ラファイエット

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ラファイエット

マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ, ラファイエット侯爵[1][2]Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette1757年9月6日 - 1834年5月20日)は、フランス侯爵で、軍人政治家である。アメリカ独立革命フランス革命の双方における活躍によって「両大陸の英雄」(The Hero of the Two Worldsle héros des deux mondes)と讃えられた。

人物[編集]

第3代アメリカ大統領となったジェファーソンは、独立戦争を通じてラファイエットを良く知っており、「ラファイエットの弱点は人気と評判に対して飢えきっていることである」と評している。「両大陸の英雄」と称賛されたときから、いつも人々の注目を浴びることを願い、それがその後の彼の行動を律したといわれている。

生涯[編集]

アメリカ独立革命への参加[編集]

ラファイエットはフランスの貴族の子に生まれた。父は彼が2歳の時、七年戦争に従軍して戦死した。彼は14歳で軍隊に入隊し、16歳で結婚。1776年アメリカ独立戦争が勃発すると、支援を求めて来仏したベンジャミン・フランクリンに会ってその考えに共鳴し、周囲の反対を押し切って自費を投じて船を購入し、義勇兵としてアメリカへ渡った。19歳の時のことである。1779年にはフリーメイソンへ加入。参入儀式をジョージ・ワシントンが執り行った。アメリカの独立を決定的にした1781年のヨークタウンの戦いに、彼は重要な役割を果たした。翌年フランスに帰国すると「新大陸の英雄」と称えられ、一躍名声を得た。

フランス人権宣言を起草[編集]

1789年、ラファイエットは三部会の第2身分(貴族)代表として選出された。しかし、アメリカ独立戦争(1775-1783)を戦った彼は、フランスの絶対王政立憲君主制に変革するべきだという構想を持ち、第2身分でありながら第3身分の側に立って、議会政治の実現に向けて行動した。ラファイエットは、7月14日バスティーユ襲撃の翌日に新設された国民衛兵の総司令官に任命されるとともに、フランス人権宣言の起草に着手した。国民議会で採択された人権宣言は、第1条で「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」という人間平等を、第2条で天賦の人権、第3条で人民主権、第11条で思想の自由言論の自由、第17条で所有権の不可侵をうたっており、近代民主主義発展史上に記念碑的な位置を占めるものであった。

失墜[編集]

しかしその後のラファイエットは、国民衛兵司令官として動乱期に入ったパリの治安維持という難問に取り組むなかで度々不手際を犯し、その名声と権力は急速に衰えていく。10月5日、女性を中心としたパリの大群衆がルイ16世ヴェルサイユ宮殿からパリへ連行したヴェルサイユ行進においては、彼と国民衛兵は群衆による近衛兵の殺害や、宮殿に対する破壊、略奪を傍観するのみであった。また翌年6月20日ルイ16世がパリから逃亡した際にも、警備責任者として逃亡阻止に失敗した廉で多くの批判を浴びることとなった。彼は政治家としてはフイヤン派に属し、前述の政治構想のように立憲君主制の支持者であったが、王政打倒を主張するジロンド派や最過激派たるジャコバン派の勢力増大も食い止めることができなかった。

1791年7月17日、パリ西部のシャン・ド・マルス(練兵場)での共和派の集会に対して、国民衛兵に無警告での発砲を命じこれを鎮圧したことによりラファイエットの政治生命は終わりを告げた。この事件では死者が50名にも上ったため「シャン・ド・マルスの虐殺」と呼ばれ、彼は共和派の激しい非難を浴び、国民衛兵司令官の職を辞した[3][4]。その後復活を期してパリ市長選挙に立候補するが落選、政治の第一線を去ることとなる。

翌年4月、オーストリア帝国プロイセン王国に対するフランス革命戦争が勃発すると一方面軍の司令官に復帰したが、8月王権停止されるやラファイエットは司令官を解任された。王党派として逮捕される危険を感じた彼は即座にオーストリアに亡命した。オーストリア政府は彼の身柄を受け入れたが、待遇はあくまで戦争捕虜としてであった。5年間の獄中生活を送ったのち、ナポレオン政権を握った1799年に帰国したが、公職への復帰はならずナポレオン戦争中も故郷で隠退生活を送った。

晩年[編集]

のち1824年、アメリカ政府は国賓としてラファイエットをアメリカに招待した。彼は15ヶ月に渡ってアメリカ各地を旅行し、国を挙げての歓迎を受けた。1830年七月革命が勃発すると再び国民軍司令官に任命され、ルイ・フィリップを支持したが、翌年には解任されて下野し、3年後パリで死去した。

2002年、その過去の名声からアメリカ合衆国名誉市民に選ばれた。

脚註[編集]

  1. ^ 爵位名はラ・ファイエットであるが、日本国内の文献ではラファイエットと表記されることが多い。これは前後を繋げていくフランス語の特徴であり、「ラ」「ル」「ド」といった冠詞や前置詞のつく人名にはよく見られる表記法である。つまり「La Fayette」が「Lafayette」になるわけで、日本で勝手に省略しているわけではない
  2. ^ ラファイエットは爵位名で、姓は「デュ・モティエ」の部分である
  3. ^ フランス革命 III」『エンカルタ』マイクロソフト、2009年。
  4. ^ P・クールティヨン 著 金柿宏典 訳注「パリ : 誕生から現代まで XV」『福岡大学人文論叢』第38巻 第2号(通巻第149号)平成18年9月。