バンカーヒルの戦い

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バンカーヒルの戦い
The death of general warren at the battle of bunker hill.jpg
バンカーヒルの戦いにおけるウォーレン将軍の死英語版
ジョン・トランブル
戦争アメリカ独立戦争
年月日1775年6月17日
場所チャールズタウン
結果イギリス軍の辛勝[1]
交戦勢力
Grand Union Flag.svg 大陸軍 グレートブリテン王国の旗 イギリス軍
指導者・指揮官
Grand Union Flag.svg イズラエル・パットナム
Grand Union Flag.svg ウィリアム・プレスコット
Grand Union Flag.svg ジョセフ・ウォーレン
Grand Union Flag.svg セス・ポメロイ
(ウォーレンとポメロイは指揮官ではなく兵卒として戦った)
グレートブリテン王国の旗 ウィリアム・ハウ
グレートブリテン王国の旗 ロバート・ピゴー
グレートブリテン王国の旗 ヘンリー・クリントン
グレートブリテン王国の旗 サミュエル・グレイブス(海軍)
戦力
約2,400[2] 3,000以上[3]
損害
死者115、負傷305、捕虜30
合計: 450[4]
死者226、負傷828
合計: 1,054[5]
アメリカ独立戦争

バンカーヒルの戦い(バンカーヒルのたたかい、: Battle of Bunker Hill)は、アメリカ独立戦争初期ボストン包囲戦中の1775年6月17日に起こった大陸軍イギリス軍の戦闘である。大陸軍はイズラエル・パットナム将軍が、イギリス軍はウィリアム・ハウ将軍が指揮を執った。この戦いは両軍の当初の目標だった「バンカーヒル」という名で知られているが、実際の戦場は近くのブリーズヒルであった。独立戦争では2番目の戦闘だった。

6月13日、ボストンを包囲していた大陸軍の指導者達は、イギリス軍の将軍たちがボストン市内から部隊を出して市を取り囲む丘を占領する作戦を立てていることを知った。この情報に反応してウィリアム・プレスコットの指揮する1,200名の部隊が密かにバンカーヒルとブリーズヒルを占領し、ブリーズヒルには土盛りの堡塁を造り、チャールズタウン半島の大半にわたる軽く防御を施した前線を築き上げた。

翌日、イギリス軍が新しい陣地の出現を知ると、そこへの攻撃を掛けた。大陸軍の前線に対する攻撃は2回までも大きな損失を出して撃退されたが、3回目にその陣地を占領した。堡塁の大陸軍は弾薬が尽きていた。大陸軍はバンカーヒルを越えてケンブリッジまで撤退した。

ハウの当初の目的は達せられたが、ボストン包囲戦の行方には何の効果も無かった。イギリス軍は800名以上が負傷し、226名が戦死した。この中にはかなりの数の士官が含まれていた。戦闘後、イギリス軍のヘンリー・クリントン将軍は、「このような勝利を繰り返していたら、イギリスのアメリカ支配は終わってしまう」と日記に記している。相対的に訓練ができていなかった大陸軍は正規軍との会戦でも進んで対応できることを示した。訓練されたイギリス正規兵に対し、寄せ集めに近い民兵で対抗できたことが自信につながったといえる。大陸軍のイズラエル・パットナム将軍か彼の副官のウィリアム・プレスコットか、あるいは他の誰かが「敵の目の白い所が見えるまでは撃つな」と命令したというが、この命令を誰が発したかについて歴史家の中では議論になっている。

地勢[編集]

1775年のボストン地区の地図(不正確な情報もある)

半島にあるボストン市は[6]、そこを取り囲む海と海を支配するイギリス海軍艦船によって近付くこともできないように守られていた。4月19日レキシントン・コンコードの戦いで始まった武力衝突後は、植民地の民兵が約15,000名にもなって[7]市を取り囲み、事実上包囲していた。アートマス・ウォードが指揮する大陸軍はボストンへの唯一の陸からの道であるロクスベリー・ネックを抑えていたが、海軍が無いためにボストン港内を支配するイギリス軍とは対抗できていなかった。イギリス軍はトマス・ゲイジ将軍の指揮下に約6,000名の勢力であり、市内を占領し、海から補給や援軍を得ることができた[8]サミュエル・グレイブス提督が港内の艦隊を指揮していた。

チャールズタウン半島は、西北に狭くになり(「チャールズタウン・ネック」としても知られる)、南西に約1マイル(1.6km)ボストン港側に伸びている。ボストン半島とは、一番近いところで1,000フィート(300m)足らずだった。バンカーヒルは半島の北側にある高地で標高は110フィート (33 m) あり、標高62フィート (19 m) のブリーズヒルはボストンに近い方に位置した[9]。チャールズタウンは半島南端の平地にあった。ボストン半島側にはコップスヒルと呼ばれるブリーズヒルとほぼ同じ高さの丘があった。コンコードからイギリス軍が退却してきてチャールズタウンで停止したが、ゲイジ将軍はこの半島の丘を即座に防御線とする道を選ばず、戦闘の翌日にはボストンへ部隊を引き上げさせたので、チャールズタウン半島は無人の土地になっていた[10]

イギリス軍の作戦[編集]

バンカーヒルの戦いハワード・パイル画、1897年

5月の1ヶ月間で、イギリスはゲイジからの支援要請に反応して援軍を送り、勢力は約6,000名に達していた。5月25日、フリゲート艦HMSケルベロスでウィリアム・ハウ、ジョン・バーゴインおよびヘンリー・クリントンの3将軍が到着した。ゲイジは彼らと市の包囲を破る作戦を立て始め[11]、6月12日には最終案を作った[12]。この作戦はドーチェスター・ネックを占領することに始まり、ドーチェスター高地を要塞化した後にロクスベリーに駐屯する大陸軍に向けて進軍するという手筈だった。ドーチェスターのある南側を抑えれば、チャールズタウンの高地は容易に奪取でき、ケンブリッジの大陸軍を追い出すことができるという算段だった。攻撃開始は6月18日に定められた[13]

6月13日、マサチューセッツ湾植民地会議は、ニューハンプシャー植民地エクセターの安全委員会からの急使によって、ニューハンプシャーのある「信頼に足る」紳士がボストンを訪れている間に、イギリス軍の指揮官たちがドーチェスターとチャールズタウンを占領する作戦を立てているという話を漏れ聞いたと知らされた[14]。6月15日、マサチューセッツ安全委員会は防御線を構築する必要性があると判断した[15]。ウォード将軍はイズラエル・パットナム将軍に、チャールズタウン半島、特にバンカーヒルに防御工作を行うよう指示した[16]

戦闘に至るまで[編集]

イギリス軍の第一次攻撃。着色部が丘

ブリーズヒルの防御工作[編集]

6月16日夜、大陸軍のウィリアム・プレスコット大佐が1,200名の兵士を率いて半島に上陸し、ボストンに向けて大砲を放てる陣地を構築することを目指した[17]。この部隊はプレスコット、パットナム(指揮はトマス・ノールトン)、ジェイムズ・フライおよびエベネザー・ブリッジの各連隊からの兵士で構成されていた[18]。初めのうち、パットナムとプレスコットおよび工兵士官のリチャード・グリドリー大尉は、何処を防御地点とするかについて意見の一致をみなかった。バンカーヒルで幾らか工事をしたが、ブリーズヒルがボストンに近く、より防御に適しているように見えたので、元々の命令には従わず、最初の堡塁をそこに造ることに決めた[19]。プレスコットの部隊はグリドリーの概要図を使って一辺が130フィートの (40 m) の正方形の堡塁を造り、溝と土壁も造った。壁の高さは6フィート (1.8 m) あり、その内側に木製の踏み台を置いて壁越しに銃を撃てるようにした[20]

ブリーズヒルの工事はイギリス軍に気付かれずに進んだ訳ではなかった。その夜、偵察にあたったクリントン将軍がそれに気付き、夜明けと共にその陣地を攻撃する準備をする必要があるとゲイジとハウを説得しようとした。イギリス軍哨兵も工事に気付いていたが、警戒すべきものとは思わなかった[21]。夜明け前の4時頃、HMSライブリーの哨兵が新しい砦を認知し艦長に報せた。ライブリーが砲撃を始め、一時的に植民地人の工事を止めさせた。イギリス海軍の旗艦「サマーセット」(HMS Somerset)に座乗していたグレイブス提督は命令した覚えのない砲撃に眠りから引き戻された[22]。彼は砲撃停止命令を出したが、ゲイジ将軍がその朝に状況を理解するに及んでその命令を取り消させた。彼は港内にある全128門の大砲に加え、コップスヒル砲台の大砲で大陸軍の陣地を砲撃するよう命じた。しかし、艦砲は砲弾を大陸軍陣地に届くまでに上向かせることができなかったので、ほとんど効果を得られなかった[23]。大陸軍のプレスコットは日の出と共に堡塁の位置について重大な問題に気付いた。そこは容易に両側面を衝かれる位置にあった[21]。即座に兵士達に丘から東に走る胸壁を造り始めるよう命令した。堡塁の西側まで追加工事を行うには人手が足りないと判断もしていた[24]

イギリス軍の戦闘準備[編集]

イギリス軍の将軍達が集まってその対応策を検討した時、クリントン将軍は出来る限り速く攻撃することを勧め、チャールズタウン・ネックから攻撃すれば大陸軍の退路を断ち、堡塁に残った者を飢えさせてから占領に行けば簡単になると言った。しかし他の3人の将軍はこれに反対した。ハウはこの中では上級将官であり攻撃を率いることになっていたが、あの丘は「開けていて上りやすく、直ぐに制圧できる」という意見だった[25]。遠征隊準備の命令が発せられた[26]

海峡を隔てたボストンには、ゲイジ将軍とその参謀、および王党派のアビジャー・ウィラードがいた。望遠鏡で覗くとウィラードの義兄弟であるプレスコット大佐を認めることができた。ゲイジが尋ねた「彼も戦うのか?」ウィラードが答えた「彼の兵士については答えられないが、きっとプレスコット大佐は地獄の門に至るまで貴方と戦うでしょう[27]」プレスコットはウィラードの言葉どおりに動いたが、彼の部下達まで覚悟ができているわけではなかった。ある若い兵士が砲撃で死ぬと[28]、プレスコットはその死体を即座にしかも静かに埋めるよう命令した。しかし多くの部下達は厳粛な葬儀を行い、そのすぐ後で何人かは脱走した[27]

イギリス軍が歩兵を集めて閲兵するまでにほぼ6時間を要した。ハウ将軍が攻撃部隊を率い大陸軍の左翼を回って後ろから攻撃することになった。イギリス軍左翼のロバート・ピゴー准将が正面から堡塁を攻撃することとした。ジョン・ピトケアン少佐が予備隊を率いた。ハウの軍隊約1,500名を長艇で半島の東隅ムールトンズポイントに運ぶのに何度か往復し、また時間を要した[29][30]。午後2時までにハウの選抜部隊が上陸した[29]。しかし川を渡る間にハウはバンカーヒルの上に大勢の大陸軍兵士が居ることに気付いた。ハウはこれが大陸軍の援軍であると考え、即座にゲイジに宛ててさらに援軍を要請する伝言を送った。続いて軽歩兵の幾らかに半島の東側にそって前進陣地を取るように命じ、大陸軍にその意図を報せるようにした。兵士達は援軍を待つ間、座り込んで食事を摂った[30]。暖かい日であったが、ウールのチュニックを着て約60ポンド(27 kg)の背嚢を背負った兵士達が所定の場所に着いた。

大陸軍の陣地強化[編集]

バンカーヒルへの第二次攻撃

イギリス軍の準備行動を見ていたプレスコットも援軍を要求した。援軍の中には、マサチューセッツ安全委員会の若く人望のある指導者ジョセフ・ウォーレンと、年取ったマサチューセッツ民兵隊の指導者セス・ポメロイがいた。二人とも将官に任じられていたが、歩兵として従軍する道を選んだ[29]。プレスコットはノールトン大尉に左翼を守るよう命じた。そこは胸壁として間に合わせの土壁があり、上部にはフェンス用レールと干草で覆っていた。彼らはこの土壁とプレスコットの胸壁の間に3つの小さなV字型の塹壕も構築した。この側面を補強するために到着した部隊は、第1および第3ニューハンプシャー連隊の約200名であり、ジョン・スターク大佐とジェイムズ・リード大佐(2人とも後に将軍になった)が指揮していた。スタークの部隊は、ハウがその部隊を上陸させた後に到着し、ハウが直ぐに攻撃を仕掛けておればその利点を生かせたであろう防御の隙間を埋めるために[31]、大陸軍陣地の北端にある塀に沿って陣取った。干潮となり半島の北東に流れるミスティック川沿いに隙間ができたので、スターク隊は直ぐにその海岸の水際まで石を使って壁を伸ばした[31][32]。スタークが壁の前100フィート(30 m)に杭を立て、イギリス兵がその杭より前に来るまで銃を放ってはいけないと命令した[33]。戦闘に入る直前にさらに援軍が到着した。これにはブルーワー、ジョン・ニクソン、ベンジャミン・ウッドブリッジ、モーゼス・リトル各大佐およびムーア少佐のマサチューセッツ連隊の一部が含まれ、さらにキャレンダーの砲兵中隊もいた[34]

大陸軍前線の背後は混乱していた。戦闘に派遣された多くの部隊がケンブリッジからチャールズタウン・ネックを過ぎる前に停止していた。ここは南の砲台からの砲撃に常に曝されていた。バンカーヒルに到着した部隊もいたが、そこからどこに行くべきかが分からず辺りをうろうろしていた。この場を目撃した者の一人は「混乱がひどくなるばかりで指揮は行われていないように見えた」と記した[35]。パットナム将軍が現場に出て事態を収拾しようとしたが、部隊の指揮官の多くは誤解するか命令に従わないかだった[35]

戦闘[編集]

午後3時までに、第47歩兵連隊と第1海兵隊を含むイギリス軍援軍が到着し、前進する用意が整った[36]。ピゴー准将の部隊はチャールズタウン集落の直ぐ南に集結して狙撃兵の銃火で犠牲を出しており、ハウはグレイブス提督に狙撃兵の一掃を援けてくれるよう求めた。グレイブスはそのような可能性を計算しており、集落に向けて焼夷弾を発射するよう命じ、町に火をつけるために上陸部隊を派遣した。風向きの具合で煙が戦場に届かないようになっていたので、チャールズタウンから流れ出た煙が戦闘のほとんど非現実の背景幕となっていた[37]

ピゴーは第5、第38、第43、第47、第52歩兵連隊さらにはピトケアン少佐の海兵隊を指揮しており、堡塁への襲撃を行う見せ掛けの行動を採った。しかし、チャールズタウンの狙撃兵から急がされ続けていたので、ハウの前進部隊に起こったことを見た時に後退を命じた[38]

ハウ将軍は大陸軍左翼への襲撃に使える連隊の中から軽歩兵中隊と擲弾兵中隊を率い、スタークの到着したばかりの部隊に対して容易に対処できると期待していた[39]。狭い海岸に沿って、大陸軍の最左翼に対して軽歩兵を配置し、擲弾兵を中央に配置した。スカーレットレッドの上着に身を包んだ士官に先導され、歩兵は横数百、縦4列に隊形を組んだ。イギリス軍が近付くと、ニューハンプシャーの兵士ジョン・シンプソンが命令に従えずにあまりに速く発砲し、イギリス正規兵からお返しの一斉射撃を受けたがこれも無効だった。イギリス軍が射程距離に入った時に両軍が戦端を開いた。大陸軍兵は壁を使ってそのマスケット銃の狙いを安定させ、また少しでも遮る物のある利点を使って、イギリス軍に大きな損失を与えた。このマスケット銃の破壊的な釣べ打ちに遭ってイギリス軍は算を乱して後退し、大陸軍民兵隊はその陣地を守った[40]

バンカーヒルへの第三次かつ最終攻撃

イギリス軍は戦場で隊列を整え直し、再度前進を開始した。今回はピゴーの部隊も陽動ではなかった。おそらくハウの部隊の支援無しで堡塁への攻撃を行うはずだった。ハウは海岸に沿ったスタークの陣地に前進する代わりに、フェンス用レールに沿った陣地にあるノールトンの部隊に向けて前進させた。第二次攻撃の結果は第一次のものとほとんど同じになった。イギリス軍観察者の一人は「我々の擲弾兵と軽歩兵の大半は一瞬のうちにその4分の3を失い、さらには10分の9を失った。ある中隊では8名か9名しか残っていないものもあった...」と記した[41]。ピゴーの部隊も堡塁に対してなす術もなく、再度後退を命じた[42]。一方大陸軍の後方では相変わらず混乱が続いていた。パットナムは堡塁や防御線の部隊を支援する為にバンカーヒルからブリーズヒルに援軍を送ろうとしていたが、ほとんど成功しなかった[43]

イギリス軍の後方も幾らかの混乱状態にあった。動ける負傷兵は上陸地点まで下がっていき、船でボストンへ送り返されたが、戦場に横たわったままの負傷兵は痛みからくるうめきや叫びのもとになっていた[44]。ハウ将軍は再度攻撃する決断をし、ボストンのクリントン将軍に援軍を要請する伝言を送った。第一次と第二次の攻撃を観察していたクリントンは第2海兵隊と第63歩兵連隊から約400名を派遣し、さらに自身も部隊の士気を上げるために付いていった。新しく送った予備隊に加えて、約200名の負傷兵も第三次攻撃のために集結するよう説得した[45]。第二次と第三次攻撃の間にパットナム将軍は部隊を攻撃に向かわせるよう仕向け続けていた。幾つかの中隊と指揮官のいない集団が戦闘現場に移動した。コネチカットの大尉ジョン・チェスターは1個中隊が後退して来るのを見咎め、自分の中隊にマスケット銃を構えさせてその中隊を止めさせた。彼らも転回して戦場に戻った[46]

イギリス軍の3回目の攻撃が行われた。今回は大陸軍の側面に陽動攻撃をかけただけで、堡塁に集中して成功した。ただし、大陸軍は再度イギリス軍の隊列にマスケット銃弾を降り注ぎ、ピトケアン少佐の命を奪った[47]。防御側は弾薬が尽きかけていたので、戦闘は接近戦に変わった。イギリス軍は銃剣を付けていたが、大陸軍のマスケット銃にはほとんど付いていなかったので、堡塁に入ってしまえばイギリス軍が有利だった。プレスコット大佐は堡塁から脱出した最後の方の者になったが、通常は儀式用でしかないサーベルで何とか銃剣の攻撃をかわした[48]。ジョセフ・ウォーレンが戦死したのはこの堡塁からの撤退時だった[49]

大陸軍の大半は半島からうまく撤退できた。これはジョン・スタークとトマス・ノールトンが丘の包囲を防ぎ、フェンス用レールに沿って部隊を退却するように統制したのが一部利いていた。バーゴインが「逃亡ではない。勇敢で軍事的な技術で援護されてすらいた」と表現したように、その規律正しい撤退は効果的だったので、負傷兵の大半も救われた[50]。イギリス軍に捕まった兵士の大半は致命傷を負っていた[50]。パットナム将軍はバンカーヒルで部隊の建て直しに努めたが、大陸軍の後退が急だったので、大砲や工作用の道具は放棄された。大陸軍の損失の大半はバンカーヒルへの撤退時に受けたものだった。午後5時までに大陸軍はチャールズタウン・ネックを抜けてケンブリッジの防御を施した地点まで撤退し、イギリス軍が半島全体を支配した[51]

戦いの結果[編集]

イギリス軍が陣地を占領したが、損害も大きかった。226名が戦死し、828名が負傷、合計1,054名の損失になった。しかも損害の中に占める士官の比率が高かった。独立戦争全体でも1つの戦闘で蒙った最大の損失となった[52]。クリントン将軍はピュロスの勝利を想起し、「このような勝利を繰り返していたら、イギリスのアメリカ支配は終わってしまう」と日記に記している[1]。イギリス軍の戦死者と負傷者の中には、100人の士官が含まれており、北アメリカに居たイギリス軍の中でかなりの比率を占めるものだった[53]。ハウの野戦参謀の大半もこの損失に入っていた[54]。ピトケアン少佐が戦死し、ジェームズ・アバークロンビー中佐は致命傷を負った(1週間後に死亡)。ゲイジ将軍は戦闘後の報告書で、士官の損失を次のように報告した[55]

バンカーヒル記念塔
  • 中佐1名戦死
  • 少佐2名戦死、3名負傷
  • 大尉7名戦死、27名負傷
  • 中尉9名戦死、32名負傷
  • 軍曹15名戦死、42名負傷
  • 鼓手1名戦死、12名負傷

大陸軍の損害は約450名、そのうち140名が戦死した。大陸軍の損害の多くは撤退時に発生した。大陸軍の士官クラスでは、アンドリュー・マクラリー少佐が戦死したのが理論上は最高位の者だった。彼はチャールズタウン・ネックで砲弾を受けたのであり、この戦闘で最後の死者になった。彼の功績を記念してメーン州キッテリーにある砦がマクラリー砦と名付けられた[56]。しかし、愛国者側にとって大きな損失はジョッセフ・ウォーレン博士の戦死だった。彼はマサチューセッツ湾植民地会議の議長であり、6月14日に少将に指名されたばかりだった。3日後の6月17日の戦闘時、その任官はまだ有効ではなかったため、志願兵卒として従軍していた[57]。また30名が捕虜となり、その大半が重傷を負っていて、うち20名は戦闘後に死んだ。大陸軍は工作用ショベルなど多くの道具を失い、半島に持って行った大砲は6門のうち5門を失くした[58]

政治的な影響[編集]

この戦闘の報せが植民地中に伝えられたとき、大陸軍は陣地を敵に奪われ、少なからぬ損失を出したので、大陸軍の敗北と伝えられた。大陸軍の新しい指揮官としてボストンに向かっていたジョージ・ワシントンニューヨーク市にいる間に戦闘の報せを受け取った。その報告は幾分不正確な損失数を含むものであり、ワシントンはその軍隊が戦争に勝てるかもしれないという期待を抱かされた[59]

我々は[...]1つの悲しい事実を知った。もしアメリカが我々と同じくらいうまく指揮を執っていれば、兵士は我々と同じくらい優秀である。[60]

— ボストンのイギリス軍士官、バンカーヒルの戦い後に

マサチューセッツ安全委員会はレキシントン・コンコードの戦いに続いて得た勝利宣伝を繰り返したいと考え、戦闘の報告書をイングランドに送らせた。しかしこの報告書の到着は、ゲイジの公式報告書がイングランドに届いた7月20日より遅れた。ゲイジの報告書は案の定トーリーホイッグの間に摩擦と議論を呼んだが、損失の大きさのために軍事的な建て直しの必要性が叫ばれ、多くの者に植民地の軍事力について再考させることになった[61]。国王ジョージ3世の植民地に対する態度は硬化し、大陸会議が提出していた最後の政治的和解の試みである「オリーブの枝請願」を拒否させることになった可能性がある。多数派トーリー党のジェイムズ・アドルファス・ウートン卿は、植民地のダートマス卿に宛てて、「苦痛を味わうのが早ければそれだけ彼らに対する王室の支配が速く生み出されることになる。血を流すことは彼らを止める材料になる。」と書き送った[62]。イギリスの姿勢が硬化したことで、特に南部植民地で以前は弱かった反乱への支持を独立に向けて固まらせることにもなった[62]

ゲイジの報告書は彼自身の経歴にも大きな影響を与えた。その報告書が届いてから3日後にはその解任が決まった。ただし、ハウ将軍がその後継になったのは10月になってからだった[63]。ゲイジがイギリスの内閣に提出した別の報告書は以前の警告を繰り返すものだった。

大きな軍隊もいずれその数を減らしていくものであり、外国人部隊を雇ってはいかがであろうか[64]

分析[編集]

この戦闘の後で、如何にそれが戦われたか多くの論文が執筆されてきた。両軍共に戦いの結果を変えたであろう戦略と戦術の誤りを犯していた。後からの判断は偏見を与えることが多いが、当時の指揮が及ぶ範囲内にあったと合理的に考えられるものが幾つかははっきりしている。

大陸軍の失敗[編集]

大陸軍は全体としてウォード将軍の指揮下にあり、野戦ではパットナム将軍が指揮したが、全く独立して行動することが多かった。このことは戦略的結果を生んだ戦術的判断がなされた戦闘初期の段階に明らかだった。プレスコット大佐とその参謀達はバンカーヒルではなくブリーズヒルの防御を固める決断をしており、これは明らかに命令違反だった[19]。ブリーズヒルの防御を固めることはより挑発的であり、ボストンに近い位置に大砲を置くことに繋がっていた。またプレスコット隊はイギリス軍が上陸しチャールズタウン・ネックを支配することに対し適切に防衛できなかったであろうことから、その部隊は罠に嵌る可能性があった。もしイギリス軍がこのような段階を踏んでいれば、より少ない損失で勝利した可能性があった[65]

バンカーヒル付近の昔の地図、軍事的注釈が施されている

大陸軍の前線がうまく管理された一方で、その後方は特に戦闘が始まった後にかなり乱れており、これは少なくとも指揮系統の繋がりがまずかったためだった。民兵隊のうちわずかな部隊がウォードとパットナムの権威下に行動しただけであり[66]、イギリス軍の第三次攻撃に対して守備側に加わるよりもバンカーヒルに留まることで命令に従わなかった指揮官もあった。幾人かの士官は軍法会議に掛けられ罷免された[67]。プレスコット大佐は、その堡塁が援軍で補強されるか、弾薬が補充されていれば、イギリス軍の第三次攻撃も撃退できたという意見だった[68]

イギリス軍の失敗[編集]

一方イギリス軍の指揮官達はブリーズヒルの工事を認めてからの行動が遅かった。ライブリーが最初に砲火を浴びせてからおよそ10時間経った午後2時に攻撃の準備が整った。この緩りとした反応によって、大陸軍の防御が足りていなかった陣地側面の強化を行う時間を与えてしまった[69]。ゲイジとハウは敵陣地に対する正面攻撃が単純なことだと判断したが、包囲する動き(チャールズタウン・ネックの支配)をしておれば、より完全な勝利を得たことであろう[65]。このような動きについては、大陸軍がケンブリッジの高地からの大砲でチャールズタウン・ネックを守ろうとすることができたので、危険性が無いわけではなかった。しかしイギリス軍の指揮官達は過度に楽観的であり、「植民地軍を破るには2個連隊で十分」と考えていた[70]

"バンカーヒルへの攻撃と燃え上がるチャールズタウン"

ハウは戦場に立つと、堡塁に焦点を当てるのではなく、その左翼に対して2度までも側面攻撃をおこなうことで堡塁に対する攻撃隊を弱める選択をした。側面攻撃が単に陽動行動となったのは第三次攻撃になってからであり[71]、このとき主力が(さらに予備隊で補強されてもいた)堡塁に対して正面から攻撃し、成功した[72]

イギリス軍は半島を制圧した後でケンブリッジを圧迫するだけの戦術的利点があったと言われている。クリントン将軍がこのことをハウに提案したが、ハウは3回の攻撃で大きな損失を出していたのでその考えを却下した[73]。その後ハウは植民地の軍事指導者達からその損失に対して意思決定を躊躇う者と認識されるようになった。ロングアイランドの戦い後にもハウはワシントン軍を手の内に入れてしまえる戦術的利点を持っていたが、このときもそれ以上の行動を拒んだ[74]

「敵の目の白い所」の命令[編集]

名高い命令である「敵の目の白い所が見えるまでは撃つな」は、バンカーヒルに関する逸話で語られることが多い。しかし誰がこの命令を出したかは不明であり、証言者によって[75]パットナムであったり、スタークであったり、プレスコットあるいはグリドリーであったりする。またある者が言って、他の者が繰り返した可能性もある。またこの時に初めて発言されたものでもない。似たような表現は1743年6月27日のデッティンゲンの戦いで発言されており、このときロックノーのアンドリュー・アグニュー中佐がそのロイヤル・スコッツ・フュージリア連隊に「彼らの白目を見る」までは発砲するなと警告した[76]。この表現は1745年にプロイセンのカール皇太子が使い、1755年のフリードリヒ大王が繰り返し、植民地の軍事指導者達が親しんだ歴史の中で言及されてきた可能性があった[77]。この戦闘で実際にこの言葉が言われたかどうかについては、植民地軍事指導者達が、特にその弾薬が限られている状況では、大きな効果を得られるであろう瞬間まで発砲を控えるよう兵士達に常に覚えこませていたのは明らかである[78]

著名な参戦者[編集]

ジョン・トランブルの絵画に拠れば、このニューイングランドの旗が戦闘の間植民地人によって携行されていた。
 
バンカーヒルの旗とも呼ばれるこの旗も戦闘と関連がある。

この戦闘にはかなり多くの著名な人物が参戦していた。例えばヘンリー・ディアボーンウィリアム・ユースティスであり、彼らは軍隊と政治で傑出した経歴を残すことになった。どちらも会議、内閣および外交で地位を得た。その他にジョン・ブルックス[79]、ヘンリー・バーベック[80]、クリスチャン・フェビガー、トマス・ノールトンおよびジョン・スタークは戦争のその後の戦闘で勇名を馳せた。スタークは1777年のベニントンの戦いでの功績で「ベニントンの英雄」として知られた。他にもアフリカ系アメリカ人に関する不確かな記録がある。確かにこの戦闘に参加した者がいるようだが、その正確な数は知られていない。そのうちの一人がサーレム・プアであり、彼はその勇敢さとプレスコットの命を救った行動で顕彰されているが、ピトケアンの死に関わっていたという証言は大いに疑わしいものがある。他にもピーター・サーレム、プリンス・ウィップル、バージライ・ルーなどの名前が残っており、アンドーバー出身の混血児フィリップ・アボットはこの戦闘で戦死した。

他に著名な参戦者としてダニエル・シェイズがいる。彼は後にシェイズの反乱で抗議軍を動かしたことで有名になった[81]。またウィリアム・ステーシーは独立が達成された後でオハイオ領土の開拓の重要な指導者になった[82]。イズラエル・ポッターはハーマン・メルヴィルの小説『イスラエル・ポッター:その追放の50年間』で不朽の名声を与えられている[83][84]

イギリス軍士官の損害[編集]

下記のイギリス軍士官は、バンカーヒルの戦いで戦死するか、その時の傷がもとで後に死亡するか、あるいは負傷し後に快復したと考えられる。このリストは完全なものではなく、イギリス軍士官の損害比率の高さをしめすものである。

  • 中佐 ジェームズ・アバークロンビー(James Abercrombie) - 22nd Foot - 戦死
  • 少尉 バラカイア(Balaquire) - 5th Foot - 負傷
  • 中尉 バード(Bard) - 35th Foot - 戦死
  • 中尉 ブルーレ(Bruere) - 14th Foot (serving as volunteer) - 戦死
  • 大尉 キャンベル(Campbell) - 海兵隊 - 戦死
  • 少尉 チャールトン(Charleton) - 5th Foot - 負傷
  • 中尉 クローカー(Croker) - 5th Foot - 負傷
  • 中尉 ダルリンプル(Dalrymple) - 63rd Foot - 戦死
  • 大尉 デビッドソン(Davidson) - 52nd Foot - 負傷
  • 大尉 パトリック・ダウンズ(Patrick Downs) - 5th Foot - 瀕死の重傷を負いその夜に死亡
  • 中尉 ダットン(Dutton) - 38th Foot - 戦死
  • 大尉 エリス(Ellis) - 海兵隊 - 戦死
  • 中尉 フィーニー(Finnie) - 海兵隊 - 戦死
  • 中尉 ガードナー(Gardner) - 海兵隊 - 戦死
  • 中尉 ゴールド(Gold) - 47th Foot - 戦死
  • 大尉 ジョージ・ハリス(George Harris) - 5th Foot - 負傷(頭を撃たれたが快復。後に将軍となる。また初代ハリス男爵となる。)
  • 中尉 ヒギンズ(Higgins) - 52nd Foot - 戦死
  • 中尉 ヒラード(Hillard) - 47th Foot - 戦死
  • 大尉 ハドソン(Hudson) - 65th Foot - 戦死
  • 大尉 ジョン・ジャクソン(John Jackson) - 5th Foot - 負傷
  • 大尉 マッケンジー(Mackenzi) - 43rd Foot - 戦死
  • 中尉 マクリントック(M’Clintockx) - 5th Foot - 負傷
  • 大尉 フランシス・マーズデン(Francis Marsden) - 5th Foot - 負傷、5年後に死亡, 負傷が原因と思われる
  • 少佐 ジョン・ピトケアン(John Pitcairn) - 海兵隊 - 瀕死の重傷を負いその夜に死亡
  • 中尉 シア(Shea) - 海兵隊 - 戦死
  • 大尉 シャーウィン(Sherwin) - 67th Foot - 戦死 - ハウ将軍の副官
  • 大尉 スミス(Smith) - 52nd Foot - 戦死
  • 少佐 ウィリアムズ(Williams) - 52nd Foot - 戦死

記念[編集]

ジョン・トランブルの絵画『バンカーヒルの戦いでのウォーレン将軍の死』はウォーレンの戦死について理想化され不正確な描写ではあるが、戦闘に参加した多くの者達を描いている。堡塁を襲った中にいたイギリス軍士官ジョン・スモールはイズラエル・パットナムの友人であり、トランブルの知人でもあった。スモールはウォーレンを抱きかかえ、イギリス兵が銃剣で襲うのを防いでいる[85]

ブリーズヒル戦場跡のバンカーヒル記念塔は高さ220フィート(67 m)のオベリスクである。戦闘から50周年にあたる1825年6月17日に記念碑の礎石がラファイエット公爵によって据えられ、ダニエル・ウェブスターが演説を行った[86]。ラファイエットが死んだ時(1834年)、パリのピクパス墓地で妻の隣に埋葬されたが、息子のジョルジュがバンカーヒルの土をその上に撒いた[87]。2003年に完工したレナード・P・ザキム・バンカーヒル記念橋はバンカーヒル記念塔を想起させるように設計された[88]。記念碑の側にはプレスコットの銅像もあり、兵士達を冷静にさせる時の有名なポーズを取っている。

アメリカ合衆国国立公園局が記念碑に近くこの戦闘に捧げられた博物館を運営しており、ボストン国立歴史公園の一部にもなっている[89]。2007年に博物館が改修されたときに、戦闘のサイクロラマ(円周上の壁画)が追加された[90]

毎年6月17日に祝われるバンカーヒルの日はマサチューセッツ州サフォーク郡(ボストン市を含む)、およびミドルセックス郡サマビルの法定休日である。サマビルのプロスペクツヒルはチャールズタウン・ネックを見下ろす植民地時代の砦があった所であり、以前はチャールズタウンの一部だった[91][92]。ボストン市内にあるマサチューセッツ州の高等教育公立機関など州立の施設もこの祝日を祝っている[93][94]。2010年時点で州議会はバンカーヒルの日と解放記念日を削除する議論を行っている[95]

1875年6月16日と17日、戦闘から100周年が祝われ、軍隊のパレードとレセプションがあった。この時の著名な発言者にはウィリアム・シャーマン将軍やヘンリー・ウィルソン副大統領がいた。国中から多くの高官も出席した[96]。1925年の150周年、1975年の200周年も記念行事があった[97][98]

脚注[編集]

  1. ^ a b Clinton, p. 19. クリントン将軍の表現はヘラクレアの戦い後にピュロスの勝利の当初の感想「このような勝利をもう一度得たら、戦いの大義が失われる」を写したものである。
  2. ^ Chidsey p. 122では夜間の防御工作時に1,400名がいたとしている。Frothinghamは戦闘が始まる前にどのくらい援軍が到着したか不明であるとしている。p. 136とp. 190の脚注では、正確な数字を得る難しさを述べている。
  3. ^ Chidsey p. 90によると、最初に要求された勢力は1,550名だったが、ハウが戦闘開始前に援軍を要求し補強された。Frothingham p. 137では、イギリス軍全軍は3,000名以上の可能性が強いとしている。さらに Frothingham p. 148では、第二次攻撃が撃退された後にボストンからのさらなる援軍が到着したとしている。Frothingham, p. 191では、イギリス軍の正確な勢力を出すのは難しいと述べている。
  4. ^ Chidsey, p. 104
  5. ^ Frothingham pp. 191, 194.
  6. ^ 18世紀のボストン市は半島だった。主に19世紀の間に半島を取り巻く土地が埋め立てられ、現在の地形になった。ボストンの歴史を参照。
  7. ^ Chidsey, p. 72 New Hampshire 1,200, Rhode Island 1,000, Connecticut 2,300, Massachusetts 11,500
  8. ^ Alden, p. 178
  9. ^ Chidsey p. 91 has an historic map showing elevations.
  10. ^ French, p. 220
  11. ^ French, p. 249
  12. ^ Brooks, p. 119
  13. ^ Ketchum, pp. 45-46
  14. ^ Ketchum, p. 47
  15. ^ Ketchum, pp. 74-75
  16. ^ French, p. 255
  17. ^ Frothingham, pp. 122?123
  18. ^ Ketchum, pp. 102, 245
  19. ^ a b Frothingham, pp. 123-124
  20. ^ Frothingham, p. 135
  21. ^ a b Ketchum, p. 115
  22. ^ Frothingham, p. 125
  23. ^ Brooks, p. 127
  24. ^ Ketchum, p. 117
  25. ^ Ketchum, pp. 120-121
  26. ^ Ketchum, p. 122
  27. ^ a b Graydon, p. 424
  28. ^ Chidsey, p. 84
  29. ^ a b c Frothingham, p. 133
  30. ^ a b Ketchum, p. 139
  31. ^ a b Ketchum, p 143
  32. ^ Chidsey p. 93
  33. ^ Chidsey p. 96
  34. ^ Frothingham, p. 136
  35. ^ a b Ketchum, p. 147
  36. ^ Ketchum, pp. 152-153
  37. ^ Frothingham, pp. 144-145
  38. ^ Ketchum, p. 160
  39. ^ Ketchum, p. 152
  40. ^ Frothingham, pp. 141?142
  41. ^ Ketchum, p. 161
  42. ^ Ketchum, p. 162
  43. ^ Frothingham, p. 146
  44. ^ Ketchum, p. 163
  45. ^ Ketchum, p. 164
  46. ^ Ketchum, pp. 165-166
  47. ^ Chidsey p. 99
  48. ^ Frothingham, p. 150
  49. ^ Frothingham, p. 151
  50. ^ a b Ketchum, p. 181
  51. ^ Frothingham, pp. 151-152
  52. ^ Brooks, p. 237
  53. ^ Brooks, pp. 183-184
  54. ^ Frothingham, pp. 145, 196
  55. ^ Frothingham, pp. 387-389 lists the officer casualties by name, as well as this summary
  56. ^ Bardwell, p. 76
  57. ^ Ketchum, p. 150
  58. ^ Ketchum, p. 255
  59. ^ Ketchum, pp. 207-208
  60. ^ Ketchum, p. 209
  61. ^ Ketchum, pp. 208-209
  62. ^ a b Ketchum, p. 211
  63. ^ Ketchum, p. 213
  64. ^ Scheer, p. 64
  65. ^ a b Frothingham, p. 155
  66. ^ Frothingham, pp. 158-159
  67. ^ French, pp. 274-276
  68. ^ Frothingham, p. 153
  69. ^ French, pp. 263-265
  70. ^ Frothingham, p. 156
  71. ^ French, p. 277
  72. ^ Frothingham, p. 148
  73. ^ Frothingham pp. 152-153
  74. ^ Jackson, p. 20
  75. ^ Lewis, John E., ed. The Mammoth Book of How it Happened. London: Robinson, 1998. Print. P. 179
  76. ^ Anderson, p. 679
  77. ^ Winsor, p. 85
  78. ^ French, pp. 269-270
  79. ^ Ketchum, pp. 132, 165
  80. ^ Abbatt, p. 252
  81. ^ Richards, p. 95
  82. ^ Frothingham, p. 183
  83. ^ Ketchum, p. 257
  84. ^ Melville
  85. ^ Bunce, p. 336
  86. ^ Hayward, p. 322
  87. ^ Clary
  88. ^ MTA Bridges
  89. ^ Bunker Hill Museum
  90. ^ McKenna
  91. ^ MA List of legal holidays
  92. ^ Somerville Environmental Services Guide
  93. ^ University of Massachusetts, Boston, observed holidays
  94. ^ Bunker Hill Day closings
  95. ^ Beacon Hill Roll Call”. 2010年3月15日閲覧。
  96. ^ See the Centennial Book for a complete description of the events.
  97. ^ Sesquicentennial celebration
  98. ^ New York Times, June 15, 1975

関連項目[編集]

参考文献[編集]

主要史料[編集]

補助史料[編集]

戦闘の記念[編集]

その他の参考図書[編集]

外部リンク[編集]

戦闘に関するサイト[編集]

戦闘参加者に関するサイト[編集]

その他のサイト[編集]