ジャック・ネッケル

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ジョゼフ・デュプレシスの原作に基づくコピー《ジャック・ネッケルの肖像》1783年のサロンに出品
ジャック・ネッケル

ジャック・ネッケル(Jacques Necker, 1732年9月30日 - 1804年4月9日)は、フランス革命前夜に活動したフランス王国の銀行家、政治家。父親はプロイセンの出身で、スイスジュネーヴで公法の教授であった。そのため、ジュネーヴで生まれ、パリで銀行家として成功した。彼は貴族ではなくブルジョワであったため、フランスでは第三身分であり、一般庶民には人気があった。

1773年に『コルベール讃』を発表しアカデミー・フランセーズに顕彰される。続いて1775年4月19日に『立法と穀物取引についての試論』を発表し、当時の財務総監テュルゴーの穀物取引自由化政策を批判した。1776年にテュルゴーの失脚をうけて後任に就任する。すでにフランス財政は火の車であり、財政立て直しのため、国王ルイ16世に請われての就任だった。ネッケルは外国人だったため、財務総監ではなく財務長官という肩書きであったが、財務長官の実質的な権限は財務総監と同じであった。

王妃マリー・アントワネットとその寵臣に質素倹約を進言したため、王妃や保守派貴族たちに疎まれ、フランスの財政再建は進まないまま、1781年にルイ16世によって罷免された。

しかし、後任のカロンヌロメニー・ド・ブリエンヌらが、特権階級である貴族への課税を試みた結果、失敗して辞任するに至り、1788年に再びネッケルの登板が求められた。ネッケルはそこで、世論を味方につけて財政改革を行おうと考え、三部会の開催を就任の条件とした。一向に改革が進行しない状況にルイ16世も焦り、三部会の開催を許可する。しかし財政改革は、利権を手放すことを拒否した保守派貴族たちによって阻止された。

1789年7月11日、マリー・アントワネット一派の圧力もあり、財務長官職を解任される。ネッケル解任の知らせは、7月14日の民衆によるバスティーユ襲撃が起きた要因の一つである。7月16日、バスティーユ襲撃を受けて再び財務長官に就任するが、財政再建策を見出せず、民衆の支持を失っていく。1790年9月4日に辞職し、生まれ故郷のジュネーヴに引退する。

従弟にアルバート・ギャラティン、娘に文人として活躍したスタール夫人(アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ネッケル)がいる。

日本語訳

参考文献[編集]

  • 安藤裕介『商業・専制・世論 フランス啓蒙の「政治経済学」と統治理論の転換』(創文社、2014年)