ジョン・ハンコック

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ジョン・ハンコック
John Hancock
JohnHancockSmall.jpg
生年月日 (1737-01-23) 1737年1月23日
出生地 マサチューセッツ湾直轄植民地、ブレインツリー
没年月日 (1793-10-08) 1793年10月8日(満56歳没)
死没地 マサチューセッツ州ボストン
ハンコック・マナー
配偶者 ドロシー・クィンシー
サイン JohnHancocksSignature.svg

在任期間 1774年 - 1775年

在任期間 1775年5月24日 - 1777年10月31日

初代マサチューセッツ州知事
在任期間 1780年10月25日 - 1785年1月29日

第3代マサチューセッツ州知事
在任期間 1787年5月30日 - 1793年10月8日
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ジョン・ハンコック英語: John Hancock1736年1月12日ユリウス暦) - 1793年10月8日グレゴリオ暦))は、アメリカ合衆国政治家である。第二次大陸会議および連合会議の議長を務め、マサチューセッツ州の初代知事となった。アメリカ独立宣言に最初に署名した人物である。

生い立ち[編集]

マサチューセッツのブレインツリー(現在はクィンシー市となった町の一角)で生まれた。父親はハンコックが幼い時に亡くなったので、ニューイングランドで非常に成功していた商人で父方の叔父トマス・ハンコックに育てられた。ボストン・ラテン学校を卒業すると、ハンコックはハーバード大学に進み1754年17歳の時に経営学の学位を受けた。卒業後は叔父のところで働いた。1760年から1764年まで、ハンコックはイギリスに渡り、叔父の造船業の顧客や納入業者との関係を作り上げた。ハンコックがイギリスから戻った直後に叔父が死に、ハンコックは叔父の遺産と事業を引き継ぐことになり、当時のニューイングランドで最も富裕な者となった。

ハンコックはドロシー・クィンシーと結婚した(ドロシーの叔母は作家オリバー・ウェンデル・ホームズの曾祖母である)。

ジョン・ハンコックとドロシーの夫妻には子供が二人できたが、どちらも早世した。[1]

独立戦争以前[編集]

ボストンの都市行政委員とマサチューセッツ議会議員となったハンコックは、植民地の交易を制限することになる印紙法が彼の事業にも脅威となったので、法の施行に抗議することになった。

印紙法は撤廃されたが、他にもタウンゼント諸法などいくつかの法が日用品にまでの課税を義務づけることになった。その結果ハンコックの海運事業が難しくなってきたので、ガラスや鉛、紙、紅茶の密貿易を始めた。1768年、ハンコックの所有するスループリバティがイギリスから戻ってきたとき、所得法違反の廉でイギリス税関の役人に取り押さえられた。これが原因で積荷を期待していたボストン市民が激高し暴動になった。

ハンコックの通常商業貿易と密貿易の収入がイギリス当局に対する地域の反抗を金の面で支えていたので、ボストンの人々は「サミュエル・アダムズが文書を(新聞に)ポストし、ジョン・ハンコックがその配達料金を支払う」[1]というジョークを作った。

アメリカ独立戦争[編集]

アメリカ合衆国独立宣言の署名。起草した5人が提出しているところ。この絵は現在の2ドル札の裏に使われている。[2]
アメリカ独立宣言に記されたジョン・ハンコックの 署名

ハンコックは当初、拡大する反抗の財政的援助者であったが、後にイギリス支配に対する公的な批判者となった。1774年3月5日ボストン虐殺事件から4年が経った日に、ハンコックはイギリスを激しく非難する演説を行った。同じ年にハンコックはマサチューセッツ植民地議会の議長に満場一致で選ばれ、その中の安全委員会も主宰した。ハンコックのもとでマサチューセッツ民兵が組織できるようになり、東インド会社によって輸入される紅茶のボイコットが結果的にボストン茶会事件につながった。

1775年4月、イギリス軍の意図が見えてきたので、ハンコックとサミュエル・アダムズはイギリス軍の逮捕から逃れるためにボストンを抜け出し、レキシントンのハンコック=クラーク・ハウスに滞在していた。夜中にポール・リビアが二人を起こしにきて、イギリス軍が夜明けに到着することを告げた。レキシントン・コンコードの戦いが起こった。このとき、イギリスの総督トマス・ゲイジ将軍はハンコックとアダムズを反逆罪で逮捕するように命じていた。戦闘の後で、ゲイジはイギリス王室に対する忠誠を表明する者には恩赦を下す旨宣言したが、ハンコックとアダムズだけは例外であった。

1775年5月24日、ハンコックは第二次大陸会議で、ペイトン・ランドルフの後を受けて第3代議長に選ばれた。ハンコックは1777年10月30日までその職にあり、ヘンリー・ローレンスに引き継いだ。

ハンコックが議長になって1ヶ月足らずの6月19日ジョージ・ワシントン大陸軍の総司令官に任命した。1年後、ハンコックはワシントンに、独立を求める7月4日決議とアメリカ独立宣言の写しを送った。

ハンコックは7月4日に独立宣言に署名した唯一の人である。他の55名の代議員は8月2日に署名した。ハンコックはワシントンに大陸軍の兵士の前で独立宣言を読み上げるよう依頼した。一般に伝えられる話では、ハンコックはイギリス王ジョージ3世が眼鏡を掛けずに読めるように大きくはっきりと署名した。このことでハンコックの名前は合衆国の中で署名の代名詞になった。しかし、他の文書をあたると、ハンコックはいつもこれと同じやり方で署名している。

1780年から1785年まで、ハンコックはマサチューセッツ州知事を務めた。ハンコックの演説者および議長としての技量は多くの賞賛を呼んだ。アメリカ独立戦争中はハンコックの資金を集めて軍隊に物資を供給する能力が一番求められた。ハンコックの商業貿易の腕をもってしても、飢えた軍隊に牛肉用牛を送りたいという大陸会議の要求には悩まされた。1781年1月19日、ワシントンがハンコックにあてて警告書を送った。

多くの物資を繰り返し申請して貴殿を煩わせるべきではないと思うが、この川のこの基地での安全と、軍隊の存続そのもののより小さな目標はステーキである。昨日届いたヒース少将の手紙を抜粋して同封するが、我々の現況と将来の見通しがお解りになると思う。それ故に貴殿の州からの議会要求になる牛肉用牛の供給が通常軍隊のためではないというのならば、ウエストポイントの守備兵を養っていくこと、あるいは戦場でのたった一つの連隊を続けていくことも私では責任をとれないと考えています。[3]

ハンコックは1785年11月30日から約半年間、連合会議の議長を務めた後、1787年5月からマサチューセッツ州知事に復帰した。ハンコックは1793年10月8日、現職の知事のまま病に倒れ不帰の人となった。

雑記[編集]

ジョン・ハンコック

1772年、「様々な主題による詩、宗教と道徳」(Poems on Various Subjects, Religious and Moral)が出版された。アフリカ系アメリカ人のフィリス・ホィートリーがその著者であったが、黒人女性はそのような作品を生み出す知力を持っているはずがないという一般の主張に論駁するために証明書に署名した者の一人がジョン・ハンコックであった。1773年にこの本がロンドンのアルトゲイトで展示(ボストンの出版社からは断られた)され、公に出版されたアフリカ系アメリカ人の最初の本となった。

ハンコックはフリーメーソンであった。 マサチューセッツ植民地知事としてハンコックは、ボストンの黒人軍隊「バックス・オブ・アメリカ」に軍隊旗を送った。

また、独立宣言書 (the Declaration of Independence) に署名されたサインの中では、ジョン・ハンコックのサインが一番大きかったため、アメリカでは「ジョン・ハンコック」が「サイン」の代名詞として用いられることもある。 ex) The president had to put his John Hancock to the nondisclosure contract in order to get more technical specifications. (技術仕様書がもっと欲しいので、社長は機密保持契約にサインしなければならなかった。) 

などのように使われる。

ハンコックにちなむもの[編集]

多くの地名や事物がハンコックの名前にちなんで名付けられた。

脚注[編集]

  1. ^ Fradin & McCurdy, 2002
  2. ^ http://www.americanrevolution.org/deckey.html
  3. ^ United States Library of Congress, 1781.

参考文献[編集]

  • Fradin, Dennis Brindell & McCurdy, Michael (2002). The Signers: The 56 Stories behind the Declaration of Independence. Walker & Company. ISBN 0-8027-8850-5.
  • United States Library of Congress (1781). George Washington Papers. Online: [2].
  • United States Library of Congress. U.S. Library of Congress Today in History: January 12. Retrieved January 18, 2003. Most of the initial text of this article was copied from this public domain source.
  • At The Drive-In - Initiation from 1996 album Acrobatic Tenement refers to Hancock in the first verse. 'John Hancock with the safety off after every show'.

外部リンク[編集]

公職
先代:
空席
マサチューセッツ湾直轄植民地議会議長
1774年 - 1775年
次代:
ジョセフ・ウォーレン
先代:
ペイトン・ランドルフ
大陸会議議長
1775年5月24日 - 1777年10月31日
次代:
ヘンリー・ローレンス
先代:
ウィリアム・ハウ
マサチューセッツ湾植民地総督)
マサチューセッツ州知事
1780年10月25日 - 1785年1月29日
次代:
トマス・クッシング
(代行)
先代:
リチャード・ヘンリー・リー
連合会議議長
1785年11月23日 - 1786年, 5月29日
次代:
ナサニエル・ゴーラム
先代:
ジェイムズ・ボーディン
マサチューセッツ州知事
1787年5月30日 - 1793年10月8日
次代:
サミュエル・アダムズ