球戯場の誓い

球戯場の誓い(きゅうぎじょうのちかい、仏: Serment du Jeu de paume、英: Tennis Court Oath)とは、フランス革命直前の1789年6月20日、三部会の第三身分議員がヴェルサイユ宮殿の球戯場(ジュ・ド・ポームのコート)に集まり、憲法制定まで解散しないことを誓い合った出来事。なお、「球技場の誓い」と表記される他、英語の重訳からテニスコートの誓いと呼ばれることもある。
概要
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七年戦争における敗北に関し、イギリスに一矢報いるため、ルイ16世はアメリカ独立戦争を支援した。これによる軍事費は財政危機を招き、1788年には破産状態となる[1]。当時の財務大臣カロンヌは、特権身分の反発などを理由にこれ以上の増税は不可能と判断し、国政上のすべての制度欠陥を改善することによって国全体を再活性させるしかないとした[2]。名士たちやルイ16世の反感を買い罷免されたカロンヌに代わり、新たに財務大臣となったブリエンヌもまた改革案の支持を得ることに失敗し、次に高等法院の支持を求めた。高等法院はいくつかの改革案は受け入れたものの財政案については反対し、新税を承認することができるのは全国三部会のみだと主張した[3]。1788年8月、ブリエンヌは全国三部会開催を受諾し、改革の失敗を認め辞任している[4]。
1789年5月5日、ヴェルサイユ宮殿で全国三部会の開催式が開かれた[5]。開催式ではルイ16世と新たな財務大臣ネッケルによって、全国三部会の議題は財政赤字の解消のみとなることが示された。しかし、各地から陳情書を託されていた議員たちは、改革まではいかなくともなんらかの政治改革を期待していた[6]。
開催にあたり投票形式すら定められておらず[7]、ルイ16世もネッケルもこの問題に触れなかった。さらに身分間の対立もあり、政府当局と対立しとくに貴族特権を敵視するドフィーネとブルターニュの代表者たちに説得された第三身分の議員は、投票形式に政府が方針を示さない以上は、各身分が合同して代表者の資格認定作業を行うべきであると主張した[8]。議員1人につき一票の投票制度を求めていた彼らは、各議員の資格審査を身分ごとに行うと聞き、このまま身分ごとの資格審査が行われ投票も各身分につき一票となる可能性を懸念したのである[9]。他の身分はこれを自らの名誉に関わるとして拒否したが[10]、第三身分の議員は単独での議員資格審査を開始し、他の二身分に合流を呼びかけた[11]。そして『第三身分とは何か』の著者であるシェイエスの提案に基づき、身分制の否定を意味する『国民』という言葉を使い、自らを国民議会と名乗った[12]。これに第一身分は合流しようとするも議長はルイ16世に介入を求め、第二身分もこれを要請した[13]。
ルイ16世は三身分合同で開く親臨会議の開催を決定し、ここで方針を示し権威を回復しようと考えた。その準備のため第三身分の議場であったムニュ・プレズィールの間を閉鎖したが、役人が第三身分の議員への通達を忘れていた[14]。6月20日、議場が閉鎖されているのを見た第三身分の議員たちは国王政府が自分たちに対して反撃に転じたと解釈し、集会を開ける場を探して宮殿内にある室内球技場に集まった。そこでドフィーネ選出の議員ムーニエの主導により、議長だったバイイを中心にして「自分たちは憲法が制定され、かつ堅固な基盤の上に確立されるまでは解散せず、状況に応じていかなる場所においても会合を開く」と宣誓した[15]。
当初、ルイ16世はネッケルの提言に従い、重要項目に関して三身分合同の投票形式等を採用するつもりでいたと言われている。しかしマリー・アントワネットや弟であるプロヴァンス伯、アルトワ伯の圧力に屈して考えを変えた。6月23日の親臨会議ではこれに基づく演説を行い、親臨会議に欠席したネッケルは7月11日に罷免された[16]。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 山﨑耕一『フランス革命「共和国の誕生」』刀水書房、2018年10月。ISBN 978-4-88708-443-8。
- ロジャー・プライス 著、『フランスの歴史』創土社、2008年8月。ISBN 978-4-7893-0061-2。
- 竹中幸史『図説 フランス革命史』、河出書房新社、2013年1月、ISBN 978-4309762012。