ党のちトーリー党
称号 ガーター勲章受勲者(KG)
ロイヤル・ゲルフ勲章受勲者(GCH)
枢密顧問官(PC)
配偶者 エミリー・ホバート
親族 第3代ロンドンデリー侯爵(異母弟)

在任期間 1798年 - 1801年

内閣 アディントン内閣第2次小ピット内閣
在任期間 1802年 - 1806年

内閣 第2次小ピット内閣
在任期間 1805年7月10日 - 1806年2月5日

内閣 第2次ポートランド公爵内閣
在任期間 1807年3月25日 - 1809年11月1日

内閣 リヴァプール伯爵内閣
在任期間 1812年3月4日 - 1822年8月12日
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第2代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアート: Robert Stewart, 2nd Marquess of Londonderry KG GCH PC1769年6月18日 - 1822年8月12日)は、アイルランド生まれのイギリスの政治家・外交官。襲爵前に称していたカースルレー子爵Viscount Castlereagh)の儀礼称号で知られる。

略歴

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初代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアートと1人目の妻サラ・フランシス(1747年9月27日 – 1770年7月18日、初代ハートフォード侯爵フランシス・シーモア=コンウェイの娘)の息子として、1769年6月18日に生まれた[1]アーマーロイヤル・スクール英語版で教育を受けた後、ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに進学した[1]

アイルランド議会では1790年から1800年までダウン県選挙区英語版選出庶民院議員を、グレートブリテン議会では1794年から1796年までトレゴニー選挙区英語版選出、1796年から1797年までオーフォード選挙区英語版選出庶民院議員を務めた[1]。アイルランド庶民院ではアイルランド王国グレートブリテン王国への併合を定めた1800年合同法の制定に尽力した[1]。合同法によりグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立すると、1801年から1805年までダウン選挙区英語版選出、1806年1月から10月までバラブリッジ選挙区英語版選出、1806年11月から1812年までプリンプトン・アール選挙区英語版選出、1812年から1821年までダウン選挙区選出の連合王国庶民院議員を務めた[1]

1797年10月20日にアイルランド枢密院英語版の枢密顧問官、1798年12月19日にグレートブリテン枢密院の枢密顧問官に任命され、1798年から1800年までアイルランド主席政務官英語版を務めた[1]アディントン内閣期より閣僚職を歴任し、1802年から1806年までインド庁長官、1805年から1806年までと1807年から1809年まで陸軍・植民地大臣、1812年から1822年まで外務大臣を務めた[1]。1814年6月9日にガーター勲章を授与され、同年のウィーン会議と1818年のアーヘン会議にイギリス代表として出席した[1]

同時代の閣僚ジョージ・カニングとは犬猿の仲で、1809年9月には外務大臣だったカニングが首相ポートランド公爵にカースルレー子爵の陸軍・植民地大臣解任を要求し、2人が9月21日に決闘を行う事件が起こった[1]

1802年11月11日、王立協会フェローに選出された[1]。1821年、ロイヤル・ゲルフ勲章を授与された[1]。1821年4月6日に父が死去すると、ロンドンデリー侯爵位を継承した[1]

1822年8月12日、ケントノース・クレイ英語版(現ロンドン南東部)で頸動脈を切って自殺した[1]。(精神的な)過労が原因とされる[1]。8月20日、ウェストミンスター寺院に埋葬された[1]。子女がおらず、爵位は異母弟チャールズが継承した[1]

家族

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カースルレー子爵夫人アメリア・アン英語版、1794年。

1794年6月9日、アメリア・アン・ホバート英語版(1772年2月20日 – 1829年2月12日、第2代バッキンガムシャー伯爵ジョン・ホバートの娘)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Cokayne, George Edward; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1932). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Lindley to Moate) (英語). Vol. 8 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 110–113.

関連文献

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外部リンク

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アイルランド議会
先代
ヒルズバラ伯爵英語版
エドワード・ウォード閣下英語版
庶民院議員(ダウン県選挙区英語版選出)
1790年 – 1800年
同職:ヒルズバラ伯爵英語版 1790年 – 1793年
フランシス・サヴェージ英語版 1794年 – 1800年
次代
連合王国議会
先代
ヒュー・カーンクロス
リチャード・トレンチ閣下英語版
庶民院議員(ニュータウン・リマヴァディ選挙区英語版選出)
1798年
同職:ヒュー・カーンクロス
次代
ジョン・マクスウェル英語版
エア・パワー・トレンチ
グレートブリテン議会英語版
先代
ジョン・スティーブンソン英語版
マシュー・モンタギュー英語版
庶民院議員(トレゴニー選挙区英語版選出)
1794年 – 1796年
同職:マシュー・モンタギュー英語版
次代
ライオネル・コプリー
ジョン・ニコルズ英語版
先代
ウィリアム・シーモア=コンウェイ
ロバート・シーモア=コンウェイ
庶民院議員(オーフォード選挙区英語版選出)
1796年 – 1797年
同職:ロバート・シーモア=コンウェイ
次代
ヤーマス伯爵英語版
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
アイルランド議会
庶民院議員(ダウン選挙区英語版選出)
1801年 – 1805年
同職:フランシス・サヴェージ英語版
次代
フランシス・サヴェージ英語版
ジョン・ミード閣下英語版
先代
ジョン・スコット
エドワード・バークリー・ポートマン英語版
庶民院議員(バラブリッジ選挙区英語版選出)
1806年
同職:エドワード・バークリー・ポートマン英語版
次代
ヘンリー・ドーキンス
ウィリアム・ヘンリー・クリントン英語版
先代
エドワード・ゴールディング英語版
フィリップ・メトカルフ英語版
庶民院議員(プリンプトン・アール選挙区英語版選出)
1806年1812年
同職:サー・スティーブン・ラッシントン準男爵英語版 1806年 – 1807年
ウィリアム・ハーボード英語版 1807年 – 1810年
ヘンリー・ドラモンド英語版 1810年 – 1812年
次代
ラナルド・ジョージ・マクドナルド英語版
ジョージ・ダッケット
先代
ロバート・カーゾン閣下英語版
ジェームズ・ゴードン英語版
庶民院議員(クリセロー選挙区英語版選出)
1812年
同職:ロバート・カーゾン閣下英語版
次代
ロバート・カーゾン閣下英語版
エドワード・ブートル=ウィルブラハム英語版
先代
ジョン・ミード閣下英語版
ロバート・ウォード閣下英語版
庶民院議員(ダウン選挙区英語版選出)
1812年 – 1821年
同職:ジョン・ミード閣下英語版 1812年 – 1817年
アーサー・ヒル卿英語版 1817年 – 1821年
次代
アーサー・ヒル卿英語版
マシュー・フォード英語版
先代
ジョン・ダグラス英語版
エドモンド・アレグザンダー・マクナーテン英語版
庶民院議員(オーフォード選挙区英語版選出)
1821年 – 1822年
同職:エドモンド・アレグザンダー・マクナーテン英語版
次代
エドモンド・アレグザンダー・マクナーテン英語版
チャールズ・ロス
公職
先代
ペラム卿
アイルランド主席政務官
1798年 - 1801年
次代
チャールズ・アボット
先代
第3代ダートマス伯爵
インド庁長官
1802年 - 1806年
次代
初代ミントー男爵
先代
第2代カムデン伯爵
陸軍・植民地大臣
1805年 - 1806年
次代
ウィリアム・ウィンダム
先代
ウィリアム・ウィンダム
陸軍・植民地大臣
1807年 - 1809年
次代
第2代リヴァプール伯爵
先代
初代ウェルズリー侯爵
外務大臣
1812年 - 1822年
次代
ジョージ・カニング
先代
スペンサー・パーシヴァル
庶民院院内総務
1812年 - 1822年
次代
ジョージ・カニング
アイルランドの爵位
先代
ロバート・ステュアート
ロンドンデリー侯爵
1821年 - 1822年
次代
チャールズ・ヴェーン