ヤング案

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オーウェン・D・ヤング

ヤング案(ヤングあん、Young Plan)は、第一次世界大戦の賠償を緩和する新たな賠償方式で、1924年成立のドーズ案によるドイツの負担をさらに緩和した。1929年2月11日にパリで最初のヤング委員会が行われた。ゼネラル・エレクトリック会長オーウェン・D・ヤングを委員長とするこの委員会には森賢吾トーマス・ラモントがそれぞれ日米の代表として参加した。詰めの交渉は1929年8月と1930年1月にハーグで行われた。後者の会議でオーストリアの賠償責任が免除された。ヤング案は1930年5月17日に発効し、1929年9月1日に遡及して適用された。

内容[編集]

ドーズ案で一旦賠償総額は白紙とされていたが、ヤング案においては賠償の残額を358億1400万ライヒスマルクと定めた。ドイツは1988年までの59年間、年賦の形で支払う。毎年ドイツは、利子とドーズ債の元本支払を含めた平均20億5千万ライヒスマルク相当を外貨によって支払う。1930年は17億ライヒスマルクで、その後21億ライヒスマルクとなり、1966年以降は16.5億ライヒスマルクとなる。実際の支払は遅滞した(#その後)。

日本は賠償支払を受ける国の一つであり、ベルギーを舞台にしたスパ会議(1920年7月)の決定により賠償支払のうち0.75%を受け取っていた。ヤング案においても初年度には1250万ライヒスマルクの支払を受ける権利を持っていたが、サンフランシスコ平和条約第8条C項により対独賠償請求を放棄している。なお、スパ会議で決まった各国の分配率は、フランス52%、イギリス22%、イタリア10%、ベルギー8%、ユーゴスラビア5%であった。

賠償の分配機関として国際決済銀行を創設しており、日本銀行は賠償債権国であることを理由に株主と認められた。しかし、このことが後の金解禁へ向けた見えない圧力となった。出資金は日本興業銀行をはじめとして、三井・三菱・安田・住友という旧財閥系の銀行をふくむ14行がほぼ均等に国債を引受けることで調達された。

その後[編集]

世界恐慌の影響で列強が重商主義に傾く中、ヤング案はドイツを除く当事者各国の協調により堅持された。

フランスは特に反対しなかった。代わりにパウル・ファン・ゼーラントを介してアメリカへ接近していった。

ドイツ国内ではアルフレート・フーゲンベルク率いる国家人民党鉄兜団や全国農村連盟、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)などは、ヤング案は「ドイツ国民奴隷化法」だと反発して反ヤング案闘争を開始した。しかしドイツは合衆国資本で支配されていた。国民投票が行われた結果、94.5%の圧倒的多数の賛成によりヤング案は批准された。

1932年スイスローザンヌで行われたローザンヌ会議において、賠償金はさらに今後30億金マルクに減額された。しかし翌年、ナチスによって支払いは一方的に拒否された。その後、アメリカへの戦債は解消しないままであった。

戦後補償を完了するのはドイツ再統一後に利子の支払いを再開してからで、アメリカへの債務は2010年10月3日にようやく終わった。しかし他国への債務はまだ2020年まで残っている。

外部リンク[編集]