鉄兜団、前線兵士同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鉄兜団、前線兵士同盟
Der Stahlhelm,
Bund der Frontsoldaten
鉄兜団のロゴ
鉄兜団の旗
略称 鉄兜団
名の由来 鉄兜
設立 1918年12月25日 (1918-12-25)
設立者 フランツ・ゼルテ
設立地 ドイツの旗 ドイツ国 マクデブルク
解散 1935年11月7日 (1935-11-7)
合併元 国民社会主義ドイツ前線戦士連盟として突撃隊に合流
種類 退役軍人組織
目的 平和と秩序を維持
本部 ベルリン
貢献地域 ドイツ国
会員数(1933年)
1,500,000
公用語 ドイツ語
連盟指導者 フランツ・ゼルテ
連盟副指導者 テオドール・デュスターベルク
重要人物

名誉的連盟指導者

機関紙
  • 『鉄兜』(Der Stahlhelm
  • 『軍旗』(Die Standarte
 下部組織
  • 基幹鉄兜団[1](旧前線兵士[2]の組織)
  • 国民鉄兜団[3](旧前線兵士以外)
  • シャルンホルスト団[4](14歳-17歳)
  • 青年鉄兜団[5](18歳-21歳)
  • ランゲマルク団[6](学生組織)
加盟 ドイツ国家人民党
テンプレートを表示
鉄兜団の団長となったフランツ・ゼルテ退役陸軍大尉。後にヒトラー内閣の労働大臣となる。

鉄兜団、前線兵士同盟(てつかぶとだん ぜんせんへいしどうめい、ドイツ語: Stahlhelm, Bund der Frontsoldaten)は、ヴァイマル共和政時代のドイツ在郷軍人組織。退役軍人で組織され、保守的な政治活動をおこなった。ドイツ国家人民党と共闘関係を保ったが、団員の中にはドイツ人民党の党員もいたり、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とも関わりを持ったりしたことがある。団長は1924年よりフランツ・ゼルテテオドール・デュスターベルクの二人で務めていた。

歴史[編集]

鉄兜団の政治集会
右側マイクの前に立っているのが団長フランツ・ゼルテ

革命後の1918年12月25日に退役軍人フランツ・ゼルテマクデブルクで「鉄兜団、前線兵士同盟」(以下、鉄兜団)を設立した[7]。鉄兜団は反民主主義、反共和制復古主義、反ヴァイマル憲法、反ヴェルサイユ条約の立場を貫いて退役軍人から強い支持を集めた。設立時は2000人ほどだったが、急速に拡大し、1924年には1万人、1928年には22万5000人[8]、1931年には100万人を超えていたという[9]

保守・右派政党ドイツ国家人民党(DNVP)と共闘していたが、同党の一部というわけではなく、支持団体に留まった。そのため国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチス)の突撃隊のように日常的に政治宣伝活動をしていたわけではなく、鉄兜団の日常的活動はあくまで民間防衛隊の役割であった。国家人民党がキャンペーンを行う場合に鉄兜団はその政治宣伝活動に動員された。また鉄兜団はナチ党や共産党が好んだ街頭闘争(街頭でかちあった他党との殴り合い)からも距離を置いていた[10]

1929年には国家人民党のヤング案反対闘争に参加し、1931年には国家人民党やナチス党などとともに保守・右翼反政府派の共闘体制「ハルツブルク戦線」を組織してハインリヒ・ブリューニング首相とヴァイマル共和制への批判運動を強化した。しかしナチス党首アドルフ・ヒトラーはナチ党が巨大な保守・右翼連合体の一下部組織にされることを好まず、距離を取ろうとするようになった[11]。また伝統的なプロイセン退役軍人が多かった鉄兜団の方でも、ナチ党の過剰な反ユダヤ主義思想や社会主義に近い経済思想に対しては嫌悪感を示すようになっていった(鉄兜団は社会主義的傾向の強いナチス党左派グレゴール・シュトラッサーを特に嫌悪していた)。そのためナチスとの同盟関係はすぐに溶解した。その後、鉄兜団はドイツ国家人民党とのみ同盟関係を維持した。

1934年、ナチスに合流しナチスの腕章をした鉄兜団団員

1932年の大統領選挙では鉄兜団とドイツ国家人民党はデュスターベルクを統一候補に立てたが、惨敗した。1933年に首相となったアドルフ・ヒトラーは鉄兜団を取り込もうとデュスターベルクに入閣を求めたが、拒否されたため、ゼルテが代わりに入閣を求められてヒトラー内閣の労働相となった。

ナチ党と連携した1933年以降の鉄兜団の旗

1933年6月21日に鉄兜団はナチス党の突撃隊(SA)に吸収され、ゼルテも突撃隊大将: SA-Obergruppenführer)に任じられた[12]。吸収された鉄兜団は1934年に「国家社会主義ドイツ前線戦士連盟」(: Nationalsozialistischer Deutscher Frontkämpferbund)と名前を変えさせられた。さらに1935年には完全に解散させられている。ドイツ皇室の復活を主張する君主主義的な傾向をナチス党が警戒したためという。

戦後の再建[編集]

1951年、鉄兜団は登録社団としてケルンで再発足し、元ドイツ国空軍元帥アルベルト・ケッセルリンクも参加した。ネオナチや一部極右勢力は現在も鉄兜団のイデオロギーに従っている。この組織は後に「前線兵士同盟鉄兜団およびヨーロッパ闘争同盟」(Der Stahlhelm e. V. – Bund der Frontsoldaten – Kampfbund für Europa)と名称を変え、ニーダーザクセン州ヨルクに本部を置いていた時期もある。組織のいくつかの地域支部は2011年に解散した。

階級[編集]

階級章 (1933)
鉄兜の胸ピン (1918 – 1933)
Collar insignia Shoulder insignia Ranks
連盟指導者
連盟副指導者
上級集団指導者
集団指導者
旅団指導者
連隊指導者
上級大隊指導者
大隊指導者
高級中隊指導者
上級中隊指導者
中隊指導者
上級小隊指導者
Feldmeister
Gruppenführer
Stabswehrmann
Oberwehrmann
Wehrmann
Source:[13]

備考[編集]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ Kernstahlhelm
  2. ^ 前線での6ヶ月以上の従軍経験を持つ者
  3. ^ Stahlhelm-Landsturm、1927年に「リンク鉄兜団」(Ringstahlhelm)と改称
  4. ^ Scharnhorst
  5. ^ Jungstahlhelm
  6. ^ Langemarck
  7. ^ 阿部良男 2001, p. 47.
  8. ^ 桧山良昭 1976, p. 112.
  9. ^ ヴィストリヒ 2002, p. 150-151.
  10. ^ 桧山良昭 1976, p. 111-112.
  11. ^ 阿部良男 2001, p. 186, 林健太郎 1963, p. 171-172
  12. ^ 阿部良男 2001, p. 241.
  13. ^ Davis 1980, p. 223.

参考文献[編集]

  • 阿部良男『ヒトラー全記録 :20645日の軌跡』柏書房、2001年。ISBN 978-4760120581 
  • 桧山良昭『ナチス突撃隊』白金書房、1976年。ASIN B000J9F2ZA 
  • ヴィストリヒ, ロベルト 著、滝川義人 訳『ナチス時代 ドイツ人名事典』東洋書林、2002年。ISBN 978-4887215733 
  • 林健太郎『ワイマル共和国 —ヒトラーを出現させたもの—』中央公論新社中公新書27〉、1963年。ISBN 978-4121000279 

関連項目[編集]