ドイツ国家人民党
| ドイツ国家人民党 Deutschnationale Volkspartei | |
|---|---|
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| 議長 |
オスカー・ヘルクト (1919-1924) ヨハン・ヴィンクラー (1924-1926) クーノ・フォン・ヴェスタープ (1926-1928) アルフレート・フーゲンベルク (1928-1933) |
| 成立年月日 | 1918年11月24日 |
| 前身政党 |
ドイツ保守党 自由保守党 ドイツ祖国党 国民自由党右派 キリスト教社会党 |
| 解散年月日 | 1933年6月27日 |
| 後継政党 |
ドイツ右翼党[1] ドイツ党[2] |
| 本部所在地 |
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| 政治的思想・立場 |
右派[3] - 極右 保守主義[4] ユンカー利益政党[5] 反共主義/反社会主義[6] 反ユダヤ主義[7] 反民主主義[8] 反議会主義[9] 反ヴァイマル憲法[10] 反ヴェルサイユ条約[10] 帝政復古[8] |
| 党旗 |
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| 公式カラー | 黒 白 赤 |
ドイツ国家人民党(ドイツこっかじんみんとう、ドイツ語: Deutschnationale Volkspartei, 略称:DNVP)は、ヴァイマル共和政期のドイツの保守・右派政党。ドイツ国家国民党[11][12]、ドイツ国粋人民党[13]とも訳される。
概要
[編集]第一次世界大戦後の1918年12月にドイツ保守党(DKP)や自由保守党(FKP)など帝政時代の保守政党が合同して結党され、その政策には民族主義、反ユダヤ主義、君主制保守主義などのフェルキッシュ的な要素が含まれていた。ヴァイマル共和政に反対する保守野党としてリベラルな政府と徹底対決した。当初は共和国に明確に敵対し、1920年に起きたカップ一揆を支持していたが、1925年から1928年にかけてはやや穏健化し、政権に参加した時期もある。しかし1928年以降はフーゲンベルク指導のもと極端な民族主義的見解を掲げ保守野党路線に戻った。ヒトラー率いる国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)と反政府で共闘し、1933年に成立したヒトラー内閣に連立与党として参加した。DNVPは、ナチ党一党独裁への道を開いた全権委任法に賛成し、1933年6月の党解散後は多くがNSDAPに移った。
党史
[編集]結党と党の体制
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帝政末期、保守勢力は様々な党に分立していたため、リベラル勢力に対して後れを取ることが多かったが、第一次世界大戦末期にドイツ革命や敗戦を目の当たりにして驚愕した保守勢力は、ドイツ皇室護持、反革命、反共和国、保守勢力に対する敗戦責任追及阻止の旗印のもと、一つの巨大保守政党のもとに結集しなければならないという危機感を抱いた[14]。
その流れで、1918年11月24日にドイツ保守党(DKP)や自由保守党(FKP)など帝政期の保守政党が中心となってドイツ国家人民党が結党された[15][16][17]。労働者層に支持を広げていた反ユダヤ主義政党キリスト教社会党なども参加した[18]。戦時中に200万人のメンバーを擁した戦争翼賛大衆組織ドイツ祖国党とも人的一貫性を持つ[6]。旧保守党員だけではなく、ドイツ人民党に参加しなかった国民自由党右派も結集した[19]。彼らは戦時中に領土併合主義を唱えて祖国党と近い立場を取ったために自由主義勢力に帰れなくなっていた者たちだった[20]。帝政期の保守右翼勢力をほぼ全て内包する形で成立した[21]。
国家人民党の党組織は、議長、副議長、財務委員長など32名の指導部からなる党中央とその下部組織、および地方の州連盟とその下部組織から成る。州連盟の党中央に対する自立性が強いのが特徴である。党中央による中央集権化の試みもあったが、州連盟の反対にあって挫折している。これは州連盟が、党創設の際に自発的に形成されたか、帝政期の保守政党の地方組織をそのまま転用して成立したものだったからである[17]。
国家の保護と傘下の利益団体に依拠していた帝政期の保守党の性格を引き継ぎ、多くの利益団体が国家人民党の背後に存在した[22]。代表的な支持団体は帝政期保守党の支持団体だった農業者同盟(BdL)が改組された全国農村同盟(RLB)、ドイツ民族至上主義攻守同盟という形で大衆扇動的な付属組織を数多く持つ全ドイツ連盟、在郷軍人組織の鉄兜団、保守系労働組合の中心的機能を果たしたドイツ国家事務員連盟(DHV)やドイツ従業員組合総連盟、アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックを中心とした新保守主義運動グループなどである。多くの業者別・地域別団体の頂上組織で当時最大の利益団体だったドイツ工業全国連盟(RDI)からも支援を受けていたが、この団体はドイツ人民党やドイツ民主党、中央党など他のブルジョワ政党の支持団体でもあった。これら利益団体が党の政策に大きく干渉した。国家人民党は反ヴァイマル憲法と反ヴェルサイユ条約の立場を明確にすることによって様々な国粋主義組織を支持団体として傘下に収めていたため、比較的選挙に強い安定した党だった[23]。
党の支持層と思想
[編集]主な支持層はユンカー(東エルベの大地主貴族)や実業家などであり、伝統的で保守的な政策を主張し、富裕層の利益を最優先にする「ブルジョワ政党」であった[6]。ドイツ皇室の復活を求める帝政復古派も多かった。「反議会主義統合政党」を自任し、ヴァイマル憲法およびそれが体現した共和制や議会政治に反対した。議会政治のルールの受け入れも拒否していたが、これは国会内における国家人民党の影響力を放棄することにもつながっていたため、利益政党として活動する上での制約になるというジレンマがあった[16]。
また反社会主義・反共主義の立場をとり、社会主義者の裏切りのせいで敗戦したという「背後からの一突き」説を喧伝して左翼政党を非難した[6]。ヴェルサイユ条約にも強い敵愾心を示した[6]。
また党の初期の頃にはドイツ民族至上主義者も多数参加していたので、彼らを中心に人種差別的な反ユダヤ主義を声高に唱えた時期もあるが、ユダヤ人に対する人種的攻撃はその他の点では反ユダヤ主義に好意的であった旧保守党勢力からも抵抗を受けた。彼らはそれによって党の社会的威信が傷つくことを恐れていた。結局この民族至上主義者グループは1922年にドイツ民族自由党(DVFP)という別政党を立ち上げて分離している[6]。

ただし、国家人民党は、できるだけ多くの帝政の遺物を革命から救い出すことだけを共通項に、保守派が広く集まった統合政党であることから、結党時から一貫した立場を持ちえず、時々の政治情勢、経済情勢で揺れ動くことが多かった。党の最大の基本理念は反共和国、反革命であるにもかかわらず、党創設宣言ではキリスト教社会派や労働者、リベラルの支持も狙って、共和制や議会主義への基本的な受容が盛り込まれている始末だった。短期間で次々と革命が進展していく現実を前に余儀なくされた仮の対応だったと見られるが、党内からは共和国との妥協を図ろうとしているという激しい批判に晒された。1919年に党首のオスカー・ヘルクトが独断で発表した「秩序綱領(Ordnungsprogram)」も同様の批判に晒された。このヘルクトの秩序綱領発表以降、国家人民党内は、ヴァイマル共和国政府に妥協的な指導部とヴァイマル体制との徹底対決を求める党内過激派の対立が続いていく[22]。
反ユダヤ主義についても同様であり、党としての反ユダヤ主義は、 その時々の政治経済情勢に左右されることが多かった。概して人種差別主義者の党員は独自に反ユダヤ主義を前面に押し出した活動を行い、党指導部は反ユダヤ主義を副次的な政策と見なしていることが多かった。この面でも党内に路線対立が存在したと言える[22]。
保守野党路線
[編集]保守的な政治姿勢に固執したため、社民党(SPD)、中央党(DZP)、民主党(DDP)という穏健左派・中道・リベラルの連立政権「ヴァイマル連合」で構成されることが多いヴァイマル共和国政府に対しては基本的に野党の立場をとった[6]。

1920年には講和推進者であり、富裕層に臨時税を課したことで保守派から目の敵にされていたマティアス・エルツベルガー財相(中央党所属)を「売国奴」として攻撃するキャンペーンを展開。国家人民党国会議員団の代表カール・ヘルフェリヒ(戦時中の副首相)はエルツベルガーを挑発して名誉棄損裁判を起こさせ、1920年2月に勝訴することでエルツベルガーを辞職に追い込むことに成功した[24]。
しばしば東欧系ユダヤ人(大戦中、労働力としてドイツに連行されたか、戦後混乱期にドイツに流入してきた者が多い)の国外追放法案を国会に提出し、1920年にはユダヤ人党員を党から追放した[25]。
同年7月にヴォルフガング・カップ(国家人民党員)やベルリン防衛司令官ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ将軍ら保守主義者がヴァイマル共和国を武力打倒しようとして起こした反乱カップ一揆では、国家人民党からも支持基盤であるユンカーをはじめとして多くの一揆参加者が出たが、直前にリュトヴィッツ将軍が国家人民党党首ヘルクトの所へ行って蜂起計画を説明して協力を求めた際、ヘルクトは連合国の反応の不安もあって同意せず、一揆に対して中立の立場を崩さなかった[22]。結局この一揆は一時的にドイツ社会民主党(SPD)政権をベルリンから追い払って、首都の掌握に成功するも、社民党政権が呼びかけた労働者のゼネストによって失敗に終わる[26][27]。
カップ一揆の失敗により、党内ではナショナリスティックな思想を振りかざして武装蜂起しても支持は広がらず成功しないとの認識が広まり、議会における影響力の拡大を求める利益団体やヘルクトら指導部の声が大きくなっていった[28]。
1922年にはソ連とラパッロ条約を結び、ヴェルサイユ条約の履行政策を遂行したことで保守派の目の敵にされていたヴァルター・ラーテナウ外相(民主党所属)を「売国奴」として攻撃するキャンペーンを展開したが、ラーテナウは同年6月24日に右翼テロ組織コンスルによって暗殺された。その直前に過激なラーテナウ批判演説をしていた国家人民党のヘルフェリヒが影響を与えたのではないかと疑われ、議会で批判に晒された[29]。
同年11月に社民党が政権から離脱し、中央党、民主党、人民党、バイエルン人民党というブルジョワ中道政党の連立政権ヴィルヘルム・クーノ(人民党所属)内閣が発足した[30]。国家人民党はこの時に最初に連立政権に参加する可能性が出た。不倶戴天の敵ヴァイマル共和国の創設者である社民党が連立政権から出ていったこと、新首相のクーノは国家人民党のヘルフェリヒと個人的に友人だったこと[31]、また1923年1月にフランス軍のルール占領があり、この際にクーノ内閣が「消極的抵抗」(占領地内の公務員に対して占領軍の命令に従うことを禁じ、またドイツ人が石炭の提供と運搬を行うことを禁止)を決定し、国家人民党もその闘争を支持したことである[30]。クーノは愛国的なアピールを繰り返したので、国家人民党としても政権に接近しやすい環境だった[31]。
しかし、この闘争の結果ドイツ国内にハイパーインフレが発生。クーノはルール問題を解決させられないまま退陣に追い込まれた。危機的経済状況から1923年8月に社民党が政権に復帰し、国家人民党と共産党を除いた全国政政党が参加する大連合政府グスタフ・シュトレーゼマン内閣が成立し、消極的抵抗の中止を決定した。国家人民党は社民党の政権復帰に反発するとともに、消極的抵抗中止を「ドイツへの裏切り」と批判した(経済危機が続けばヴァイマル共和制打倒の機会が来ると期待していることもあった)[30]。
シュトレーゼマンは右翼を非難する言説を繰り返しており、それによってナショナリストから激しく憎悪される政治家になっていたから、国家人民党としてはシュトレーゼマン内閣との接近は期待できないものとなった[31]。
この後バイエルン州が非常事態宣言を出してグスタフ・フォン・カールに全権を与えて右派独裁体制を成立させ、中央政府と対立を深めたが、国家人民党はこれをヴァイマル体制からの離脱のモデルケースとして注目していた。そのため親バイエルン的態度を取った軍部のハンス・フォン・ゼークト将軍に期待を寄せ、彼による権威主義的独裁体制の樹立を支持するようになった[32]。
ブルジョワ連合政権への参加期
[編集]ドーズ案をめぐって
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1924年5月4日の国会選挙で国家人民党は、ドイツの賠償金支払い方式ドーズ案を「第二のヴェルサイユ」と非難して国民感情に訴える選挙戦を展開した[31]。これが奏功して、国家人民党は96議席に躍進、選挙後に国家人民党に合流した農村リスト(Landliste)の10議席と合わせると社民党の議席を超えて国家人民党が国会第一党となった[33]。
これにより政府にとって国家人民党を連立与党に加える必要性が増した。国家人民党はヴァイマル共和政に反対する党ではあるが、利益団体からは政権参加を要請されており、それが国家人民党の政権参加の土壌を作った[10]。
シュトレーゼマンや中央党は、入閣条件としてドーズ案に賛成することを国家人民党に要求した。国家人民党を支える利益団体も産業的利益からドーズ案に賛成するよう国家人民党指導部に圧力をかけていた[31]。党内では有力なドーズ案反対者としてクーノ・フォン・ヴェスタープ伯爵があったが、ヘルクトが政権参加や右派としての影響力の保持のために賛成を促すなど、党内はドーズ案賛成に傾きはじめた[31]。
しかし結局1924年9月のドーズ案関連法案の国会採決では、国家人民党は党の意見を集約できず、投票は各議員個人の判断に委ねることになり、国家人民党議員でドーズ案関連法案に賛成したのは約半数だった[31]。この分裂の責任を取ってヘルクトは党首を辞職することになった[34]
国家人民党内におけるドーズ案賛成派は、地域的には西部の利益団体が中心であり、東部の党下部組織ではドーズ案反対が根強かった[35]。
総選挙ではドーズ案反対を党の最大スローガンに掲げておきながら、選挙後にはドーズ案賛成に傾いていくことには裏切りとの批判も起きたが、国家人民党が穏健化したと判断した人民党や中央党は本格的に同党を連立与党に引き込もうとするようになる[35]。特に人民党右派は国家人民党の入閣の必要性を強く訴えた[36]。時の首相ヴィルヘルム・マルクス(中央党)は右翼だけの連立拡大は、英仏や社民党の反発を招くとして、社民党も加えた右から左まで総結集の大連合政権の構想を提唱したが、社民党と国家人民党の対立は深く、民主党も国家人民党を加えたブルジョワ連合には反対したため、マルクス内閣の間に国家人民党が連立参加することはなかった[35]。
ルター内閣の連立与党として
[編集]1925年1月に国家人民党、人民党、中央党、バイエルン人民党を与党とするハンス・ルターを首相とする右から中道までのブルジョワ連合内閣が成立[37]。国家人民党からはマルティン・シーレが内相、アルベルト・ノイハウスが経済相、オットー・フォン・シュリーベンが蔵相として入閣した[35]。右に偏った連立構成になったことに中央党内から批判が噴出し、政権基盤が貧弱だったと言われるが、経済界、農業界からは強く期待される内閣となった[35]。
国家人民党から入閣した蔵相シュリーベンの主導で、最高所得税率が下げられたり、地主を優遇した税制改革、農工業を守る関税立法が行われるなど、富裕層のための政治が押し進められたが、国家人民党内には工業界から農業界まで様々な利益団体があり、一貫した政策は困難だった。例えばスペインとの通商条約締結を巡って工業界が賛成したのに対し、ワイン用果樹栽培農家を中心とする農業界は、スペインとの競争激化を恐れて反対するという局面があった。スペインと条約がない状態を避けたいという政府の意向や、関税立法を通すための国家人民党の妥協から、農業界の反対は無視されて条約は締結された。これによりワインの関税率は低くなり、1924年8月から行われていた独仏通商条約交渉でも同じ関税率適用されることになった。事実上農業を犠牲にして工業輸出を拡大する通商条約政策となったため、国家人民党や全国農村同盟の政府への反発が強まった[38]。
1925年2月28日に社民党所属の大統領フリードリヒ・エーベルトが死去した。国家人民党のヴェスタープは、3月7日に保守系新聞『クロイツツァイトゥング』 紙上において「 (国民による選挙を経ずに)ヴァイマル国制によって大統領に選ばれたエーベルトは、ドイツ民族を体現する者ではない」とエーベルトを批判している[38]。
大統領選挙で国家人民党は、社民党や共和国を敵視する候補者を支援することを決定し、第一回選挙ではカール・ヤレス 、第2回選挙では先の大戦の英雄であり、帝政復古主義者のパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥を推薦した。両者とも候補者の中で最多得票しており、国家人民党の思想には国民の中に根強い支持があることを世に見せつけた[38]。
外交面では国家人民党はグスタフ・シュトレーゼマン外相の融和的な外交政策に不満を抱いていたため[39]、ルター内閣の他の連立与党と対立していた。特にロカルノ条約について国家人民党とその支持団体は、同条約への調印は敗戦後の現状を承認、固定することに繋がるとして強く反対。ロカルノ条約反対運動の中で国家人民党内では右派が台頭する。1925年10月にロカルノ条約が調印されると、国家人民党内では、経済的な利益団体が連立政権への残留を求めたものの、条約反対派の地方組織と台頭している党内右派の声が勝り、条約反対を表明して国家人民党は連立政権から離脱した[38]。
第4次マルクス内閣の連立与党として
[編集]その後、社民党との大連合政権へ向けた暫定政権として第3次マルクス内閣が成立したが、結局同政権は社民党との関係を悪化させ、閣外協力を拒否された。人民党も社民党の政権参加を拒んでおり、ヒンデンブルク大統領もブルジョワ連合(=社民党排除)でなければ、議会を解散させると言い出した[38]。
1926年12月に社民党がマルクス内閣不信任案を国会に提出して可決させる事態となると、国家人民党の重要性が再び増し、国家人民党、中央党、人民党、バイエルン人民党というブルジョワ連合の4次マルクス内閣が発足した[40][41]。
しかし同政権下では、関税引き上げを求める全国農村同盟(RLB)と、それに反発する中央党傘下のキリスト教労組、仲介役の人民党が国家人民党に与するといった事態が起きて、政権や議会は混迷を極めた[42]。
またこの政権参加の際に国家人民党は中央党起草の政権綱領を受け入れてロカルノ条約とヴァイマル憲法の法的正当性を認めることになったが、これは同党にとって大義を失うことであり、党内から批判が噴出。クーノ・フォン・ヴェスタープ伯爵の指導する執行部への突き上げは激しくなった。党内の対政府強硬派は実質的に野に下り、シュトレーゼマン外交批判をますます強めていった[43]。
フーゲンベルク指導下で再び保守野党
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1928年5月の総選挙では、もともとの支持層がドイツ中産階級帝国党やキリスト教国家農民及び農村住民党などに移行したこともあって現有103議席を73議席に減らすという惨敗を喫した。党首のヴェスタープは求心力を失い、1928年10月には対政府強硬派のアルフレート・フーゲンベルクに党首の座を譲った[44][45]。
フーゲンベルクの指導下で同党は再度保守野党の立場へと戻った。一方フーゲンベルクは国家人民党内で国民主義的右派と呼ばれていた反君主制論者であり、帝政復古主義者の前党首ヴェスタープ伯とは立場が違った[46]。帝政が倒れて10年もたったこの時期になると、もはや帝政復古の訴えには魅力が無くなっており、むしろ若年層の支持の獲得を困難にしていると考えられていた。「国家本位の共和主義者」にも支持を広げるべきという考えが党内に広がっていた[47]。
国家人民党の復古主義的な傾向が弱まったことは、アドルフ・ヒトラー率いる国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)との距離が縮まった事を意味した。1929年6月に新たなドイツの賠償金支払い方式ヤング案が成立するとフーゲンベルク率いる国家人民党は、激しく反発した。7月にはナチ党や鉄兜団、全国農村同盟とともに全国委員会を結成して「ドイツ国民奴隷化阻止法案」制定を旗印にヤング案反対闘争を開始したが、この法案の中にはヤング案を支持した公務員は処罰する条項が設けられており、当初ヒンデンブルク大統領もその対象に含まれる余地のある内容になっていた(最終的にはヒンデンブルク大統領は処罰対象に入らないよう、首相と閣僚、その下の官僚たちを処罰対象に限定した)。そのため党内の親政府派(ヴェスタープやRLB議長マルティン・シーレら)と反政府派の亀裂が深まった[48][49]。
フーゲンベルクの妥協を知らぬ反政府闘争はヒンデンブルク大統領やその大統領内閣首相ブリューニングの不興を買った。政府はフーゲンベルクを国家人民党内で孤立させようとしたが、数多くのメディアを傘下に収めるフーゲンベルクの影響力は絶大でうまくいかなかった[50][51]。
それでも国家人民党を分裂させることには成功した。1930年7月18日の大統領緊急令廃止動議の投票の際、国家人民党親政府派のヴェスタープ伯爵とゴットフリート・トレヴィラーヌスらのグループが党首アルフレート・フーゲンベルクに造反して反対票を投じており、これにより党分裂が決定的となり、およそ半数の議員が離党し、1930年7月23日に保守人民党 (KVP)を結成した[50][51]。この党はブリューニング首相から未来の与党と期待されて支援を受けた[52]。また国家人民党支持層のうち一定がキリスト教国家農民及び農村住民党(CNBL)や1929年結成のキリスト教社会人民奉仕(CSVD)など保守的小政党群に流れた[53]。
ナチス人気の上昇、また党の分裂という状況下で行われた1930年9月14日の総選挙では、国家人民党の方は41議席で踏みとどまったが、保守人民党の方はわずか4議席しか取れないという壊滅的結果に終わり、保守人民党を未来の与党にしようというブリューニングの意図は水泡に帰した[54]。
1931年10月に国家人民党はナチ党や鉄兜団とともに保守・右翼反政府派の共闘体制「ハルツブルク戦線」を構築し、ブリューニング内閣攻撃を強化したが、これは国家人民党の党勢を挽回という意図が大きかったため、ヒトラーが反発し、間もなくナチ党はこの共闘関係から離れた[55]。
1932年6月ブリューニング内閣崩壊後のフランツ・フォン・パーペン内閣には国家人民党員が入閣しているが、党としては同内閣と一切関係はないという立場を取った[56]。パーペン内閣が倒れ、クルト・フォン・シュライヒャー将軍の内閣が成立すると、パーペンの仲介でハルツブルク戦線崩壊以来接触がなくなっていたナチ党と再び提携に動き、1933年1月27日にはフーゲンベルクとヒトラーが会談し、ここでナチ党と国家人民党の連立によるヒトラー内閣を樹立することが大筋で合意された[57]。
ヒトラー内閣の連立与党として
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手前からフーゲンベルグ党首、パーペン(元首相)、ゼルテ(鉄兜団共同代表)の横顔が並んでいる
1933年1月30日ナチス・国家人民党・鉄兜団・貴族層など保守派・右派の連立によりヒトラー内閣が成立した。国家人民党からは党首のフーゲンベルクが経済相兼食糧農業相、フランツ・ギュルトナーが法相として入閣した[58]。
当時ナチ党は第一党であったが、連立与党の国家人民党と足しても国会で過半数を得られていなかった。したがってヒトラー内閣以前の三代の大統領内閣と同様に国会から内閣不信任案を突き付けられる危険性があった。その対策は今まで通り国会無視の大統領緊急令による政治を行うか、総選挙で与党過半数を狙うか、中央党を与党に引き込むか、共産党議員の資格を停止するか(共産党議席を停止すればナチ党と国家人民党で過半数になる)のいずれかであった[59]。ヒトラーは総選挙を希望したが、フーゲンベルクはナチ党が大勝して自党の政権内での影響力が低下する恐れがあるので総選挙を嫌がり、共産党を禁止してその議席を剥奪することでナチ党と国家人民党で過半数を得るべきと主張した。しかし結局ヒトラーが押し切って総選挙が行われることになった[59]。
ヒトラーは「選挙結果がどうなろうと政府の構成は不変である」と連立与党の国家人民党に約束していたが、ナチ党・国家人民党・鉄兜団で保守勢力統一比例名簿を作って総選挙に臨む要請は拒否している。そのためパーペンは2月11日に国家人民党と鉄兜団で名簿統一する保守共闘戦線「黒白赤」を結成させた[60]。
3月5日の選挙の結果、ナチ党は44%の得票を得る一方、「黒白赤」は8%の得票しか得られなかった。この段階ではナチ党と「黒白赤」を合わせて過半数に達するという状況だったが、3月9日に共産党の議席が再選挙を行わず抹消されたので総議席数が減ってナチ党が単独過半数を得た[61]。これにより国家人民党もキャスティング・ボートを握る立場を失って急速に政権内での影響力を弱めた[62]。3月23日に全権委任法(正式名称「国民と国家の危機を除去するための法律」)が可決されると、ナチ党にとって国家人民党はもはや用済みの連立パートナーに過ぎなくなっていった[63]。
1933年6月12日にロンドンで開催された世界経済会議の席でフーゲンベルクは旧ドイツ領アフリカ植民地の回復を求める不用意な覚書を提出して各国の不興を買い、これが致命的なスキャンダルとなって経済相辞任に追い込まれた[64]。これを機に国家人民党はヒトラーから圧力をかけられて、6月27日に自主解散させられた[65]。国家人民党側が自主解散に応じる条件として出したのは国家人民党に所属していた議員や公務員たちが役職に留まれるようにすることであり、実際にヒトラーはその約束を守った[66]。ナチ党の機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』は国家人民党の自主解散を報じた記事の中で国家人民党の反ヤング案闘争を賞賛し、フーゲンベルクを「悲劇的人物」と論じている[67]。国家人民党の党員たちはフランツ・ギュルトナーやフランツ・ゼルテなどのようにナチ党に移籍した者もいる一方でフーゲンベルクのようにナチ党に所属せずにナチ党の「客人」として国会議員に留まり続けた人物もいる。
また極少数ながら元DNVPメンバーから反ナチ運動(黒いオーケストラ)に参加し、第二次世界大戦中の1944年の7月20日のヒトラー暗殺計画に参加した者もいる(ウルリヒ・フォン・ハッセル、カール・ゲルデラーなど)。
選挙結果
[編集]国民議会(Nationalversammlung、1919年時のみの議会名称)および国会(Reichstag)における国家人民党の党勢。1933年3月5日の選挙は、鉄兜団および副首相パーペンと結成した政党連合「黒白赤」として参加。
| 選挙日 | 得票 | 得票率 | 議席数 (総議席数) | 議席順位 |
|---|---|---|---|---|
| 1919年1月19日 | 3,121,479票 | 10.27% | 44議席 (421議席) | 第4党[注釈 1] |
| 1920年6月6日 | 4,249,100票 | 15.07% | 71議席 (459議席) | 第3党[注釈 2] |
| 1924年5月4日 | 5,696,475票 | 19.45% | 95議席 (472議席) | 第2党[注釈 3] |
| 1924年12月7日 | 6,205,802票 | 20.49% | 103議席 (493議席) | 第2党[注釈 3] |
| 1928年5月20日 | 4,381,563票 | 14.25% | 73議席 (491議席) | 第2党[注釈 3] |
| 1930年9月14日 | 2,457,686票 | 7.03% | 41議席 (577議席) | 第5党[注釈 4] |
| 1932年7月31日 | 2,178,024票 | 5.91% | 37議席 (608議席) | 第5党[注釈 5] |
| 1932年11月6日 | 2,959,053票 | 8.34% | 51議席 (584議席) | 第5党[注釈 5] |
| 1933年3月5日 | 3,136,760票 | 7.97% | 52議席 (647議席) | 第5党[注釈 5] |
| 出典:Gonschior.de | ||||

歴代党首
[編集]党首である議長(Vorsitzender)は以下の通り[69]。
党員だったことのある人物
[編集]- ゲオルク・ミヒャエリス(帝政時代の首相)
- アルフレート・フォン・ティルピッツ(帝政時代の海軍元帥、海軍大臣。第一次世界大戦後、国家人民党の国会議員。)
- フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン男爵(ナチ党親衛隊(SS)のSS大将)
- テオドール・デュスターベルク(準軍事組織「鉄兜団」の団長)
- フランツ・ギュルトナー(パーペン内閣、シュライヒャー内閣、ヒトラー内閣法相)
- オットー・オーレンドルフ(ナチ党親衛隊(SS)のSS中将)
- カール・ゲルデラー(ライプツィヒ市長。ヒトラー暗殺未遂事件の関与者)
- アルトゥール・ネーベ(ナチ党親衛隊(SS)のSS中将。刑事警察長官)
- ウルリヒ・フォン・ハッセル(駐イタリア大使。後にナチ党へ移籍。ヒトラー暗殺未遂事件関与者)
- ハンス・フリッチェ (ジャーナリスト。 国民啓蒙・宣伝省幹部。後にナチ党へ移籍)
- オットー・クリスティアン・アルヒバルト・フォン・ビスマルク侯爵(鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクの孫。後にナチ党へ移籍)
- ヴェルナー・ベスト(ナチ党親衛隊(SS)のSS大将。保安警察長官代理)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ Eatwell, Roger (2003) Fascism: A History, London: Pimlico. p. 277. ISBN 9781844130900
- ↑ D. Childs, 'The Far-Right in Germany since 1945', L. Cheles, R. Ferguson & M. Vaughan, Neo-Fascism in Europe, Harlow: Longman, 1992, p. 70
- ↑ 林健太郎 1963, p. 51.
- ↑ 中重芳美 2008, p. 35.
- ↑ 林健太郎 1963, p. 205, 中重芳美 2008, p. 45
- 1 2 3 4 5 6 7 モムゼン 2001, p. 77.
- ↑ モムゼン 2001, p. 227.
- 1 2 林健太郎 1963, p. 205.
- ↑ 中重芳美 2008, p. 45, モムゼン 2001, p. 237
- 1 2 3 平島健司 1991, p. 19.
- ↑ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 24(索引).
- ↑ 岡本勇貴 2020, p. 16.
- ↑ 「ドイツ国家人民党」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
- ↑ 岡本勇貴 2020, p. 16-19.
- ↑ “Die Deutschnationale Volkspartei (DNVP)”. LeMO - Lebendiges Museum Online. 2018年7月2日閲覧。
- 1 2 中重芳美 2008, p. 45.
- 1 2 岡本勇貴 2020, p. 19.
- ↑ 大嶽卓弘 1983, p. 56(162)/58(164).
- ↑ 大嶽卓弘 1983, p. 58(164).
- ↑ アイクI巻 1983, p.102-103
- ↑ 大嶽卓弘 1983, p. 59(165).
- 1 2 3 4 岡本勇貴 2020, p. 20.
- ↑ モムゼン 2001, p. 77, & 平島健司 1991, p. 19,岡本勇貴 2020, p. 19
- ↑ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 135.
- ↑ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 197-198.
- ↑ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 137.
- ↑ アイクI巻 1983, p.254-260
- ↑ 岡本勇貴 2020, p. 21.
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- 1 2 3 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 150-151.
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- ↑ アイクII巻 1984, p.159
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- ↑ 林健太郎 1963, p. 119.
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- ↑ モムゼン 2001, p. 273/286.
- ↑ モムゼン 2001, p. 273.
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- ↑ 阿部良男 2001, p. 212.
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- 1 2 桧山良昭 1976, p. 257-258.
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- ↑ Beck, Hermann The Fateful Alliance, Oxford: Berghahn Books, 2009 page 292.
- ↑ Beck, Hermann The Fateful Alliance, Oxford: Berghahn Books, 2009 page 293.
- 1 2 村田孝雄「ワイマール憲法下における選挙制度の歴史的考察」『中京大学教養論叢』第13巻第2号、中京大学教養部、1972年10月、35-45頁、ISSN 0286-7982、NAID 110004642071、2021年8月20日閲覧。
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参考文献
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- 阿部良男『ヒトラー全記録 :20645日の軌跡』柏書房、2001年。ISBN 978-4760120581。
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- 高岡慎太郎「ドイツ国家国民党における国家改革論」『ドイツ研究 = Deutschstudien』第57号、日本ドイツ学会編集委員会、2023年、24-32頁。
- 平島健司『ワイマール共和国の崩壊』東京大学出版会、1991年。ISBN 978-4-13-030075-9。
- 中重芳美「ワイマール期における諸政党の消長とナチズム ハミルトン説・チルダース説の検討を中心として」『広島大学経済学研究』第25巻、広島大学経済学会、2008年、35-59頁、doi:10.15027/23275、NAID 110006618689。
- 成瀬治、山田欣吾、木村靖二『ドイツ史〈3〉1890年~現在』山川出版社〈世界歴史大系〉、1997年。ISBN 978-4634461406。
- 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
- 林健太郎『ワイマル共和国 —ヒトラーを出現させたもの—』中央公論新社〈中公新書27〉、1963年。ISBN 978-4121000279。
- 桧山良昭『ナチス突撃隊』白金書房、1976年。ASIN B000J9F2ZA。
- 平島健司『ワイマール共和国の崩壊』東京大学出版会、1991年。ISBN 978-4130300759。
- モムゼン, ハンス 著、関口宏道 訳『ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭』水声社、2001年。ISBN 978-4891764494。
外部リンク
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