九月虐殺

九月虐殺(くがつぎゃくさつ、仏: Massacres de Septembre)は、フランス革命において1792年9月2日から6日にかけて、外国軍侵攻に対する危機感と恐怖から行われたパリの牢獄での虐殺。収監されていた政治犯が多数死亡し、その数は[1]1300人とも[1]1400人とも言われる。また、虐殺は地方でも行われ、そこでの数は250人弱と見積もられている[2]。
事件発生の遠因
[編集]革命没発前から、治安維持にあたるべき国の機関に対する国民の信頼は大きく揺らいでいた。これによって民衆反乱が拡大し、レヴィヨン事件のように既存の権威に代わって民衆自身が処罰にのりだすという面が生まれた[3]。一方で、他国で起き外国軍によって潰れた革命の亡命者といった存在によって、外国軍の侵略に対する恐怖は当時の人々にとって深刻なものとなっていた[4]。外敵の侵入に対する恐れはヴァレンヌ事件によって更に強化され、この件はルイ16世への不信も招いた[5]。1791年10月20日にジロンド派のブリソが開戦を提案した際は、ピルニッツ宣言やポーランド分割に発展する問題も合わさり諸外国による軍事介入に対する警戒が高まったことが理由のひとつとして挙げられる[6]。
1792年7月25日に出された敵国プロイセン軍の司令官ブラウンシュヴァイク公爵による宣言(ブラウンシュヴァイクの宣言)は、ルイ16世への外国軍に保護された王という認識を強め、8月10日事件を招く[7]。そして敗戦が続く中[8]、外国軍侵攻への危機感と兵士が敵に寝返る恐れから[1]「牢獄に収監されている反革命主義者たちが義勇兵の出兵後にパリに残った彼らの家族を虐殺する」という噂が流れていた[9]。
事件没発とその影響
[編集]9月2日、武装した群衆が監獄に押し寄せ、形だけの裁判を行い死刑判決をくだすと、その場で対象を殺害し始めた。ここで死亡した人間の数は、投獄されていた者のおよそ半数におよぶ[2]。不安を取り除いた民衆はその後、大挙して義勇軍に参加し前線に赴いた[10]。「虐殺」と呼ばれるこの事件だが、民衆にとってはこれまでも行われてきた既存の権威に代わる処罰の実行であり、サン=キュロットの主張する直接民主制のもとで主権を持つ人民が自らの手で主権を行使した結果でもあった[8]。
この事件はジロンド派とジャコバン(山岳)派、パリと地方の対立を激化させた[2]。事件に対してジロンド派は、司法大臣であるダントンについて、大臣として事件に介入し虐殺を止めることができたにもかかわらず何もしなかったと非難した。しかしダントンだけでなく、ジロンド派の人間を含む立法議会やパリのコミューンといった組織も事態に戸惑い抑止策をとれなかった[11]。
1793年3月10日、革命に対して陰謀を企む者を裁くため、後の革命裁判所がパリに設置された。この時ダントンは「あらゆる善良な市民が嘆いたあの流血の日々(九月虐殺)の思い出がこの議会で語られたからには、私はこう言いたい。もし当時において裁判所が存在していたなら、あの日々に関してしばしば手ひどく批判される民衆といえども流血を起こさなかっただろうと。(中略)先人の失敗から学ぼう。立法議会がしなかったことをしよう。民衆が恐ろしいものにならないよう、我々が恐ろしいものになろうではないか」と述べている。この裁判所設置は、革命政府の時代になって重要な意味を持った[12]。
九月虐殺は議員たちに強い衝撃を与え、彼らは民衆による政治への暴力的な介入は二度と起こさせてはならないと認識した。こうした出来事が重なり、恐怖政治と呼ばれる時代へと発展していくこととなる[13]。
脚注
[編集]- 1 2 3 プライス2008、P.164
- 1 2 3 山﨑2018、P.139
- ↑ 山﨑2018、P.31
- ↑ 山﨑2018、P.12-13
- ↑ 山﨑2018、P.111-112
- ↑ 山﨑2018、P.128-129
- ↑ 山﨑2018、P.136-137
- 1 2 山﨑2018、P.139
- ↑ P・シャンピオン『わが懐かしき街』図書出版社、1992年、301頁。doi:10.11501/13611039。ISBN 4809905063。NDLJP:13611039。
- ↑ 佐々木2011、P.105
- ↑ 山﨑2018、P.139-140
- ↑ 山﨑2018、P.156-157
- ↑ 山﨑2018、P.173
参考文献
[編集]- 山﨑耕一『フランス革命「共和国の誕生」』刀水書房、2018年10月、ISBN 978-4-88708-443-8。
- ロジャー・プライス 、『フランスの歴史』創土社、2008年8月、ISBN 978-4-7893-0061-2。
- 佐々木真『図説 フランスの歴史』、2011年7月、ISBN 978-4309761701。
- ピエール・シャンピオン『わが懐かしき街』、1992年6月、ISBN 978-4809905063。
関連項目
[編集]- ウィリアム・ワーズワース:事件の一ヵ月後にパリを訪れて惨状を目の当たりにし、1805年作の自叙伝的詩「序曲 "The Prelude"」で描写している。この事件はワーズワースが傾倒していたフランス革命に幻滅する一因となった。
- スタニスラス=マリー・マイヤール:各監獄で行われた「裁判」において裁判長を務めた人物。