ヴィルヘルム・ブリュックナー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィルヘルム・ブリュックナー
Wilhelm Brückner
SA中将の制服姿のブリュックナー(1933年)
生年月日 1884年12月11日
出生地 バーデン大公国
バーデン=バーデン
没年月日 (1954-08-18) 1954年8月18日(69歳没)
死没地 バイエルン州の旗 バイエルン州
ヘルプスドルフ英語版
前職 陸軍中尉
所属政党 国民社会主義ドイツ労働者党
  【党員番号】
  298,623番
称号 黄金党員名誉章
血盟勲章
 【登録番号】
   7番

総統主任副官
在任期間 1934年2月20日 - 1940年10月18日

在任期間 1934年11月9日 - 1945年

選挙区 第3選挙区
ベルリン東)
当選回数 2回
在任期間 1936年 - 1945年
テンプレートを表示

ヴィルヘルム・ブリュックナー(Wilhelm Brückner、1884年12月11日1954年8月18日)は、ドイツの軍人、政治家。アドルフ・ヒトラーの副官。突撃隊(SA)の将軍。突撃隊における最終階級は突撃隊大将(SA-Obergruppenführer)。

略歴[編集]

バーデン=バーデン出身。大学に通っていた頃、第一次世界大戦が勃発し、バイエルン砲兵連隊に入隊した。中尉(Oberleutnant)まで昇進。戦後には義勇軍「エップ」に入隊してミュンヘンレーテ共和国の打倒に参加した。その後、大学に入りなおし、フィルム技師となった。

1924年4月1日、ミュンヘン一揆裁判の判決の日。右から三人目がブリュックナー(ヒトラーレームの間で半身の姿勢を取る人物)

1922年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した。1923年11月のミュンヘン一揆の際には突撃隊(SA)連隊「ミュンヘン」を指揮して参加した。警察・司法当局から一揆の大物とみなされ、一揆の失敗後にはヒトラーやエーリヒ・ルーデンドルフ将軍とともに共同被告人となった。ブリュックナーは1年半の懲役を受けたが、投獄後すぐに仮釈放されている。

ナチ党再建後に再入党したが、ヒトラーとの意見の不一致から1925年5月1日に党を離れた。しかし1930年9月1日には再入党した。

ヒトラーの主任副官[編集]

ベルクホーフにおいて孔祥熙と談笑するヒトラーとブリュックナー(右端)(1936年)

1930年8月1日、ブリュックナーはヒトラーの副官に任命され、9月1日には、ナチ党へ復党すると共に突撃隊に再び加わった。(党員番号298,623) 1932年SA上級大佐に昇進し、1933年にはSA中将1934年11月9日にはSA大将に昇進した。

1933年からは、ヒトラー内閣の首班となり、1934年2月20日、ヒトラーの主任副官に任命された。ブリュックナーはその親しみやすさから、首相官邸を訪れる客人の間でも人気が高かった。また、1936年からは国会議員となり、同年1月15日にはデトモルトの名誉市民となったが、1945年11月9日に取り消されている。

第二次世界大戦が勃発すると、ブリュックナーは党内での重要性を失い。副官としての権限は尽く親衛隊の副官たちに奪われていた。

1940年、ブリュックナーはヒトラーの決定で主任副官の職を取り上げられた。この原因はイタリア王太子のオーバーザルツベルクへの訪問に際してヒトラーの山荘管理人であるアルトゥール・カンネンベルクde:Arthur Kannenberg)がマックス・ヴュンシェen:Max Wünsche)以下、数名の総統警護隊の親衛隊将校の対応がなっていなかったと抗議。ヒトラーがこれに同意し、ヴュンシェを「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」に戻すよう命じた。しかしブリュックナーはヴュンシェをかばい、カンネンベルクを批判した。これにヒトラーが怒り、ブリュックナーも総統の側近くからはずされたのであった。なお正式な解任は1941年4月1日であった。

その後は陸軍に入隊し、大尉(のちに陸軍大佐まで昇進)としてドイツ占領下のフランスで勤務した。

戦後はガソリンスタンドを経営した。1954年8月20日にヘルプスドルフ (de:Herbsdorf) で死去した。

栄典[編集]

軍事の受賞[編集]

党及び民事の受賞[編集]

参考文献[編集]

  • Charles Hamilton著「LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1」p140 ISBN 0912138270