ホルティ・ミクローシュ

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Flag of Hungary.svg この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、印欧語族風にミクローシュ・ホルティと表記することもあります。
ホルティ・ミクローシュ
Horthy Miklós
Horthy the regent.jpg
生年月日 1868年6月18日
出生地 Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国ケンデレシュ
没年月日 1957年2月9日(満88歳没)
死没地 Flag of Portugal.svg ポルトガルエストリル
出身校 オーストリア=ハンガリー海軍兵学校
前職 海軍軍人
称号 勇爵府ハンガリー語版
配偶者 プルグリ・マグドルナ
親族 ホルティ・イシュトヴァーン(長男)
サイン Horthy kiált falunépéhez.JPG

在任期間 1920年3月1日 - 1944年10月15日
国王 (空位)
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ホルティ・ミクローシュ
Horthy Miklós
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ホルティ・ミクローシュ(1909年頃)
所属組織 オーストリア=ハンガリー二重君主国海軍
軍歴 1886年 - 1920年
最終階級 海軍中将
除隊後 ハンガリー王国執政
墓所 ハンガリーの旗 ハンガリーヤース・ナジクン・ソルノク県ケンデレシュ
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ヴィテーズ・ナジバーニャイホルティ・ミクローシュハンガリー語: Vitéz Nagybányai Horthy Miklós [ˈvite̝ːz ˈnɒɟbɑ̈ːɲɒi ˈhorti ˌmikloːʃ]、1868年6月18日 - 1957年2月9日)は、ハンガリー海軍軍人政治家ハンガリー王国の事実上の元首である執政(ハンガリー語: kormányzója)を務めた(在任:1920年3月1日 - 1944年10月15日)。フランス語風のミクローシュ・ホルティ・ド・ナジバーニャMiklós Horthy de Nagybánya)と言う名でも知られている。「ヴィテーズ(vitéz)」 とはハンガリー語で「勇者(勇爵)」の意味であり、ホルティが自ら創設した「勇爵府ハンガリー語版Vitézi Rend)」に列せられた者だけが、自分の姓名の前に付ける事を許された称号であり、正式には名前の一部ではない。

ハンガリー王国におけるホルティの地位を表すkormányzójaは、日本語では「摂政[1]「執政」「執政官」[2]などと訳される。当時のハンガリーは王制であった為、本来の国家元首は国王であるべきであったが、後述する事情によって国王を選出する事が出来ず、その代行としてkormányzójaを設置した。

生涯[編集]

オーストリア=ハンガリー帝国海軍[編集]

現在のヤース・ナジクン・ソルノク県ケンデレシュ市の在郷貴族の家に生まれた。1886年、当時、ハンガリーで唯一の海港都市だったフィウメ(現在のクロアチアリエカ)市の海軍兵学校で教育を受け、オーストリア=ハンガリー帝国海軍に入隊。1899年から教育艦「アルテミダ」艦長1903年から「ハプスブルク」の水雷士官を務め、数ヵ月後に「ザンクト・ゲオルク」に異動。1907年から帆船「ラクロマ」一等士官に異動。1908年、コンスタンティノープル(イスタンブル)海軍泊地長に昇進。翌1909年に艦隊勤務から離れて、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の侍従武官を拝命した[3]。ホルティは終生フランツ・ヨーゼフ1世を敬愛し、度々賛辞を口にしている[4]

第一次世界大戦勃発後の1914年8月、帝国海軍第3戦隊旗艦戦艦「ハプスブルク」艦長に就任。同年12月、巡洋艦「ナヴァラ」艦長に異動。イギリスフランスイタリアの三国連合艦隊がアドリア海を海上封鎖。1917年5月、海上封鎖を破るべく、オトラント堰攻撃作戦を指揮。この戦いでイタリア海軍東地中海艦隊を撃破。次いで三国連合艦隊主力と交戦し、旗艦「ナヴァラ」が大破しながらも善戦し、遂に三ヵ国によるアドリア海海上封鎖を破る。この武勲によりホルティは大佐から少将へ昇進、ハンガリー国内は海戦勝利に沸いた(オトラント海峡海戦)。翌1918年、帝国海軍提督マクシミリアン・ニェゴヴァンに代わり帝国海軍総司令官に就任。同年10月、アドリア海を南下し、ユーゴスラビアアルバニア沿岸の攻略を計画したが、作戦の要となる戦艦セント・イシュトヴァーン」がイタリア海軍の水雷艇による雷撃を受け撃沈。この作戦は中止された。10月30日、中将に昇進。11月3日のヴィラ・ジュスティ休戦協定により、艦隊は活動を停止。尚、この時、敗戦の混乱に乗じて発生したモンテネグロコトルの暴動を、200名の陸戦隊を自ら指揮し鎮圧している。

アドリア海を主戦域とした地中海中東部で、イギリスフランスイタリアの三大海軍国を相手に、艦艇数の少ない帝国海軍を率いて互角に渡り合い、大戦間を通じて終始軍事的優位を保った提督として、ホルティの名声はハンガリー国内で不動の地位を得た。

ハンガリー国民軍[編集]

1918年11月16日、ハンガリーはハンガリー民主共和国(第一人民共和制)として独立。北部ハンガリー(スロバキアカルパティア・ルテニア)はチェコスロバキアとして独立。ハンガリー領トランシルヴァニアルーマニアが併合。ハンガリーは帝国解体後、大きく領土を喪失し、多くの国民が不満を持つ事となる。

騎乗するホルティ(1919年10月16日)

1919年3月1日、ハンガリー革命が発生。首都ブダペストで都市・炭坑労働者が蜂起し、指導者クーン・ベーラ共産主義政権ハンガリー評議会共和国(ハンガリー・ソビエト共和国とも)を樹立した。しかし評議会(ソビエト)共和国は、大半の保守的なハンガリー国民から支持を得る事が出来なかった。この為、評議会が率先して赤色テロを行い、旧皇帝(国王)派、旧帝国軍人を粛清し、保守的知識人、教会を迫害した。4月16日、ハンガリー国内の混乱に乗じ、ルーマニアが「赤色革命の飛び火を防ぐ」と言う大義名分でハンガリーへ侵攻(ハンガリー・ルーマニア戦争)。評議会は粛清で弱体化した旧帝国軍に代わり、新たに「ハンガリー革命軍」を創設、都市・炭坑労働者を組み込み、ルーマニア王国軍を迎え撃つ事となった。軍事的経験の浅い首班クーン・ベーラは革命軍がルーマニア王国軍に勝利する事を疑わず、トランシルヴァニア地方の奪還をも楽観視していた。第一次大戦の敗戦による帝国の解体。領土を大きく喪失し、今またルーマニアの侵攻と言う正に「亡国の危機」にハンガリーは瀕していた。

ホルティはフィウメで連合国に降伏、イタリア海軍へ艦船を引き渡し、帝国艦隊を解散した。しかし、部下を連れハンガリーへ帰国する予定が、ソビエト政権の誕生により大きく狂う事となる。艦隊処理を終えたホルティの元には、評議会の迫害から逃れて来た人々が溢れ、直ちに帰郷出来る状態ではなかった。だが、ハンガリーの混乱に対して、ホルティは職業軍人として「軍人は政治に介入せず」と言う姿勢を貫き、専ら避難民の保護に努めた。しかし、オラデアより出撃したルーマニア王国軍がハンガリー東部へ侵攻し、東部各地で革命軍が敗走している事を知り、ホルティはハンガリーを防衛する為、評議会の打倒を決意。6月、旧帝国海軍兵を率いてドラバ川を渡り、ハンガリー西部の都市・バルチュでハンガリー国民軍の創立を宣言した。ハンガリー国民軍に呼応して、ハンガリー全土で民兵組織(義勇軍)が蜂起、ホルティの元に旧軍人、民兵(義勇兵)が集まり、ハンガリー国民軍は革命軍を遥かに凌ぐ勢力に拡大した。8月6日、ルーマニア王国軍がブダペストへ入城しクーン・ベーラ政権を打倒。ハンガリー国民軍はルーマニア王国軍と首都ブダペストを挟んで対峙する事となる。ルーマニアはハンガリー東部の更なる領土の割譲を要求するが、ホルティはこれを拒否。フランスの軍事支援を取り付け、革命軍に代わり継戦を示唆した。ハンガリー国民軍はハンガリー国民の支持を受け、士気が高く、「明日にはブダペストを!(Holnap elmegyek Budapestre!)」を合言葉にブダペスト入城を待ち続けた。対するルーマニアはクーン・ベーラ政権を打倒した事により、大義名分を喪失。進駐の長期化によるルーマニア王国軍の士気の低下と国内の動揺を恐れ、事態の収拾を本格化させる事となる。ホルティはルーマニアとの厳しい和平交渉の末、無割譲・無条件で、ルーマニアより、ハンガリー国内からのルーマニア王国軍の撤兵の確約を取り付けた。11月14日、ルーマニア王国軍が首都ブダペスト撤退を開始。代わってホルティ率いるハンガリー国民軍が首都ブダペストへ無血入城し、ホルティはハンガリー全土を掌握した。これらの事態を収拾したホルティの名声は更に高まり、ハンガリー国民の圧倒的多数がホルティを軍事的、政治的な「絶対的指導者」として支持した。クーン・ベーラ政権に協力した共産主義者の中からも、ホルティを支持し転向する者が現れた。尚、赤色テロの反動として一時、愛国者・保守派・旧皇帝派により、クーン・ベーラに協力した共産主義者に対する白色テロが横行した(ハンガリー軍による白色テロ英語版)。

クーン・ベーラ政権崩壊後、ハンガリーを掌握したハンガリー国民軍は、旧帝国の皇族であるオーストリア大公ヨーゼフ・アウグストを「我らが王」(Homo Regius)として擁立した。しかし、ハプスブルク帝国の復活を怖れる協商国陣営とルーマニアが再宣戦を含め強硬に反対。10月23日、ヨーゼフ・アウグスト大公は暫定的な王位から退位した。退位後、極めて短期間、「共和国議会」よりフリードリッヒ・イシュトヴァーン、次いでフサール・カーロイが「共和国大統領」として選出され、ハンガリーを統治した。

第一次大戦の敗戦、帝国の解体、及び領土の喪失が我慢ならない国内の反動主義者、愛国者達は、聖イシュトヴァーンの王冠の地の栄光を取り戻す社会運動を開始。中世、中欧に栄えたハンガリー王国に倣い、王国の復興を標榜した、所謂「ハンガリーの誇り」を保守的な新聞を通じてハンガリー国民に盛んに宣伝した。この愛国運動が全国民的な社会変革運動へ発展し、国内世論の大多数が共和制から国王を擁した立憲君主主義体制を求める様になった。ヨーゼフ・アウグスト大公が暫定的な王位を退位して僅か数ヵ月後、1920年2月、王政復古を問う国民投票が行われ、共和制から立憲王制への移行が決定された。

ハンガリー王国執政[編集]

トリアノン条約で分割されたハンガリーと、各地方の人口民族構成。濃い緑がハンガリーの失地

1920年3月1日、「共和国議会」より改称した「ハンガリー国民議会」は、第一次世界大戦の敗戦により事実上瓦解していた(チェック人スロバキア人を始めとする各民族の「民族自決」による独立)オーストリア=ハンガリー帝国を再統合し、帝国を再建すべく、その第一歩としてハンガリー王国の成立を宣言した(元々ハンガリー人は帝国の中核をなす民族としての自負が高く、事実ハンガリー人貴族の方がドイツ人貴族より多かった)。しかし、ハプスブルク家の国王推戴は戦勝国側である協商国に断固否定され、ハンガリーは国王不在を余儀なくされた。この状況を打開すべく、国民議会は事実上の元首として、ホルティを「ハンガリー王国執政」に選出(国民議会定数138票中、賛成131票獲得、5票欠席、2票途中退席)。この選出は表向き協商国に対する安全保障、つまりオーストリアを追われたハプスブルク=ロートリンゲン家の皇帝カール1世(カーロイ4世)を、ハンガリー王国国王に復位させない事を条件とした選出であったが、実際にはカール1世を戴いてオーストリア=ハンガリー帝国の再興を目指す皇帝派と、ハンガリー王国として喪失した領土の回復を目論む民族主義者との妥協の産物と言えるものであった。

ハンガリーが共和制から立憲王政に移行する間、ホルティは国内を旅行し、共に戦った退役軍人達との交流を楽しんだ。政治には全くの無関心であったが、旅行中、国民議会が自分を執政に指名すると言う新聞記事を読み、新聞社へ直接確認している。国民議会の指名により、強制的に執政に選出された事を激怒したホルティは国民議会への出席を拒否した。「私は一介の軍人に過ぎない。大公殿下とハンガリー国民に忠誠は誓うが、政治は門外漢だ」と、辞退したが、ヨーゼフ・アウグスト大公直々にホルティの元を訪れ、執政への就任を要請。ホルティは執政就任を受諾せざるを得ない状況へ追い込まれた。ホルティは、国王不在のまま執政として、長い大戦とそれに続く混乱・内戦で疲弊した国内経済の立て直しに着手。国会は全面的にホルティの政策を支持し、議会制に基づく緩やかな独裁体制が確立した。

1920年6月20日トリアノン条約が成立、ハンガリーの領土は著しく削減された。北部ハンガリー、トランシルヴァニアなどを失い、ハンガリーは伝統的な国土の大半を失った。この為ハンガリー国内には不満が鬱積し、失地回復が要求される様になった。

1921年3月26日、ホルティの休暇中にカール1世がハンガリーに帰国し、ハンガリー王カーロイ4世としての即位を要求した。国内世論は協商国との係争化を懸念、ホルティは当初これを受け入れようとしたが、オーストリアへの侵攻を画策するカール1世を国民議会が拒絶。3月27日、ホルティ自身はハプスブルク家への忠誠を誓っていたが、オーストリアへの侵攻は国力的にも国際的にも無理である事を承知しており、オーストリアを諦めるならカール1世を国王として国民議会へ推挙する用意がある事をカール1世へ伝え、この返答に約一ヶ月の猶予を与えた。 3月28日、ハプスブルク家の復活を嫌った周辺諸国が反発、チェコスロバキアとユーゴスラビア王国の使節は「カールの復位は両国との開戦理由になる」と警告。国民議会も急遽「ホルティ執政の統治継続」と「カール1世の逮捕」を求める決議を満場一致で可決。ホルティはハプスブルグ家(カール1世)と国民議会(ハンガリー国民)との板挟みとなったが、カール1世のオーストリア侵攻計画の件もあり、ホルティは最終的に国民議会に従った(3月危機)。 6月、ハプスブルグ家に忠誠を誓う「正統主義者」が王党派(皇帝派)と共に、ホルティに対しカール1世の即位を要求しホルティの政権を言論で攻撃。親王党派のホルティは国民議会にカール1世の即位を働き掛けるが、国民議会はこれを拒絶。正統主義者、王党派とホルティの間で幾つかの会合が持たれたが、最終的に決裂した。 10月21日、カール1世が正統主義者、王党派(皇帝派)に擁されハンガリーへ入国。カール1世を支持する一部のハンガリー王国軍が合流し、内戦の危機に陥る。ハンガリー国民軍が発展的に改組されたハンガリー王国軍は概ねホルティに忠誠を誓っており、ホルティ自身はカール1世へ権力の移譲を希望していたが、近隣国との摩擦、特にオーストリアを巻き込んだ即位は時期尚早との立場だった。尚、チェコスロバキア、ユーゴスラビア王国は実力をもってカール1世の即位を阻止すべく、国境へ軍を集結させる事態となった。 10月24日、事態を収拾すべく、ホルティは止む無くカール1世夫妻を逮捕、カール1世も内戦は意図しておらず、ホルティの決断に従った。 10月29日、カール1世を逮捕しても尚、チェコスロバキア、ユーゴスラビア王国は国境付近から撤兵せず、チェコスロバキア外相エドヴァルド・ベネシュはハプスブルク家の廃位がなければ侵攻すると最後通牒を行った。ホルティはこれに激怒し、ハンガリー王国軍の動員を計画したが、イギリス大使ホーラーによって制止された。 11月、国民議会が1713年の国事勅書を無効とする法案を可決。カール1世の王位継承権を明白に否定した事で、ホルティ自身、皮肉にもハプスブルク家による立憲王政への回帰を諦めざるを得ない状況となった(カール1世の復帰運動)。

執政としてのホルティは、伝統的な立憲君主に及ばない程度の権限を持っていた[5]。ホルティは侍従武官時代に身に付けた厳格な気品と、海軍時代の時間的厳密さを合わせ持つスタイルで振る舞った[6]。アメリカの駐ハンガリー公使ジョン・フローノイ・モンゴメリー英語版はホルティに魅了され、終生その熱心な信奉者となった[7]。ホルティは誠実且つ愚直な軍人故に物事を直言する事が多く、外務大臣や執政府はホルティが外国人、特に外国の新聞記者と接触する事を極力制限していた[8]

第二次世界大戦前夜[編集]

ホルティとヒトラー(1938年)

民族主義者はイタリアで起ったファシスト運動に触発され、矢十字党を始めとして数多くの民族主義政党を設立、国民議会の選挙を通じて一定の議席数を確保し、国政へ発言権を増幅させせる事に成功していた。国民議会は復興目覚ましいナチス・ドイツへ接近、渋るホルティを促してドイツとの軍事同盟を締結させた。ホルティ自身はナチス政権に懐疑的で、時に嫌悪感すら表し、アドルフ・ヒトラーについても軽蔑していた[9]。「ホルティが辞任すればハンガリーはずっと良くなると言われれば自分は辞任するが、ヒトラーは決して辞任しないであろう」と評している[10]。実際、ハンガリー国内の親独組織の首魁として台頭しつつあったサーラシ・フェレンツを度々逮捕させたり、親独的なイムレーディ・ベーラハンガリー語版首相を解任している[11]。又、反ヒトラーグループで活動していた、アプヴェーアのヴィルヘルム・カナリスと親しく語り合っていた[11]。そして反ユダヤ主義には断固反対しており、当時準備されていた反ユダヤ法に対しても「愛国的なユダヤ人」に損害を与えると懸念しており、「彼らは自分と全く同じハンガリー人なのだ」とも語っている[12]

しかし、結果としてハンガリーはドイツと運命共同体となる事を選択し、枢軸国として戦争の道を突き進んだ。先ず、ドイツはハンガリーへの懐柔策としてウィーン裁定を行い、スロバキア南部とカルパティア・ルテニア、ルーマニアから北部トランシルヴァニアをハンガリーへ返還させた。又、ドイツ軍ユーゴスラビア侵攻後、東部ヴォイヴォディナを割譲した事から、ハンガリー国内ではより一層、ドイツに協力的なファシスト運動が盛んとなった。

第二次世界大戦独ソ戦が始まると、国内のファシズム運動に押され、国民議会も枢軸国の一員としてソビエト連邦へ宣戦布告を決議、ホルティも追認した。しかし、ホルティは反共主義者ではあるが、厳格な軍人であり現実主義者として、破竹の勢いで欧州を席巻したドイツ軍を評価しつつも、ソ連への宣戦には懐疑的であり否定的であった。「ロシアの冬を甘く見ない方がいい。ナポレオン(率いるフランス軍)と同じ運命を辿る事となるだろう」と、枢軸国ながら駐独大使に警告している。ハンガリー王国軍はルーマニア王国軍と共に、長大な東部戦線の最右翼、オデッサ方面の攻略を担い、参戦当初は順調に進撃していた。しかし、「野砲の援護と騎兵突撃」を組み合わせたハンガリー王国軍の旧来の戦術は、後に登場したT-34を始めとするソ連軍の新式中・重戦車に到底太刀打ち出来ない物であった。スターリングラード攻防戦でのパウルス元帥率いるドイツ軍が壊滅し、次第に枢軸国の劣勢が明らかとなると、ホルティは早々にドイツと距離を置く事を考慮し始めた。又、ドイツはハンガリー国内のユダヤ人をドイツ国内に移送する事を要求したが、ナチスによるユダヤ人政策に予てから批判的であったホルティはこれを断固拒否。ブダペストに駐在するドイツ大使を政務室へ呼び付け、「君等が我々から誘拐出来るユダヤ人は只の一人もいない。彼等は我々の良き友であり、王国国民である。私は執政として国民を護る義務を負っている」と一喝している。

失脚と軟禁[編集]

1944年3月、首相カーロイ・ミクローシュ英語版が行っていた連合国との休戦交渉が発覚し、ホルティはオーバーザルツベルクのヒトラー山荘ベルクホーフに軟禁状態にある内に、ハンガリー全土はドイツ軍によって短期間の内に無血占領された(マルガレーテI作戦)。8月、隣国ルーマニアが枢軸国を離脱し、ソ連軍がハンガリー国境に迫った。ホルティはドイツと断交し、連合国と休戦する事を決定した。しかし、それを阻止したいドイツはホルティの次男ミクローシュを誘拐し(ミッキーマウス作戦)、親独派の矢十字党に政権を握らせるクーデターを起こした。ホルティは「息子と国家とどちらが大事なのか、それが分からない程愚かではない」と当初は要求を撥ねつけていたが、矢十字党から要求を呑まなければ各地方の主なカトリック教会の司祭を処刑すると脅迫され動揺、その間にも既成事実化すべく、10月15日に矢十字党は休戦を発表したホルティの放送を撤回し、王宮は矢十字党党員とドイツ兵に取り囲まれた。ホルティはドイツの強要に従い、矢十字党のサーラシ・フェレンツを首相及び国民指導者に指名した後、執政の座から退くことを宣言。王宮で会見したホルティはサーラシに対して「国を売り渡す者よ、私を(王宮前広場に)吊るす革紐は用意出来たかね?」と悪態を吐いた。予てより政敵ながらホルティを尊敬していたサーラシは激しく動揺し、ホルティの身の安全が保証されなければハンガリー国民統一政府の国民指導者には就かないとドイツ大使に伝えた。ドイツ大使はホルティの身の安全を保証し、表向き「静養」と言う形でドイツに移送され、ドイツ国内の別荘地に軟禁された。サーラシ率いるハンガリー国民統一政府は、ソ連軍によって占領されるまで枢軸国側に留まった。尚、誘拐された息子ミクローシュは終戦後にアメリカ軍によって解放されている。

戦後[編集]

ケンデレシュに建立されたホルティの霊廟

戦後拘留を解かれたホルティに対して、戦犯として裁くことをユーゴスラビアが要求したが、この訴えは連合国によって直ちに却下された。モンゴメリー元公使がホーマー・スティル・カミングス英語版司法長官に手を回した為とも言われる[13]

ホルティは身の安全を得たが、ソ連軍の占領下でハンガリーには共産主義政権が樹立されたため、帰国する事が出来なくなった。以後、ホルティは家族と共にアントニオ・サラザール政権下ポルトガルで余生を送り、1957年に死去した。殆ど無一文であったホルティ一家の為、モンゴメリー元公使一家はホルティ夫妻が死亡するまで財政援助を行っている[13]。又、娘のイロナの回想によると、亡命したハンガリー系ユダヤ人達からも援助があったと言う[14]。晩年に両世界大戦を振り返った回想録を執筆している。ハンガリー動乱が鎮圧された事に衝撃を受け、「ロシア兵が一人残らずハンガリーを去るまで」自分の遺体をハンガリーには返さないよう言い残した。かつて国民軍を率いソビエト政権と戦った勇将として、最後の意地とも言える遺言であった。

ホルティの遺骸はソ連が崩壊しハンガリーが民主化を達成した後の1993年に漸くハンガリーに戻され、故郷のケンデレシュに埋葬された。この際、ハンガリー及び国外の反応は、好意的なものと批判的な物の二つに分かれた[15]。ホルティの霊廟には今も献花が絶える事はない。

日本との関係[編集]

ホルティは海軍士官時代、日露戦争の時期に日本を一度訪問している。1938年にモンゴメリーアメリカ公使と会談したホルティは、「日本には一度行った事があるが、彼らは小さな猿に過ぎない」と語っている[9]。一方でハンガリーが三国条約に加盟した際には、ハンガリー駐日大使ギガ・ジェルジが「ホルティが来日した際に日本人男女の姿を腕に入れ墨しており、機嫌が良い時には人に見せる」程の親日家であると言う事をアピールしている[16]

脚注[編集]

  1. ^ フランク・ティボル著、寺尾信昭訳『ハンガリー西欧幻想の罠』、児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』
  2. ^ 在ハンガリー日本国大使館案内 -在ハンガリー日本国大使館、
  3. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 39.
  4. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 40.
  5. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 42.
  6. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 39-43.
  7. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 41.
  8. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 49.
  9. ^ a b フランク・ティボル 2008, pp. 13.
  10. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 47-48.
  11. ^ a b フランク・ティボル 2008, pp. 45.
  12. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 47.
  13. ^ a b フランク・ティボル 2008, pp. 50-51.
  14. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 50.
  15. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 18.
  16. ^ 梅村裕子 2013, pp. 174.

参考文献[編集]

  • フランク・ティボル著、寺尾信昭訳『ハンガリー西欧幻想の罠』(2008年、彩流社)
  • 梅村裕子「今岡十一郎の活動を通して観る日本・ハンガリー外交関係の変遷」(国際関係論叢 2(2), 159-206, 2013-07-31)

外部リンク[編集]

関連項目[編集]