オノーレ・ミラボー

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ミラボーの肖像画

ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケッティ: Honoré-Gabriel de Riquetti, Comte de Mirabeau, 1749年3月9日 - 1791年4月2日)は、フランス革命初期の中心的指導者である。一般的には、単にミラボーと呼ばれる[1]。「政略のミラボー」の異名をとる。

生涯[編集]

ヴィクトール・リケティ・ミラボー侯爵の次男として生まれ、3歳の時に誤った天然痘の治療により、顔に黒い斑点が残った。 エクス=アン=プロヴァンスの大学の法学部で学び、とくに将来民法典を編纂したJean Étienne Marie Portalisに影響を受けた。 1768年には、軍隊に入っていたが、借金を抱え、父を怒らせた。父は債権者から彼を免れさせるために、ミラボーを数回ヴァンセンヌの塔に閉じ込め、最終的にはフランシュ=コンテ地域圏ジュー城に1775年に閉じ込めた。革命前から学識と放蕩者としての評判ですでに庶民の間でも有名であり[2]1789年全国三部会では、貴族の出身として第二身分議員の資格もあったが、演説の才能は抜きんでていたので、エクス=アン=プロヴァンスの第三身分議員としても選出され、本人は二つの当選から敢えて第三身分議席を選んで会議に臨んだ。1789年6月23日、三つの身分の代議員を招集した会議で代議員を国民の代表とみなす発言をした。革命の初め頃の彼の果たした役割は重要なものであった。選挙民に会議の報告書を送り、ヴェルサイユで今何が起こっているかをフランス全土に知らせた。三つの身分の会合は彼の提案によるものであり、彼は国民議会の中心的人物であった。[3]

ブルジョワ的立場から初期の革命を主導し(イギリス型)立憲君主制を主張したが、同じ開明貴族のラファイエットや三頭派ら政敵の妨害によって、念願であった大臣就任はいつも阻まれた。雄弁と、その開放的な庶民性から国民に絶大な人気があったものの、絶頂期に突如として病死し、死後にルイ16世と交わした書簡と多額の賄賂の存在が暴露されて、名声は地に落ちることになった。

一方で、ミラボーという強力な王制護持論者の死によって、王室は立憲議会との太いパイプを失った。革命の進展に対する不安に駆り立てられたルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、王妃の実家であり敵国でもあるオーストリアに助力を求め、国王一家亡命未遂事件を起こすが、この事件は国王と王室に対する民衆の信頼を失墜させ、革命のさらなる急進化を誘い、その後の8月10日事件、ひいてはルイ16世、マリー・アントワネットのギロチンによる処刑、ブルボン王政の終焉に繋がった。

脚注[編集]

  1. ^ 父の重農主義者ミラボー侯爵(マルキ・ド・ミラボーen:Victor_de_Riqueti,_marquis_de_Mirabeaufr:Victor Riqueti de Mirabeau)は「大ミラボー」「人類の友ミラボー」と呼ばれ息子と区別される。(Gonçalo L. Fonseca, Leanne Ussher. “重農主義者たち (The Physiocrats)”. <重農主義一派>-ヴィクトル・ド・リケティ、ミラボー侯爵 Victor de Riqueti, Marquis de Mirabeau, 1715-1789. サイト「経済思想の歴史」). 2015年8月24日閲覧。
  2. ^ 1772年から1782年にかけて、7年間幽閉されていた。しかし、1772年には『専制政治論』を書いている。投獄されている間に政治手覚書を多数書いている。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 467ページ)
  3. ^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 468ページ

参考文献[編集]

  • ミラボーとフランス革命 井上幸治 木水社, 1949年

関連項目[編集]