トラファルガーの海戦

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トラファルガーの海戦
Turner, The Battle of Trafalgar (1806).jpg
トラファルガーの海戦(ターナー画)[1]
戦争ナポレオン戦争
年月日1805年10月21日
場所スペイントラファルガー岬
結果イギリスの勝利
交戦勢力
Flag of the United Kingdom.svg イギリス Flag of France (1794–1815, 1830–1958).svg フランス帝国
スペインの旗 スペイン王国
指導者・指揮官
Naval Ensign of the United Kingdom.svg ホレーショ・ネルソン 
Naval Ensign of the United Kingdom.svg カスバート・コリングウッド
フランスの旗 ピエール・ヴィルヌーヴ
スペインの旗 フェデリコ・グラビーナ
戦力
戦列艦 27、フリゲート 4、他 2 仏:戦列艦 18、他 8
西:戦列艦 15
損害
死者 449
戦傷 1,214
死者 4,480
戦傷 2,250
捕虜 7,000
大破・拿捕 22隻

トラファルガーの海戦(トラファルガーのかいせん、: Battle of Trafalgar: Bataille de Trafalgar)は、1805年10月21日に、スペイン南部アンダルシア州の西側にある大西洋に面したトラファルガー岬の沖合いにおいて、イギリス艦隊とフランス・スペイン合同艦隊の間で行われた海戦である。ナポレオン戦争期間における最大規模の海戦となり、イギリス側が勝利してフランスは海上戦力の大半を喪失する事になった。

イギリス艦隊司令官ホレーショ・ネルソンはこの戦いの中で命を落とす事になったが、彼が戦闘開始時に発した「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」の信号は名文句として後世に残された。

なお、この海戦の勝利の重要さが明確に認識されるようになったのはナポレオン戦争が終結した後であった。海戦の発生理由もイギリス本土防衛に直接起因するものではなく、あくまで敵艦隊の撃滅を目指していたネルソンの積極的性格に拠る所が大きかった。海戦後の1806年以降、ヨーロッパの覇権を握ったナポレオン大陸封鎖令を強化するにつれて、トラファルガーでフランス艦隊を壊滅させておいた事への戦略的意義が高まり始めた。ナポレオンの敗北後、トラファルガー海戦の結果が終始イギリスの優位性を支えていたと分析された事から、ネルソンは救国の英雄として称えられるようになった。

海戦までの流れ[編集]

当時の英仏情勢[編集]

Strategic Situation of Europe 1805.jpg

1803年5月、アミアンの和約を破棄したイギリスは同時にフランスへ宣戦し両国は交戦状態となった。英仏の戦いはまず海上の通商破壊戦から始まった。イギリス海軍の戦力はフランス海軍を大きく上回っていたので、大西洋地中海の制海権はイギリス側に握られる事になった。フランス海軍は外洋へ出る度にイギリス海軍に攻撃されては母港へ逃げ返る事を余儀なくされたので、小船団だけでなく主力艦隊でさえもそれぞれの軍港から一歩も出られない事実上の封鎖状態に置かれていた。時の権力者ナポレオンはフランスに忠実な同盟国となっていたスペイン王国の海軍に協力を求めて、この追加戦力に一縷の希望をつなげていた。

当時のフランス海軍は、ブレスト軍港とトゥーロン軍港に主力艦隊を配置していた。またスペイン海軍はカディス軍港に主力艦隊を配備していた。いずれの艦隊もイギリス海軍の強力な封鎖網に太刀打ち出来ず、隙を見計らっては小部隊を出港させるだけに留まっていた。一方、イギリス海軍はイギリス海峡に主力艦隊を展開して同時にブレスト艦隊を封鎖し、また地中海ではホレーショ・ネルソンが地中海艦隊を指揮してトゥーロン艦隊を抑え込んでいた。

ナポレオンのイギリス上陸作戦[編集]

1804年5月、第一帝政を樹立したナポレオンは、イギリス本土を望むドーバー海峡に面したブローニュの地に大規模なイギリス遠征軍を集結させた。1805年1月までに2500隻の上陸用船舶を海峡沿岸に用意させたが、その突入にはフランス艦隊の援護が不可欠であった。1805年3月、幾度かの失敗を経てナポレオンは海軍出撃計画をこの様に決定した。

  1. ブレスト艦隊とトゥーロン艦隊が共に出撃してイギリス封鎖艦隊を破った後に、イギリス海軍の追跡を撒く為に大西洋を西へ横断してカリブ海諸島に向かう。
  2. トゥーロン艦隊はその道中でカディス軍港に向かい、スペイン海軍のカディス艦隊を戦列に加える。
  3. カリブ海諸島で合流した三艦隊は、大西洋を東へ横断してイギリス海峡に展開するイギリス主力艦隊に殴り込みをかける。
  4. 英仏両艦隊が交戦してる隙に、ブローニュのフランス陸軍がドーバー海峡を渡る。

ヴィルヌーブ艦隊の出航[編集]

ヴィルヌーブ

1805年3月30日、ピエール・ヴィルヌーヴが指揮するトゥーロン艦隊が出港し、地中海に展開するネルソン艦隊を巧みに回避して、4月8日にジブラルタル海峡を突破する事に成功した。カディスに向かったヴィルヌーブは、少数だったイギリス艦隊を追い払ってスペイン海軍のカディス艦隊と合流し、そのまま大西洋を西へ横断して5月12日にカリブ海諸島に到着した。そこでブレスト艦隊の到着を待ったが、ブレスト艦隊は封鎖を突破出来なかったので、ヴィルヌーブはカリブ海で約1ヶ月半を無為に過ごす事になった。計画の変更を余儀なくされたナポレオンは、ヴィルヌーブに再び大西洋を横断してブレスト軍港に向かい、内側のブレスト艦隊と呼応してイギリス封鎖艦隊を破り合流を果たすよう指示を出した。

フィニステレ岬の海戦[編集]

1805年7月9日、ナポレオンからの命令書を受け取ったヴィルヌーブはカリブ海から出航し、大西洋を東へ横断して、7月22日にスペイン北西部にあるフィニステレ岬の沖合いに到着した。この動きを掴んでいたイギリス海軍のビスケー湾艦隊は、ここでヴィルヌーブ艦隊に攻撃を仕掛けた(フィニステレ岬の海戦)。ヴィルヌーブは敗走しスペイン北西部のフェロル軍港に艦隊を退避させた。ナポレオンがブレスト軍港への突入命令を繰り返したので、8月10日にヴィルヌーブはフェロル軍港を出たが、イギリス艦隊の圧力に押されて南に針路変更し、今度はカディス軍港へと退避した。

この時点でナポレオンはイギリス上陸作戦を断念したとされる。8月下旬にブローニュの遠征軍陣地を引き払ったナポレオンは、その軍勢を内陸部のドイツ方面へ移動させて、イギリスと同盟していたオーストリア軍と交戦する事になった。一方、ネルソンは封鎖していたトゥーロンの敵艦隊がいなくなった事から地中海艦隊を離れ、8月上旬までにイギリス本土へ帰還していた。

トラファルガーの海戦へ[編集]

ネルソン

1805年8月15日、四ヶ月前の封鎖突破戦で大きな被害を受けていたブレスト艦隊の弱体化を確認したイギリス海軍は、イギリス海峡に展開していた戦力からコリングウッド艦隊を割いて、ヴィルヌーブ艦隊が立て篭もるカディスへと向かわせた。また、9月15日にはビスケー湾艦隊もカディス近海に到着し、旗艦「ヴィクトリー」に乗るネルソンが9月28日に赴任して艦隊指揮権を受け取った。

この頃、ナポレオンは交戦するオーストリアと同盟したナポリ王国へも侵攻軍を差し向けており、イギリス相手が無理ならばとヴィルヌーヴに地中海へ入ってナポリ王国を海上から攻撃するように命じた。その命令書は9月16日にカディスに届いたが、ジブラルタル海峡を突破出来る自信の無いヴィルヌーブは出撃を渋り続けた。10月18日になってようやくヴィルヌーブ艦隊はカディスを出発し南航しつつジブラルタル海峡へと向かった。しかし、20日に心変わりしたヴィルヌーブは艦隊を北に反転させて再びカディス軍港に戻る事を決めた。10月21日早朝、ヴィルヌーブ艦隊はカディスとジブラルタルの中程にあるトラファルガー岬沖合いを北に進んでいた。これを捕捉したネルソン艦隊とコリングウッド艦隊が西側からフランス・スペイン艦列へ一斉突入し、海戦の火蓋が切られた。

両軍の戦力[編集]

イギリス海軍[編集]

ネルソン艦隊 総旗艦「ヴィクトリー」副旗艦「ブリタニア」

  • 戦列艦「ヴィクトリー」ネルソン中将座乗
  • 戦列艦「テメレーア」
  • 戦列艦「ネプチューン」
  • 戦列艦 2隻
  • 戦列艦「ブリタニア」カーネギー少将座乗
  • 戦列艦 5隻

コリングウッド艦隊 旗艦「ロイヤルソヴリン」

  • 戦列艦「ロイヤルソヴリン」コリングウッド中将座乗
  • 戦列艦 9隻
  • 戦列艦「ドレッドノート」
  • 戦列艦 3隻
  • 戦列艦「プリンス」

補助艦艇

  • フリゲート艦 4隻
  • スクーナー船 1隻
  • カッター船 1隻
  • 戦列艦「アフリカ」

フランス・スペイン海軍[編集]

第一群 旗艦「フォーミダブル」

  • 戦列艦 3隻
  • 戦列艦「フォーミダブル」ル・プレ少将座乗(フランス)
  • 戦列艦 4隻

第二群 総旗艦「ビューセントル」副旗艦「ヌエストラセニョーラデラサンティシマトリニダード」

  • 戦列艦 1隻
  • 戦列艦「ヌエストラセニョーラデラサンティシマトリニダード」シスネロス少将座乗(スペイン)
  • 戦列艦「ビューセントル」ヴィルヌーブ中将座乗(フランス)
  • 戦列艦 4隻

第三群 旗艦「サンタアーナ」

  • 戦列艦「サンタアーナ」ナーヴァレテ中将座乗(スペイン)
  • 戦列艦 8隻

第四群 旗艦「プリンシペデアストゥリアス」副旗艦「アルジェシラス」

  • 戦列艦「アルジェシラス」ド・メジーヌ少将座乗(フランス)
  • 戦列艦 5隻
  • 戦列艦「プリンシペデアストゥリアス」グラヴィーナ大将座乗(スペイン)
  • 戦列艦 2隻

補助艦艇

  • フリゲート艦 5隻
  • ブリッグ船 2隻

海戦[編集]

ネルソン・タッチの図。フランス・スペイン連合艦隊(青)の脇腹をイギリス艦隊(赤)が突く

ネルソン提督のイギリス艦隊は「ヴィクトリー」を旗艦とする27隻。ピエール・ヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊は「ビューサントル」を旗艦とする33隻であった。ネルソン提督は敵の隊列を分断するため2列の縦隊で突っ込むネルソン・タッチという戦法を使った。訓示を受けた連合艦隊の艦長の中にはマストに多数の狙撃兵を配置して接近戦に備える者もあった。

連合艦隊は数で勝っていたが、スペイン海軍も混じっていて指揮系統が複雑な上、士気や錬度が低く、艦載砲の射速も3分に1発と劣っていた。一方イギリス海軍は士気も錬度も高く、射速も1分30秒に1発と優れていた。

ネルソンの計画に従って、午前11時45分に主な戦いは行われた。ネルソンは「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」という有名な信号旗を送った。戦闘が始まった時、フランス・スペイン艦隊は北方向にカーブした陣形を取っていた。ネルソンの計画通り英国艦隊は2列に縦列でフランス・スペイン艦隊に接近した。風上の縦列はネルソンのヴィクトリーが、風下の縦列は火砲を100門装備したコリングウッドのロイヤル・ソブリンがそれぞれ艦隊を北の方向へと導いた。

激戦の末、連合艦隊は撃沈1隻、捕獲破壊18隻、戦死4,000、捕虜7,000という被害を受け、ヴィルヌーヴ提督も捕虜となった。一方イギリス艦隊は喪失艦0、戦死400、戦傷1,200という被害で済んだが、ネルソン提督はフランス艦ルドゥタブルの狙撃兵の銃弾に倒れた。

ネルソンは「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い残して絶息した。

海戦後の影響[編集]

ナポレオンはこの敗戦の報に対し、嵐による壊滅であると黙殺したが、制海権を失った以上、イギリス侵攻を諦めざるを得なくなった。ただしイギリスではピット首相が祝宴を催したものの、ロンドンでは、この海戦の勝利による昂揚に沸き立つこともなかった。ナポレオンはこの海戦の敗退による危機を、2ヶ月後のアウステルリッツの勝利で打開した。

イギリスのピット首相は、アウステルリッツでの敗北にショックを受け、翌年失意の内に病死している。トラファルガーの勝利の意味とは、イギリスの海上制覇という部分にあり、ナポレオン戦争の戦局の一大転機ではなかった。1815年ワーテルローの戦いでナポレオンに勝利して初めて、トラファルガーの勝利の意味が評価されるようになるのである。

注:この段落は事実関係の確認が必要(しかしイギリスにとってこの戦いの勝利はフランス海軍にイギリス本土攻撃を阻止しただけでなかった。イギリス海軍は1807年のコペンハーゲンの戦いで積極的に行動する事が出来、1808年の戦役において、他国の艦隊がフランス海軍の手に落ちる事を防いだ。)

これらの一連の作戦は成功したが、フランスでは1814年までに80隻に及ぶ大規模な造船計画が進められていたのに対し、イギリスは最大でも99隻の船しか1814年の時点で稼働できる状態でなかった。あと数年あれば、フランス海軍は150隻の艦隊を編成して、乗員の質を艦隊の数でカバーして、再度イギリス海軍に挑む計画を思い至ったと思われる。

この戦勝を記念して造られたのがロンドンのトラファルガー広場(Trafalgar Square)である。広場にはネルソン提督の記念碑が建てられている。

一方、フランス国民にとってこの敗北はトラウマとなり、ありえない敗北による衝撃を「トラファルガー」と表現するようになった。モーリス・ルブランの冒険推理小説『ルパン対ホームズ』において、フランスの怪盗アルセーヌ・ルパンがイギリスの名探偵シャーロック・ホームズに送りつけた挑戦状の中で「トラファルガーの敵討ち」と挑発しているように、その後の英仏の対決においてたびたび引き合いに出されるようになったのである。

関連作品[編集]

パソコンゲーム
漫画

脚注[編集]

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  1. ^ 荒川裕子 『もっと知りたいターナー 生涯と作品』 東京美術2017年、32頁。ISBN 978-4-8087-1094-1

参考文献[編集]

  • ジョン・テレン 著、石島晴夫 訳 『トラファルガル海戦』 原書房、2004年、ISBN 4562037792
  • ロイ・アドキンズ 著、山本史郎 訳 『トラファルガル海戦物語』 原書房、2005年、ISBN 4562039612(上巻)、ISBN 4562039620(下巻)
  • 両角良彦 著、反ナポレオン考 <新版> 朝日選書、1998年、ISBN 4022597151
  • Encyclopedia Britannica