ジャック=ルイ・ダヴィッド
ジャック=ルイ・ダヴィッド Jacques-Louis David | |
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| 生誕 |
1748年8月30日 |
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1825年12月29日(77歳没) |
| 代表作 |
『ホラティウス兄弟の誓い』 『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』 『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』 『書斎のナポレオン』など |
ジャック=ルイ・ダヴィッド(フランス語: Jacques-Louis David、1748年8月30日 - 1825年12月29日)は、フランスにおける新古典主義の画家であり、フランス革命期の革命家および政治家。18世紀後半から19世紀前半にかけて、フランス史の激動期に活躍し、新古典主義の領袖として数々の名作を残した。革命期における芸術の第一人者、あるいは意匠家であったと言われる人物[1]。
その作風は理想追及や英雄崇拝といったロマン的な側面と、現実や理性に重点を置くレアリストとしての面が反映されており、英雄史にみちた古代ローマの世界とそれを主題にした古典美術として形になっている。この怜悧なレアリスムがダヴィッドの本領であり、故にこそ彼を真の「革命の証人」として評価する向きがある[2]。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]1748年8月30日、フランスのパリに鉄商人の子として生まれる。母親の実家ビュロン家が石工の親方であったため、母の兄弟や義理の兄弟にも建築家や大工の親方が多かった。生後すぐ市内の修道院へ養育に出され、1757年の末、9歳のときに父親が決闘で殺害された。その後ダヴィッドは建築家の叔父フランソワ・ビュロンによって育てられた。母親は彼を兄弟に預け、自身はノルマンディーに隠棲している[3]。
ダヴィッドは幼い頃から素描の才能を見せていた。これを受けてビュロンは甥を自分と同じ建築家にしようと考えコレージュ・デ・カトル=ナシオン(現在のフランス学士院)に入学させたがダヴィッド本人は画家になりたがっていた。結局彼が15歳または16歳の頃、ロココ絵画の大家でダヴィッドの母の従兄弟でもあるフランソワ・ブーシェのもとへ送る。ブーシェは1740年から50年にかけて、ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人の庇護を受けて歴史画を絵画の主流に戻そうという動きをとっていた人物である[4]。王室においても晩年のルイ15世やデュ・バリー夫人はロココ風よりも当時ヨーロッパ全体の最新流行だった古代思考の芸術に惹かれ始めるなど[5]、17世紀の初心に戻って大様式の歴史画を推進すべきという主張は広く流布していたが、少なくとも民間においては支配階級に対する不満や諫言という意味合いが含まれていた[6]。しかし当時50歳代だったブーシェは弟子をとっておらず、知人のジョゼフ=マリー・ヴィアン(1716年 - 1809年)を紹介し、ダヴィッドはヴィアンに師事する。当時、ヴィアンはロココ調を残しながら古代風・ギリシャ風のものも描いた新古典主義の先駆者といえる存在で、[7]デュ・バリー夫人はフラゴナールの作品を気に入らないとして退け、ヴィアンを採用したこともあった[5]。
1766年、ダヴィッドは17歳の時にヴィアンの弟子として王立絵画彫刻アカデミーの学生名簿に名を連ね、構図法、美術解剖学、透視画法などを学ぶ。また、歴史画家として古典古代の主題をルネサンスや17世紀の絵画、古典演劇などを参考にして構成するにはかなりの知識を必要とするのだが、ダヴィッドは教養をビュロン家の友人であり王立県立アカデミーの重職でもあった劇作家ミシェル=ジャン・スデーヌ(英語)からも学んだ[8]。画家修業を始めたダヴィッドだが、この頃から退廃の色が濃いロココ絵画に疑問を抱き、反感すら覚えていた[9]。
左頬に傷を負ったのもこの時期になる。学生仲間との決闘のために左頬に傷を作り、これが元で容貌が変わっただけでなく発話が不自由になり、激情型の性格に変わっていった[10]。

革命前
[編集]ローマ留学
当時、王立絵画彫刻アカデミーで学ぶ芸術家はローマ賞という章を獲得し、ローマに留学することを最終目標としていた。ダヴィッドは1971年に初めて《マルスとミネルヴァの戦い》、翌年には《ニオベの子供たちを襲うディアナとアポロン》を提出するがどちらも入賞を逃している。3年連続で落選したことはダヴィッドを深く落ち込ませ、1772年の落選後には飲食を断って部屋にこもり自殺を試みている。この時は2日後に助け出されたため事なきを得た[11]。
早くから絵の才能を見せていたダヴィッドが長年ローマ賞を逃し続けた理由として、ロココ様式から新古典主義様式に移行しつつある時期に当たってしまったため、指定される主題から評価される基準に至るまでが変化する中で作品を仕上げなければならなかったことが挙げられる[12]。
長い修業期間を経て、ダヴィッドは1774年《アンティオコスとストラトニケ》で、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を得る。彼は喜びのあまり失神したという。この頃、ローマ賞を獲得してローマに留学することは王立絵画彫刻アカデミーの学校に所属する芸術家の最終目標であった。これはヴィアンに入門してから約10年後、26歳頃のことで、当時としては30歳頃が普通であり、少し早いデビューになる。同年にはハンガー・ストライキを行い、この抗議は教師がもう一度絵を描くようにと励ますまで2日半続いた。

ローマ賞受賞者は国費でイタリア留学ができる制度になっており、ダヴィッドも受賞の翌1775年よりイタリアへ留学する。同年、師のヴィアンはローマのフランス・アカデミーの院長としてローマへ赴任したため、師弟の他にヴィアンの家族や同じように学んでいた学生たちとともにローマへ旅立った[13]。留学前、ダヴィッドは「古代は自分の心をとらえないだろう。古代には生気がないし、動きも欠けている」[13]と言った。
ダヴィッドは後にこの旅について、「パルマに着くやないや、私はコレッジョを見て早くも動揺していた。ボローニャでは憂鬱な思念にとらわれ、フィレンツェでそれは確信となった。そしてローマに着いて、私はそれまでの無知を恥じた」と語っているが、一方でヴィアンは旅行中の弟子が「自分はイタリアに行っても変わらない」と言い続けていたと回想している[14]。

留学先において、学生たちは起床・食事・夜の門限まで定められた厳格なカリキュラムの元で画家修業に励んだ。ダヴィッドはこうした規定に従順であり[15]、パリの王立絵画彫刻アカデミーと連携してアカデミー・ド・フランスを歴史画復興の場にしようとしていた師の元、素描を数百点描いている。1778年には王立アカデミーの規定によって絵を描いて送ったが、この時に制作された《パトロクロスの葬儀》は、パリのアカデミーから空間構成が曖昧で透視法が不十分であり、物語の情景も明瞭でないと評された[16]。

留学も終わりに近くなった1779年頃にポンペイとヘルクラネウムの遺跡を見たことについて、後年、「私は突然、これまでのような誤った原則のもとでは描き方を良くすることはできないと悟った。自分が美であり真実だと思っていたすべてに別れを告げなくてはならないと気づいた」[17]と語っている。旅が終わった後、ダヴィッドは2ヶ月の間鬱状態にあったが、ヴィアンは弟子のためにマルセイユにある礼拝堂用の作品依頼を仲介しており、この時描かれたのがダヴィッドにとって初めての注文作品とも言え、数少ない宗教画にもなった《ペスト流行に際し聖母にとりなすをする聖ロクス(英語)》だった[18]。この作品の他3点の絵を手に1780年帰国したダヴィッドは[19]、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンが提唱していた新古典主義と古代ローマの世界観に惹かれてゆく。これは後の、画家としてのダヴィッドの方針を決定づけるものであった[20]。近代レアリスムの先駆者といわれるカラヴァッジョ風の強烈な明暗法、明確なフォルムと線、堅固な構成といった技術も身につけ、彼は新古典派絵画と呼ばれる作風を確立させていく[21]。
ダヴィッドは1780年までの約5年間、イタリアでプッサン、カラヴァッジョ、そしてカラッチなどの17世紀の巨匠の作品の研究に没頭したが、こうしたイタリアでの研究を機に彼の作風は、18世紀のフランス画壇を風靡したロココ色の強いものから、新古典主義的な硬質の画風へと変わっていった。1781年、《施しを乞うベリサリウス》により、王立絵画彫刻アカデミーの準会員をして認められ出品資格を得る[22]。そして1783年に出品された《ヘクトルの死を悼むアンドロマケ》によって、晴れて王立アカデミーの正会員となった。この時期に建築業者シャルル=ピエール・ぺクールの娘マルグリット=シャルロットと結婚。ある程度認められた画家の特権だったルーヴル宮殿内の住居とアトリエを構えた[23]。後に、この夫婦の間には1783年2月15日に長男[24]、1784年4月27日に次男、1786年10月26日に双子の姉妹が誕生する[25]。
一方でダヴィッドがローマに留学していた頃、王家建造物監督官ダンジヴィレール伯爵(フランス語)は道徳的教訓的な歴史画の推奨策を徹底し始めていた。歴史画の順調な生産のため、歴史画家の特権団体だった王立アカデミーの保護とそれに対する規定を非常に厳格なものとし、この方針によって公式サロン以外での展示会は禁止され、王立アカデミー以外の芸術家団体の活動は強く規制された。方針はアカデミー内の教育法にも及び、これらが芸術家たちの反感を買った結果、革命期にダヴィッドを中心としたアカデミー廃止運動の下地を作ることとなる[26]。
人気画家として
ルイ16世注文の《ホラティウス兄弟の誓い》(1784年)は王室から注文を受けて制作された最初の作品だが、サロンに出品された際に同時代の画家が「ダヴィッドこそ今年のサロンの真の勝利者である」と述べたほど大きな評判を集め[27]、ダヴィッドの代表作の一つとなった。ダヴィッド自身、この作品を歴史画家としての真の出発点にしたいと意気込んでおり、妻の父の出費によって夫婦は11ヶ月間、資料を集めやすいローマに滞在している[28]。しかしパリのサロンで発表するべきこの作品をローマで発表し、アカデミーの不興を買う。また、この作品は当時の監督官が「徳と愛国心を涵養するのに適した」歴史画推奨策を推進していたため、2年ごとに一辺が3メートルにおよぶ歴史画を8点から10点発注したものであったが[29]、本作は規定より寸法が大きくこの時点で王立絵画彫刻アカデミーへの不服従を表明されていた。だがローマで好評を得たためダヴィットが公に批評されることはなく、パリのサロンでも無事出品され観衆や批評家から賛辞を得た[28]。

とはいえアカデミー側からの反発も大きく、1786年のローマ賞は候補がダヴィットの弟子ばかりであったため取りやめになり、1788年に天然痘で亡くなったダヴィッドの愛弟子ジャン=ジェルマン・ドルーエを死後アカデミー会員として認定するという友人たちの希望は取り下げられ、その作品は1789年のサロンにも出品することができなかった[28]。1786年に弟子のジロデとファーブルがローマ賞を逃した理由にダヴィッドの作風に似すぎているというものがある他[30]、ローマのアカデミー・ド・フランス院長への就任も拒否されている。このため、ダヴィッドはローマに行く事なくフランスで絵を描き続け、革命を目の当たりにすることとなる[31]。
1788年にはアルトワ伯(後のシャルル10世)の注文で、唯一王族から依頼され完成に至った作品《パリスとヘレネの恋》が制作された。この他、王族から依頼されたものとしては革命勃発後の1792年にルイ16世からの依頼もあったが、両者の関係が融和せず簡単な素描までで終わっている[32]。
また、ダヴィッドは歴史画と並行して肖像画を描き続けた。彼に限らず大多数の歴史画家は生活のため、顧客の注文によって製作する肖像画で収入を得ていたが、美術界において肖像画は歴史画よりも格が下だった。そのため肖像画の制作に抵抗を覚える画家もいたのだが、ダヴィッドが肖像画の制作に抵抗を感じていた形跡はみられない。彼は若い頃から継続して、生涯にわたり淡々と肖像画を描くことになる[33]。
1786年頃には《ソクラテスの死》の注文者トリュデーヌ兄弟や文筆家ジャンリス夫人(英語)のサロンを通じて、アンドレ・シェニエ、ジャン=シルヴァン・バイイ、アントワーヌ・バルナーヴ、ニコラ・ド・コンドルセなどと交流を持った[34]。
1789年9月初頭のサロンに出品された《ブルートゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち》にて、男女それぞれが占める画面上の比率が対等でありながら、両者は正反対の印象を与えるものに仕上がっているように、男女は社会や家庭で対等の存在であり、一方で異なる役割を分担するというダヴィッド自身の男女観が示された絵も少なくない[35]。彼は貴族あるいは貴族的な女性を嫌っており、社交よりも義務を重視する堅実な女性が好みだった[36]。ダヴィッドは女弟子の教育に比較的熱心で何人か女性の弟子もあり(男性とは別の場所で教えていたが、これはダンジヴィレール伯爵に禁じられたためだった[37])、女性画家の活動や家庭内の女性の役割に対し一定の敬意を払う人間だったが、美術史家の鈴木杜幾子はこれをダヴィッドが女性の文化的地位が高かった18世紀の知的階級に属していたことが関係していると分析している[38]。
歴史画は制作に数ヶ月から数年の月日がかかるものなので、この絵はフランス革命に合わせて出品されたものではないのだが、古代ローマにおける王政復古の陰謀に加担した者を共和政創始者が処刑させるという主題が問題視された。また当初、この絵で遺骸につきそう警備のひとりは処刑されたブルートゥスの息子の首を突き刺した槍を持っていた。これはバスティーユ襲撃で民衆が監獄の司令官の首を槍に刺したことを想起させると指摘され、出品前にこの部分を消すことになった[39]。なお、フランス革命当初、革命は立憲君主制を目指しており共和制は過激派からすらも否定的に見られていたため、この批判は的外れであった[40]。
革命派の画家
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1789年5月、全国三部会召集を機に没発したフランス革命においては、美術と美術政策をめぐる議論が行われた。旧体制時代の芸術から脱却を図るため、 王立絵画彫刻アカデミーの廃止、教会・貴族・王室の美術品を集めたルーヴルでの国民的美術館の開館、革命以前に制作された絵画や彫刻の破壊または保存、革命的な作品を奨励する美術コンクールの開催など、山岳派独裁の時期において活発に意見が交わされた。ダヴィッドはこうした美術に関する政策において欠かすことのできない名前である[41]。革命期に芸術家は、旧体制下に芸術に関するほぼすべての権限を手中に収めていた王立絵画彫刻アカデミーの序列に反発し、 この解体を試み新たな体制を模索したが、ダヴィッドは一連の動きの先頭に立っていた[42]。また、バスティーユ牢獄襲撃事件にも加わっている。
革命期におけるダヴィッドの作品には、「英雄」「死」といったものに鮮烈さと生々しさが同伴している。ダヴィッドはそれこそ革命前から、半ば偏執的なほどに死というテーマを扱う画家であったが、フランス革命の時期は特にそれが色濃く表現された[43]。この頃の作品には演出的な要素を後退させた、英雄主義・理想主義といったロマン的美化要素をほとんど感じさせないものも多く、「死」が強い現実感を帯びてクローズアップされている。一方で、急進的な民衆の革命といった側面を美化した作品は残していない[44]。

政治参加のきっかけ
1790年3月、彼は当時のパリよりも革命が進行していたナントに約1ヶ月間滞在していた頃、《球戯場の誓い》に取りかかっている。国民議会議員のデュボワ・クランセは10月28日、ダヴィッドを支援し完成した《球戯場の誓い》を国民議会の議場に掲げることを、ジャコバン・クラブにて提案した。12月29日、作品が完成した後に作る版画に対して予約購入という形をとり、これを1株24リーヴルの株を3000株販売し、絵の制作費に充てるとジャコバン・クラブで決定された。合計7万2000リーヴルに上る資金のうち、3万6000リーヴルを絵の制作、6000リーヴルを額縁、3万リーヴルを版画の制作に充てることになっていたが、実際には5631リーヴルしか集まらなかったため、ダヴィッドは国民議会に陳情を出す。結果、議会は1791年9月、ダヴィッドに制作費とアトリエを支給することを決めた。なお、前年の12月にダヴィッドはジャコバン・クラブの名簿に名を連ねている[45]。
このことから、ダヴィッドが革命および政治に参加した直接の動機は、平等で安定した芸術活動の確保のためであったと見られている。旧来のパトロンであった王族や貴族が不利な立場に傾く中、巨大な絵画の制作費はとてもダヴィッド個人で賄えるものではなく、革命を新たなパトロンとしたいダヴィッドと革命を記念するものを高名な画家に描いてもらえることを歓迎した議会が手を組んだ形であった。一方で、平等に対する志向といった革命の理念に通じるものを彼は持ち合わせており、ゆえにこそ以後の積極的な政治活動に繋がってゆく[46]。
《球技場の誓い》の版画の株は思ったように売れず、巨大な絵画になる予定だったこの絵は完成にいたらなかった。また、資金不足の他に、ミラボーなど描かれた人物の中から議会を裏切っていたことが判明した者が現れた他、ダヴィッド自身が政治活動にのめりこんだため絵に費やす時間がとれなかったことも未完に終わった理由として挙げられる[47]。この絵には窓の傍に女性の姿も描かれており、ダヴィッドが彼女達を画面に描き込んだ点でも非凡な作品になる[48]。この絵が完成していれば、完全に近代的な手法で現代史の主題を扱った初めての作品となっていた[49]。

国民公会議員として
ダヴィッドは1791年10月、1791年憲法の制定による立憲君主制への移行にともない解散した国民議会に代わる、立法議会の議員に立候補するも、当選は叶わなかった。そのような中で、革命を諸国に輸出するといった意図からジロンド派らが、戦争によって革命を潰す意図からルイ16世らが支持し始まった革命戦争は、王妃がフランス軍の情報を敵国オーストリアに伝えていた等の理由から[51]危機に陥り、ルイ16世が戦争政策を打ち出した立法議会に向けて拒否権を乱発したため両者の対立が激化する。そして1792年8月10日、民衆蜂起である8月10日事件によって王権は停止され、フランスが共和制をとると新たに設立される国民公会の選挙が行われる。ここでダヴィッドはパリ市から国民公会議員に選出された[52][53]。
1791年12月11日の国王裁判に、ダヴィッドは死刑に票を投じた。その死の目撃者となっただけでなく死刑執行人ともなった状況は、彼の中のレアリスムを強め、ますます死に憑りつかれたモチーフを生み出していくことになる[54]。
1793年6月30日の国民公会で動産の売却及び不動産の分割や売却の責務を負う10人を選出する際、彼は15人の候補者の中から2位で、50票を得て当選。7月25日に国民公会の書記を選出する際、定員4人に対し6人の候補者がいる中これも2位で選ばれる[55]。9月14日には保安委員会にも選ばれ、315回の会議のうち131回に出席、4737のデクレのうち、406には彼自身がサインをしたという[56]。10月17日にはルイ17世の取り調べにも参加し、1794年1月5日には国民公会の議長に選出されるなど、ダヴィッドの議会での地位は上昇し続けた[57]。
アカデミーとの対立
1789年12月14日、アカデミーの規制に反発する人々が集まり王立絵画彫刻アカデミーの規約改正を要求する会合が初めて開かれた。ダヴィッドはその議長に選ばれ、同年10月に王立アカデミー以外の諸アカデミーにも覚書を送っている[58]。1790年9月27日、ダヴィッドとジャン=ベルナール・レストーを中心として若い芸術家や建築家ら約300人が集まり、アカデミーの域を超えることを目指した美術コミューンを結成する。これにはアカデミー会員も多く参加した[59]。

革命が始まる前、サロン以外での展覧会は禁止されておりアカデミー会員以外の芸術家からは作品を発表する場が失われていたが、1791年8月9日、美術コミューンの代表は王立建造物長官に不満を述べ、更に、ロンドンにおけるイギリス王室主催のサロンを例に挙げ、すべての芸術家が作品をサロンで展示できるよう許可を求めた。この一件に対し国民議会議長が美術コミューンに好意的なのを見たダヴィッドは8月16日付けで、クロニック・ド・パリという新聞にこの動きを支援する手紙を送っている。そのなかで、アカデミーによる展示機会の独占に同意しないことを示すため、かつての展示場所には自分の過去の作品を展示しないと記している。1791年5月に『球戯場の誓い』のデッサンが完成した際、これは秋のサロンには5月末から6月初めにかけて、ダヴィッドのアトリエで1週間展示された[60]。
1791年8月12日、美術コミューンの請願が国民議会で審議される。この時、ダヴィッドは「すべての芸術家に開かれた展示の場を設けてほしい」と主張した。結果、外国人を含むすべての芸術家はアカデミー会員であろうとなかろうと、等しく彼らの作品をルーヴルの一部で展示することが認められ、1791年のサロンには多数の作品が展示され、このサロンは『自由のサロン』と呼ばれた[61]。絵画に関しては、1789年には218枚だったものが1791年には617枚と3倍近くに増加し、従来の展示会場であったサロン・カレだけでは作品を収められず、隣のギャラリーや階段の壁にまで展示された。ここでダヴィッドも《球戯場の誓い》《ホラティウス兄弟の誓い》《ソクラテスの死》《ブルータス邸に息子達の遺骸を運ぶ警士たち》を出品し、これらは大好評を博した[62]。1793年までに、芸術委員会のメンバーとして、ロベスピエールを通じて多くの権力を獲得したダヴィッドは事実上フランスの芸術の独裁者となり、王立アカデミーを即座に廃止したことで「筆のロベスピエール」とも呼ばれた。彼の主導によりパリ・サロン展は開かれたものとなる。1787年のサロンで出展が認められたのは63名であったが、1793年では318名による883作品が展示された[63]。
1793年7月17日に芸術家の留学に関する改正案と王立絵画彫刻アカデミーの廃止を、8月7目にアカデミー会員に対する賞の授与廃止の提案し、翌日8月8日に国民公会ですべての王立アカデミー廃止の提案が出された。ここでダヴィッドは演説を行い、アカデミーの教育は、昔から毎月1人の教授によって、1年間で12人の教授が生徒を指導することになっており、生徒は教授の方針に従い12通りのやり方に対応していかねばならず、最終的になにも学ばないまま終わってしまう。若く才能あふれる芸術家がアカデミーを目指しても、アカデミーはそれを認めようとせず、会員自身の保身に躍起になっていると状況を批判した。この演説後、すべての王立アカデミーの廃止が正式に決定し、王立絵画アカデミーも廃止となる[64]。
1794年1月16日、ダヴィッドが批判していた美術館委員会の廃止が決定され、彼が提案した美術管理委員会が設けられた。この委員会はダヴィッドの見地から絵画、彫刻、建築、古代美術の部門に分けられ、合計10人が任命され、そこに含まれたフラゴナールといったダヴィッドと交流のあった人物または弟子の名前があった。委員にはそれぞれ2400リーヴルの報酬と住居が支給された[65]。
この時期、ダヴィッドは美術館の役割について演説し「美術館は1つの重要な学校にならなければならない、教師はそこに生徒を連れていき、父親は息子を連れていく。天才の作品の視線の中で、若者は自然を求める一種の芸術と科学の誕生を感じるだろう」として美術館の教育的な役割を強調した[66]。視覚芸術を通した公教育の推進は、いまや革命のプロパガンダをリードしていたダヴィッドに委ねられるようになっていた[67]。またアカデミー廃止要求の一方で、ローマのアカデミー・ド・フランスで学ぶ留学生に対し手当ての継続を要求した[68]。
革命祭典
フランス革命において、儀式やシンボルは政治的な立場を表現・自覚するためにも非常に重要視された[69]。
1791年7月11日、ヴォルテールの遺骸をパンテオンに移す葬儀が行われ、これはダヴィッドが初めて携わった革命祭典となった。これはヴァレンヌ事件を受けての反王権的な儀式であるとともに、宣誓拒否聖職者に対する闘争という意味合いもあった。ダヴィッドの指揮によって、この祭典では全面的に古典古代の意匠が施された、新古典主義的なものとなった[70]。
1792年4月15日に行われた《自由の祭典》はダヴィッドが初めて総責任者を務めた革命祭典である。当時の政府がナンシー事件に対し武力弾圧をとった件に対し、反省した新政府が事件を受けて服役していたスイス人兵士の凱旋を歓迎したものだった。ここでは自由の擬人像が登場しており、アレゴリーの手法によって抽象的な革命の理念が可視化された。自由の祭典によって、革命祭典における視覚表現を用いた民衆啓蒙は新たな局面を迎えたといえる[71]。
1792年10月26日、リールとティオンヴィルがオーストリア軍の侵攻に勝利した際、その祖国愛を讃え2つの都市でのモニュメントの建設を提案する。ここではアンリ4世、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世という4人の専制君主の像を取り壊し、その破片を使って共和国のための像を作る運びとされた。ダヴィッドは勝利の栄光を擬人化したブロンズのメダルを鋳造すること、共和国で起きた事件もメダルにしていきたいと述べている。これらは旧体制の象徴を排除してその上で新しい芸術の創造を目指すものであった[72]。

1793年8月10日、王政を倒した最初の記念日に催され、フランス革命の展開を回顧することを目指した祭典の演出がダヴィッドによって手掛けられた。ここでは24フィートの高さがあるヘラクレスを模した像が使われた[73]。ダヴィッドはこのヘラクレスについて、「この立っている人民の像は、もういっぽうの手に、古代人が彼らのヘラクレスに装備させた恐ろしい棍棒をもつべきだ」と考えていた[74]。また、その身体にいくつかの言葉を刻むことにし、額には「光」(知性へのやや弱い言及)、胸に「真理」「自然」、腕に「力」「勇気」、手に「労働」が刻まれるとされた[75]。
歴史家ミシュレは《統一と不可分の祭典》とも呼ばれるこの一件について、「彼(ダヴィッド)は祝典を五幕の革命史に構成した」と言っている。関連付けられた事件はバスティーユ襲撃、ヴェルサイユ行進、8月10日事件、ジロンド派追放であり、祖国の祭壇であるシャン・ド・マルスを終点とした祭典だった[76][77]。この祭典は身分、職業、年齢、性別などを問わずさまざまな人々が等しく参加できるものであり(ただし反革命勢力や連邦主義者は別とされた)、すべてのフランス人民の結束が目指された[78]。
1793年11月7日、ダヴィッドは、国民公会がフランス人民を表象する巨大な彫像を作ることを提議している。その10日後には国民公会は、彫像を国家の印章の主題とすることを可決し、急進的な共和国の象徴として巨大なヘラクレスが選ばれた[74]。ダヴィッドが提議した3日後の1793年11月10日、エベール派が主導した非キリスト教化運動である理性の祭典が挙行されていたため、議員たちはヘラクレスを、一連の政治的・文化的危機への象徴的対応として導入した[79]。
この時期のダヴィッドはロベスピエールらジャコバン派の指導者たちと共に、急進的な改革への願望、処罰的で干渉主義的な政府を求める民衆の要求に応えつつ、同時に熱烈なカトリックである大多数の住民を革命から離反させるおそれのある非キリスト教化運動を統制しなければならなかった。ヘラクレスには、急進的な願望を表現しつつもそれを歪曲する役割があった[80]。1793年11月17日にダヴィッドが公教育委員会を代表して行った公式演説では、ヘラクレスの像はフランス人民の栄光の記念物であるべきものであり、専制や迷信に対する人民の勝利の思い出となるべきものとされ、彼ははっきりと人民と君主政の間にある対立を強調した[81]。「諸君の委員会(公教育委員会)は、提案された記念物においては、その素材も形式も、あらゆるものが、繊細かつ力強く、われわれの革命の偉大な記憶を表現すべきだ、と考えた」。その彫像そのものが、フランス軍の勝利によって提供された青銅から作られよう、そして「それは一種の国民的な表象なのだから、いくら美しくとも美しすぎるということはありえないだろう」[82]。元々ヘラクレスは1793年以前の革命期のフランスにおける印刷物、版画にも見られたが、ダヴィッドがほとんど彼一人の責任においてヘラクレスを復活させ、強力なシンボルとして集団的な民衆の力の表象に変容させたのだった[83]。
このヘラクレスは後に、新聞の評論などを通して急進的なイメージを強くし、フリジア帽をかぶり捲ったズボンをはいたサン=キュロットの姿を反映したものとして描かれることもあった[84]。しかし理性の祭典による非キリスト教化運動を受け、これを修復するため1794年6月8日に行われた最高存在の祭典においてもヘラクレスの像は使われたものの、ここでのヘラクレスは古典的な姿をつらぬいたものであり、ダヴィッドら急進派の議員はこのヘラクレスに急進的な民衆の性格を反映させる意図がなかったことが窺える[85]。

また政府によっても再解釈され、フーシェはヘラクレスを全能の力であり、裏切りの苦しみによって泣き叫び、眠りから目覚めた時には荒々しいと説明している[86]。ロベスピエールの失脚後、総裁政府になるとヘラクレスは「それを構想し製作することが幸運をもたらさない寓意像」と考えられ、1798年7月、500人会は銀貨に描かれたヘラクレスを「椅子に座った女性を表現する寓意像」に代えることを提案した[87]。
共和国の洋服
革命の始まりとなった全国三部会にて、他の身分は豪奢な服装を許されたのに対して第三身分のみ、くすんだ黒い服を強制されたように、革命当初から衣服の問題は政治的な意味を帯びていたが[88]、1794年5月、ダヴィッドに対して公安委員会は、国民の衣服を共和主義的で革命的な性格によりふさわしいものとするための意見を求める。結果、国民に共通する市民の制服をダヴィッドがデザインすることになった。これは歴史や演劇など、同時代の情報源から着想を得たものと言われており、短いチュニックはルネサンスのファッションを、ひだのついたマントは古典古代の服を思い出させるものであった[89]。折衷主義と古典古代の美術への傾倒が見られるデザインは、何よりもサン=キュロットの好む傾向を明白に拒否したものであり、平準化は下から上に向かうものでなければいけないという議会の考えや、当時のブルジョワジーが考えていた理想を形にしていた。しかし、この衣服は結局製作されることはなかった[90]。

革命の殉教者たち
当時は非キリスト教化運動による理性崇拝が問題となっており、これに代わる新たな革命礼拝を作りたいロベスピエールは祖国のシンボルとなるものを必要としていた[91]。この時期ダヴィッドは、革命の殉教者と呼ばれたルペルティエ、マラー、バラという3人の絵を描いている。ルペルティエとマラーの絵に関しては、ダヴィッドの提案で《マラーの死》が完成した直後、2人を讃えるための祭典が催された際に市中を練り歩き、その後、国民公会議場の議長席の後ろに対になって掛けられた[92]。
1793年、革命家マラーの死を描いた《マラーの死》を制作した。この絵は国民公会でマラーの追悼演説が行われた際、市民ギローが「絵筆を取りたまえ。君が描くべきもう一枚の絵がある」と言い、ダヴィッドが「よし、引き受けよう」と答え制作が決まった[93]。《マラーの死》について詩人ボードレールは「崇高なマラーは、浴槽から片腕をたらし、最後のペンを無気力に握り胸には冒漬の傷を受けて、いましがた最期の息をひきとったところである。…痛ましい凄惨に息づ くドラマがそこにある。…この絵には、低俗下劣なものはなにひとつない。…自然のように非情ではあるが、理想の香りのすべてを所有している。…ここには、優しいものと悲痛なものが同時に存在している。部屋の冷たい空気の中に、冷たい壁の上に、冷たく忌わしい浴槽のまわりに、ひとつの魂が飛翔している」と評している[94]。
マラーの葬儀の演出を手掛けたのもダヴィッドだった。当初の予定では浴槽に浸かったままの遺体を壇上に置くはずだったが、遺体の腐敗が始まってしまったため実際には浴槽と別に置かれた[95]。ダヴィッドはマラーが暗殺される前夜、偶然マラーを尋ねており、浴槽に浸かるマラーの姿に愛着を抱いていたと推測されている[96]。
マラーの死と対になっていたルペルティエの絵は後に、ルペルティエの子孫が王党派だったため破壊されており、現在では弟子のアナトール・ドヴォージュの模写素描が残っている[93]。ルペルティエの絵を仕上げたダヴィッドは、完成した絵を国民公会に贈った際、次のように演説した。「真の愛国者は、あらゆる手段を用いて同胞市民を啓蒙し、自己犠牲(ヒロイズム)と徳性の崇高なるイメージを絶えず彼らの前に提出しなけらばならない。市民諸君、人それぞれに異なった才能を分けたもうた神は、私に対しては(中略)絵画の助けを借りて自身の心情と思想を表現することを欲した」[97]。
《ジョセフ・バラの死》はロベスピエール失脚やダヴィッドたちロベスピエールに近い議員の処分もあって未完に終わった作品である。描かれた人物は全裸だが、ダヴィッドは人物を描く時はまず裸で描き、最後に衣服を着せるのを常としていた。友人でもあったロベスピエールの失脚や自身の逮捕を境として、フランス革命期におけるダヴィッドの死に対する作品は終結したと見られる[98]。

幽閉後
テルミドール9日のクーデターの前日、追いつめられたロベスピエールが「もう毒を飲むしかない」と呟いた時、ダヴィッドは「それなら自分も一緒に飲もう」と言った。これが反対派の耳に入り、ダヴィッドが失脚する直接の原因となった[99]。ちなみにクーデター当日、急病と称して国民公会を欠席している。クーデターの後、同年8月から1年余り断続的に投獄されたが、国民公会宛の釈明書で自由と平等という革命の理念が支配的だった時期にロベスピエールの人格を疑うのは不可能だったと繰り返し述べられた[100]。この時期におけるダヴィッドの心境については、元々平等で安定した芸術活動を求めて革命に参加した彼としては重要なのは特定の党派に追従して生き延びる/死ぬことではなく、革命のプロパガンダを通して理想のフランス像を表現することができる立場から絵を描き続けることだったと考察されている[100][101]。歴史家リン・ハントはフランス革命期の革命家について、「フランス人のうちもっとも革命的であった者は、政治と形態の意味を増やしていながら、明白に政治的なものにたいする深い不信の念から行動したのである。指導的な政治的人物は自分自身をけっして政治家とは呼ばなかった。というのも、彼らは『公益』に仕えたのであって、狭い『党派心』に仕えたのではなかったからである」と述べた[102]。

1794年8月2日から12月28日にかけてリュクサンブール宮殿で幽閉され、ここでは家族との面会もままならなかったが、離婚していた妻が宮殿の番人にかけあい11月には訪れた妻や子供たちとの面会が可能になった[103]。同じ頃には弟子たちが国民公会宛に釈放嘆願書を提出し、同年12月にダヴィッドは釈放される。しかし翌年に再度捕らえられ、1795年5月28日から8月3日までコレージュ・ ド・ キャトル・ナシオンで幽閉生活を送り、後に国民公会の解散にともなう恩赦によって釈放された[104][105]。
ダヴィッドが国王処刑に賛成票を投じた際、妻マルグリット=シャルロットの父親は1794年3月に夫婦を離婚させていたのだが、投獄されたダヴィッドの釈放に尽力している。釈放後のダヴィッドは妻の姉妹であるセリジア夫人宅に身を寄せ、1796年11月、2人は再婚した。後にダヴィッドは王殺しに加担したためにブリュッセルに亡命するが、これに妻も同行し終生添い遂げた[106]。また、感謝の気持ちとして釈放後、セリジア夫妻とその子供の肖像画が作られている[105]。
釈放された後、1795年10月26日に設立されたフランス学士院の教授となる。以後、ナポレオン帝政期までダヴィッドは静止活動から離れ[107]、革命と政治にそそいでいたエネルギーを若い画家へ教えることに切り替えて何百人もの若手画家の指導に専念する。同年12月にはヴィアンらと共に、アンスティテュにおける絵画部門のメンバーに選出された[108]。

幽閉されていた間、古代を主題とした作品の構想が3点練られ、釈放後すぐダヴィッドは《サビニの女たち》にとりかかる[109]。この絵は1799年に完成し、11月にルーヴル宮殿中にて1805年5月まで展示された。入場料として1.8フランが取られ、ダヴィッド直筆のパンフレットには「歴史画には経済的な裏づけが不可欠であり、そのために入場料を徴収する」と説明され、その後半にはこの絵の人物が裸体で描かれている点について「神や英雄や人間を裸体で表すのは古代の画家や彫刻家の習慣であった。(中略)自分はギリシャ・ローマ人がこの作品を見て、私は彼らの習慣に疎いと思わないほど正確に古代の風俗を描きたかった」としている。これは人物の裸体について、公序良俗を重んじるブルジョワ的な立場から批判されることを見越して書かれたのだが、説明にもかかわらず歴史的観点や道徳的立場から批判が飛んだ[110]。また、当時としては異例だった入場料を取るやり方についても反対者がおり、この頃から金銭面での自己主張が目立って強くなっていたダヴィッドに、敵対する画家たちが人格的な攻撃を加える口実を与えた[111][112][113]。
当時、ナポレオンはダヴィッドを王党派の白色テロから守り更に自身の戦績を記録させるためイタリア戦役に誘ったが、当時49歳になっていたダヴィッドは高齢を理由に断った[114]。エジプト・シリア戦役も同様で、ダヴィッドのかわりに遠征軍に従い戦いを記録したのが、恐怖政治下においてギロチン送りにされる危険があったところをダヴィッドによって免れた前歴を持つ考古学者で版画家であるドゥノンである[115]。そして1797年末、ダヴィッドは遠征の成功を祝うパリでの晩餐会でナポレオンと出会う。この際、ナポレオンの肖像画制作を申し出てこれが聞き入れられ、カンポ・フォルミオ条約を手にした姿で描かれたがナポレオンが一度しかポーズをとらなかったため未完に終わった。また、ナポレオンの頭が古代の美術品のように美しいかたちをしていると賞賛し彼は私の英雄だと述べた[114]。後にダヴィッドは、ナポレオンの戴冠式のためやってきた教皇ピウス七世の頭部にも同じようなことを言っている[116]。
ナポレオンの治世において、美術行政はドゥノン、戦争画はダヴィッドの弟子グロ、その他の事業を讃える絵画の制作はダヴィッドというように棲み分けされていった[117]。
ダヴィッドはブリュメール18日のクーデターについて聞いた時、「そうか、私はいつも自分たちが共和主義者でいることができるほど徳をそなえていないと思っていたものだが……少なくとも私は画布の上で私の祖国愛を示すことにしよう」と語ったという[118]。この時代、フランス革命と帝政は連続的なものと考えられており、当時革命の現状に失望し古代の主題に理想を求めていたダヴィッドもまた、ナポレオンが共和制を終わらせるとは認識しつつ彼が革命の理想を現実のものとすることを期待していた[119][120]。ただし、本人の演説などからわかるように革命の急進的な部分に関心と共感を寄せていたダヴィッドだが、ナポレオンの政治的・軍事的活動になんらかの見解を抱いていた形跡は見られない[121]。
ナポレオンの時代
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総領政府
1799年以降、革命期にダヴィッドが手掛けたヘラクレスはナポレオンの画像によって影を薄くされた[122]。1800年に名誉を回復したダヴィッドは自由の女神の石膏像の取り換えを監督したが、それも数ヶ月経たないうちに、ナポレオンによる凱旋門建設のため取り壊された[123]。
ダヴィッドは1798年から1802年にかけて《テルモピュライのレオニダス》を手掛けていた。この絵の構想自体は《サビニの女たち》以前からあり、この絵は後、1811年から1814年の制作期間を経て完成する[124]。レオニダスでは祖国のため戦った兵士たちが描かれた上に石の段にHERAKLEOS(ヘラクレス)と書かれ、サビニでは和解と平和への願いが表現されている。これらは注文を受けたわけでも売却の当てがあったわけでもない状態で、画家の個人的な意思により作られた[125]。
クーデターのあと第一執政に就任したナポレオンは、ダヴィッドにフランスの勝利を記念する絵を複数枚描くように依頼する。一方で建築家ルグランやモワットらと共にアンヴァリットの拡張計画案作成に参加した。この時期の政府に対してダヴィッドは、執務室にブルートゥスの胸像を置くように勧めたというエピソードがある[115]。

執政政府時代のダヴィッドは公式には地位を持たなかったものの、美術行政にたずさわる1人として1799年末にはセーヌ河畔のアンヴァリッド一帯の整備拡張案作成に加わり、1800年春にはフランス各県に戦死者たちの記念碑として円柱を建てる計画の総監督に就任。パリの都市計画にも関与し、国家プロジェクトに積極的に参加した(しかしナポレオン時代の安定しない政情のため、いずれも実現にはいたらなかった)。その他、ダヴィッドは執政たちが着る制服のデザインを拝命し、旧体制風と宮廷風が混在した案を提出するも、ナポレオンは豪奢であることを理由に却下され、かわりに軍服を着用することとなった[126]。
このようにダヴィッドとナポレオンの完成はしばしば対立し、ナポレオンは《サビニの女たち》については「冷たくて型にはまっている」、《テルモピュライのレオニダス》は「敗軍の将を描いても仕方ない」という意味の言葉を述べており、ダヴィッドは「将軍たちには絵のことはなにもわからない」とごちたという。レオニダスに関してダヴィッドは「しかしシトワイヤン(市民)執政、これらの敗者たちは死んだ英雄たちなのです。そして敗北したにもかかわらず、彼らは100年以上の間ペルシア人からギリシャを守ったのです」と答えたエピソードもある[127]。
また1800年にはレカミエ夫人による依頼で肖像画を依頼され、《レカミエ夫人の肖像》を制作したが未知の理由で未完成のままに終わった。ダヴィッドの仕事が遅すぎると思ったレカミエが、1802年に代わりに同様の肖像画を描くようにと彼の生徒の一人フランソワ・ジェラールに依頼したため仕上げる機会を失ったともいわれている。

左下にボナパルトのほか、ハンニバル、カール大帝の名がある。いずれもアルプス越えの戦将。この他にも4枚、同じ題の絵がある。
1801年《サン=ベルナール峠を越えるボナパルト》が描かれる。当初ダヴィッドは「私はあなたが戦場で剣を手にしている姿を描きましょう」と言ったのに対し、ナポレオンは「いや、私は逸り立つ馬上で平静な姿で描かれたい」と返したという[128]。基本的にモデルなしで描くことをしなかったダヴィッドはナポレオンにポーズを依頼したものの、「偉人たちの肖像が似ているかどうか気にする者などいないから、ただ偉人の精神がそこに息づいていればよいのだ」と言ってポーズを拒否した。そのためダヴィッドはナポレオンがマレンゴで着用していた軍服を借り、弟子をアトリエの脚立に跨らせて制作した。結果、この肖像画は細部に関しては写実的な一方で、全体のコンセプトとしては観念的なものに仕上がった[129]。
ダヴィッドはナポレオンの治めるフランスにおいて、国の行政を述べる管理官を置くべきだと提言するなど、ルイ14世の宮廷画家が美術行政のすべてを掌握していたような強大な権力を欲していた形跡がある。これは受け入れられず、執政政府は政府の画家という限定的な地位をダヴィッドに提案したが彼はこれを辞退している。ナポレオンは一芸術家が巨大な権力を持つことを好まず、ダヴィッドを自分の栄光を記録して後世に伝えるための人材とみなしていた[130]。辞退の際、ダヴィッドは自分は作品の制作に専念したいと述べ、地位はヴィアンに与えられた。この時「時の流れとさまざまな事件が、私の場所はアトリエにあると教えてくれました。…地位というものは消えてなくなりますが、私は自分の芸術が残り続けることを願っています」と語ったという[131]。
総領政府の頃のダヴィッドは公式の地位こそ持たなかったが、ナポレオンは彼をともなってパリ市内を視察し、都市改造の相談相手をさせるなど、実質的にはダヴィッドに対し政府の美術顧問に近い扱いをしていた。そして1803年末、ダヴィッドにレジオン・ドヌール第五等勲章の騎士賞を与えることが決定される。さらにヴィアンも同じ頃、レジオン・ドヌール第三等勲章のコマンドゥール章が与えられた。旧体制の頃の勲章は芸術家に与えられなかったのと比較すれば、革命以降、自分の政治的信条を持ち自らを知識人として自覚した芸術家の社会的地位は確実に向上しており、かつてルーヴル宮殿内や修道院などの一隅に与えられたアトリエで寝起きするのが一般的だった彼らは、屋敷を構えそこで暮らすこともできるようになっていた[132]。
皇帝の首席画家
こうして、ダヴィッドの作風である厳格な古典的英雄主義と古代ローマ帝国をモデルとしたナポレオンのフランスは結びついてゆく[133]。その後ナポレオンの庇護を受けて、1804年12月18日には彼の首席画家に任命され[134]、ダヴィッドにはボナパルティスムの大々的なプロパガンディストという面が付加された[135]。ナポレオンが美術に期待したのはプロパガンダ効果であり、絵画に権威と現実感を求める彼の期待に応えられる画家は、当時ダヴィッド以外にいなかった[136]。

鷲旗の配布

首席画家となった2ヶ月後、当時廃墟になっていたクリュー二ーの教会内にアトリエを確保し、ナポレオンの即位に関わる諸儀式を表す作品の構想を練り始め、1806年6月に皇帝の執事ダリュに4点の作品に関する計画を提出した[137]。縦6.1メートル、横9.3メートルの大作《ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠》は4点の内のひとつであり、1806年から1807年に描かれたものである。最初、ダヴィッドはナポレオンが自分で冠を手に取り頭に載せる姿を描こうとしていたが、弟子ジェラールに、皇帝の自分自身への戴冠の姿はあまりにも劇的で誇張を含んだものになるだろうと忠告されたため、構図を変更した[138]。この作品においてジョセフィーヌが41歳という年齢より若く描かれているが、これに関して「へつらっている」という批評を受けたダヴィッドが「彼女ところに行ってそう言ってくればよい」と答えたエピソードが残っている[139]。画家のアトリエでこの絵を見たナポレオンは「なんという本当らしさだ! これは絵ではない。画面の中に歩いて入れるようだ」と言い、ひとりひとりの人物を見分けて楽しんだ。絵に描かれた人物達の表情は率直なもので、ミュラやタレーランは満足そうだが教皇などは沈んだ様子で描かれている[140]。
この絵にはダヴィッド自身とその妻や、この絵の制作に関わった弟子ルジェも描き込まれた[141]。ダヴィッドの師ヴィアンが描かれているのを見たナポレオンが「あそこに見えるのはヴィアン氏だな」と言うとダヴィッドは「はい陛下、私は主題に鑑みて私の最も重要な作品になると思われますこの絵で師に敬意を表したのでございます」と答え、それに「よろしい、大変よろしい。ダヴィッド君、君は私の考えていることをお見通しだ。君は私をフランスの騎士として描いた」と返したナポレオンは帽子を持ち上げて画家に会釈したという[142]。

もうひとつは1810年に完成した《鷲旗の配布》である。この作品にもジョセフィーヌは描かれていたが、1809年にナポレオンと離婚したため、当局の指示によってサロン出品前に彼女が描かれた部分が消し去られた。そのために生じた空白を、ジョセフィーヌの息子で大陸軍軍人ユージェーヌの右足を大きく前に出すことでなんとか埋めている。素描では絵の空には勝利の女神が舞っていたが、寓意嫌いのナポレオンが写実的に描かれることを望んだため油彩画では削除され、ダヴィッドはこれをとても残念がった[143]。
計画されていた4点《戴冠式》《即位式》《鷲の軍旗の授与》《皇帝の市庁舎到着》の内、《即位式》は数点のクロッキーがあるものの着手されないまま終わるなど、完成したのは戴冠式と鷲の軍旗の2点のみであった[144]。《皇帝の市庁舎到着》の計画案冒頭に「私はこれらの一連の絵によって社会のさまざまな階級を示そうと思いました」とあり、四点の作品は、当時のフランス社会の四つの階層を表すものにある予定だった。《戴冠式》は皇帝の側近と家族・高位聖職者、《即位式》は司法・行政・立法の中核にある者たち、《鷲の軍旗の授与》は軍人、《皇帝の市庁舎到着》は市民を表す作品である。国家的プロパガンダのこの連作によって、さまざまな階級の人々が新国家を慕う様を表現するという意図があった[145]。
連作が未完に終わった理由としては、ダヴィッドは各一点に10万フランの制作料を要求していたが、ナポレオンはそれを退け、アトリエ代や材料費の支払いに関しても滞りがちだったという金銭的な問題。モデルが長期的な遠征を繰り返していたため、計画自体が常に中断の可能性にさらされていたことなどが挙げられる。1810年1月、《鷲の軍旗の授与》が完成した年にドゥノンは未完の2点を指して「皇帝が制作を延期させた」と記している。ダヴィッド自身は1811年1月、新たな一点を完成させるかどうかの指示を当局に仰いでいるが、その決定は下されないままだった。1818年、ドゥノンは「ダヴィッドがこれらの絵を制作しているかどうか知らない」と述べている[146]。
連作を飾るギャラリーについてナポレオンは、リュクサンブール宮殿の一室が『ルーベンスのギャラリー』と呼ばれていたのにちなんで『ダヴィッドのギャラリー』と名付けようとした。これに対しダヴィッドは、自分はルーベンスのように偉大な画家ではないと答え、『《聖別式》のギャラリー』という名を提案した[147]。
現在、ダヴィッドが描いた戴冠の衣装を着たナポレオンは、完成作の多くが失われている[148]。

王政復古
1810年、ブリュメール18日のクーデターを記念して1800年から10年間の科学・文学・芸術の各分野の優れた仕事に与えられる『十年賞』のコンクールが開催される。この時、《ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠》も挙がっていたが、歴史画部門で1位に輝いたのは弟子ジロテの《大洪水》だった。ダヴィッドはジロデの作品を見て「自分には絵画というものがわからなくなった」と述べた[149]。
自分とともに絵画におけるひとつの時代が終わりつつあることを自覚したダヴィッドは、自分やジロデの作品が飾られたルーヴルを娘と歩きながら「10年の内に、古代の神々や英雄たちは、意中の婦人の窓辺や塔の下で歌う吟遊詩人や騎士たちに取って変わられてしまうだろう[149]。…これらの神々や英雄たちは、騎士や、意中の婦人の窓の下や古い塔の下で歌う吟遊詩人たちに取って代わられてしまうだろう。私がつくりあげた美術教育は、フランスで長く気に入られるためにはあまりに厳しすぎるものだ。それを維持すべき立場の人々はそれを棄ててしまうだろう。私がいなくなるときに画派もなくなってしまうだろう[150]」と語ったという。その分、ダヴィッドは古典古代を主題とした絵に一層熱を込めていく[149]。

1814年にナポレオンがエルバ島に送られた後、ダヴィッドは画家としての高名から追及を免れ、絵を描きながら弟子たちを教育する日々を送る。同年のサロン出品は許されなかったが、弟子たちの絵がサロンを飾っていたためフランス画壇の父としての面目も保たれた。もしナポレオンがパリに戻らなければ、ダヴィッドはこのままパリで余生を送ったと言われている[151]。
ところが1815年にナポレオンがパリ入城を果たしダヴィッドを再び首席画家に任命する。この時ダヴィッドは《テルモピュライのレオニダス》を描いていた。かつてナポレオンはこの作品を見て「敗軍の将を描いてもしかたがない」と言ったが、この時は「たいへんよろしい(……)この絵の模写が各地の兵学校に飾られて、若い生徒たちに祖国の徳を思いおこさせるようにしよう」と語り、ダヴィッドにレジオンドヌール勲章のコマンドゥール章を与えた[152]。

しかしナポレオンは「百日天下」で幕を閉じてしまう。同年7月にはルイ18世が王位につき復古王政が成立、白色テロが吹き荒れた。ダヴィッドは《ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠》と《鷲の軍旗の授与》を裁断して地方に送り、従僕ひとりとパリを発つとフランス南東部とスイスを転々とする。だが、王が出した軍事法廷で裁かれるべき人々のリストに名前がなかったため8月末にはパリに戻った。だが1816年1月、ナポレオンがエルバ島から帰還した際に採択された帝国憲法付加法支持の署名を行った者の国外追放が決定される[153]。フランス革命に続いて二度目の『神話の崩壊』を目の当たりにしたダヴィッドは[154]最初、ローマへの亡命を希望したが許可されず、最終的に言語の障害もなく文化的にもフランスに近いベルギーのブリュッセルが選ばれた。ダヴィッドの弟子たちの内、年齢が近くライバル関係にあったグロ、ジロデ、ジェラールを『3人のG』というが、彼らはパリに残って王政復古のため仕事をすることになり、師はアトリエの管理をグロに託した。1816年1月27日ブリュッセルに到着。少し遅れて妻も無事に合流した[155]。
晩年
[編集]恵まれた亡命生活
ブリュッセルには革命期の仲間たちが少なからず暮らしていた。当代一の画家としてベルギーやオランダなどいくつものアカデミー会員として迎えられ、弟子も取り肖像画の注文も舞い込んだため、非常に恵まれた亡命生活を送った[156]。また、皇帝の首席画家という任務から解放されたダヴィッドは、昔から愛していた古典古代の主題に戻っていった[157]。
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に美術大臣の地位を提案されたがベルギーが気に入ったダヴィッドはそれを断り、かわりにネーデルランド連合王国の同様な地位を望んだがそれは実現しなかった。この国ではフランス革命に深く関わった人間のブラックリストがあり、ダヴィッドはそこに名前が載っていたのが理由であった[158]。
昼は妻と公園を散歩し、夜は若い頃から大好きな芝居見物を楽しんだ。当時のブリュッセルにはパリの芝居が来ることも珍しくなかった。経済面でもパリのアトリエに残してきた絵をグロに売却させる、絵画の版画化に対して版権料を得る、作品をベルギーやパリで有料展示するなどの行動を起こしたため、亡命前と同じく非常に裕福だった[159]。4人いた子供たちの内、何人かはパリに住んでおり、次男ユジェーヌは父のために作品展示などの仕事を引き受けている[160]。ただしイギリスのウェリントン公爵が肖像画を依頼してきた際、当時は依頼者の政治的立場を考慮しないのが当たり前であったにもかかわらず、「私は祖国の敵を描くことはしない」と言って断った[161]。
この時期、弟子以外にもシエイエスなど革命時代の仲間もダヴィッドの元を訪れているが、フランスの話になると彼は沈み込んだという。革命と帝政を支持し王政と敵対し続けたダヴィッドにとって、王政復古した祖国のあり方は絶望を感じさせるものだったと考察されている[158]。
ルイ18世は《サビニの女》と《テルモピュライのレオニダス》を購入しており、彼だけでなくかつて《パリスとヘレネの恋》を注文したシャルル10世もダヴィッドが願えば彼を呼び戻す準備はあったと言われている。ダヴィッドの名声は王室からもその経歴が不問にされるほどのものだったことが窺える。弟子のグロも師をパリに迎えるため必死に努力したが、ダヴィッド本人が戻るのを嫌がり、グロがシャルル10世から男爵の称号を授与されたことで彼を叱責すらした。彼がグロへ宛てた手紙に「二度と私に帰国するように言わないでほしい。私にはもう何の義務もない。私は祖国のためにするべきことは全部やった。優れた画派を築き、ヨーロッパ中が学びに来る古典主題の絵を多く描いた。私は祖国に対する務めを果たした。今度は政府の方がそれをする番だ」と書いている[162]。
元々ナポレオンの軍事的な姿を残してきた画家でもあるグロは、ダヴィッドからは新古典主義の継承者として期待を寄せられ、ドラクロワなど若い世代のロマン主義者たちにも敬意を払われ、王政復古したフランスでも生きる中で思い悩んだ。そして師が亡くなった10年後の1835年、セーヌ河で投身自殺する[163]。グロはダヴィッドがパリに留まっていた場合の分まで葛藤することになってしまったと言える[164]。

ダヴィッドは亡命後も絵を描き続け、当地の名士や知己の仲である人々の肖像画を数多く手がける一方、弟子アングルの世界を連想させるような神話を題材にした情緒的な作品も残している[165]。1822年にアメリカの実業家グループが発注していた《ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠》のレプリカが完成。ダヴィッドはまずブリュッセルでの展示を希望したが、急進派とボナパルト派の結束を恐れた政府は許可を出さなかった。最初の展示はイギリス・ロンドンで行われたが、主要紙の批評は散々であった[166]。
最後の作品となった『ヴィーナスと三美神に武器を取り上げられるマルス』は、筆の衰えを感じさせない緻密な筆跡の元に英雄・革命・死というテーマを融合させた、亡命中のダヴィッドの心象を表現した作品に仕上がっている[167]。他方で、彼の作品は最後までキリスト教信仰とは縁のない、理性を重視する18世紀の人間らしい考えを反映し続けた[168]。
ダヴィッドが亡命後、とても密に交流していた弟子はグロくらいだが、他の弟子とも交流を続けた。王室の首席画家となったジェラールはダヴィッドが完成できなかったスタール夫人主題の作品を引き受け、ジロデは自分を弟子を2人、ダヴィッドのもとに送っている。モンジュ夫人(英語)の夫に宛てた手紙には、夫人が《キューピッドとプシュケ》について意見を表明したと喜んでいる。またソフィ・リュードには《テレマコスとエウカリスの別れ》の模写を任せた[169]。パリを去り、ダヴィッドは既に過去の存在となっていたことが展示会の観客の減りなどからも窺えるが、画家たちはロココと手を切り、新古典主義絵画を完成させ、新しい時代の土台を築いた先達の功績を忘れなかった。ジェリコーはオラース・ヴェルネと共にダヴィッドを表敬訪問し、ダヴィッドもこれを非常に喜んで3人はパリにいるダヴィッドの弟子たちの健闘を祈って杯を交わしている[170]。
《キューピッドとプシュケ》《テレマコスとエウカリスの別れ》《アキレウスの怒り》はヘントとモンスで有料展示され、そこで得た収入は慈善事業に寄付された[171]。
『フランス近代画家の復興者』

1820年以降、70歳を超えた頃からダヴィッドはしばしば体調を崩した。1824年2月、亡命して以来役職を得ていた造幣局から自宅へと帰る途中で馬車と接触して以来、体調は悪化してゆく。それでも作品の売却や版画化の指示を出し続け、創作意欲も衰えていなかったが、あるとき「私は若い時と同じように生き生きとした新鮮な想像力を感じるし、頭に浮かんだあらゆるテーマを易々と構成することができる。けれでもキャンバスに描こうとして鉛筆を取ると、手がそれを拒否するのだ」と語ったという[172]。死を前にしたダヴィッドのアトリエには『レカミエ夫人の肖像』があった[173]。
ダヴィッドの妻は夫の仕事内容を把握していたとみられ、ダヴィッドの秘書的な役割をこなしていた。ダヴィッドが妻に自分の仕事について積極的に語っていたことが書簡から推測され、彼が妻を対等な知性の持ち主として扱っていたことが窺える[160]。1825年秋、妻が体調を崩し治療のためパリに帰ったが、ダヴィッドはやはり帰国を拒んだため、これが夫婦が顔を合わせた最後の時間となった。10月に夫が妻に宛てた手紙では妻の不在を嘆きつつ子供たちの優しさに触れ、いくつかの家具を入手してブリュッセルのアパルトマンを整えようと提案している。ダヴィッドが妻とともに安らいだ生活を送ろうと夢見ていたことが推測される。「家は感じが良く、私たちが得た地位にふさわしいものとなるだろう」。1825年11月、長年使えてくれた男女の召使いに終身年金を与えている[174]。
そして1825年12月29日、ダヴィッドは時代に翻弄された77年の生涯を終える。好きな芝居を見に行って風邪を引いたことが引き金になったという。その後、弟子たちによってデスマスクが取られ、石膏で右手の型がとられた。心臓は銀の壺に収められ、翌年1826年5月に亡くなった妻の横に埋葬された。家族はダヴィッドの遺骸がフランスに帰れることを望んだが、王政フランスは彼の遺体が帰国することを許さなかった。防腐処置を施されブリュッセルの教会に安置されていた遺体は1882年、ブリュッセルのエーヴェラ墓地に埋葬されることとなる[175]。後に心臓のみがフランスに戻り、東部のペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
墓碑には『フランス近代画家の復興者 ジャック=ルイ・ダヴィッドへ』と刻まれている[176]。
2025年10月15日から2026年1月26日にかけて、ダヴィッドの没後200周年を機に、ルーヴル美術館でジャック=ルイ・ダヴィッド展が開かれた。ここでダヴィッドは、『「絵画の再生者」と呼ばれる彼は、今日に至るまで私たちの集合的な想像力を掻き立てるイメージを創造した[177]』『独特の発明力と表現力に恵まれた偉大な画家であるだけでなく、6つの政治体制を経験し、革命にも積極的に参加した献身的な芸術家[178]』と紹介された。
脚注
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ギャラリー
[編集]参考文献
[編集]- 鈴木杜幾子『画家ダヴィッド 革命の表現者から皇帝の首席画家へ』(晶文社、1991) ISBN 978-4-7949-6062-7
- 鈴木杜幾子『画家たちのフランス革命 王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド』(角川選書、2020)続編
- デーヴィッド・アーウィン『新古典主義 岩波世界の美術』(鈴木杜幾子訳、岩波書店、2001)ISBN 4000089293
- ケネス・クラーク『ロマン主義の反逆: ダヴィッドからロダンまで13人の芸術家』(高階秀爾訳、小学館、1988)ISBN 4093580316
- ヒュー・オナー『新古典主義』(白井秀和訳、中央公論美術出版、1996)ISBN 4805503149
- デーヴィッド・ブレイニー・ブラウン『ロマン主義 岩波世界の美術』(高橋明也訳、岩波書店、2004)ISBN 4000089781
- ピーター・マクフィー『フランス革命 自由か死か』(永見 瑞木 ,安藤 裕介 訳、白水社、2022)ISBN 4560098956
- 高階秀爾編『ロマン主義 世界美術大全集西洋編 20』(小学館、1993) ISBN 4096010200
- リン・ハント『フランス革命の政治文化』(ちくま学芸文庫、2020年) ISBN 4480099743
- 山崎耕一『フランス革命 「共和国」の誕生』(刀水書房、2018年)ISBN 978-4887084438
- 竹中幸史『図説 フランス革命史』(河出書房新社、2013年)ISBN 978-4309762012
- 画集・図録
- リュック・ド・ナントゥイユ『ダヴィッド 世界の巨匠シリーズ』(木村三郎訳、美術出版社、1987)ISBN 978-4-5681-6056-7
- 鈴木杜幾子編『新古典主義と革命期美術 世界美術大全集西洋編 19』(小学館、1993)ISBN 4096010197
- 論文
- 貴傳名 暁子「"フランス革命期における政治と美術 : ジャック・ルイ・ダヴィッドの活動を中心に"」(京都女子大学『史窓』61, 2004年, pp. 113-130)
- 清水正和「ダヴィッド考 『マラーの死』と『バラの死』を中心に」(甲南女子大学研究紀要、1985)
- 山下雄大「ビヨ=ヴァレンヌ『無頭政』と共和主義における執行権の編成」(東京大学大学院、2024年11月)
- 阿部善宏「フランス革命におけるダヴィッドの役割について」(東海大学)
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