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山岳派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山岳派
Montagnards
指導者 ジョルジュ・ダントン
マクシミリアン・ロベスピエール
ポール・バラス
ベルトラン・バレール英語版
創立 1792年9月ごろ[1]
解散 1794年7月ごろ[1]
本部所在地 フランス共和国(第一共和政) パリ
テュイルリー宮殿
機関誌 人民の友
古びたコルドリエ派英語版
デュシェーヌ親父
党派 ジャコバン派(急進分子[1]・左派[2]
コルドリエ・クラブ
政治的思想 中央集権化[1]
恐怖政治[2][3][4]
急進主義[5]急進派[3][4]
統制政策英語版[6][7]
ジャコバン主義[8]
政治的立場 左翼[2][9][10][11]左派[3][4]
国内連携 公安委員会[2][4]
革命裁判所[2][4]
公式カラー    
フランスの政治
フランスの政党一覧
フランスの選挙
「山よ永遠なれ、唯一かつ分割不可能な共和国よ永遠なれ」エティエンヌ・ベリクール作、1793年版画

山岳派(さんがくは、フランス語: Montagnards[1][2][9]; Montagnard[4], モンタニャール[4])とは、フランス革命期、1792年9月21日より新たに召集された国民公会において最も急進的とされた議員たちの党派であり、議会の最上段の席を好んだためにこの名がつけられた[12]

なお、この時期には近代的な政党というのは存在しておらず[13]、各派閥に属する人間の定義も曖昧なものであった[14]。山岳派という名前は便宜的に使われている呼称になる[13]

概要

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1791年憲法成立後、自由主義経済に基づく政策は民衆層の食糧問題を招いていた[15]。これに対応するため民衆の生存権を優先した統治技術を主張するなど、民衆と連携する必要を自覚した人々が山岳派と位置づけられていった[16]。1792年9月21日、新たに召集された国民公会においてパリの政治的影響力についてジロンド派と対立し[17]、この際、山岳派はパリの影響力を削ぐことは首都のリーダーシップのもと治められるフランスの一体性を否定するものとした[18]。この後ジロンド派は、自らに近いとされていたデュムリエ将軍の裏切りや軍事上の危機に直面し、山岳派を攻撃することで活路を見い出そうとする[19]。ジロンド派によるパリから選出された議員であるマラーの告発などを受け、サン=キュロットの蜂起によってジロンド派は議会から追放された。この際、ジロンド派と対峙したのは山岳派というよりはパリだったと言える[20]

議会の主導権を得た山岳派は戦争による食糧問題の改善や反革命容疑者の取り締まり強化を訴える民衆を警戒しつつも要望に対して同意し、これにより恐怖政治と呼ばれる時代が始まる[21]。フランス初となる人民投票にかけられ可決された1793年憲法も、平和の到来まで施行が延期された[22]

議会が中央集権化に成功しつつあった一方[23]、各戦線での勝利によって戦争に対する危機感が和らぎ恐怖政治の意味が薄れるにつれて議会内での対立が復活すると[24]、地方で弾圧を行ったフーシェタリアンカリエフレロンバラスといった派遣議員たちは自身らが粛清される前にクーデターを計画し[25]ロベスピエールらの処刑が実行された[26]。この事件(テルミドール9日のクーデター)は山岳派の内部分裂であり、山岳派とジロンド派の間に位置した平原派の議員がこれを受け入れたかたちになる[27]

クーデター以降も旧山岳派の議員は議会内に存在したが、主導権を握ったのはクーデターを起こしたテルミドール派と復帰した旧ジロンド派であった[28]

歴史

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起源

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1774年に財務大臣に就任したテュルゴーは穀物取引の自由を実現しようとしており、彼の元その改革に協力していたコンドルセ1791年憲法成立後に発足した立法議会の議員に選出された。彼らの影響下のもと、1791年の体制において、所有権と取り引きの自由は絶対視されていた。また経済が上手く回らないのは自由放任政策に欠陥があるのではなく、その政策が不徹底ゆえと考えられ、民衆の要望だった統制経済策は経済の混乱を招くものと考えられていた[15]。両者の対立が表面化し、価格高騰によって民衆が食糧に手を出しにくくなる中、1792年春頃から、取引の規制という統制政策が民衆の生存権の擁護という視点から主張されるようになった。こうしてサン=キュロットの政治的要求に理解を示し、ブルジョワ議員としての視点からではあるものの民衆と連携する必要を自覚した人々が後に山岳派と位置づけられていった[16]

また、山岳派独裁の時期に発足した革命政府や恐怖政治に導いた人物として哲学者ルソーが挙げられていたこともあったが、今日においてこの説は否定されている。山岳派はルソーが提示した一般意思という概念を歪曲し、ジロンド派といった批判対象に合わせて恣意的な使い方をしていた[29]。1793年頃の革命家および政治家が掲げた代表制を用いた共和的統治やギリシア以来の民主政の理想は、古代史の教訓やルソーの著作を参考するだけでは具体化が困難なものであった[30]

国民公会の内訳

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1792年9月21日に国民公会が新たに召集されると、ジロンド派と称されるグループと相対立する存在として山岳派が可視的になった。この議会には議員が749名おり、どちらの派閥にも属さない人々を平原派と呼んだ。国民公会ではジロンド派と山岳派が対立し、平原派の支持を得た方が支配権を握ったのであり、当初はジロンド派が優位に立っていた。なお、ジロンド派も山岳派も中心となる人物以外は流動的であり[31]、元を辿れば両派は同じジャコバン派なのもあったため、出身や職業などで見ても大きな差はなかった[32]が、取引の自由を絶対視するジロンド派に対して、山岳派は政治の理論を優先し、必要であれば経済統制も辞さなかった[31]。そしてどちらにとっても重要なのは、議会の多数を占める中道派の取り組みであった[32]

国王裁判

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8月10日事件を受けてテュイルリー宮殿から大量の書類が押収され、国王の対外通謀の証拠が露呈した。山岳派の議員は国王という存在自体を悪と考え、国王は市民ではなく敵であり、裁判にかけるのではなく戦うべき相手であるとして即刻処刑すべきと見解を示した。これは全体としては少数派の意見であり、最終的には処刑しない方向で議論は進んでいたが、更なる証拠が宮殿の隠し戸棚から発見されたため、最終的に裁判を経ての死刑というかたちになった。山岳派には「祖国(共和国)は生きなければならないのだから、ルイは死ななくてはならない」と考えており、国王の政治的身体を抹殺することで王政という魔術から人民を解放し、革命を急進化させる狙いがあった。この時、国王の死刑を回避しようと動いたジロンド派が統一性の欠如が表面化し、平原派から詭弁家とされたため、少数派だった山岳派が勢力を伸ばした。結果、国民公会の主導権は山岳派に移り、革命は更に急進化した[33]。1793年1月24日、山岳派は国王の死刑に賛成したとして元近衛兵に暗殺された議員ルペルティエ(フランス語wiki)を革命の殉教者とする祭典を行い、さらに立場を強化した[34]

ジロンド派追放

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政治的権利の平等や共和国の一体性との関係からパリの位置づけが問題になった。ジロンド派は、パリを首都とはいえただの一都市に過ぎないと見做し、他の地域よりも強い政治的影響力を持つことは不平等と考え、パリおよびパリ選出の議員、特にロベスピエールマラーを敵視した。対して山岳派はパリの影響力を削ぐことこそ首都のリーダーシップのもとでフランスの一体感を否定すると考えた。この時、連邦主義という言葉が革命遂行に必要な一致団結を乱すものという意味を持つマイナスのレッテルとして両者に貼られた[18]

山岳派の勝利を表す版画、1793年

食糧問題に関する民衆の動きに対しても、山岳派はジロンド派と大きく変わっていたわけではなく、経済の自由を目指し、過激派の要求についてもこれを退け交渉に応じなかった。しかし経済的利害を後回しにしてでも国民を最優先する姿勢を示していたことは大きく、革命の原理を一貫して守り続けている存在として平原派や民衆の支持を得た[35]。不利な立場に陥ったジロンド派は山岳派を攻撃することで活路を開こうとし、4月5日、マラーがジャコバン・クラブでジロンド派大臣の罷免を要求したのを受け、同月12日に国民公会でマラーの逮捕を要求する。山岳派の議員は地方に派遣された者が多かったのもあり、かなりの数の議員が議会を欠席している間にジロンド派を中心とする議員の賛成によってマラーは告発された。しかし24日、革命裁判所はマラーを無罪放免とし、パリのコミューンはジロンド派に対する蜂起を計画していたが、地方都市はこれを批判し、山岳派議員もジロンド派を犠牲とすることには反対した[36]。5月24日にはジロンド派によってサン=キュロットのリーダーであるエベールとヴァルレが逮捕される。26日、マラーはジャコバン・クラブでジロンド派に対する蜂起を訴え、ロベスピエールも同調した。27日、国民公会の議場にサン=キュロットが押しかけ、ジロンド派議員が退席した隙に、山岳派はジロンド派がパリのコミューンを監視するため設置した十二人委員会の解散とエベール達の釈放を決定した[37]

議場の山岳派はさほど熱心に民衆蜂起を支援せず、国民公会は十二人委員会の廃止は認めたが民衆からの要求は拒否した。この日は蜂起した民衆は引き揚げたものの、6月2日、国民衛兵司令官アンリオ(フランス語版)はサン=キュロットと国民衛兵を率いて再び国民公会に侵入した。国民公会は蜂起民の威圧の元、ジロンド派議員29名と2人の大臣の逮捕を決定する。ジロンド派の追放は、山岳派とジロンド派の単純な党派対立ではなく、パリの政治的圧力が反映された結果であった。逮捕されたジロンド派議員の監視はゆるく、何人もが逃亡に成功し、地方に逃れた議員はパリを批判する連邦主義の反乱フランス語版)を煽動し、[38]決議の無効を訴える。これより前からパリの対応や山岳派議員の政治手法に反感を抱いていた地方の人々がこれに加わった[39]。その後、マラーがシャルロット・コルデーに暗殺された際、戦況が悪化していたことで危機感が煽られていたこともあり、革命が脅かされていると受け止めた民衆は山岳派が指導する議会を守ることで団結しようとした。こういった不安や危機感が、後に革命政府の形成と恐怖政治の遠因となった。また、民衆運動の指導者たちはマラーの後継者となることを目指し、コミューンを足場に活動していたエベールがその座に就いた。マラーと同じく議会と民衆の接点に位置していたロベスピエールの人気も高まった[40]

政策

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5月には経済の安定および治安上の観点から、山岳派は穀物とパンの最高価格法を議会に認めさせた[41]。その後、6月に入りフランス革命戦争やヴァンデの反乱といった内乱が激化すると[42]、これに対応するため、山岳派は国民の一体性を維持することに努め、パリの民衆と妥協して敵に回さないよう気を配る。その一方で、平原派の議員や地方の人々を連邦主義の側に行かせないよう配慮し、同時に自分たちが主導する国民公会の正統性を全国に認めさせようとした。そのため、4月24日から草案の審議に入っていたがジロンド派追放のため中断されていた憲法を制定することとなり、1793年憲法が完成したものの、フランスにおいて初となる人民投票の結果が正式に発表された後も施行するための準備はなされなかった[43]

その後、戦争による食糧問題やアシニア紙幣の下落が続いていた事から、9月4日・5日にわたって民衆が統制経済と食糧確保を迫り国民公会を包囲した。これを受け[21]、10月10日に革命政府が宣言されると1793年憲法は平和の到来まで施行されないことが決定し、[43]議会は民衆が求める革命軍の設置(食糧の徴発や反革命容疑者逮捕を行う部隊)に同意する[21]。さらに反革命容疑者の取り締まりを強化する法令が発され(反革命容疑者法)、生活必需品の価格を1790年の価格を基準にそこから三分の一増しにする一方、賃金は二分の一増しまでしか上げられないとする一般最高価格法フランス語版)を導入した[21]。その後、民衆の暴動を避けるため、インフラを強制的に抑制しながらパリに食糧が運び込まれたが、山岳派は民衆への警戒感を強めた[21]。以後、政府は一元的な統治を目指しつつ議会を民衆による世論によって維持しフランスの団結を図るため、これらを阻害する反革命容疑者の粛清に至る(恐怖政治)。

11月18日、革命政府の統治原理を示すフリメール14日法フランス語版)の原案がビヨー=ヴァレンヌによって作られ[44]、12月4日に採択された。この法によって法律は「共和国法律公報フランス語版)」で全国の機関に送付・適用されるものとなるなど、国家意思の形成が国民公会に一元化され、法として施行される体制が整った[45]。また、独裁を制度化し、正式に内政・軍事・外交などの諸権限を公安委員会に集中させフランスの中央集権化をすすめた(この委員会でで命令書を発効するには委員の三分の二以上が参加する行政会議や過半数の署名を必要としたため、テルミドール9日のクーデター以降に流れた流説のようにロベスピエールといった個人が権力を振るえるような制度ではなかった)[46]

12月9日には革命期において初めて全国で実施された教育法であるブキエ法が可決される[47]。これによって無料・義務・非宗教的な事を原則とした愛国的・革命的な道徳教育が目指され、翌年から各地で実施が準備され春頃から学校が始まった。また、貧民救済が重視されはじめ[48]、1794年2月26日、サン=ジュストが所有の再分配を提案した。この時に出された保安委員会は拘束されている愛国者を釈放する権利を持つとし、革命の敵と認定された者の財産を没収し共和国に役立てるとともに平和の到来まで拘禁しその後永久追放するという2つの法令をヴァントーズ法フランス語版)という。この法は革命の敵や貧困者の定義が曖昧だったため実施が困難であり、貧困者の調査といった準備が進みきらない内にテルミドール9日のクーデターが起き、廃止された[49]

ジェルミナルのドラマ

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1793年10月14日、公安委員会と保安委員会の合同会議にて、ダントン派のファーブル・デグランチーヌ英語版)が、フランス東インド会社の清算に対してエベール派とダントン派の議員たちを告発した[50]。エベール派においては政治的影響力を回復するため非キリスト教化運動を進めていたことも事件に結びつけられた。エベールはこうした状況を理解した上で、民衆に非キリスト教化運動をたきつけることでなお影響力の回復を図る。ダントンはロベスピエールや公安委員会に合わせてエベール派の無神論を批判した[51]。この大規模な争いのため、一時的に国民公会の統率力が弱まり国の混乱は深刻化する[52]。1794年2月12日には、エベール派のモモロ英語版)がロベスピエールを穏和すぎると批判し、エベール自身もコルドリエ・クラブでダントン派を「新たなジロンド派」、ロベスピエールを「嗜眠派」と呼んで批判した[53]。3月2日、エベール派がコルドリエ・クラブで民衆蜂起を呼びかけ、後日エベールの弱腰を批判している。これを受けてエベールはダントン派とロベスピエールの共謀関係を批判する一方で民衆には蜂起を呼びかけたが、パリのコミューンはコルドリエ・クラブに従うことを拒否し、国民衛兵司令官アンリオもこの蜂起に反対した[54]。3月24日、エベール派はインド会社にまつわる汚職事件に関わったとして死刑判決が下された[55]。そしてダントン派も汚職事件の加担者として4月5日に処刑された[56]。エベール派逮捕によって彼らに裏切られたと感じた民衆は、エベール派に激しい憎しみを抱くに至る。そして信頼する対象をエベール派から国民公会に移し、これは革命政府と民衆の精神的な関係を強化した。後に起こるテルミドール9日のクーデターは革命政府が中央集権化に成功しつつあったために起きたという意味で、ジェルミナルのドラマはテルミドール9日のクーデターの延長線上にあったと言える[23]

マクシミリアン・ロベスピエールと仲間の逮捕:画面の中央で憲兵メルダがロベスピエールに発砲している。(フュルシュラン=ジャン・アリエ英語版の絵画(カルナヴァレ博物館所蔵)に基づいてジャン=ジョゼフ=フランソワ・タサール英語版が制作した版画)

テルミドール9日のクーデター

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地方で内乱の過度な弾圧を行った者や非キリスト教化運動を主導したバラスやカリエといった者たちは、1794年に入った頃からパリに呼び戻されてから自身が粛清される不安を募らせ、その前に相手を粛清しようとした[57][58]。その一方で、6月26日のフリュールスの戦いでフランス軍全体の勝利はほぼ確定したと考えられ、戦争に関する危機感が薄れるにつれて革命政府内部の対立が表面化した。両者が手を組んたかたちとなり、こうしてロベスピエールをエベール派、ダントン派のように倒されるべき存在とする計画が進行する[59]。7月27日、ビヨー=ヴァレンヌがロベスピエール派の弾劾を開始し、ロベスピエールら5人の逮捕が決定される。このニュースを受けて48セクションの国民衛兵に対し派遣指令が出され、国民公会の正統性を認識していた48セクションは条件反射的に国民公会を支持したのだが、これは議会が制定した法の遵守(合法性)が権力の正当性の根拠として大きな力を持っていたことを表すとともに、非合法的と言える存在である民衆蜂起の正当性が失われたことを示している。[60]。翌日、ロベスピエール派(マクシミリアン・ロベスピエール、オーギュスタン・ロベスピエールサン=ジュストクートン、ルバ(仏語版)は処刑され、29日、パリ市の71人が陰謀を共有したとして処刑、その次の日も含めるとアンリオを含むおよそ100名が処刑された[61][62]

クーデター以降

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ジェルミナルの蜂起

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1794年末以降の国民公会を主導したのはクーデターを起こしたテルミドール派(中道派)と元ジロンド派になる。旧山岳派の議員は議会内の左派に位置したが、議会内での影響力は弱まっていた[63]。最高価格令の廃止によって食糧価格が高騰し、食糧不足が生じると民衆が食糧暴動を起こし、そこにサン=キュロットから理想的な民主主義の規定と捉えられていた1793年憲法を求める動きが加わった。3月30日、31日にはパリにあるいくつかのセクションが1793年憲法の施行を要求し、旧山岳派の議員もこれに同調した[64]。4月1日、パリの民衆は国民公会に押し寄せ、憲法の施行と飢饉対策、拘束されている革命派の釈放を要求した。しかしこれを予測していたテルミドール派は富裕層が多いセクションの国民衛兵を議会側に動員するといった対策をとっており、また旧山岳派の議員が民衆の説得にあたり彼らは引き返すこととなった[65]

プレリアルの蜂起

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5月20日、パリ中央部・東部の民衆がパンと1793憲法を求めて押し寄せた。議場で死者が出たものの、民衆は比較的少数で武器を持つ者も少なかったため、そのまま議会は進行した。そして旧山岳派の議員の内何名かが民衆の要求に理解を示す発言を述べたため、蜂起民たちが逃亡した後、彼らは逮捕され、処刑もしくは流刑となった。この議員たちはプレリアルの殉教者と呼ばれる[66]

参照

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  1. 1 2 3 4 5 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2018年11月9日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 6 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年11月9日閲覧。
  3. 1 2 3 デジタル大辞泉 コトバンク. 2018年11月9日閲覧。
  4. 1 2 3 4 5 6 7 百科事典マイペディア コトバンク. 2018年11月9日閲覧。
  5. Montagnard”. Encyclopædia Britannica. 2018年11月9日閲覧。
  6. Howard G. Brown (3 August 1995). War, Revolution, and the Bureaucratic State: Politics and Army Administration in France. Clarendon Press. p. 370
  7. Edward Berenson (1984). Populist Religion and Left-Wing Politics in France. Princeton University Press. p. 308
  8. 世界大百科事典 第2版 - ジャコバン主義 コトバンク. 2018年11月9日閲覧。
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  10. The Girondins and Montagnards”. Alpha History (2015年). 2018年11月9日閲覧。
  11. Gregory Fremont-Barnes (2007). Encyclopedia of the Age of Political Revolutions and New Ideologies. Greenwood Press. p. 867
  12. リン・ハント、フランス革命の政治文化2020、P.218
  13. 1 2 竹中2013、P.73
  14. 竹中2013、P.91
  15. 1 2 山﨑2018、P.123
  16. 1 2 山﨑2018、P.125
  17. 山﨑2018、P.144
  18. 1 2 山﨑2018、P.144ー145
  19. 山﨑2018、P.158-159
  20. 山﨑2018、P.160-161
  21. 1 2 3 4 5 竹中2013、P.88
  22. 山﨑2018、P.167
  23. 1 2 松浦「『テルミドール9日のクーデタ』とは何だったのか」
  24. 山﨑2018、P.219
  25. 山﨑2018、P.220
  26. 山﨑2018、P.222-223
  27. 山﨑2018、P.225
  28. 山﨑2018、P.234
  29. 松浦2021、P.57-58
  30. 松浦2021、P.74
  31. 1 2 山﨑2018、P.143
  32. 1 2 竹中2013、P.73-74
  33. 楠田悠貴、「フランス革命における国王裁判の政治文化的意義」
  34. 山﨑2018、P.150
  35. 山﨑2018、P.156
  36. 山﨑2018、P.159
  37. 山﨑2018、P.160
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  39. 山﨑2013、P.84
  40. 山﨑2018、P.171-172
  41. 竹中2013、P.83
  42. 山﨑2018、P.165
  43. 1 2 山﨑2018、P.166-168
  44. 山﨑2018、P.197
  45. 山﨑2018、P.189
  46. 竹中2013、P.92
  47. 竹中2013、P.108
  48. 山﨑2018、P.209
  49. 山﨑2018、P.203-204
  50. 山﨑2018、P.188
  51. 山﨑2018、P.188
  52. 山﨑2018、P.189
  53. 山﨑2018、P.202
  54. 山﨑2018、P.204
  55. 山﨑2018、P.204
  56. 山﨑2018、P.204
  57. 山﨑2018、P.208
  58. 山﨑2018、P.220
  59. 山﨑2018、P.219-220
  60. 松浦「『テルミドール9日のクーデタ』とは何だったのか」
  61. ビアール2023、P.127
  62. マクフィー2017、P.344
  63. 山﨑2018、P.234
  64. 山﨑2018、P.236
  65. 山﨑2018、P.236-237
  66. 山﨑2018、P.238-239

参考文献一覧表

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