カール・マイヤー

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カール・マイヤー
外国語 Karl Mayr
生誕 1883年1月5日
ドイツの旗 ドイツ帝国
バイエルン王国の旗 バイエルン王国 ミンデルハイム
死没 1945年2月9日(満62歳没)
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
Flag of Thuringia.svg テューリンゲン州 エッテルベルクドイツ語版
所属組織 War Ensign of Germany 1903-1918.svg ドイツ帝国陸軍バイエルン王国陸軍ドイツ語版
Flag of Weimar Republic (war).svg ヴァイマル共和国軍
軍歴 1901年 - 1920年
最終階級 少佐
除隊後 政治活動家
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カール・マイヤー(Karl Mayr、1883年1月5日 - 1945年2月9日)は、ドイツ軍人政治活動家1925年以降はドイツ社会民主党所属)。ナチス・ドイツ独裁者となるアドルフ・ヒトラーを政治の世界に引き入れた人物として知られるが、反ナチスに転じ、ナチスの強制収容所で最期を迎えた。

来歴[編集]

バイエルン軍[編集]

バイエルン王国ミンデルハイムに判事の息子として生まれる。アビトゥーア合格後、1901年7月14日に第1バイエルン歩兵連隊に士官候補生として入営し、1903年に少尉、1911年に中尉に昇進。1914年8月に始まる第一次世界大戦に第1猟兵大隊の一員として従軍。ロートリンゲンフランドルをめぐる戦いに従軍。1915年6月1日に大尉に昇進。同年7月より東部軍集団に転属となり、トルコで従軍。1917年にアルプス軍団に転属し参謀を務める。

停戦後の1918年12月にミュンヘンに駐留する第1バイエルン歩兵連隊で中隊長になる。1919年2月に長期休養を与えられるが、5月には軍に復帰してミュンヘンの護衛連隊第6大隊長に就任し、同月30日からはフォン・モール中将指揮下の第4集団司令部第4局(Ib部)およびドイツ義勇軍「フォン・オーフェン」の諜報・プロパガンダ部長に就任した。

諜報指導[編集]

1919年6月、復員兵であるアドルフ・ヒトラーをスカウトし、潜入諜報員および宣伝演説者とした。マイヤーはアウクスブルク・レヒフェルトのヴァイマル共和国軍施設でヒトラーに講習を受けさせ、戦争で士気が阻喪し「ボリシェヴィキ化」した部隊に民族主義(国民主義)を植え付けさせるための訓練を施した[1]。講習の修了後、マイヤーはヒトラーに対し、ミュンヘンの兵舎に赴いて反ボリシェヴィキ宣伝演説をするよう命じた。さらにヒトラーは、この時期ミュンヘンに乱立していた政治組織の集会に参加・潜入して観察するよう命じられていた。ヒトラーは集会に参加してはその政治的主張・目的・手段についてマイヤーに報告した。

1919年9月12日、マイヤーの指示でヒトラーはアントン・ドレクスラーが設立したドイツ労働者党の集会に参加し、ドレクスラーが掲げる反ユダヤ主義反共産主義に感銘を受けた[2]。また、ドレクスラーもヒトラーの弁舌能力に感銘を受け、入党を求めた[3]。9月16日にはヒトラーが最初に反ユダヤ主義を示した記録であるゲムリッヒ書簡英語版がマイヤーの指示で書かれた[4][5]

10月3日の集会にも参加したヒトラーは入党を決意し、マイヤーに対して「この人々は前線の兵士の思想を主張しているため、入党を許可していただきたい」とする報告書を提出した。後にヒトラーはドイツ労働者党を国家社会主義ドイツ労働者党に変えて党勢を拡大し、ナチス・ドイツ総統となったため、マイヤーは「ヒトラーの発見者」「ヒトラーを政治の舞台に導いた人物」としてときに過大評価されがちである。しかしマイヤーはヒトラーのみでなく指揮下にある全ての人物にヒトラーと同じことをするよう命じており、ヒトラーを特別扱いしていたわけではない。

1920年3月のカップ一揆の際、マイヤーはベルリンの情勢を探らせるため、ヒトラー、ディートリヒ・エッカートローベルト・フォン・グライムを派遣した。7月8日、マイヤーはカップ一揆の首謀者ヴォルフガング・カップに手紙を送ったことを咎められ、第7軍管区参謀部を最後に軍から退役させられた。

政治活動[編集]

1921年頃はヒトラーとナチ党に共感していたが、次第にその反対者・批判者になった。1925年にはドイツ社会民主党に入党し、ヴァイマル共和政支持派の準軍隊組織「帝国国旗、黒・赤・金」(国旗団)の指導者・機関紙編集者になったが、そのため第1歩兵連隊の退役将校協会から除名された。1930年代はナチ党やエルンスト・レームに関する情報収集に努めた。

1933年、ナチ党の権力掌握によりヒトラー内閣が成立するとフランスに移住した。しかし、第二次世界大戦の勃発後、1940年にフランスがドイツ軍に占領されると、マイヤーはパリゲシュタポに逮捕された。ドイツに連行されたマイヤーはザクセンハウゼン強制収容所に収容され、1943年にブーヘンヴァルト強制収容所に移送され、グストロフ社の弾薬工場で強制労働に従事させられ、大戦末期の1945年2月9日にイギリス空軍の空襲に巻き込まれ死亡した。

参考文献[編集]

  • Kershaw, Ian (2008). Hitler: A Biography. New York: W. W. Norton & Company. ISBN 978-0-393-06757-6. 
  • Ziemann, Benjamin (1999). “The best of two worlds – the military critics and opponents of a resolute pacifism retired Major Karl Mayr (1883-1945)”. In Wette, Wolfram. Pacifist officers in Germany from 1871 to 1933. pp. 273–285. 

脚注[編集]

  1. ^ Kershaw 2008, pp. 72–74.
  2. ^ Kershaw 2008, p. 82.
  3. ^ Stackelberg, Roderick (2007), The Routledge Companion to Nazi Germany, New York, NY: Routledge, p. 9, ISBN 978-0-415-30860-1 
  4. ^ Ewing, Jack (2011年6月3日). “Letter of Hitler’s First Anti-Semitic Writing May Be the Original”. The New York Times. http://www.nytimes.com/2011/06/03/world/europe/03iht-hitler03.html 2011年6月12日閲覧。 
  5. ^ Rawlings, Nate (2011-06-08). “The Seeds of Hitler's Hatred: Infamous 1919 Genocide Letter Unveiled to the Public”. Time. http://www.time.com/time/nation/article/0,8599,2076346,00.html 2011年6月12日閲覧。.