ヘレロ・ナマクア虐殺
ヘレロ・ナマクア虐殺(ヘレロ・ナマクアぎゃくさつ、ドイツ語: Völkermord an den Herero und Nama)は、ドイツ領南西アフリカ(現・ナミビア)においてドイツ帝国が先住民族に対して行った虐殺。アフリカ分割の動きの中の1904年から1908年[1]にかけて行われ、20世紀最初のジェノサイド(虐殺)と考えられている。
概要[編集]
アフリカ分割に加わったドイツ帝国による南部アフリカ侵攻で土地を追われた先住民族のヘレロ族は1904年1月12日、サミュエル・マハレロの指揮の下、ドイツ人への無差別攻撃を開始した(ホッテントット蜂起)。これに対してドイツは8月、ロタール・フォン・トロータ将軍の指揮でこれを破り(en:Battle of Waterberg)、三方から包囲して、カラハリ砂漠(英: Omaheke Desert)に追い込み、英領ベチュアナランドを目指して脱出した途上で多くが渇きのために死んだ。ベチュアナランドに辿り着いたのは1000人以下だった。
10月にはナマクア族[2]も蜂起したが同様の結果に終わった。ドイツは先住民を強制収容所へ収容したり強制労働に従事させたりした。結果、戦後の人口統計からみて、約6万人のヘレロ族(全人口8万人のうち、80%)、1万人のナマクア族(全人口2万人のうち50%)が死亡した。ヘレロ族の死者数は2万4000人~最大10万人とする推計もある[3]。
この虐殺の特徴は、一つは餓死であり、もう一つはナミブ砂漠に追いやられたヘレロ族とナマクア族の使用する井戸に毒を入れたことによる中毒死である。
現代への影響[編集]
ナミビアの首都ウィントフークには慰霊碑が建てられている[1]。
2004年、ヘレロ戦争100周年を記念して、ドイツ連邦共和国経済協力・開発大臣ハイデマリー・ヴィーチョレック=ツォイルは、追悼と謝罪の意を全ドイツ人を代表して表したが、ヘレロは財政的賠償を求めた。ヘレロ・ジェノサイド財団のエスター・ムインジャンゲ議長は「ドイツ政府が本当に謝ったとは思っていない」として、ドイツ連邦議会での決議のような公式な謝罪をすべきとの考えを示した。また、ドイツによるこの虐殺が後のナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺につながったとの見方に同意している[4]。
2021年5月28日、ドイツ政府は虐殺であったと初めて認め、11億ユーロを提供することを表明した[5]。ドイツは法的責任は認めず、「現在の視点で見れば」ジェノサイドであったという留保付きであった[1]。ナミビア大統領ハーゲ・ガインゴブは「歴史的」とドイツを評価したが、虐殺の被害を受けなかったオバンボ族を主体とする政府が支援金を受け取る決定に、野党支持者が多いヘレロ族やナマクア族からの反発や、ボツワナなど国外に住む被害者子孫が救済から漏れていることへの批判もある[1]。
富裕層が多く「虐殺の受益者」という見方が広がるドイツ系ナミビア人には、報復に怯え、海外移住を検討する人もいる[1]。
脚注[編集]
- ^ a b c d e 【歩く】虐殺 ドイツと和解反発/ナミビア国内「再交渉を」『読売新聞』朝刊2021年10月21日(国際面)
- ^ 単数形がナマ、複数形がナマクアである。民族の呼称は、最近はナマ族で統一されているが、古い文献ではナマクアが多い。
- ^ “ホロコーストの源流 人種差別科学が招いた惨劇”. 『毎日新聞』. (2016年3月15日)
- ^ “「絶滅命令」独は公式謝罪を”. 『毎日新聞』. (2016年3月15日)
- ^ ドイツ、植民地ナミビアでの「ジェノサイド」初めて認めるAFP(2021年5月28日)2021年6月9日閲覧