エヴァ・ブラウン
エヴァ・ブラウン Eva Braun | |
|---|---|
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エヴァ自身が撮影したカラー映像。 | |
| 生誕 |
1912年2月6日 |
| 死没 |
1945年4月30日(33歳) 総統官邸地下壕 |
| 別名 |
エヴァ・アンナ・パウラ・ブラウン Eva Anna Paula Braun(誕生時の名前) エヴァ・アンナ・パウラ・ヒトラー Eva Anna Paula Hitler(結婚後の名前) |
| 職業 | 写真店店員→愛人→ファーストレディ・首相夫人 |
| 政党 |
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| 宗教 | キリスト教カトリック教会[1] |
| 配偶者 | アドルフ・ヒトラー (m. 1945) |
| 子供 | なし |
| 受賞 |
黄金ナチ党員バッジ |
エヴァ・アンナ・パウラ・ブラウン(ドイツ語: Eva Anna Paula Braun[注 1], 1912年2月6日 - 1945年4月30日)は、ナチス・ドイツ(ドイツ国)総統アドルフ・ヒトラーの愛人だった女性。13年間その関係は公表されず、1945年4月29日に結婚し正式な妻となったが、その翌日ヒトラーと共に地下壕にて自殺した。
目次
生涯[編集]
ヒトラーに出会うまで[編集]
エヴァ・ブラウンは父フリードリヒ・オットー・ヴィルヘルム・ブラウン(Friedrich Otto Wilhelm Braun, 通称フリッツ・ブラウン)と母フランツィスカ(Franziska)の次女として、1912年2月6日にミュンヘンに生まれる。
両親はバイエルン出身で、父は教員、家族には3歳年上の姉イルゼ・ブラウン、3歳年下の妹グレートル・ブラウン(マルガレーテ:Margarete)がいる。
エヴァは16歳の時、修道院運営の職業訓練校に1年間通うが、体操以外では平凡な成績であった。卒業後、診療所の事務員として数ヶ月勤務した後、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーの専属カメラマン、ハインリヒ・ホフマンのモデル兼助手として雇われる。
ヒトラーとの出会い[編集]
1929年10月のある日、17歳のエヴァは23歳年上のヒトラーにホフマンのスタジオで出会う。エヴァはこの時のヒトラーの印象を「おかしな口ひげを蓄えた中年紳士で、イギリス製の明るい色のコートと大きなフェルト帽を身に着けていた」と友人に語っている。ヒトラーの方は、エヴァの目の色がヒトラーの母クララにとてもよく似ていると評している。
出会ったその日からヒトラーはエヴァに惹かれ、エヴァは自分の脚をじっと見るヒトラーの視線に気づいている。その日、ヒトラーはホフマンとエヴァとともに簡単な夕食をとったが、その食事中にもエヴァを見つめ続けていたという。その後、ヒトラーは彼女をドライブに誘うが拒絶されている。
エヴァはヒトラーのことを知らず、ホフマンに聞いて初めてヒトラーが政治家と知った。エヴァが父にヒトラーについて聞くと、父はヒトラーをよく思っていないことを告げたが、エヴァはかえってヒトラーに興味を抱くようになる。
しかしその後、何度もヒトラーはエヴァを誘っており、いつしか二人は交際するようになった。この頃、エヴァは写真店の店員仲間に「ヒトラーと婚約している」と見栄から来た嘘をついており、ホフマンに叱責されている。
エヴァとヒトラーの近親者たちはいずれもこの2人の接近に大反対であった。中でもエヴァの父フリッツとヒトラーの異母姉アンゲラ・ヒトラーは、この交際を認めなかった。
嫉妬と2度の自殺未遂[編集]
夫に先立たれたアンゲラ・ヒトラー(アドルフ・ヒトラーの異母姉)は、1928年からバイエルン・アルプスの美しい町ベルヒテスガーデンの近郊の山腹オーバーザルツベルクにある山荘ベルクホーフに居住し、ヒトラーの身の回りの世話をしていた。同居していた彼女の娘ゲリは叔父ヒトラーから大変可愛がられていたが、次第にそれは束縛に変わっていった。
1931年9月、ヒトラーとの口論の後、ゲリは拳銃自殺を遂げた。この直前、ゲリはエヴァからヒトラーに宛てた手紙を読んで破いていたことを家政婦は証言している。エヴァはゲリの存在を知らされていなかった。
ヒトラーはゲリの死にショックを受け憔悴するが、結局は19歳のエヴァがゲリの代わりにヒトラーの傍で暮らすことになる。エヴァの日記によるとその時期は1932年の春頃とされる。しかしヒトラーには他にも交際が噂される女性がおり、女優のレナーテ・ミュラー(1907年 - 1937年)への嫉妬はエヴァを苦しめた。エヴァはヒトラーに対して深い愛情を抱いており、あまり男性としての自信が無かったヒトラーに「性的満足も得たいのなら、他の男と付き合いなさい」と忠告されても離れることは無かった。
1932年11月1日、エヴァは自らの胸を拳銃で撃ち、自殺を図った。しかし、弾はそれて頸動脈付近にとどまり、自殺は未遂に終わった。ヒトラーはこの自殺未遂にショックを受け、以降は他の女性との交際を控えていった。ヒトラーは「自分はドイツと結婚した」と主張し続けていたため、“妻”エヴァの存在は山荘の側近だけが知るものであった。
ヒトラーは1933年の首相就任や1934年の総統就任などで多忙な日々を送るようになり、エヴァのもとを訪れる回数も減少した。エヴァはヒトラーの愛情に疑問を抱き、1935年5月28日、睡眠薬の服用による2度目の自殺を図る。エヴァが飲んだ睡眠薬は危険性が低いものであり、命に別状はなかった。この時、エヴァの姉イルゼは自殺が狂言と見られることを恐れ、エヴァの日記を破り取っている。また、9月には父親のフリッツがヒトラーに「娘を家族の元に帰してくれるように」という趣旨の手紙を書いた。この手紙はフリッツに託されたホフマンを通じてエヴァに渡り、彼女は手紙を破り捨てた。また、母のフランツィスカも直接ヒトラーに同じ趣旨の手紙を書いたが、この返事もなかった[2]。
回復後、ヒトラーはエヴァに対しミュンヘン郊外に邸宅、メルセデス・ベンツの専用車、運転手、メイドを与えるが、エヴァはすぐにベルクホーフ山荘に戻ってしまう。ヒトラーの首相就任後もヒトラーの異母姉アンゲラとナチス閣僚の妻たちはエヴァの存在を依然として認めようとしなかった。しかし、アンゲラは再婚をきっかけにエヴァの近くに住むことを禁じられ、ドレスデンへ移住した。
ベルクホーフ山荘での生活[編集]
ヒトラーは独身であることで婦人票が得られると考えていたため、第二次世界大戦が終わるまでドイツ国民がエヴァの存在に気づくことはなかった。また、オーバーザルツベルクはナチス専用の保養地と位置づけられ、外交や政治の舞台となったが、エヴァの存在が表に出ることはなかった。
もっとも、エヴァは政治には無関心であり、興味があったのは流行のファッション、音楽、映画だった。ヒトラーが山荘にいるときは外に出られず、友人や両親、親類を招いて夕食を共にすることが多かった。
軍需相アルベルト・シュペーアの回顧録によると、2人はベルクホーフ山荘、ベルリンの総統官邸や地下壕でも寝室は別々であり、もし閣僚などが政治の話をするために部屋に入ってくると、すぐさまエヴァは部屋を出て行った。その様子は、ヒトラーと深く結びついているもののどこか脅えているようで、籠の鳥、不幸な女性に見えたという。ヒトラーはエヴァに対して冷淡で時に侮辱した態度もあり、同時に喫煙やヒトラー以外の男性とのダンスを禁じており、エヴァはそうした束縛に不満を募らせ、しばしば口論していた。
第二次大戦中、エヴァは恋愛小説の読書や友人たちとの映画鑑賞など遊興に時間を費やすほか、写真にも関心があり、裸で日光浴をする写真など、自らを被写体とした写真が多数残っている。自分の暗室も持っており、ヒトラーのスチール写真や映画を現像することもあった。
また、1940年から総統護衛部隊の隊員としてヒトラーに仕えたローフス・ミッシュの回顧録によると、カトリック教徒だったエヴァはベルヒテスガーデンのカトリック教会に通うこともあったという[1]。
山荘での生活中、ヒトラーはヘルマン・ゲーリングに対して「エヴァは私にとって生涯の女性だ。戦争が終わったら引退してリンツの町へ行き、彼女を妻にする」と発言している[3]。
1944年6月、妹のグレーテルが親衛隊の将校ヘルマン・フェーゲラインと結婚する折、ヒトラーはエヴァが人前に出ることを許可する。結婚パーティーはオーバーザルツベルクのもう一つの山荘ケールシュタインハウス(通称鷲の巣)で行われた。
ヒトラーとの結婚と心中[編集]
1945年3月、エヴァはヒトラーの反対を押し切ってベルクホーフを後にしてミュンヘンへ移り、4月初旬、既に戦火に曝され、荒廃した首都ベルリンへ入るが、4月中旬には総統地下壕へと避難せざるを得なくなる。
両親や姉妹が再三ベルリンを離れるよう説いても、エヴァは最後までヒトラーと共にいることを選んだ。
『ヒトラー・コード』に収録された、ソ連内務人民委員部によるヒトラー側近の調書によれば、エヴァは「奇跡が起こらなければ、死が最後の逃げ道になるでしょう。そのときには法的な妻としてあの方と一緒に死ぬことを、わたしは心から望んでいます。」[4][注 2]と発言したという。
総統誕生日の4月20日、ソビエト軍がベルリンに侵攻。ヒトラーとエヴァは4月29日未明に総統官邸地下壕内で簡素な手続きによって結婚した。この結婚式ではヨーゼフ・ゲッベルス夫妻とマルティン・ボルマンが立会人をつとめた。花嫁は青色のシルクドレスを着けていたとされる。彼女は結婚証明書の署名欄に「Eva B……」と書きかけたが、すぐに気がついて「B」に線を引いて消し、「Eva Hitler」と書き直した。
ヒトラー自身はエヴァを「フロイライン・ブラウン(ブラウン嬢)」と呼んでいた。式の後、地下壕の者たちが「フロイライン」と呼びかけたところ、エヴァは誇らしげに「もう、フラウ・ヒトラー(ヒトラー夫人)と呼んでくれていいのよ」と言ったという。
翌30日午後3時30分頃、エヴァは青酸カリのカプセルを嚥下して服毒自殺、ヒトラーは銃弾の貫通痕から青酸カリのカプセルを噛んだ直後、顎の下から拳銃で頭を撃ち抜いて死んだと推察されている。2人の遺体は総統官邸の庭園で、ガソリンをかけた上で焼却された。
遺体の行方[編集]
ソビエト軍が発見した男女の遺体は、ヒトラーを診察した歯科医ヒューゴー・ブラシュケの助手によって鑑定され、ヒトラーとエヴァのものであると確認された。また、ソビエト軍に拘束されたヒトラーの専属パイロットは「エヴァは自殺した際に妊娠していた」と証言したといわれている[要出典]。
その後、ヒトラー夫妻の遺体はゲッベルスや妻のマクダ、ゲッベルスの子供たち、クレープス参謀総長とブルクドルフ陸軍人事局長、ヒトラーの愛犬ブロンディの遺体とともにスメルシュの指揮で頻繁に埋葬地を変更され[5]、最終的には1946年2月21日にマクデブルクのクラウスナー通り沿いのスメルシュ施設の前中庭の舗装区域の下の目印のない墓に埋葬された。この場所は厳重に秘匿された。
しかし、遺体の埋葬地は1970年にKGBのコントロール下、東ドイツ政府に移譲されることになった。ヒトラーの埋葬場所がネオナチの聖地になることを恐れたKGB議長のユーリ・アンドロポフは部隊に遺骸を破壊する許可を与えた。KGBの発掘チーム「アルヒーフ」は詳細な埋葬場所を指示され、1970年4月4日、秘かに10体の遺骸を掘り出して完全に焼却し、灰をエルベ川の支流に散骨した[6][7][8]。
エヴァの一族[編集]
エヴァの父フリッツは戦争を生き延びた後、病院で職に就き、1964年に死亡。母のフランツィスカはバイエルンの農村で生涯を過ごした後、1976年に96歳で死去した。
姉イルゼは国家社会主義に懐疑的だったため、エヴァのいる山荘を訪れることは稀で、エヴァの生活をしばしば非難することもあった。1979年に71歳で死去した。
妹グレーテルは夫フェーゲラインの子を身ごもったが、夫は敗戦が決定的になると別の女性を伴ってスウェーデンに逃げようと企てたとして捕らえられ、ヒトラーの命によって銃殺されている。グレーテルは当時妊娠8ヶ月で、姉の死の5日後に生まれた女児に姉の名を取り、エヴァ・バーバラ(1945年 - 1975年自殺)と名づけた。1954年には織物商のクルト・ベルリングホフ(Kurt Berlinghoff)と再婚。1987年に72歳で死去した。
2014年4月5日、エヴァが使っていたとされているブラシから採取された髪の毛を検査した結果、彼女のミトコンドリアDNAはハプログループN1b1(中世初期に中東欧に定住したアシュケナージ系ユダヤ人と強い関連があり、母から子に引き継がれるハプログループ)であることが判明した[9]とイギリスのインデペンデントなどが報じた[10]。
エヴァ・ブラウンの日記[編集]
エヴァは手書きの日記をつづっていた。この日記は終戦直後にアメリカ軍によって押収され、現在はアメリカ国立公文書記録管理局に収蔵されている(識別子6921915)[11][12]。
「日記」の発見[編集]
戦後まもない1945年11月、上記のものとは異なる「エヴァの日記」とされる[13]タイプ打ちの文書[14]が発見された[15]。
この日記を入手したと証言したのは、山岳映画の俳優で、監督でもあったルイス・トレンカーであった。トレンカーは1944年の冬にキッツビューエルを訪れていたエヴァ自身から日記を受け取ったとしている。トレンカーは日記を公開する前に公証人に中身を確認させて本物かどうかの確認を求め、公証人からは包み紙にエヴァのイニシャルであるEB[16]が記されていることを根拠とした、日記が本物であることを証明する確認証を受け取ったとしている[注 3]。
このタイプ打ち日記によると、エヴァは1942年の春に妊娠が判明し[17][注 4]、夏にはヘルタ・リントという偽名を使って滞在したドレスデンで男児を出産したという[18][注 5]。また、日記にはエヴァが出産した男児について、これまで実子がいないとされてきたヒトラーの子供である[19]ことをうかがわせる記述があるほか、「エヴァがシャモア革の下着をつけるよう、ヒトラーに強要されていた」「映画監督のレニ・リーフェンシュタールがヒトラーの前で裸で踊った」[20]「ヒトラーは週に一度、温めたオリーブオイルの風呂に入った」などの記述がある[15]。
偽造認定[編集]
1948年9月3日、オリンピア出版が発行するタブロイド紙『Wochenend』はエヴァの日記の連載をスタートし、多くのドイツ人に読まれることとなった[15]。。しかしエヴァの家族であるブラウン家の反応は完全に否定的であった。エヴァの母・フランツィスカらはこのタイプ打ち日記は偽物であると確信しており[15]、「ヒトラーの前で裸踊りをした」と「日記」に書かれたリーフェンシュタールとともに訴えを起こした[15]。また、ヒトラーの周辺に仕えていた人物も証言を行い、1942年から総統秘書を務めていたトラウデル・ユンゲはエヴァが日記をつけていたかどうかは覚えていないと証言する一方、エヴァはシャモア革の下着などつけておらず、通常のものであったとし[21][15]、ヒトラーの専用車運転手だったエーリヒ・ケンプカはヒトラーはドライブのたびに熱い風呂に入るのが習慣であったと証言している[15][21]。またエヴァが南チロルのホテルに行ったのは1942年が最後であり、トレンカーに対しても嫌な人間であるという印象しか持たなかったという[15]。9月10日、バイエルン州の裁判所は「日記は偽物である」として公開の仮差止命令を下した[15]。オリンピア出版が発行を継続するためには、著者がエヴァではないと言明する必要があるとされ[22]、ドイツ国内における流通は行われなくなった[15]。
エヴァの評伝である『エヴァ・ブラウン ヒトラーの愛人』の著者であるネリン・E.グーンはこのタイプ打ち日記を「ずうずうしいいかさま」[23]とし、こう述べている。
「著者があえていかさまという単語を用いるのも、一九四八年九月十日付の布告で、ミュンヘン民事裁判所は出版社に対して、虚偽の日記を頒布したかどで、多額の罰金と禁固六か月に処すむね発表したからである。裁判所はこの書籍の回収を命じるとともに、問題となった記録は存在しないことを明確にした」[24]
「結局いわゆる『個人的日記』は事実とまったく矛盾することがひろく証明されるにいたった。(中略)エヴァ・ブラウンの手紙を読んだり、彼女が住んでいた住所を訪れたり、住所録、市の記録保管所、電話帳を調べるだけで、その本がいかに荒唐無稽なしろものであるか判然とする。その本の作者たちは、一流偽作者として必要な文才を、まるきり持ち合わせていなかった。想像力にも欠けていた。もともとこの訴訟に興味をかきたてられていたある一人の女性立会人は、調査が進むにしたがって愉快な発見をした。このインチキは、『回想録』がじつはその大部分がラリッシュ=ヴァレルゼー伯爵夫人が昔書いた本からの借物であったことがわかったのである。その本というのは、ハプスブルク家のルドルフ大公とマリー・フェツェラ男爵夫人との悲恋を扱ったものだった。偽作者たちはこの歴史的物語を、逐一コンマどおりに、各章をそっくり写取り、たんに登場人物の名前を変えたにすぎなかった。これが暴露されたあとは疑惑の雲は跡形もなく吹払われ、世間はことの次第を満足そうに眺めたのである」[25]
「日記」の執筆者[編集]
1948年10月の段階でヒトラーの生活に関する部分はマリー・ルイーズ・フォン・ラリッシュ=ヴァレルゼー伯爵夫人の著作を下書きにしたとフランケンポストに指摘されている[26]が、誰が製作したかについては現在も不明である[15]。母フランツィスカをはじめとする人々は、トレンカーによる偽作ではないかと推定している[21][27][28][29][30]。
トレンカー自身は自分が執筆したわけではないと述べ、「日記」公表に参加したのも「ただの冗談だった」とヴェルナー・マーザーとのインタビューで答えている[22]。マーザーはトレンカー自身が製作したものではないと見ている[22]。
現在の「日記」出版[編集]
しかし以降もイギリスやフランスなどで、真実の「エヴァの日記」として販売が続けられている[15]。アラン・バートレットが2000年に出版した『エヴァ・ブラウンの日記(The Diary of Eva Braun)』の日本語訳者である深井照一は、トレンカーとロンドンを拠点とする出版業者、そして「マッド・アイリッシュ」と呼ばれていた古参のイギリス諜報部員が、「日記の中身について、登場してくる事件やエヴァのナチ指導者に対する考えなどから判断し、整合性がある、と認めている。」[31]と記述している。
異説[編集]
ルドルフ・ヘス暗殺説等を唱えるヒュー・トマス[注 6]は、エヴァの遺体は本人のものではないと主張している。ヒトラーお抱えの歯科医であったヒューゴー・ブラシュケの「エヴァの歯の状態はとても良好で、ほとんど治療の必要はなかった」という証言を根拠にしている。ここからトマスは、エヴァを含めた総統地下壕の人員がヒトラーに無理やり青酸カリのカプセルを飲ませ、自殺を偽装したという説を立てている[32]。
勲章[編集]
黄金ナチ党員バッジ(ヒトラーから授与)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 日本語でEvaは「エヴァ」と表記されることが多いが、ドイツ語での発音はエーファに似る。Eva (Wiktionary)も参照のこと。
- ^ この発言の注釈(『ヒトラー・コード』、395ページ)によると、「(ソ連の捕虜になったヒトラーの部下の証言には、)エヴァ・ブラウンは妊娠していて、捕虜になって出産することを望まなかったとするものがある。」という記述があるものの、スターリンへの報告書が作成された際の編集作業で「採用しなかった」という。
- ^ 『エヴァ・ブラウンの日記』p18-19に記載。
一九四五年五月、連合軍はヨーロッパ戦線で勝利をおさめた。そして、その六ヵ月後、トレンカーはボルツァーノ〔イタリア北部・ドロミティーアルプス山岳地〕で、しばらくぶりに脚本ケースを開け、EBというイニシャルの入った茶色の包みに目を留めたのである。だが、その場で包みを開けなかった。ちなみに、この時期、エヴァの死は周知の事実だった。おそらく、こう考えたのだろう。もし中身が重要な書類だったら、本物かどうか証明するのに一苦労する、ここはひとつ、世間の誰からも信用されている人物に包みを開けてもらう、それが最善の選択だ、と。彼は公証人のもとに向かい、公証人に包みを開けさせたのである。包みの中には紙袋があり、その袋には封印があった。中身は無署名のタイプ打ちされた原稿の束だった。公証人は一枚一枚念入りに調べ、確認証を添付して原稿を返した。 - ^ 妊娠が判明した時とされる様子は『エヴァ・ブラウンの日記』p181-182に記載。
一九四二年、春、土曜日
シュペーアが上申にやって来た。彼はあの人(ヒトラー)にいろいろな情報を伝えていた。わたしの耳にも彼の話は断片的に聞こえた。彼が、ケーニヒスベルクで新型爆弾の製造方法を発見した、と言ったとき、わたしは思わず耳を澄ました。でも、原子がどうのこうのとか、町を丸ごと破壊できるとか、戦争を決定的に左右するとか、話の断片しか聞き取れなかった。
わたしは聞き耳をたてながら思った。イギリスの町が破壊されれば、戦争は終わるのだろうか。イギリスが敗北すれば、アメリカはきっと戦わないだろう。でも、ロシア(ソビエト連邦)はどうなるのだろう。そのときだった。体内で初めて動いた。わたしはしっかりと感じ取った。とても変な感覚だった。
みごもっていることを初めて実感した。とても信じられなかった。あの人の子供を産むのかと思うと、ほんとうに胸が一杯になった。 - ^ ドレスデンでの出産を匂わせる記述は『エヴァ・ブラウンの日記』p184-185に記載。
一九四二年、秋、ドレスデン
この夏、ドレスデンへ二度行った。前よりもずっと好きになっている。場所が見つかってとても嬉しい。部屋の予約はヘルタ・リントの名を使った。書類の準備はすっかり整っている。町の人々の生活はごく普通。戦争の雰囲気はまったくない。ウィーンよりずっと暮らしやすいところだと思う。
いまのところは誰にも勘づかれていない。ほとんど奇跡だと思う。ただ、エルナ(ハインリヒ・ホフマンの妻)だけはときどき探るような目で見つめてくる。でも、わたしは平然と構えている。いかにエルナやM夫人の目や耳の感覚が鋭くても、わたしがあたふたしないかぎり、隠し通せると思っている。 - ^ 「スペイン市民戦争」などの著作で知られるイギリスの作家ヒュー・トマスとは別人。
出典[編集]
- ^ a b ローフス・ミッシュ『ヒトラーの死を見とどけた男 地下壕最後の生き残りの証言』「カトリック教徒 エーファ・ブラウン」の章から
- ^ ジョン・トーランド『アドルフ・ヒトラー』永井淳訳、集英社文庫〈人物叢書〉、1990年4月17日、284頁。ISBN 978-4-08-760181-7。
- ^ ネリン・E.グーン『エヴァ・ブラウン ヒトラーの愛人』190頁。
- ^ ヘンリク・エーベルレ、マティアス・ウール『ヒトラー・コード』高木玲訳、講談社、2006年1月26日、340頁。ISBN 4-06-213266-4。
- ^ Vinogradov, Pogonyi et al. 2005, pp. 111, 333.
- ^ spiritus-temporis.com, Hitler's death - later Russian disclosures, retrieved 23 November 2008.
- ^ Vinogradov, Pogonyi et al. 2005, p. 333.
- ^ Vinogradov, Pogonyi et al. 2005, pp. 335–336.
- ^ “ヒトラーの妻はユダヤ系だった? 英テレビ番組でDNA分析”. AFP BB News (2014年4月6日). 2014年4月11日閲覧。
- ^ “ヒトラー:愛人エバ・ブラウンはユダヤ系か 英紙など報道”. 毎日新聞. (2014年4月6日) 2014年4月6日閲覧。
- ^ RG 84: Germany | National Archives
- ^ The Gems of Record Group 242 – Foreign Records Seized | Prologue: Pieces of History
- ^ 21 Nov 1945 - EVA BRAUN'S DIARY FOUND - Trove - ザ・イヴニング・アドヴォケイト1945年11月22日報道(オーストラリア国立図書館トローヴ)
- ^ アラン・バートレット『エヴァ・ブラウンの日記 ヒトラーとの8年の記録』深井照一訳、学研M文庫、2002年2月15日、19頁。ISBN 4-05-901116-9。
- ^ a b c d e f g h i j k l Luis Trenker und die Eva-Braun-Tagebuch-Fälschung - SPIEGEL ONLINE-デア・シュピーゲル、2015/2/27記事
- ^ Eva Braun
- ^ アラン・バートレット『エヴァ・ブラウンの日記 ヒトラーとの8年の記録』深井照一訳、学研M文庫、2002年2月15日、181-182頁。ISBN 4-05-901116-9。
- ^ アラン・バートレット『エヴァ・ブラウンの日記 ヒトラーとの8年の記録』深井照一訳、学研M文庫、2002年2月15日、184-185頁。ISBN 4-05-901116-9。
- ^ アラン・バートレット『エヴァ・ブラウンの日記 ヒトラーとの8年の記録』深井照一訳、学研M文庫、2002年2月15日、62頁。ISBN 4-05-901116-9。
- ^ Luis Trenker zwischen Goebbels und Leni Riefenstahl im ARD-Drama - WELT-ディ・ヴェルト 2015/11/18
- ^ a b c Kuchen für Papa - DER SPIEGEL 38/1948 - デア・シュピーゲル1948年38号
- ^ a b c 「Fernsehfilm über Luis Trenker - Moretti spielt Trenker, Hobmeier Riefenstahl - Medien - Süddeutsche.de」- 2014年7月7日午後2時53分 南ドイツ新聞
- ^ ネリン・E.グーン『エヴァ・ブラウン ヒトラーの愛人』119頁。
- ^ ネリン・E.グーン『エヴァ・ブラウン ヒトラーの愛人』119頁。
- ^ ネリン・E.グーン『エヴァ・ブラウン ヒトラーの愛人』119頁-120頁。
- ^ 01 Oct 1948 - Germon paper says Eva Braun's diary was "faked" on Vetsera story - Trove - ザ・アーガス1948年10月1日報道(オーストラリア国立図書館トローヴ)
- ^ Hochspringen nach: a b Werner Fuld: Tagebücher. In: Ders.: Das Lexikon der Fälschungen. Frankfurt/M.
- ^ Beitrag: Eva Hitler - ZDF.de -ZDF History
- ^ Fälschungen oder Das Große im Kleinen | ZEIT ONLINE -Hannes Laipoldによる記事、 ディー・ツァイト1983年5月13日
- ^ 2015年にドイツで製作されたテレビ映画「ルイス・トレンカー 真実の細い稜線」はトレンカーがエヴァの日記を作成したというストーリーをとっている
- ^ アラン・バートレット『エヴァ・ブラウンの日記 ヒトラーとの8年の記録』深井照一訳、学研M文庫、2002年2月15日、5-6頁。ISBN 4-05-901116-9。
- ^ ヒュー・トマス『ヒトラー検死報告 法医学からみた死の真実』永井淳訳、同朋舎出版、1996年6月。ISBN 978-4-81-042294-8。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
関連書籍[編集]
- ネリン・E.グーン『エヴァ・ブラウン ヒトラーの愛人』村社伸訳 日本リーダーズダイジェスト社 1973
- グレン・B.インフィールド『ヒトラーが愛した女』中山善之訳 白金書房 1975
- ジャン=ミシェル・シャリエ,ジャック・ド・ローネ『エヴァの愛・ヒトラーの愛 独裁者を恋した女の生涯』喜多迅鷹,喜多元子訳 読売新聞社 1979
- アラン・バートレット『エヴァ・ブラウンの日記 ヒトラーとの8年の記録』深井照一訳 学研M文庫 2002
- ハイケ・B.ゲルテマーカー『ヒトラーに愛された女 真実のエヴァ・ブラウン』酒寄進一訳 東京創元社 2012
- ヘンリク・エーベルレ、マティアス・ウール編、高木玲訳『ヒトラー・コード』 講談社 2006
- ローフス・ミッシュ『ヒトラーの死を見とどけた男 地下壕最後の生き残りの証言』小林修訳、草思社、2006、ISBN 4-7942-1542-8
外部リンク[編集]
| 名誉職 | ||
|---|---|---|
| 先代: マクダ・ゲッベルス エミー・ゲーリング (共同で代理) |
(首相夫人を兼任) 1945年4月29日 – 1945年4月30日 |
次代: インゲボルグ・デーニッツ |
| 先代: マクダ・ゲッベルス エミー・ゲーリング (共同で代理) |
(ファーストレディを兼任) 1945年4月29日 – 1945年4月30日 |
次代: マクダ・ゲッベルス |
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