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オーバーザルツベルク

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オーバーザルツベルクの位置(ドイツ内)
オーバーザルツベルク
ドイツ内の位置

オーバーザルツベルクドイツ語: Obersalzberg)とは、ベルヒテスガーデン・アルプス山脈ドイツ語: Berchtesgadener Alpen)の一地域。ドイツバイエルン州の州都ミュンヘンの南東120kmに位置する村落のベルヒテスガーデンから見て、東側の山腹にある。オーストリア国境に近い。

概要

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ザルツベルクの名称が「塩の山」を指すように岩塩の産出地であり、ベルヒテスガーデン塩鉱山(de)として知られていた。

19世紀ごろから観光地・避暑地として評判が広まり、作家リヒャルト・フォスde:Richard Voß)の恋愛小説『Zwei Menschen』(2人)の舞台ともなった。観光客は主に「モリッツ荘」(Pension Moritz)やホテル「ツムトゥルケン」(Zum Türken)に宿泊した。また、資産家の別荘も建ち並び、冷凍技術を実用化したカール・フォン・リンデはこの地域に10年間居住していた。

オーバーザルツベルクの風景

ナチス・ドイツ時代

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ヒトラーとオーバーザルツベルク

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ヒトラーとゲーリング。1933年

アドルフ・ヒトラー国家社会主義ドイツ労働者党幹部のディートリヒ・エッカートを通じてオーバーザルツベルクを訪れた。ヒトラーはオーバーザルツベルクを気に入り、1928年にはブクステフーデde)の皮革製品メーカーの未亡人から山荘を月100ライヒスマルクで賃貸契約を結んだ。山荘には異母姉アンゲラ・ヒトラーと姪アンゲラ・ラウバル、甥のフリードル・ラウバルらを住まわせた。1929年5月29日、ヒトラーは著書『我が闘争』の印税で山荘を購入し、ベルクホーフと改名した。

山荘周辺にはヒトラーを一目見ようと多くの観光客が訪れた[1]。ベルヒテスガーデンの人々には「巡礼者」と揶揄された。

ナチス党のオーバーザルツベルク

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ベルクホーフで設計図を見るヒトラーとシュペーア

ヒトラーの政権獲得後、一帯はナチス党によって買収される。交渉と収用担当マルティン・ボルマンは不動産所有者に市場価格で買収すると持ちかけ、買収を拒否した所有者もいたが、さまざまな圧力の前に結局、売却せざるを得なくなった。

買収完了後、既存の別荘はすべて破壊され、建築家アロイス・デガノドイツ語版(Alois Degano)が中心となってオーバーザルツベルクとベルクホーフの大改造が行われた。ベルクホーフの設計にはヒトラー自身も関与している。複数の新たな別荘と親衛隊の兵舎、地下壕が建設された。「モリッツ荘」(Pension Moritz)の一部は警備員宿舎、残りは賓客を泊める部屋となった。ホテル「ツム・テュルケン」(Zum Türken=トルコ荘)には親衛隊の司令部を置き、その他の別荘はヘルマン・ゲーリングアルベルト・シュペーアといったナチス・ドイツの高官たちが購入した。

1936年以降は、立入禁止区域が設けられ別荘の見学に制限が課せられた[1]首相官邸の別棟ドイツ語版英語版が1937年に近郊のビショフスヴィーゼンドイツ語版(Bischofswiesen)スタンガース(Bischofswiesen-Stanggaß)に完成すると、ヒトラーのオーバーザルツベルク滞在中には首相官邸の職員がここに移り、業務を行った。

政治の舞台

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ヒトラーは一年のうち数ヶ月をオーバーザルツベルクで過ごし外交の舞台として利用、第二次世界大戦勃発後は総統大本営の一つとして使った。

1940年、ヒトラー50歳の誕生日を記念して、ナチス党から新たな山荘ケールシュタインハウスが贈られた。しかしヒトラーが利用したのは10回程度に留まった。

訪れた人々

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ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)に際して首相クルト・シュシュニックは呼びつけられ、恫喝された。ドイツによるハンガリー王国占領(マルガレーテI作戦)の際に摂政ホルティ・ミクローシュは軟禁された。

他にオーバーザルツベルクを訪れた著名人にはイギリスの首相経験者デビッド・ロイド・ジョージのほか当時の現職ネヴィル・チェンバレンルーマニアカロル2世などが挙げられる。枢軸国首脳ベニート・ムッソリーニアンテ・パヴェリッチ等も訪れた。

終焉

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1945年4月20日の総統誕生日に、ヒトラーは国防軍最高司令部空軍総司令部の機能をオーバーザルツベルクに移した。空軍総司令官であったゲーリングも移動したが、4月23日に総統権限委譲の要請を行ったために逮捕され、別荘に監禁された。しかし4月25日にオーバーザルツベルクは空襲を受け、ベルクホーフを含む施設は大きな損害を受けた。ゲーリングを含むオーバーザルツベルクの住民は町を放棄し移動するよう強制され、親衛隊部隊が残った建物に放火したり、占領軍や地元の人々の略奪の対象となった。

戦後

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マルティン・ボルマンの防空壕跡

占領後、オーバーザルツベルクを統治したアメリカ軍は略奪を防ごうと地域の元住民の帰還を禁止した。ナチス時代の別荘は調査後、信仰の対象となるのを防ぐために爆破された。しかし、破壊が困難であった防空壕の一部は現存している。ヒトラーの別荘への立入禁止区域は1949年初頭に解除され、1951年夏までに13万6500人の観光客が訪れた[2]

ホテル「ツム・テュルケン」は所有者に返還されたが、「モリッツ荘」は接収したアメリカ軍がジェネラル・ウォーカーホテル(en[3] と改称して保養所に転用、1995年に返還されると解体、現存しない。

アメリカ軍の撤収後、ナチス党がおさえた旧不動産の所有権はバイエルン州に移管する予定であった。1950年代、州の計画ではこの土地の観光産業復活を掲げたホテル王のアルベルト・シュタインベルガーAlbert Steigenberger)に土地を買わせて、売却益を復興資金にあてるはずだったが、売却価格が安いとしてミュンヘンの会計検査院に売却を差し止められた。買い手側はアメリカ軍に交渉の仲介を依頼したものの、契約はまとまらず破談になった。

現在

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現在のオーバーザルツベルクには複数のホテル、スキー場が存在している。2005年にはインターコンチネンタルホテルズグループが高級リゾートホテル「インターコンチネンタルリゾート・ベルヒテスガーデン」を開業した。しかし「このホテルはリラックスするために最適の場所です」などとアピールしたことについて、ナチス時代のことを考慮していないとしてサイモン・ヴィーゼンタール・センターが抗議している[4]。このため、ホテルの従業員はこの町の戦前・戦後の歴史集中講義を受けた上で配置されるという[5]

1999年にはナチス時代の資料を展示するオーバーザルツベルク現代史研究所が建設され、当時の資料が展示されている。ケールシュタインハウスは現存し観光スポットとなっている[6]が、ベルクホーフの跡地は現在森林となっている。

関連書籍

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  • Ulrich Chaussy: Nachbar Hitler – Führerkult und Heimatzerstörung am Obersalzberg. Ch. Links Verlag, Berlin. 6. erweiterte Auflage 2007. ISBN 978-3-86153-462-4.
  • Florian M. Beierl: Hitlers Berg. Geschichte des Obersalzbergs und seiner geheimen Bunkeranlagen. Verlag Beierl, Berchtesgaden. 2. Auflage 2005. ISBN 3929825058.
  • Die tödliche Utopie. Bilder, Texte, Dokumente, Daten zum Dritten Reich. Hrsg. von Volker Dahm,Albert A. Feiber, Hartmut Mehringer und Horst Möller. 5. Auflage (vollständig überarbeitete und erweiterte Neuausgabe),Veröffentlichungen des Instituts für Zeitgeschichte zur Dokumentation Obersalzberg, München 2008 ISBN 978-3-9807890-6-6
  • フォルカー・ウルリヒ著 著、松永美穂 訳『ナチ・ドイツ最後の8日間 1945.5.1-1945.5.8』すばる舎、2022年。ISBN 978-4799110621 

外部リンク

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脚注

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  1. ^ a b フォルカー(2022年)、217-218頁。
  2. ^ フォルカー(2022年)、226-227頁。
  3. ^ 第20軍団en)を率いたウォルトン・ウォーカー中将にちなむ
  4. ^ 保険毎日新聞2005年8月号の熊谷記事
  5. ^ 戦後60年。ドイツ初マウンテン・リゾート誕生「ベルヒテスガーデン」 地球の歩き方ホームページ
  6. ^ dTANo.Mac”. www.eonet.ne.jp. 2026年1月28日閲覧。

関連項目

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