オスマン債務管理局

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オスマン債務管理局(オスマンさいむかんりきょく、トルコ語:Düyun-u Umumiye-i Osmaniye Varidat-ı Muhassasa İdaresiOttoman Public Debt AdministrationOPDA)は、オスマン帝国の対外債務返済を促す機関。1881年、ムハッレム勅令 (1299 AH) でイスタンブールに設立された。旧帝領北アフリカの分割に連動し、また利用された。1893年オスマン債務管理局は、この記事に登場するオスマン銀行(Ottoman Bank)の金融グループおよびオスマンたばこ公社(2008年からブリティッシュ・アメリカン・タバコ)を交え、三者合弁のトルコ一般保険会社(Osmanli Umum Sigorta Kumpanyasi)を設立し、トルコの保険を一気に国際化した[1]。その証拠に、トルコ一般保険会社の再保険者はイギリスのロンドン保険会社とフランスのリュニオン(Réunion des organismes d'assurance mutuelle)とイタリアのゼネラリ保険だった[1]。1923年、オスマン債務管理局はローザンヌ条約で廃止された。

背景[編集]

ヴュルテンベルクユリウス・フリードリヒがやってきてから、帝国は三十年戦争で新教徒側を支援した。欧州で東インド会社が林立し、カピチュレーションが営業の自由を与えた。17世紀末から18世紀にかけて軍事的衰退が表面化した(詳細)。18世紀末からロシア南下する犠牲となった。そこでムハンマド・アリーが全面的西洋化政策タンジマートに着手した[2]。もともとイスタンブールから内情がもれていたのに、改革は列強へさらなる情報を提供した。19世紀前半のギリシャ独立戦争エジプト・トルコ戦争で敗れ、フランスアルジェリア侵略を許した。旧領からの引揚者に加え、帝国はタンジマートが肥大化させた官僚機構と軍隊も養う必要がでた[3]。1855年オスマン銀行がイギリス個人商会(Stephen Sleigh and Peter Pasquali)に設立された[4]。これは1863年にオタンゲル(ユグノーから出た200家族の代表格)、パリ割引銀行(1889年から後段の国民割引銀行)、そしてクレディ・モビリエ(ロチルド・フレールのライバル投資銀行)が参加し中央銀行に改組され、帝国の財政を担当するようになった[5]イスマーイール・パシャは外資を頼みに、スエズ運河を一例とする莫大な数の公共事業を実施した[6]。1874年に払った外債利子は歳入の約55%にも達していた[7]。1875年10月、帝国機関のSublime Porteが外債利子の支払い不能を宣言した[7][8]。翌11月イスマーイールはスエズ運河会社の政府持分17万6602株を英国政府に売却したが、財政に対する海外投資家を不安にさせたのでステファン・ケイヴ率いる調査団を受け入れる羽目になった[6]。1876年4月3日、財政破綻しているという調査結果が英国政府から公表された[6]。そこへクリミア戦争露土戦争が起こり、ベルリンで講和するついでに列強が帝国の財政再建を協議したのだった[3]。1878年「エジプト財政高等調査委員会」が設立された。同委員会のリバース・ウィルソン(Charles Rivers Wilson)とエルネスト・ガブリエル・ド・ブリニエール(Ernest de Blignières)が、属州エジプトでそれぞれ財務大臣と公共事業大臣へ就任し、欧州勢に法外な給与を与え、リバースの統治制度改革に反対したイスマーイールを1879年6月26日債権国の圧力で廃位し、ウラービー革命を引き起こした[6]

概要[編集]

1881年、5000人以上のスタッフを抱えるオスマン債務管理局が勅令で設置された。その委員会はジョージ・ゴッシェンが枠組みをつくった。初期は債権国であるイギリスオランダベルギーの代表兼任)・フランス・ドイツイタリアオーストリアと、カモンド家の後釜であるオスマン銀行・ガラタ銀行家(Galata bankerleri)のそれぞれから代表者を1名ずつ選び、7人で組織した[3][9]。イギリスの代表は初代コネマラ男爵、オーストリアはBaron Mayr、オスマン銀行はRobert Hamilton Langであった[10]。フランスは同年チュニジアを侵攻していた。オスマン帝国は、特定地域の絹取引に課される十分の一税、帝国全域の塩・たばこ専売収益、イスタンブール漁場税、そして印紙税・酒税を返済の財源として指定、十年間という約束で債務管理局へ納めさせた[7]。同管理局はエジプト歳入の6割以上を返済にあてた[6]。1882年、アレクサンドリア砲撃によりエジプトがイギリスの保護国となった。一方、ドイツは三国同盟を結んだ。イスタンブール大使のダファリン侯爵がエジプトの現状を報告、1883年イヴリン・ベアリングが総領事となった[6]。1883年、同管理局がオスマンたばこ公社(Regie Company)を設立し、たばこ生産を独占させた[7]。既得権をもっていたイギリス債権者は公社の設立に反対していたが、ドイツ側のブライヒレーダーとクレディタンシュタルトがオスマン銀行を抱きこみトルコ投資のコンソーシアムをつくって押し通したのである[11]1886年に同管理局の委員会が再編されて、パリバと国民割引銀行(現BNPパリバ)、クレディ・リヨネ(現クレディ・アグリコル)、ソシエテ・ジェネラル、オスマン銀行、クレディタンシュタルトBodencreditanstaltAnglo-Österreichische Bank、イギリス外国債券委員会(Corporation of Foreign Bondholders)、ローマ商工会議所、ブライヒレーダー、イスタンブール長官等が代表となり、債権者の意向が政策へ直接反映されるようになった[9]。同年あたりから同管理局がフランスとイタリアから免疫のある蚕の卵を輸入した。さらに同年から帝国は外債を再び発行するようになった。それを引受ける代わりに、オスマン銀行・ドイツ銀行ロスチャイルドなどが帝国へ資本を輸出した[3][12]。オスマン債務管理局を足場に、鉄道・鉱山・船舶・電気・ガス・水道等の公共事業投資が展開された。エジプト財政は1891年に黒字となり、1898年にアーネスト・カッセルNational Bank of Egypt を創立、イングランド銀行の監督のもと運営し、エジプトは1902年にアスワン・ロウ・ダムを完成させた[6]。1881年でオスマン公債保有率は英仏の順に29と40%であったが、1898年では10.9と44.9%であった[13]直接投資においてもイギリスは後退した[14]。その分はドイツが進出した。1902-1903年の間に帝国のたばこ生産規模が倍化した。また、20世紀初頭に帝国の養蚕業は桑畑が広がる本格的なものとなっていた。マケドニアトラキアモノカルチャーとなった[7]。債権国の土地投機によるモノカルチャーは1907年恐慌で破滅した。

脚注[編集]

  1. ^ a b スイス再保険編 越知隆訳 『世界の保険市場』 保険研究所出版部 1966年 59頁
  2. ^ 山口2010 第1部第2章。理工学に力点がおかれた。エジプト綿鉱業は戦争需要にもかかわらずランカシャーと貿易摩擦をひきおこした。孫の代にモノカルチャー化し、工業化を妨げた。
  3. ^ a b c d 永田2002
  4. ^ See Wikipedia Commons, File:Queen Victoria’s Royal Charter (12965198694).jpg: The summary says, "In 1855, two British entrepreneurs, Stephen Sleigh and Peter Pasquali, conceived a plan to establish an “Ottoman Bank.” "
  5. ^ A. Biliotti, La Banque impériale ottoman, Paris, 1909; A. Autheman, La Banque impériale ottoman, Paris, 1996.
  6. ^ a b c d e f g 山口2010
  7. ^ a b c d e Angelos A. Chotzidis
  8. ^ タイムズ 1875年10月5日
  9. ^ a b Charles Morawitz, Die Turkei Im Spiegel Ihrer Finanzen: Nach Dem Franzosischen Original Les Finances de La Turquie, Berlin, 1903, SS.245-246.
  10. ^ インターネット・アーカイブ
  11. ^ 武田元有 「1881年ムハレム勅令の発布とトルコ負債償還体制の展開」 土地制度史学 41(4), 10頁
  12. ^ バグダード鉄道利権を認可されたドイツ銀行は、代償として1888年5%利付き漁業公債(額面Ltqs.1650,000)を引受けた。これが、1875年から続くオスマン銀行による公債発行の独占体制を破った。
  13. ^ Charles Morawitz, 1903, S.258.
  14. ^ V. NECLA GEYIKDAGI, "French Direct Investments in the Ottoman Empire Before World War I", Table 1 Foreign direct investment stock by home countries, Retrieved 2017/4/4

参考文献[編集]

  • 山口直彦『アラブ経済史 1810年-2009年』(明石書店、2010年、第1部第3章)
  • 永田雄三、他『西アジア史Ⅱ』(山川出版社、2002年、308-309頁)
  • 永田雄三、他『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1992年)

外部リンク[編集]