ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー

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ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー
Jean Victor Marie Moreau
1763年2月14日 - 1813年9月2日
Jean-Victor Moreau.jpg
生誕 Royal Standard of the King of France.svg フランス王国モルレー
死没 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ラウン英語版
軍歴 1791年 - 1800年(仏)
1812年 - 1813年(露)
最終階級 師団将軍(仏)
元帥待遇(露)
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ジャン・ヴィクトル・マリー・モローフランス語: Jean Victor Marie Moreau, 1763年2月14日 - 1813年9月2日)は、フランス革命戦争ナポレオン戦争期の軍人ナポレオンのライバルのような存在だった。

生い立ち[編集]

モローはブルターニュ地方のモルレーに生まれた。父は著名な弁護士であり、軍人を志すモローに反対し、彼をレンヌ大学に入れて法律を学ばせた。モローは学業に身を入れず自由気ままな学生生活を謳歌し、その中で若者達の人望を集めリーダーシップを発揮するようになっていた。1789年にフランス革命が始まるとモローは学内で義勇兵部隊を結成し、庶民層の若者を率いて王党派貴族層と争いを繰り広げた。

軍人としてのキャリア[編集]

モロー義勇兵中佐
1792年 仏イル=エ=ヴィレーヌ県

1791年、若者達のリーダーとして郷里で知られる存在となっていたモローは、イル=エ=ヴィレーヌ県の義勇兵指揮官に選ばれ中佐となりデュムーリエ将軍の陣営に入った。モローは戦場で優れた統率力と軍事能力を発揮し、また模範的な共和主義者である事も買われて1793年に旅団長に昇進する。1794年にはラザール・カルノーの信任を得て師団長に抜擢され、ピシュグリュ将軍率いるフランダース方面軍の右翼隊の指揮権を委ねられた。

ジャン・ヴィクトル・モロー将軍
François Gérard

1794年のトゥールコワンの戦いでモローは名声を高め、続く1795年にライン方面軍の司令官に任命された。ライン川を越えて神聖ローマ領内に軍を進めたモローは数々の勝利を上げてイザール川にまで到達するが、最終的にはカール大公の軍勢の前に撤退を余儀なくされた。しかしモローは5000人の戦争捕虜を連れながら自軍を無事撤収させるという見事な退却戦を成し遂げて更に名声を高める事になった。

1797年、武器食糧の窮乏に耐えた後にモローは軍を率いて再びライン川を越えた。しかしモローの進撃はナポレオンとオーストリア軍の間で締結されたレオーベン条約によって制止された。その後、モローは友人であり上司でもあったピシュグリュ将軍とフランス革命で亡命したコンデ公が共謀関係にある事を知るが、ピシュグリュを守る立場を決めてその事実を隠匿した。これは友人ゆえの安直な判断だったと考えられている。だがその結果、ピシュグリュと王党派の関係が発覚すると、同時にモローも政府から一部共犯の嫌疑をかけられてパリに送還され軍籍を剥奪されてしまった。

1799年、ナポレオンがエジプト遠征で不在中に第二次対仏大同盟が結成され戦局が悪化すると、モローは以前の手腕を買われて一時的に軍籍復帰となりロシア軍の侵攻で苦戦していたイタリア戦線に配属され後任のジュベールが到着するまで司令官となった。モローは期待通り幾つかの勝利を上げた。指揮権を受け取ったジュベールがモローに協力を求めた為に、モローはそのままイタリア戦線に留まり共に軍を率いてロシア軍と戦った。しかしジュベールがノヴィの戦いで戦死したため司令官に戻り味方の混乱を収めてジェノヴァまで無事退却させた。そこでモローの役目は終わり、新たな後任者に指揮権を渡してライン方面軍に転属された。その後パリに戻されたモローは混迷する総裁政府に失望し、ブリュメールのクーデターが起きるとシェイエスとナポレオンを支持した。

ホーエンリンデンの戦いのモロー

1799年11月、統領政府が樹立されるとナポレオンによってモローは正式に軍籍復帰し、ライン方面軍司令官に改めて任命された。モローはすぐさまライン戦線を立て直しオーストリア軍をイザール川まで押し戻した。パリに凱旋したモローは19歳の女性ウジェニー・ユロと結婚した。ナポレオンの妻ジョゼフィーヌの友人でもあるウジェニーは野心的な女性であり、モローの配偶者となった事で社会の表舞台に出る足がかりを得た。新婚生活後、モローは再びドイツの戦場で指揮を取り、1800年12月3日のホーエンリンデンの戦いでオーストリア軍を撃破し栄光に包まれた。これはナポレオン・ボナパルトマレンゴの戦いと並ぶ輝かしい勝利であり、オーストリアにリュネヴィルの和約を結ばせ第二次対仏大同盟を解体させた。モローは一躍国民的英雄になった。

ナポレオンとの確執[編集]

モローの名声を背景に妻ウジェニーは積極的に社交界で立ち回り、ナポレオンの専横に不満を持つ者を集めて一つの政冶サロンを作り上げていた。この「クラブ・モロー」をナポレオンは強く警戒した。モローもナポレオンの独裁に不服を唱えており本来の共和政冶を取り戻したいと考えていたが、王党派との連携までは望んでいなかったとされる。

1804年、王党派による統領政府転覆計画が進む中で1月にイギリスから帰国した王党派のピシュグリュとモローは旧友として一度面会していたが、それ以上にモローの関与を示す明確な証拠は無かった。しかし結果的にクラブ・モローの存在は王党派を勢い付けており、また王党派を支援するイギリスの陰謀も明るみに出ると、ナポレオンはクラブ・モローの摘発に踏み切り参加者たちを逮捕した。ナポレオンの圧力で開始された裁判の中でモローと妻ウジェニーは国外追放を宣告され、スペインの港からアメリカに渡った。

アメリカ亡命[編集]

ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー

1805年8月、モローと妻ウジェニーはニューヨークに到着しアメリカ市民から歓迎された。モローは数々の役職の申し出を断ってアメリカ大陸の旅行を続け、1806年にペンシルベニアに住居を構える。政冶亡命者の永住権を得た後は、趣味の狩猟と釣り、社交界での交遊で悠々自適な日々を過ごした。

1812年に米英戦争が始まるとモローは時のマディソン大統領から司令官になるよう求められ一度は承諾するが、ロシア遠征でフランス軍が壊滅的敗北を喫したニュースが舞い込むと、妻ウジェニーに諭された事もあって打倒ナポレオンを胸中に秘めて再びヨーロッパに戻る決意をした。

ナポレオンとの対決[編集]

1813年、ヨーロッパに帰還したモローはまず共和制時代の同僚であり旧友、スウェーデン皇太子カール・ヨハンとなっていたベルナドットと再会した。折りしも第六次対仏大同盟が結成され、ナポレオン包囲網を敷くスウェーデン、ロシア、プロイセン、オーストリア諸国の会合に参加したモローは、祖国に共和政治を取り戻したい熱意とナポレオンへの対抗意欲を示し、フランス軍の戦い方を熟知してる立場から協力を申し出た。ロシア皇帝アレクサンドル1世がそれに応じ、モローをロシア軍の司令官として迎え入れた。モローは参謀のジョミニと共に同盟軍の作戦に大きく貢献した。

同年8月27日、ドイツ東部のドレスデンで大規模な戦闘が始まり(ドレスデンの戦い)オーストリア、プロイセン、ロシア同盟軍がナポレオンと激突した。フランス軍優勢で戦いが進む中で、望遠鏡で戦場を見渡していたナポレオンはロシア軍の陣地にモローの姿を見つけるとそこに砲撃を集中させた。モローは致命傷を負い後方へ運ばれ、9月2日にチェコのローニィで息を引き取った。

モローの喪失は同盟軍の大きな痛手となった。ロシア皇帝アレクサンドル1世はモローの死を悲しみ、オーストリア外相メッテルニヒはその穴埋めと同盟軍陣営の立て直しに苦心したという。モローはサンクトペテルブルグ市のカトリック聖カタリナ教会に埋葬され、妻ウジェニーはロシア皇帝から年金を下賜された。ボナパルティスト達はモローをピシュグリュデュムーリエと同類の祖国の背信者であると誹謗した。フランス王政復古後、ルイ18世はモローにフランス元帥の地位を授与した。

最後の言葉[編集]

モロー将軍の死
Auguste Couder

モローは帝政時代にナポレオンの権力の傘から離れても非常な高名を維持した唯一のフランス軍人だった。彼は卓越した軍事的才能を持ち、いかなる困難の中でも冷静であり慎重でいた。彼が退却戦の名手で在り得たのはその不動の精神力ゆえだった。若い頃のナポレオンはモローをライバル視すると同時に彼の慎重な性格を特に意識していたようで、エジプト遠征の戦いで背水の陣を敷いた際に、副官から予備兵を残す慎重策を進言されると「俺はモロー将軍ではない」と答えたという。ブリュメールのクーデターの首謀者であるシェイエスは、ナポレオンよりもまずモローを頼りにして実力行使の役目を依頼したが、慎重な性格のモローはそれを断っている。共和主義に忠実なモローが承諾していたらフランスの革命史は大きく変わっていただろう。モローの父は恐怖政治の中でギロチンにかけられていたが、モローはその悲しみを乗り越えて真摯な共和主義者であり続けた。だが一方で王党派に組していたと見られる側面もあり諸説分かれている。

モローの最後の言葉は「(Soyez tranquilles, messieurs; c'est mon sort,) 穏やかであれ、紳士であれ、これが私の運命だ、」であった。彼は祖国に武器を向ける事になったが、それは共和政冶の理想を求めての結果であり、汚名がすすがれる事を信じて悔いを残していなかったとされる。

外部リンク[編集]