シャンパーニュ

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18世紀のシャンパーニュを、現在の県で分割し色分けした図

シャンパーニュChampagne)は、フランスのかつてのである。

由来[編集]

シャンパーニュという名称は、古いフランス語のCampagne(田舎)に由来する。それはルネサンス期に現れたイタリア風の二重語である[1]。今日では、広く開けた、チョーク質の地盤を持つ風景を特定する地名である[2]。殆どの場合は平原であるが、必ずしもそうではなく、シャンパーニュ・クレイユーズ地方の台地がよい例である。シャンパーニュは様々な地名や地方にその名を与えている。しかし最も有名なのは、かつて州であったこのシャンパーニュである。

シャンパーニュの名が初めて現れるのは1065年、ブロワ伯ティボー3世がシャンパーニュ伯となった時である。彼は甥のウードから、シャンパーニュ、トロワモーの伯領を奪ったのである。

歴史[編集]

フランス王国第3の町、プロヴァン近郊が統合され、宮中伯領となり、1065年に成立した。すなわち宮中伯領は、メロヴィング朝時代のアウストラシア西部を解体して生じた伯領で、フランスの東部であった。シャンパーニュはシャンパーニュ=アルデンヌ地域圏の中にあり、エーヌ県の南部、セーヌ=エ=マルヌ県の大半とブリーにも及ぶ。北側はリエージュ司教公領と境界を接するがジヴェは除外される。そのテロワールはワインのシャンパンにその名を与えている。

Champagne、同じ発音であるChampaigneは、中世後期に記される名前である。中世盛期に初めてラテン語名で記されたのはCampanensesそして、Champenoisであった。やがて拡張していくシャンパーニュ伯領とその自然区分上の地方は、当時は古代に生まれた6つの司教座に対応した。ラングルサンス、トロワ、ランス、モー、シャロンである。

この州は、中世にシャンパーニュの大市のおかげで、州の西側が主要な経済の中心地であった。シャンパーニュ伯の宮廷は洗練されており、その中の1人ティボー・ド・シャンパーニュ(ナバラテオバルド1世)は香料バラであるロサダマスケナの輸入をしていた。初期のフランス人作家クレティアン・ド・トロワは、宮廷文学を生み出し、方言を文化的な標準のレベルに引き上げた。1129年、シャンパーニュ伯はユダヤ人ラビ、ラシの保護者となっており、パラクレ大修道院は最も権威のある修道院(アルジャントゥイユのエロイーズが修道院長であったこともある)であった。そして最初の銀行ネットワークがテンプル騎士団のもとで営まれた。1284年、シャンパーニュ女伯であったナバラ王女フアナがフランス王子フィリップと結婚したことで、シャンパーニュはフランス王領に併合された。フランス王に戴冠させるランス司教は、重要な政治的役割を持っていた。

脚注[編集]