マクシミリアン・ロベスピエール

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マクシミリアン・ロベスピエール
Maximilien de Robespierre
Robespierre.jpg
マクシミリアン・ロベスピエール、1790年頃
生年月日 1758年5月6日
出生地 Royal Standard of the King of France.svg フランス王国アルトワアラス
没年月日 1794年7月28日
死没地 Flag of France (1794–1815, 1830–1958).svg フランス共和国パリコンコルド広場
出身校 リセ・ルイ=ル=グラン
パリ大学
前職 弁護士
所属政党 ジャコバン派山岳派
サイン Signature de Maximilien de Robespierre.jpg
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マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール: Maximilien François Marie Isidore de Robespierre, 1758年5月6日 - 1794年7月28日)は、フランス革命期で最も有力な政治家で代表的な革命家

ロベスピエールは国民議会国民公会代議士として頭角をあらわし、共和主義が勢力を増した8月10日事件から権勢を強め、1793年7月27日公安委員会に入ってからの約一年間はフランスの事実上の首班として活躍した。9月25日、内憂外患の中でロベスピエールが希望していた国民公会からの完全な信任(独裁権)が、公安委員会の議決を経て認められた。左翼ジャコバン派の指導者として民衆と連帯した革命を構想、共和国を守るために国王や政敵などの粛清を相次いで断行し、"テルール"(恐怖政治)を敷いてテロリズムの語源となった[注釈 1]。ロベスピエールは普通選挙を擁護した現代民主主義の先駆者でもあるが、その評価には恐怖政治期の独裁者というイメージが定着している。

概要[編集]

1758年フランス北部に位置するアルトワ州の地方都市アラスで、弁護士の家庭に生まれる。早くに母を亡くし、その後父が失踪するなど家庭環境の動揺に直面するが、勉学に励んで進学を果たす。1780年、奨学金を得てパリリセ・ルイ=ル=グラン学院を優秀な成績で卒業し、翌年1781年アラスで弁護士を開業した。

1789年、ロベスピエールはフランス革命直前に三部会が招集されると立候補して選挙に勝利、議員に選出されて再びパリへと旅立つ。まもなく発足した憲法制定国民議会ではジャコバン派に属して演説能力を高め、リベラル政治家として活躍を見せた。1791年には国民議会での派閥抗争を次期立法議会に持ち越さぬために現職議員の立候補を禁止する法案を提出し、同法案を成立させた。1791年憲法が成立、立憲王政下に立法議会が発足したのにともないロベスピエールは一時下野してジャーナリストの世界に転身していく。『有権者への手紙』という誌名で新聞を発行して国民世論の支持を確立、パリでの足固めをしていく。程なくして国王一家が国外逃亡を図って失敗するヴァレンヌ事件が発生した。これを契機にジャコバン派から穏健派が脱退したが、この時ロベスピエールはフイヤン派ジロンド派を結成した時は立場を保持して、反戦、革命の継続を唱えて少数派の左派に留まった。

8月10日事件以後はジャコバン派の左派山岳派を指導して政局を掌握し、1792年国民公会選挙でアラスからパリ市内の選挙区に変えて立候補してトップ当選を果たした。1793年1月15日から1月19日まで、ルイ16世を訴追した国王裁判や処刑を主導するなど活躍を見せた。また、フランス革命戦争での苦戦の責任を厳しく追及し、開戦を決断しながら戦局を打開できないジロンド派の粛清を展開した。

1793年7月27日にロベスピエールが公安委員会に選出されて以降は、革命政権の確立と自己の政治的・社会的理想の実現に邁進した。ルソーの思想に影響を受け、一般意志すなわち自由・平等・友愛といった理念に加えて公共の福祉を重視した。また、政治的には国民の8割を占める小規模な独立自営農や独立小生産者に属したサン・キュロットと呼ばれる一般市民や無産労働者を支持基盤としており、プチブル民主主義共和国を理想とした。 フランス革命戦争で敗北が相次ぐなか戦争遂行を続けていくことに加え、ヴァンデ戦争といった内乱が生じたために国内の反革命勢力に対抗する必要が高まり、"テルール"と呼ばれた恐怖政治が導入された。ジャコバン派内の反対派に対しても粛清がおこなわれ、ロベスピエールは大衆運動を重視して議会と対立する路線を選択したエベール派、新興資本家階級と提携しようとしたダントン派の指導者たちを革命裁判所を通じて次々と逮捕・処刑した。

1794年6月8日、ロベスピエールは非キリスト教化を主導して最高存在の祭典を挙行するなど、革命政府の中核的存在となった。しかし、容赦のない弾圧への反発が強まり国民公会でのロベスピエールの立場は悪化し始めていく。7月27日テルミドール9日)、フーシェバラスタリアンら地方派遣議員は反対派を糾合して国民公会でロベスピエール派の逮捕を可決した。ロベスピエールは一旦逮捕されて監獄に送致されたが、監獄を出て市役所に赴き、市民に蜂起を促した。しかし、国民公会が派遣した国民衛兵に包囲されて逮捕され、弟やルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストらと共にギロチンで処刑された(テルミドール反動)。

秩序と道徳を重んじて質素で堅実な生活を営んだため、市民に人気があり「清廉潔白な人」と称されたが、政敵からは非妥協的で人間的温かみが欠けた人物と評され、周囲から孤立した[2]

生涯[編集]

前半生[編集]

誕生(1758年)[編集]

ロベスピエールの出生証明書(1758年)。

マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(以下、マクシミリアン、あるいはロベスピエールと略記)は、1758年5月6日フランス北部に位置するアルトワ州(現在のパ=ド=カレー県)の地方都市アラスで生まれた。父は結婚当時26歳で法曹家のフランソワ・ド・ロベスピエールフランス語版。母は22歳でビール製造業者の娘ジャクリーヌ・カロである[3][4]

母は正式な婚姻の前に既に妊娠中(妊娠五カ月目)であった。敬虔さを重んじるアラスの町での当時の価値観では良家の子女にあるまじき不名誉な結婚であった。結婚をめぐってトラブルが生じたもののフランソワは男子の責任を果たす[5]。間もなくジャクリーヌは出産してマキシミリアンが誕生するが、出生における瑕疵は彼を生涯苦しめ、その後の人生を規定していく。ジャクリーヌは多産で長男マキシミリアンの後、シャルロットフランス語版(1760年)、アンリエッタ(1761年)、そしてオーギュスタン(1763年)が間を置かずに生まれた。

幼少期(1760年代)[編集]

父フランソワは優秀な弁護士で、年に30件ほどの訴訟案件を担当、彼の弁護士事務所は成功を収めていた。しかし、オーギュスタンが生まれて一年が経った1764年、家族に悲劇が襲う。当時としては珍しいことではなかったが、母ジャクリーヌは五番目の子供を出産中に死亡したのである[6][4]。母の死によってそれまで幸せだった家族は急激に破綻していく。父フランソワは絶望で打ちひしがれたのか妻の葬儀に出席しなかった[6]。12月、彼はアラス東方15マイルに位置するオワジ=ジ=ヴェルジェにあって荘園を領有する貴族に仕える法務官となった。法務官の任を果たした後に父フランソワはアラスに戻ってきているが、妻を思い出して辛くなるのを恐れてか残された家族と暮らすことはなかった。家族を捨てた父は仕事で神聖ローマ帝国マンハイムに向かって故郷を離れていき、その後終生子供たちに会うことはなかった[7][8]

マクシミリアンと彼の弟妹は幼くして母を亡くし、父も家を離れたたため、家族は離散を余儀なくされた。妹二人は父方の叔母に引き取られる一方、マクシミリアンとオーギュスタンはそれぞれ6歳と1歳の時に母方のカロ家の祖父母の家で引き取られ、そこに同居している叔母のアンリエットに養育されることとなった[8]。祖父母の家はロンヴィル通りに面した所にあり、マクシミリアンは手工業を生業とする労働者が行き交う騒がしい街で成長していくこととなった。ちょうどこの時にマクシミリアンは天然痘に罹患して顔に軽度のあばたが残った[9]

なお、父の不在とネグレクトでマクシミリアンは孤児となって家族の愛情を受けられず不安定な家庭環境の中で成長して、成人後は人間的温かみに欠けた歪んだ人間になったと語られることが多い[注釈 2]が、歴史家ピーター・マクフィー英語版によればこうした見解は事実ではないという[10]

6歳までは母親からの愛情を受けて成長し、母親の死後は叔母をはじめ温かい親族に支えられながら養育を受けたほか、家から数分の距離に住む姉妹とも頻繁に会える環境で暮らしており、決して孤独でも不幸な境遇に置かれたわけではなかったと指摘されている[11]。ただし、甘え盛りの幼少期にマクシミリアンが母の死と家族離散から受けた打撃は大きく、子供らしい陽気で騒々しく乱暴な少年の人間形成に変化が生じて、成人後に人々から知られた人格を形成しはじめ「生真面目で思慮分別のある勤勉な人間」へと成長していった。アラスの活気ある市街の拡大や大聖堂の修築など建設ラッシュとは対照的に、敬虔なカトリック信者であった叔母たちの影響で規則正しく節制を重んじる平静な暮らしを送っていた。その後の少年期はケンカや騒々しい遊びではなく、読書と模型作りに熱中し、鳩やスズメをペットにして絵を描くことに情熱を注ぐ内向的な子供になっていった。日曜日には兄弟姉妹がロンヴィルの家に集まって兄弟愛に満ちた幸せと喜びに満ちた日々を過ごしていたという[12]

マクシミリアンは叔母に読書算を教わり、8歳になると地元アラスの中等教育機関コレージュに通い始めた。コレージュでは古典教養としてラテン語地理歴史が教えられた。また、アラスはフランスの国境地帯に位置し、ピカルディ方言が強かった地域だったため、この地域での教育は首都パリで話されたフランス語の習得が特に重視された。コレージュには四百人の生徒が通っていたが、頭脳明晰なマクシミリアンはすぐに群を抜いた存在となっていく。両親のいない家庭で弟妹を抱えた少年は、勉学していずれは自分が家族を守っていかなければならないという責任感を抱え、必死で勉強していった。11歳の時に弁論大会に参加する一団に選抜され、ラテン語のテキストに注釈を加える能力を披露するなど優秀な成績を残した。やがて、奨学金を得てパリのリセ・ルイ=ル=グランに学ぶこととなった[13][8]

ルイ大王校時代(1769年-1781年)[編集]

マクシミリアンは12歳になり、少年期に入るときに転機が訪れる。リセ・ルイ=ル=グラン(ルイ大王校)への進学が決まり、パリへと旅立つこととなった。彼はこの学院に所属し、8年間にわたり寮生活を送った。ルイ=ル=グラン校はカルチエ・ラタンに所在しており、パリ大学教養学部の付属校を形成していた[14]。学院は徳育を重視して規律と倫理性を備えた市民を育成することを目標と定めて、その環境は厳格な風紀を順守を求めるものであった。学校の規律はカトリックの秩序を重んじた敬虔な暮らし方を送ることを旨とし、集団寮生活の下で生活時間の規律化に順応することが求められた[15]

同校には500人が奨学生として所属していた。カリキュラムは、低学年でラテン語文法とフランス語の学習、高学年ではラテン語文献の講読、プルタルコスの『対比列伝』、キケロの『弁論家について』など古典学習のほかローマ史に精通すべく授業が組まれ、ギリシア語文献については特にアリストテレス哲学が履修対象とされ、最高学年になると道徳哲学論理学の講義され、ボシュエ王権神授説モンテスキュー『ローマ人衰亡原因論』の教授がおこなわれた[16]。そこでは多数の出会いがあった。学窓のカミーユ・デムーランもその一人であり、後のフランス革命の立役者たちがここで育った[17]。反感を抱くものもいた。学院副院長のリエヴァン・プロワイヤールフランス語版はロベスピエールに不信と嫉妬感を抱き、否定的な評伝を多数残していく[18]。ここでの教育において特に影響が大きかったのはキケロの思想であった。美徳と悪徳を並べて、美徳が悪徳による陰謀と攻撃の脅威に晒されていることを強調するもので、この二項対立的な思想方法はロベスピエールやデムーランの内面に影響を与えた[19][20]

しかし、名門校への進学を果たしたマクシミリアンの境遇は直ちに順風とはいかなかった。1777年に父フランソワが異国バイエルンミュンヘンで亡くなり、親族であったカロ家の祖父母を失い、兄弟姉妹が進学して故郷を離れ、叔母が各々結婚して生活環境が大きく変わる中で、妹アンリエッタを亡くすなど家族を失い、絆のある一族の離散が立て続いた[21]。(マクシミリアンの詩[22]

晩年のルソー

一方、マクシミリアンは非常に優秀な学生で、教師陣からの評判も良かった。こうした学業の日々で大任が下る。1775年、マクシミリアンの能力を高く評価していたエリヴォ先生からルイ16世の誕生日での賛辞を朗読する大役に指名されたのである[注釈 3][23][8]。マクシミリアンは家業であった弁護士になるべく、法学部への進学を志した。大学進学を果たし、パリのソルボンヌ大学に入学する。早速、活躍している有力な法曹家への接近も試み、学業へのアドバイスを求めるなどして人脈形成に励んでいる。大学での勉強では民法・教会法を学び、法律事務所での研修生としては行政法刑法の実習に励み、裁判所にも足を運んで法廷での検察・弁護人・裁判官のやり取りを観察、判決や判例の勉強に努めた[24]

プロワイヤールはこの時期のロベスピエールが「悪書」を講読していたことを伝えている。ルソーの『新エロイーズ』、『社会契約論』、『エミール』や貴族のセックス・スキャンダルに関する報道を熱心に読んでいたという。学生時代は勉学のかたわらモンテスキューやルソーなどの啓蒙思想家の著作を愛読していたが、特にルソー(1778年没)については自ら訪問してその謦咳に接するほどの傾倒を示している[25]

マクシミリアンは、法学課程の履修に通常二年が必要であったが、18ヶ月で課程を修了した。卒業時に学業優秀者に対する報奨金600リーヴルが授与された。マクシミリアンは、1781年にパリ高等法院から弁護士資格を取得して地方ブルジョワ階級出身者の典型的な青年として出発する[26]。マクシミリアンの卒業後、弟オーギュスタンも兄の奨学金を引き継いでルイ=ル=グラン校への進学を果たした[27][20]

法曹界へ(1781年-1789年)[編集]

アラスでロベスピエールが下宿していたアパート。

1781年、ロベスピエールは卒業後、アラスに帰郷して弁護士として開業した。すぐに顧客獲得を模索して奔走し、アラスの宗教権力や法曹界における有力支援者の獲得に努めた[28]。アラスは10箇所の裁判所が設置され、そこに所属する31名の裁判官、92人の法廷弁護士、50人の代訴人、25人の公証人から構成されていた。1782年1月、ベテラン法曹家のギヨーム・リボレルが簡単な訴訟案件をロベスピエールに回して最初の仕事を受け持つように便宜を図った。3月には、早くも殺人事件に関する裁判で司教区裁判所の判事に抜擢されるほど能力を発揮した。このときの裁判での判決からロベスピエールは死刑制度に対して疑問を感じている[29]

ロベスピエールは生真面目な仕事人間であった。日々の半分以上を仕事に捧げていた[注釈 4]。担当裁判の多くで勝訴する優秀な弁護士であったが生活はなお苦しかった[30]。マクシミリアンが若さを謳歌して恋愛に情熱を傾ける時間はなかなか手に入らなかった。ただし、女性との出会いがなかったわけではないようである。デュエという女性からは贈り物としてカナリア数羽を譲られて可愛がっていたが、これを機に文通を開始している。ペットへの愛情から感謝の手紙を送っているものの、恋愛関係の進展はなかったという[31]

私生活面以上に仕事では貴重な出会いがあった。ロベスピエールが25歳の時、マクシミリアンの親ぐらいの年齢で友であり師となったアントワーヌ・ビュイサールという法曹家と出会う。ビュイサールから斡旋された裁判を契機に次第に知名度を高めていく。このときの裁判はヴィスリ避雷針裁判として知られている。ベンジャミン・フランクリンが発明してヴィスリという住人が家に設置した避雷針に関する裁判を回してもらい紹介と情報提供を受けながら裁判に臨む。科学を擁護してリボレルなど撤去派に勝利したのである。ロベスピエールは科学進歩を掲げる啓蒙主義の擁護者として知られていくこととなった[32][33]。また、アンシャン修道院横領事件では経理役フランソワ・トドフによる横領事件を弁護した。低い賃金で労働していた点に注目させ裁判で勝利したものの物議を醸し、「法の権威を攻撃し法廷を侮辱した」として叱責された。だが、この裁判はロベスピエールとリボレル等ベテラン法曹家との確執をもたらす一方、彼の博愛精神を世に知らしめるものともなった[34][35]

1783年、アラスで着々と成功を収めたロベスピエールはアラス・アカデミーの会員となることが認められた[36]。その一年後には書記のポストに立候補して落選しているが、1786年1月にはアカデミー院長に選出された。アラス・アカデミーでは後にナポレオンの下で陸軍大臣となるラザール・カルノーと出会っている[37]。ロベスピエールは学術面でも活躍を見せ、メス技芸王立協会に発表した『刑事事件の加害者の一族もその罪を共有すべきか』という論文は高く評価され、特別賞と400リーヴルが授与されている[38]。また、このころ「非嫡出子の相続権問題」など個別事例を論文で取り上げている。出生時の瑕疵によって人生が規定されるという不合理性を指摘するとともに、血統に起因する特権に批判をおこない、旧体制における社会秩序の根幹を争点化しようとした[39]

アラス・アカデミーは「アルトワ州の耕作地は分割されるべきか否か」を問題とする論文を公募した。これにバブーフも論文を提出したが期限を過ぎていたため受理されなかった。この論文をロベスピエールが読んだかは不明だが、バブーフがロベスピエールを知る最初のコンタクトとなった。バブーフはロベスピエールを貧民のために働く法曹家として高く評価していた[40]

ロベスピエールは穏やかな性格の持ち主だったが、進歩的で開明的な考え方を持っており男尊女卑の風潮に批判的な立場を表明することがしばしば見られた。1786年のアカデミー院長就任演説では理性や徳といった穏当な主題ではなく、より具体的で社会的なテーマに踏み込んで自分自身の出生に関する瑕疵に言及しながら非嫡出子の権利が侵害されている点を改めて指摘した。家族内における子の平等を説くロベスピエールの認識は嫡子相続を重視する当時の結婚観や家族観と相いれず、不本意にも婚姻制度の冒涜者として非難された[37]。また、1787年4月にはロベスピエールはアカデミーへの女性の加入を認める方針を明らかにし、さらにアカデミーの名誉会員として承認する決定もしている。これは社会での公的生活での活動とその業績は男性にのみ許されるという既存の社会通念を打ち破る女性解放男女同権の立場を表明するものであった[41]

ロベスピエールの風貌。

仕事人間で生真面目なロベスピエールは死後盛んに冷血漢として非難されているが、実際には真面目ではあるが冗談も語り、恋愛や詩の美しさを理解できる情熱的な面を持ち、貴族的ないで立ちではあったが気さくな人付き合いが苦手なわけではなかった[42]

ビュイサールの娘シャルロットへの恋文では北方のカルヴァンに旅行した時の出来事を報告している。これはロベスピエールには珍しい率直な愛情表現であった。身近な人達への親愛の情は深い人物だったと推測される[42]。地元で評価を高めたロベスピエールは社交クラブのロザティ協会にも入会が認められている。同協会は文学と酒を愛する紳士クラブであった。著名な法曹家となっていたが、物議を醸す見解を提示し争点を社会問題への批判へと展開させる裁判でのやり口が嫌われ、かなり遅く入会の勧誘があった。だが、ロベスピエールは協会への加入が承認されたことを大変喜び、文学への関心を高めて詩作にも興じている。この協会では後に政敵としてロベスピエールを追い落としたジョゼフ・フーシェと出会うことなった[43]。一方、デュエ嬢との文通は続いていた。彼女とは共通の趣味であったペット愛を熱く語り合っている[44]

ロベスピエールは華々しい成果と共に経済的成功をおさめたものの、アラスでの多忙であるが平穏な生活は長くは続かなかった。歴史はロベスピエールをアラスの地で埋もれさせはしなかった。1789年の一大変化はロベスピエールをパリに連れ戻し、彼を歴史の表舞台に登壇させることとなる[45]

フランス革命(1789年前半)[編集]

三部会当選・政界進出[編集]

1787年までにロベスピエールは20代でありながら、地方都市における主要な法曹家として目覚ましい成功を収めていた。しかし、当時のフランス王国は危機に直面していた。1775年から1783年にかけて英領北米植民地で反乱が勃発し、アメリカ独立戦争が始まる。フランスはアメリカの13植民地を支援するため戦争に介入する。フランスは戦争には勝利をおさめ7年戦争での敗北の雪辱を果たすも10億リーヴルもの戦費によって財政が悪化していく[46]

財政問題は不可避の課題となってフランスに圧し掛かっていた。

アンシャンレジームを風刺した画(第三身分者が第一身分の聖職者と第二身分の貴族を背負う)

国王政府は財政再建のために貴族への免税特権をはく奪して財政再建を図ることを決断したが、これを契機に王権貴族間の対立が激化していく。国王ルイ16世は貴族の反発に対処するために三部会を招集することとなる[47][48]。しかし、この決断がフランスの歴史を変えていくこととなる。1783年に発生したアイスランドラキ火山の大規模な噴火により全世界で夏のない年となり、フランスでも冷夏による飢饉が発生した[注釈 5]1789年に至るまで例年のように火山の冬といえる異常気象が相次ぎフランス各地で食糧難を原因とした社会的緊張が高まっていた。三部会招集を契機に長期にわたり蓄積されてきた第三身分に属した平民層(ブルジョワジープロレタリアートを含む一般市民層)の不満が全国で一挙に噴出していった。

1789年三部会

国王による全国三部会の招集は最後のもので1615年のことであったため、実に170年ぶりの出来事であった[49]。三部会招集問題は選挙資格をめぐって争点となった。この時、アルトワ州選出議員となる資格者は以下の通りであった。

貴族資格は4代以上続く貴族で、聖職者資格は司教をはじめカトリック教会聖職者の長の者に与えられた。第三身分の資格は都市参事会員ということが規定され、各都市に2、3名の議席の割り当てがあったのだが、第三身分に30票の選挙人数に対して、少数派の貴族に100票、聖職者に40票という過大な代表数が配当されていた。ロベスピエールにとって身分別に区分された選挙資格の設定や選挙人の投票数は不公正なものに思われた。さらに、第三身分の代表者選出が富裕層(ブルジョワジー)に制限された制度を非難するなど、ロベスピエールは三部会議員の選挙資格をめぐって活発に批判を繰り広げていた[50]

同年、アラスで国王封印状により拘留されていた老人の財産権の回復をめぐる裁判(国王封印状裁判)をロベスピエールが担当した。ロベスピエールは国王は人類の幸福と正義の実現を図るべきだと主張してこの裁判でも勝訴、老人の権利回復を勝ち取っている。ロベスピエールは不当に権利を侵害された人々を司法の力で救済し、法律によって人々の権利を守ることに全力を注いだ。なお、この頃のロベスピエールは選挙資格に不満を感じながらも三部会招集を歓迎し、まだ国王と国王政府による改革に期待を抱いていた[51]

ロベスピエールは司法活動だけに留まらず、やがて政治活動にも取り組むようになった。盛んに政治パンフを出版するようになり政治のヴィジョンを積極的に宣伝し始めたのである。『アルトワ人に向けて』を刊行、有力者にのみ開かれた代表制度を再度批判したほか、『アラス市民集会で仮面を剥がされた祖国の敵』を著して旧体制のエリート層を激しく糾弾した。そこでは「外国の軍隊よりも恐るべき国内の敵がひそかに祖国の破滅をたくらんでいる」と指摘し、どのような苦難が生じようとも「抑圧的な体制を永続化する…陰謀の秘密を祖国のために明らかにする」と宣明している。ロベスピエールは社会を支える平民が虐げられている現状に義憤を抱きながらジャーナリズムや政治活動によって貴族や高位聖職者らの不正義を正そうと彼らに急進的な政治批判を加えた[52]

国王により議場を閉鎖された第三身分の議員
ダヴィッド『球戯場の誓い』。中央にバイイ、中央寄り右下で胸に手を当てているのがロベスピエール。(カルナヴァレ博物館蔵)

一方、地元アルトワ州では全国三部会選挙を前に国王に向けての陳情書「不満の一覧」[注釈 6]が作成されていた。

国王に期待している改革要望をまとめたものであるが、そこでは飢饉、政情不安、財政再建への対応が求められ、税制行政司法教会を含む包括的な国家改革の必要性が主張された。だが、陳情書作成にあたって利害対立が深刻化していた。国内全域で貴族・農民地代をめぐる対立、貴族・ブルジョワ間の階級対立が激化しており、職業選択の自由負担の公平化、封建制度の廃止が論じられた[53][54][49]

ロベスピエールも選挙と陳情書の作成を前に選挙区内での視察に励み、困窮に喘いでいた靴職人からなる製靴工組合の会合に出席していた。英仏通商条約[注釈 7]で皮革の値が高騰して生活を圧迫しているという陳情を聞き、条約改正を訴えた[55][56]。三つの身分が別々に会合を開いていたが、身分間の確執が一層表面化し、激しい対立の結果、有力貴族や司教をはじめ主要な候補者に辞退者が続出したが、一方で全国各地で地方で影響力をもつ優秀な名士が選出された。

アラスでの全国三部会選挙は1789年4月24日から28日にかけて実施された。複雑な選挙システムによって当選結果が出るまでに時間がかかったと言われている。ロベスピエールは第三身分の候補者8名の選出で4回目の投票で当選ラインになんとか僅差で到達、当選を果たした[57]。30歳にして三部会のアルトワ州第三身分代表として政治の世界に身を投じる。地元紙『アフィッシュ・ダルトワ』からはロベスピエールは狂人ミラボーとも遣り合える人物などと痛切な人物評を書かれていた[58]

全国三部会は聖職者からなる第一身分308名、貴族身分からなる第二身分285名、平民からなる第三身分646名、合計約1200人から構成されていた。第三身分選出議員(646名)の半数は法曹家で、彼らは地方の現状と平民の不満を体現していた。招集されて間もない三部会は深刻な問題に直面した。1789年5月5日から6月20日にかけて議決方法をめぐって対立が激化していった。部会で別個に議論と評決を下すか、合同会議を開いて多数決で評決するかが論点となったが、個別部会制を主張する第一・第二身分に対して合同部会による多数決を求める第三身分が個別部会に激しく反発したのである[59][60][61]シェイエスは実力行使を訴え、第三身分だけで国民議会を招集すると主張した。

1789年6月20日、両者はやがて決裂するに至る。議場ムニュ公会堂が閉鎖されたため、ジャン=ジョゼフ・ムーニエが議場をテニスコートに移すことを提案し、第三身分だけの憲法制定国民議会(以下「国民議会」と略記。)が発足する。議員は「王国の憲法が制定され、強固な基盤の上に確立されるまでは、決して解散せず、四方の状況に応じていかなる場所でも会議を開く」ことを誓い合った。球戯場の誓いである。ロベスピエールも国民議会を熱烈に支持し、急進派のオノーレ・ミラボーらと共に誓約書に署名した[62]。6月23日、国王が国民議会の解散を命じるが議会は拒否し、事態打開のために27日、国王は今度は三部会に留まった貴族や聖職者に国民議会への合流を勧告する」[63][64][65]。第三身分が勝利を果たし、これにより政局の安定が図られることが期待された。しかし、事態は急変していく。

活躍目覚ましいロベスピエールは1789年段階のパリでは無名の人であった。この時期のロベスピエールは、ロベール・ピエールなど不正確な綴りで報道されていた[62][66]

バスティーユ襲撃[編集]

1789年7月14日バスティーユ襲撃。バスティーユ襲撃で連れ出されるド・ローネーを描いた(ジャン=バティスト・ラルマン英語版画の油絵。
(フランス革命美術館蔵)

食糧が不足したパリで飢餓の恐怖とジャック・ネッケル財務長官職解任に民衆とブルジョワジーは激怒した。1789年7月12日には国王の軍隊がパリ市民に攻撃を加えるという噂が流れ始め、数千とも数万ともいわれる人々が廃兵院に押しかけた。自衛と秩序保持を名目に武器と弾薬を引き渡すように要求した。群衆が廃兵院で3万丁の小銃を奪い、7月14日、弾薬の調達のためにバスティーユへと向かった。バスティーユ襲撃サン・キュロットたちの絶対主義体制に対する不満の表れであった。その不満が絶対主義の象徴であったバスティーユに向けられた[67][68][69]

その頃、市民代表がバスティーユの司令官ベルナール=ルネ・ド・ローネーに武器の引き渡しを求めていた。廃兵院からまわってきた人々が合流し、その数はさらに増加した。人々の興奮状態が高まって群衆が中庭になだれ込み、襲撃が始まった。恐怖にとらわれた守備兵が発砲して、民衆と守備兵が衝突し、混乱のさなかの激しい銃撃戦により死傷者が出た。群衆側が大砲を奪取して激しい銃撃戦が展開され、バスティーユは陥落した[67][70][71]

ド・ローネーは捕らえられ、パリ市庁舎に連行された。群衆はド・ローネーの首を刎ねて殺害、さらに市長のジャック・ド・フレッセル英語版も、この日の出来事への対応を「裏切り行為」として咎められ、市庁舎から出て来たところを射殺され、首を刎ねられた。彼らの首を槍の先に刺して高く掲げた群衆は、市庁舎前の広場を練り歩いた[67][72][73]

ロベスピエールは早速この日の状況を郷里の友人アントワーヌ・ビュイサールに報告している。

「親愛なる友よ。今起きている革命は、人類史の中でも最も偉大な出来事を、この数日の間にわれわれに見せてくれたのです」と述べてバスティーユ襲撃が歴史的に重要な事件であったと強調し、事件に対する興奮を伝えている。「あらゆる階層の市民からなる30万人の愛国者たちの軍勢によって、蜂起は全体的なものになったのです」と述べた。加えて、ロネとフレッセルの殺害についても衝撃的な出来事であったとしながらも、「前者は、住民の代表者たちに発砲するよう、バスティーユの砲兵たちに命じたとして有罪宣告されていましたし、後者は、宮廷の最上層の人々と共に人民を攻撃する陰謀に加担したと有罪宣告されたのです」と語り、民衆による武装蜂起の正統性を擁護している[74]

その後、国王ルイ16世はパリを表敬訪問して市民と和解を図ろうとし、議会側もこれに応じ国王を歓待するため代表団を指名した。ロベスピエールは革命に対しても国王と和解してルイ16世を歓迎するという議会側の対応も民衆感情の発露として高く評価しており、この時国王を迎える一団にも参加している。一方、国民議会や革命に抵抗する貴族、スイス衛兵らを「裏切者」と見なし、妹への手紙でも「パリの騒擾で一体何が起きたというのか。全体的な自由が実現し、血はほとんど流れなかった。いくらか首が落とされたのは確かだが、それらは罪ある者の首だった。……この暴動のおかげで、今や国民は自身の自由を手にしている」と語って、革命と民衆を擁護する立場を鮮明に語った。また、ミラボーが国民衛兵の創設を提案し、ロベスピエールもこれを支持している。ロベスピエールは民衆が自衛のために武器を取り、自由のために戦うのは当然の権利として見ていたのである[75][72]

私生活[編集]

マキシミリアンの妹シャルロット・ド・ロベスピエールフランス語版。後に回想録を執筆する。
エレオノール・デュプレ英語版の肖像。ロベスピエールの事実上の妻となっていた[76]

私生活は至って質素で、紳士的な服装や振る舞いは広く市民の尊敬を集めた。テルミドールのクーデターで処刑されたときには、下宿していたデュプレ家に借金が残っていたともいわれる。その清潔さと独身であることから女性から特に人気があり、ロベスピエールが演説する日は女性の傍聴人が殺到したと伝えられている。

生涯独身を貫いたが、アラスの弁護士時代には、地方の名士として社交界に出入りして女性たちには好感をもって迎えられており、中でもデゾルティ嬢とは恋人関係にあるとの噂もあった。またパリに赴いてからは下宿先であるデュプレ家の長女のエレオノール・デュプレ英語版と内縁の妻同然の間柄だったという[注釈 8][注釈 9]。直系の子孫はいない。

生前は、端正な容貌をしていたとされており、肖像画などもそのように描かれていた。しかし、2013年にフランス法医学者グループが、著名な蝋人形師のマダム・タッソーが制作したデスマスクを元に顔を復元したところ、ロベスピエールの顔は、あばた顔で陰湿な目つきをしたものとなった。あばたは自己免疫不全類肉腫症によるものとされる。

弟のオーギュスタンは兄と同様に政治家の道を歩み、テルミドールのクーデターで兄共々処刑されている。妹のシャルロットによる兄弟の回想録がある[77]

発言[編集]

  • 「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」[78]

評価[編集]

  • ナポレオン「もし処刑されていなかったら、この世でも最も優れた人物になっただろう。私と彼が出会わなかったことを残念に思う」[79]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 18世紀末に中央集権的な組織を備えた「政党」は存在しないため、ジャコバン派は議員たちの緩やかな連合体であって、国民公会内の一会派的な性格が強かった。したがって、ジャコバン体制はファシズムスターリニズムのような20世紀的な一党独裁体制とは異なっている。ロベスピエールが政権を掌握していた1793年から1794年の間もジャコバン派は少数派で、実際には独立した穏健な中間派(平原派)が多数派を占めており、立法行政司法警察財政軍事に及ぶ国政の全権を完全に掌握していたわけでない。柴田三千雄は、ジャコバン派の独裁を現代的な意味で理解するのは時代錯誤で歴史的に正確な理解ではないと指摘した上で、ロベスピエールによる恐怖政治やジャコバン独裁は、現代の恐怖政治独裁体制とは大きく性格が異なっていると強調している[1]
  2. ^ 脚注の追記。歴史家による心理分析
  3. ^ 否定する研究あり[20]
  4. ^ 脚注の追記。生活サイクルについて(p.67)
  5. ^ 世界的な火山の活動期で、噴火による大気中の粉塵の増加によって世界中で気温が最大-1.5度低下した。これにより世界中のいたるところで厳冬と凶作に見舞われ、飢饉が起こったが、これはフランス革命の遠因の一つとされる
  6. ^ 歴史家の解説を記述
  7. ^ グレート・ブリテン王国は既に産業革命によって機械化と工業化を達成し大量生産を可能とする歴史段階に入っていた。その結果、いまだにに農業国であったフランスは貿易競争力を喪失して国内産業が疲弊していく状況に陥っていく。フランス革命前夜、英仏間の貿易摩擦に起因する緊張状態は戦争寸前の状況にあった。フランス国内では協定破棄のためなら戦争も止む無しという世論が高まっていた。(遅塚氏)
  8. ^ 彼女は未亡人と呼ばれ、亡くなった際にはロベスピエール未亡人に準じるとして、共和主義者が大勢、葬儀に参列した。
  9. ^ 妹のシャルロットはこれを否定して、兄は生涯童貞だったと述べている。

出典[編集]

  1. ^ 柴田(2007) p.167
  2. ^ 水村光男編 『世界史のための人名辞典』 山川出版社 1991年。 p.393
  3. ^ マクフィー(2017) pp.19-20,p.22
  4. ^ a b 松浦(2018) p.4
  5. ^ マクフィー(2017) p.20
  6. ^ a b マクフィー(2017) p.23
  7. ^ マクフィー(2017) pp.23-24,p.26
  8. ^ a b c d 松浦(2018) p.5
  9. ^ マクフィー(2017) p.24
  10. ^ マクフィー(2017) pp.24-25
  11. ^ マクフィー(2017) pp.25-26
  12. ^ マクフィー(2017) p.26
  13. ^ マクフィー(2017) p.34
  14. ^ マクフィー(2017) p.39
  15. ^ マクフィー(2017) pp.44-47
  16. ^ マクフィー(2017) pp.42-43
  17. ^ マクフィー(2017) p.40
  18. ^ マクフィー(2017) p.41, p.49-50
  19. ^ マクフィー(2017) pp.43-44
  20. ^ a b c 松浦(2018) p.6
  21. ^ マクフィー(2017) p.48
  22. ^ マクフィー(2017) pp.48-49
  23. ^ マクフィー(2017) p.50
  24. ^ マクフィー(2017) pp.51-53
  25. ^ マクフィー(2017) pp.54-55
  26. ^ マクフィー(2017) p.56
  27. ^ マクフィー(2017) p.59
  28. ^ マクフィー(2017) p.60
  29. ^ マクフィー(2017) pp.64-65
  30. ^ マクフィー(2017) p.65, pp.67-68
  31. ^ マクフィー(2017) p.66
  32. ^ マクフィー(2017) pp.68-70
  33. ^ 松浦(2018) pp.7-8
  34. ^ マクフィー(2017) pp.79-80
  35. ^ 松浦(2018) pp.8-10
  36. ^ マクフィー(2017) p.73
  37. ^ a b マクフィー(2017) pp.81-83
  38. ^ マクフィー(2017) pp.74-75
  39. ^ マクフィー(2017) pp.76-77
  40. ^ マクフィー(2017) p.81
  41. ^ マクフィー(2017) p.84
  42. ^ a b 松浦(2018) p.17
  43. ^ マクフィー(2017) pp.84-87
  44. ^ マクフィー(2017) p.88
  45. ^ マクフィー(2017) p.92
  46. ^ マクフィー(2017) p.93
  47. ^ マクフィー(2017) pp.93-94
  48. ^ 遅塚(1997) pp.77-78
  49. ^ a b 遅塚(1997) p.78
  50. ^ マクフィー(2017) pp.94-99
  51. ^ マクフィー(2017) pp.99-100
  52. ^ 松浦(2018) pp.19-20
  53. ^ マクフィー(2017) pp.101-102
  54. ^ 遅塚(1997) pp.46-49
  55. ^ マクフィー(2017) p.101
  56. ^ 遅塚(1997) pp.42-44
  57. ^ マクフィー(2017) p.105
  58. ^ マクフィー(2017) p.108
  59. ^ マクフィー(2017) p.111
  60. ^ 柴田(2007) p.99
  61. ^ 遅塚(1997) p.80
  62. ^ a b マクフィー(2017) p.114
  63. ^ 松浦(2018) p.27
  64. ^ 柴田(2007) p.98
  65. ^ 遅塚(1997) p.81
  66. ^ 松浦(2018) p.28
  67. ^ a b c マクフィー(2017) p.115
  68. ^ 柴田(2007) p.103
  69. ^ 芝生(1989) pp.44-48
  70. ^ 柴田(2007) pp.103-104
  71. ^ 芝生(1989) pp.50-51
  72. ^ a b 柴田(2007) p.105
  73. ^ 芝生(1989) pp.51-52
  74. ^ マクフィー(2017) pp.115-116
  75. ^ マクフィー(2017) p.117
  76. ^ Hippolyte Buffenoir, Les Portraits de Robespierre, Ernest Leroux, 1910, p. 121
  77. ^ 和訳
  78. ^ Linton, Marisa (August 2006). "Robespierre and the terror: Marisa Linton reviews the life and career of one of the most vilified men in history". History Today. 8 (56): 23.
  79. ^ ベントラン将軍「セントヘレナ覚書」

文献リスト[編集]

  • フランス革命関連
    • 浅羽通明『右翼と左翼』幻冬舎、2006年。ISBN 4-344-98000-X
    • 安達正勝『フランス革命の志士たち―革命家とは何者か』筑摩書房、2012年。
    • 安達正勝『物語フランス革命 バスティーユからナポレオン戴冠まで』中央公論新社、2008年。
    • 多木浩二『絵で見るフランス革命―イメージの政治学』岩波書店、1989年。
    • 松浦義弘『フランス革命の社会史』山川出版社、1997年。
    • 柴田三千雄『フランス革命』岩波書店、2007年。ISBN 978-4-00-600189-6
    • 遅塚忠躬『フランス革命 - 歴史における劇薬』岩波書店、1997年。ISBN 978-4-00-500295-5
    • 芝生みつかず『フランス革命』河出書房新社、1989年。
    • トーマス・カーライル『フランス革命史1〜6』柳田泉訳、春秋社、1947年、48年 [原著1837年]。
    • モナ・オズーフ『革命祭典』立川孝一訳、岩波書店、1988年7月 [原著1984年]、ISBN 978-4000003223
    • ミシェル・ヴォヴェル『フランス革命の心性』立川孝一ほか訳、岩波書店、1992年5月 [原著1985年]、ISBN 978-4-00-003622-1
    • 松浦義弘「フランス革命期のフランス」(柴田三千雄・樺山紘一福井憲彦編『フランス史 2 16世紀 - 19世紀なかば』山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年7月。ISBN 978-4-634-46100-0。)
    • ハンナ・アーレント『革命について』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1995年6月 [原著1963年] ISBN 978-4480082145
    • アレクシス・ド・トクヴィル『旧体制と大革命』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉1998年1月[原著1856年]、ISBN 978-4480083968
    • 『フランス革命事典 2』フランソワ・フュレ、モナ・オズーフ編、河野健二ほか監訳、みすず書房〈人物 1 みすずライブラリー〉、1998年12月 [原著1988年]。ISBN 978-4-622-05033-9
    • カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』植村邦彦訳、平凡社平凡社ライブラリー 649〉、2008年9月。ISBN 978-4-582-76649-3
    • 二宮宏之「フランス絶対王政の統治構造」(『二宮宏之著作集 3 ソシアビリテと権力の社会史』岩波書店、2011年12月、ISBN 978-4-00-028443-1。)
    • 柴田三千雄『フランス革命はなぜおこったか 革命史再考』福井憲彦・近藤和彦編、山川出版社、2012年4月。ISBN 978-4-634-64055-9

外部リンク[編集]