ジャックリーの乱

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ジャックリーの乱
Jacquerie
Jacquerie meaux.jpg

フロワサールの年代記の第一巻の「ジャックリーの乱」の押絵。この反乱の農民軍は残虐だったと書かれている
戦争百年戦争中のフランスで起こった大規模な農民反乱
年月日1358年
場所ピカルディノルマンディーシャンパーニュなどフランス北東部
結果:フランス軍の勝利。フランス軍の農民への警戒
交戦勢力
Pavillon royal de la France.svg フランス王国
Bandera de Reino de Navarra.svg ナバラ王国
農民反乱軍
指導者・指揮官
Armas Navarra-Evreux.svg カルロス2世 ギヨーム・カルル
戦力
1500 4000
損害
軽微  全滅

ジャックリーの乱 (Jacquerie) は、1358年百年戦争中のフランスで起こった大規模な農民反乱。

概要[編集]

反乱の名前は当時の農民を貴族が指すときの蔑称ジャック(Jacques)に由来するとされ,それは当時の農民が短い胴衣jaques を着ていたことに由来する[1].当時の年代記作者によって、当初、指導者名がジャック・ボノムと誤って伝えられたことに由来するという異説もある。

当時のフランス王国は、黒死病や貨幣の改悪、百年戦争のポアティエの戦いでの敗北による王権の失墜に苦しみ、農村にいたっては傭兵団による略奪され、農民を守るべき貴族は重税を課していた。

農民たちは、我慢の限界に達していたが、1358年5月末にサン=ルー=デスラン村 (Saint-Leu-d'Esserent) の村人たちが衝動的に徒党を組んで領主の館を襲撃し一族郎党を殺害、破壊や略奪行為に及んだ。

これをきっかけとして始まり、ピカルディノルマンディーシャンパーニュなどフランス北東部で広範に広がり叛乱した農民たちはそれぞれに指導者を選んで貴族、騎士、郷士を標的にして殺害し邸宅、城を破壊、略奪した。農民軍のスローガンは、「旦那たちを倒せ」であり領主は殺し、女は凌辱、子供は串刺しにして丸焼きにしたともいわれる。

その農民軍を統率するようになったのはギヨーム・カルル (Guillaume Carle/姓はカール Kale、カイエ Caillet、カレ Callet ともいわれる) であった。

カルルは、パリで叛乱を起こしたエティエンヌ・マルセルとの共闘を目指したが、6月10日にナバラ王シャルル (Charles le Mauvais) の貴族軍に素人の烏合の衆でしかない農民軍は、メロの戦いで敗れた。カルルは休戦交渉に赴いたところを捕らえられ拷問されて処刑された。反乱軍の農民たちは皆殺しにされ、反乱がおきた地域への貴族側の報復は徹底され農村は荒廃した。

その残虐さの記憶は、人々の心に刻まれ再発の恐怖は近世までフランスの農村にあった。[2]近代になると再評価する者も現れた。すなわち領主による農民を保護する機能の低下が反乱の底流として指摘できよう。すなわちこの乱は農民の自己の共同体慣行と文化、日常的生存を守ろうとする自衛の蜂起であり、領主権力の衰退と農村共同体の自立(成長)の反映と見ることができる[3]

脚注[編集]

  1. ^ 平凡社大百科事典 1998年版
  2. ^ 『西洋中世史事典』234頁、東洋書林、1999年
  3. ^ 平凡社大百科事典 1998年版

関連項目[編集]

小説[編集]