ドイツ国家人民党

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ドイツの旗 ドイツ国政党
ドイツ国家人民党
Deutschnationale Volkspartei
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成立年月日 1918年12月4日
前身政党 ドイツ保守党ドイツ語版
解散年月日 1933年6月27日
政治的思想・立場 保守主義
反共主義
反ヴァイマル憲法
帝政復古(1928年まで)
国民主義的右派(1928年から)
公式カラー 黒白赤
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ドイツ国家人民党(ドイツこっかじんみんとう、ドイツ語: Deutschnationale Volkspartei, 略称:DNVP)は、ヴァイマル共和政期のドイツ保守右派政党ドイツ国家国民党[1]ドイツ国粋人民党とも訳される[2]

党史[編集]

国家人民党の代議士会。1932年。

結党と保守野党路線[編集]

第一次世界大戦後、共和政になった直後の1918年12月4日[3]帝政時代の政党ドイツ保守党ドイツ語版(Deutsche Konservative Partei、略称DKP)を改組する形で誕生した[4][5]。大戦中に200万人のメンバーを擁した戦争翼賛大衆組織ドイツ祖国党ドイツ語版とも人的一貫性を持つ[4]。旧保守党員だけではなく、一部の旧自由主義者も結集した。彼らは大戦中に領土併合主義を唱えて祖国党と近い立場を取ったために自由主義勢力に帰れなくなっていた者たちだった[6]

主な支持層はユンカー(東エルベの大地主貴族)や実業家などであり、伝統的で保守的な政策を主張し、富裕層の利益を最優先にする「ブルジョワ政党」であった[4]。ドイツ皇室の復活を求める帝政復古派も多く、ヴァイマル憲法およびそれが体現した共和制や議会政治に反対した[5][7]。また反社会主義・反共主義の立場をとり、社会主義者の裏切りのせいで敗戦したという「背後からの一突き」説を喧伝して左翼政党を非難した[4]ヴェルサイユ条約にも強い敵愾心を示した[4]。また党の初期の頃にはドイツ民族至上主義者も多数参加していたので、彼らを中心に人種差別的な反ユダヤ主義を声高に唱えた時期もあるが、これは帝政時代からの伝統的保守勢力から不評であり、結局この民族至上主義者の一派は1922年にドイツ民族自由党(DVFP)という別政党を立ち上げて分離している[4]。様々な国粋主義組織を支持団体として傘下に収めていたため、比較的選挙に強い安定した党だった[4]

保守的な政治姿勢に固執したため、社民党(SPD)、中央党(DZP)、民主党(DDP)の穏健左派・リベラルの連立政権「ヴァイマル連合ドイツ語版」で構成されることが多いヴァイマル共和国政府に対しては基本的に野党の立場をとった[4]

政府への接近・参加[編集]

1924年中の二度の総選挙で国家人民党が躍進したため、政府にとって国家人民党を入閣させる必要性が増した。

1924年9月のドーズ案関連法案の国会採決の際にヴィルヘルム・マルクス首相は国家人民党の取り込みを狙って同党を入閣させようと工作したが、この段階では同党議員団の投票が分裂しただけに終わった。この分裂の責任を取って党首オスカー・ヘルクトドイツ語版は辞職することになった[8]

しかしその後、国家人民党内でドーズ案に賛成する穏健派が勢力を増すようになり、国家人民党を政権に取り込もうという動きは加速した。社民党や民主党は国家人民党を嫌っていたが、人民党右派は社民党を政権から追放して国家人民党を入閣させることを訴えた[9]

そして1925年1月に国家人民党、人民党、中央党、バイエルン人民党を与党とするハンス・ルター内閣が発足する運びとなった[10]。さらに同年3月末の大統領選挙では先の大戦の英雄であり、帝政復古主義者だったパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥を推薦し、当選させることに成功した[11]

フーゲンベルク指導下で再び保守野党[編集]

しかし1928年5月の総選挙でもともとの支持層が中産階級帝国党キリスト教国民農村住民党ドイツ語版などに移行したこともあって重大な敗北を喫した[7]。これがきっかけとなり、1928年秋には対政府強硬派のアルフレート・フーゲンベルクが党首となったため、同党は再度保守野党の立場へと戻った。一方フーゲンベルクは国家人民党内で国民主義的右派と呼ばれていた反君主制論者であり、帝政復古主義者の前党首クーノ・フォン・ヴェスタープ伯爵とは立場が違った[12]。帝政が倒れて10年もたったこの時期になると、もはや帝政復古の訴えには魅力が無くなっており、むしろ若年層の支持の獲得を困難にしていると考えられていた。「国家本位の共和主義者」にも支持を広げるべきという考えが党内に広がっていた[13]

国家人民党の復古主義的な傾向が弱まったことは、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)との距離が縮まった事を意味した。1929年6月にヤング案が成立するとフーゲンベルク率いる国家人民党は、これに激しく反発し、ナチ党やフランツ・ゼルテ率いる鉄兜団と反ヤング案で連携をとった[14]

しかしフーゲンベルクの妥協を知らぬ反政府闘争はヒンデンブルク大統領やその大統領内閣首相ブリューニングの不興を買った。政府はフーゲンベルクを国家人民党内で孤立させようとしたが、数多くのメディアを傘下に収めるフーゲンベルクの影響力は絶大でうまくいかず、結局前党首ウェスタープ伯爵ら親政府派が1930年7月の国会解散後に保守人民党ドイツ語版(Konservative Volkspartei、略称KVP)を結成して離党することになった[15][16]

1931年10月にはナチ党や鉄兜団とともに保守・右翼反政府派の共闘体制「ハルツブルク戦線ドイツ語版」を構築し、ブリューニング内閣攻撃を強化したが、これは国家人民党の党勢を挽回という意図が大きかったため、ヒトラーが反発し、間もなくナチ党はこの共闘関係から離れた[17]

1932年6月ブリューニング内閣崩壊後のフランツ・フォン・パーペン内閣には国家人民党員が入閣しているが、党としては同内閣と一切関係はないという立場を取った[18]。パーペン内閣が倒れ、クルト・フォン・シュライヒャー将軍の内閣が成立すると、パーペンの仲介でハルツブルク戦線崩壊以来接触がなくなっていたナチ党と再び提携に動き、1933年1月27日にはフーゲンベルクとヒトラーが会談し、ここでナチ党と国家人民党の連立によるヒトラー内閣を樹立することが大筋で合意された[19]

ヒトラー内閣の連立与党として[編集]

1933年1月30日ナチス・国家人民党・鉄兜団・貴族層など保守派・右派の連立によりヒトラー内閣が成立した。国家人民党からは党首のフーゲンベルクが経済相兼食糧農業相、フランツ・ギュルトナーが法相として入閣した[20]

当時ナチ党は第一党であったが、連立与党の国家人民党と足しても国会で過半数を得られていなかった。したがってヒトラー内閣以前の三代の大統領内閣と同様に国会から内閣不信任案を突き付けられる危険性があった。その対策は今まで通り国会無視の大統領緊急令による政治を行うか、総選挙で与党過半数を狙うか、中央党を与党に引き込むか、共産党議員の資格を停止するか(共産党議席を停止すればナチ党と国家人民党で過半数になる)のいずれかであった[21]。ヒトラーは総選挙を希望したが、フーゲンベルクはナチ党が大勝して自党の政権内での影響力が低下する恐れがあるので総選挙を嫌がり、共産党を禁止してその議席を剥奪することでナチ党と国家人民党で過半数を得るべきと主張した。しかし結局ヒトラーが押し切って総選挙が行われることになった[21]

3月5日の選挙の結果、ナチ党は44%の得票を得る一方、国家人民党は8%の得票しか得られなかった。3月9日に共産党の議席が剥奪されることになったが、再選挙を行わず議席ごと抹消されたので総議席数が減り、ナチ党が単独過半数を得た[22]。そのため国家人民党は急速に政権内での影響力を弱め、1933年6月27日に党首フーゲンベルクが閣僚職を辞任したのを機にヒトラーから圧力をかけられて党は自主解散させられた[23]

ライヒスターク(国会)選挙結果[編集]

1933年総選挙時のポスター
手前からフーゲンベルグ党首、パーペン(元首相)、ゼルテ(鉄兜団共同代表)の横顔が並んでいる

1920年代にはドイツ社会民主党に次ぐ第二党の地位を保持し、政界に強い影響力を持っていたが、党分裂の影響で得票を落とし、1930年代には社民、ナチス、共産党中央党に次ぐ第五党で推移した。

選挙日 得票率 獲得議席数(総議席数) 議席占有率 順位
1919年1月19日 10.3% 44議席(421議席) 10.46% 第4党
1920年6月6日 14,4 % 66議席(459議席) 14.38% 第3党
1924年5月4日 19,5% 95議席(472議席) 20.13% 第2党
1924年12月7日 20,5% 103議席(493議席) 20.90% 第1党
1928年5月20日 14,3% 73議席(491議席) 14.87% 第2党
1930年9月14日 7,0% 41議席(577議席) 7.11% 第5党
1932年7月31日 5,9% 37議席(608議席) 6.09% 第5党
1932年11月6日 8,5% 52議席(584議席) 8.91% 第5党
1933年3月5日 8,0% 52議席(647議席) 8.04% 第5党

※1933年3月5日は、鉄兜団および副首相パーペンと結成した政党連合「黒・白・赤」により選挙に参加。

歴代党首[編集]

党員だったことのある人物[編集]

出典[編集]

  1. ^ ドイツ史 3巻,「索引」,p.24.
  2. ^ 「ドイツ国家人民党」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
  3. ^ 阿部良男 2001, p. 77.
  4. ^ a b c d e f g h モムゼン 2001, p. 77.
  5. ^ a b 林健太郎 1963, p. 51.
  6. ^ アイクI巻 1983, p.102-103
  7. ^ a b モムゼン 2001, p. 237.
  8. ^ アイクII巻 1984, p.159
  9. ^ 林健太郎 1963, p. 118-119.
  10. ^ 林健太郎 1963, p. 119.
  11. ^ 林健太郎 1963, p. 121-123.
  12. ^ モムゼン 2001, p. 240.
  13. ^ アイクII巻 1983, p.154
  14. ^ 阿部良男 2001, p. 155.
  15. ^ モムゼン 2001, p. 258/273/286.
  16. ^ アイク(1986)、III巻 p.346/354
  17. ^ 阿部良男 2001, p. 186, 林健太郎 1963, p. 171-172
  18. ^ モムゼン 2001, p. 396.
  19. ^ 阿部良男 2001, p. 212.
  20. ^ 阿部良男 2001, p. 214.
  21. ^ a b 桧山良昭 1976, p. 257-258.
  22. ^ 阿部良男 2001, p. 222.
  23. ^ 阿部良男 2001, p. 241.

参考文献[編集]