オスマン債務管理局

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オスマン債務管理局(オスマンさいむかんりきょく、トルコ語:Düyun-u Umumiye-i Osmaniye Varidat-ı Muhassasa İdaresiOttoman Public Debt AdministrationOPDA)は、オスマン帝国の対外債務返済を促す機関。1881年、ムハッレム勅令 (1299 AH) でイスタンブールに設立された。旧帝領北アフリカの分割に連動し、また利用された。1923年ローザンヌ条約で廃止された。

背景[編集]

ヴュルテンベルクユリウス・フリードリヒがやってきてから、帝国は三十年戦争で新教徒側を支援した。欧州で東インド会社が林立し、カピチュレーションが営業の自由を与えた。17世紀末から18世紀にかけて軍事的衰退が表面化した(詳細)。18世紀末からロシア南下する犠牲となった。そこでムハンマド・アリーが全面的西洋化政策タンジマートに着手した[1]。もともとイスタンブールから内情がもれていたのに、改革は列強へさらなる情報を提供した。19世紀前半のギリシャ独立戦争エジプト・トルコ戦争で敗れ、フランスアルジェリア侵略を許した。旧領からの引揚者に加え、タンジマートが肥大化させた官僚機構と軍隊も養う必要がでた[2]イスマーイール・パシャは外資を頼みに、スエズ運河を一例とする莫大な数の公共事業を実施した[3]。1874年に払った外債利子は歳入の約55%にも達していた[4]。1875年10月、帝国機関のSublime Porteが外債利子の支払い不能を宣言した[4][5]。翌11月イスマーイールはスエズ運河会社の政府持分17万6602株を英国政府に売却したが、財政に対する海外投資家を不安にさせたのでステファン・ケイヴ率いる調査団を受け入れる羽目になった[3]。1876年4月3日、財政破綻しているという調査結果が英国政府から公表された[3]。そこへクリミア戦争露土戦争が起こり、ベルリンで講和するついでに列強が帝国の財政再建を協議したのだった[2]。1878年「エジプト財政高等調査委員会」が設立された。同委員会のリバース・ウィルソン(Charles Rivers Wilson)とエルネスト・ガブリエル・ド・ブリニエール(Ernest de Blignières)が、属州エジプトでそれぞれ財務大臣と公共事業大臣へ就任し、欧州勢に法外な給与を与え、リバースの統治制度改革に反対したイスマーイールを1879年6月26日債権国の圧力で廃位し、ウラービー革命を引き起こした[3]

概要[編集]

1881年、5000人以上のスタッフを抱えるオスマン債務管理局が勅令で設置された。その委員会はジョージ・ゴッシェンが枠組みをつくった。債権国であるイギリス・フランス・ドイツイタリアオランダオーストリアと、カモンド家の後釜オスマン銀行のそれぞれから代表者を1名ずつ選び、7人で組織した[2]。イギリスの代表は初代コネマラ男爵、オーストリアはBaron Mayr、オスマン銀行はRobert Hamilton Langであった[6]。フランスは同年チュニジアを侵攻していた。オスマン帝国は、特定地域の絹取引に課される十分の一税、帝国全域の塩・たばこ専売収益、イスタンブール漁場税、そして印紙税・酒税を返済の財源として指定、十年間という約束で債務管理局へ納めさせた[4]。同管理局はエジプト歳入の6割以上を返済にあてた[3]。1882年、アレクサンドリア砲撃によりエジプトがイギリスの保護国となった。イスタンブール大使のダファリン侯爵がエジプトの現状を報告、1883年イヴリン・ベアリングが総領事となった[3]。1883年、同管理局がオスマンたばこ公社(2008年からブリティッシュ・アメリカン・タバコ)を設立し、たばこ生産を独占させた[4]。1880年代中ごろから同管理局がフランスとイタリアから免疫のある蚕の卵を輸入した。また、1886年から帝国は外債を再び発行するようになった。それを引受ける代わりに、オスマン銀行・ドイツ銀行ロスチャイルドなどが帝国へ資本を輸出した[2]。オスマン債務管理局を足場に、鉄道・鉱山・船舶・電気・ガス・水道等の公共事業投資が展開された。エジプト財政は1891年に黒字となり、1898年にアーネスト・カッセルNational Bank of Egypt を創立、イングランド銀行の監督のもと運営し、エジプトは1902年にアスワン・ロウ・ダムを完成させた[3]。1902-1903年の間に帝国のたばこ生産規模が倍化した。また、20世紀初頭に帝国の養蚕業は桑畑が広がる本格的なものとなっていた。マケドニアトラキアモノカルチャーとなった[4]。この土地投機による産業構造は1907年恐慌で破滅した。

脚注[編集]

  1. ^ 山口2010 第1部第2章。理工学に力点がおかれた。エジプト綿鉱業は戦争需要にもかかわらずランカシャーと貿易摩擦をひきおこした。孫の代にモノカルチャー化し、工業化を妨げた。
  2. ^ a b c d 永田2002
  3. ^ a b c d e f g 山口2010
  4. ^ a b c d e Angelos A. Chotzidis
  5. ^ タイムズ 1875年10月5日
  6. ^ インターネット・アーカイブ

参考文献[編集]

  • 山口直彦『アラブ経済史 1810年-2009年』(明石書店、2010年、第1部第3章)
  • 永田雄三、他『西アジア史Ⅱ』(山川出版社、2002年、308-309頁)
  • 永田雄三、他『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1992年)

外部リンク[編集]