マグナ・カルタ

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マグナ・カルタまたは大憲章(だいけんしょう)(: Magna Carta: Magna Carta Libertatum: the Great Charter of the Liberties、直訳では「自由の大憲章」)は、イングランド王国においてジョン王により制定された憲章である。イングランド国王の権限を制限したことで憲法史の草分けとなった。また世界に先駆け敵性資産の保護を成文化した[1]

1215年に作られた、マグナ・カルタの認証付写本

概要[編集]

ブーヴィーヌの戦いが制定のきっかけである。1214年7月にフランスが勝利したので、ジョン王はさらに軍隊を確保しなくてはならなかった。そこでイングランド貴族がそれぞれに抱えていた不満を救済するよう強く求めた。さしあたりヘンリー1世の戴冠証書(Charter of Liberties)の写しが要求の出発点となった。この12項目からなる「未知の憲章(The Unknown Charter)」は、現在大英図書館に所蔵されている。 マグナ・カルタはラニーミードにおいて1215年6月19日に制定され、法の支配を確認した。教皇インノケンティウス3世の勅令により無効とされたものの、その後、数度改正されている(英語版を参照されたい)。 国王と議会が対立するようになった17世紀になり再度注目されるようになった。マグナ・カルタの理念は、エドワード・コーク卿ほか英国の裁判官たちによって憲法原理としてまとめられた。マグナ・カルタは清教徒革命アメリカ独立戦争の根拠となった。19世紀末に「未知の憲章」がジョン・ホラース・ラウンド(J. Horace Round)により再発見された[2]2009年マグナ・カルタはユネスコの『世界の記憶』に登録された。 1225年に作られたヘンリー3世のマグナ・カルタの一部は、現在でもイギリスにおいて憲法を構成する法典の一つとして効力を有する。

未知の憲章[編集]

1204年、ジョン王フランスフィリップ2世との戦いに敗れてフランス内の領地を失った。1214年ジョン王が戦を再び仕掛けて再び敗戦した(ブーヴィーヌの戦い)。この戦いは教皇派と皇帝派の争いという側面をもっていたが、7月27日フランスの勝利に終わった。ジョン王のさらなる徴兵に対して貴族はいきり立った。帰国したカンタベリー大司教John de Gray)は彼らに対話で解決するよう働きかけたが10月18日に死んだ。貴族側で「未知の憲章」が作成され、年内から交渉に用いられた。貴族らは雑多で、しかし具体的な要求を掲げた。デュー・プロセスの保障、相続税額の具体化、ユダヤ人に対する負債の猶予、軍役の範囲をノルマンディーとブルターニュまでとすること、そして御料林という直轄領に関する事項であった。12項目のうち3項目は御料林に関係した。まず、ヘンリー2世の即位年から御料林法で設置されたものは、根拠法の適用を受けないものとした。1135年以降、その根拠法が適用されるのと等しい状態にあった土地も、適用を免れるものとした。御料林法が引続き適用される地域でも効力が制限されることとなった。

いかなる人も御料林に関して生命を奪われてはならないし、手足を切断されてはならない。

貴族条項[編集]

1215年である。1月6日ロンドンで、4月26日ノーサンプトンで、貴族はジョン王と会談した。この間に両派は教皇庁に訴えることができた。貴族はジョン王の裁決に従うよう言い渡された。そしてやはり、ノーサンプトンでの交渉は決裂したのである。5月5日ジョン王側で貴族の怒りが爆発した(臣従誓約の破棄)。一週間後、ジョン王は貴族の所領を没収する勅令を発した。貴族はジョン王の廃位を求めて結託した。5月17日ロンドン市が同調し、貴族を迎え入れた。ジョン王はロンドンの西にあるウィンザー城に籠もった。貴族は「未知の憲章」よりも遥かに長大な「貴族条項(The Articles of the Barons)」を編んだ。そこでは諸権利が封建的慣習にもとづく強制手段により担保されていたが、聖職者はこの点に反対であった。さらにそこへはロバート・フィッツウォルター(Robert Fitzwalter)を長とする25人の貴族が代表者として選出されることが盛り込まれた(いわゆる保証条項の一部)。6月10日から島のように開けたラニミードに天幕を張って最終折衝が行われ、19日にマグナ・カルタという妥協が成立した。マグナ・カルタは御料林について、各地方の騎士たちが問題地域の慣習を調査することを規定したにとどまった。

バロン戦争へ[編集]

経過報告を受けていたローマ教皇インノケンティウス3世が、6月下旬に貴族条項ないしマグナ・カルタの廃棄を命じた。イングランド国王は教会以外の約束に縛られるものではないとして、キリスト教の復権を図った。令状は9月下旬に王と貴族の双方へ届けられた。三ヶ月の郵送期間には既得権が成立していた。マグナ・カルタはジョン王にロンドンを明け渡すことを定めていたが、三ヶ月すぎてもロンドン市民は行政長官の支配を許さなかった。例の25人がロンドンに軍を保持していたのである。かたや25人の代表団はマグナ・カルタによって所領の自治を実現した。彼らは十州で自分たちの州長官を任命した。

教皇の支持を得たジョンが再び争うと、貴族らはフランスルイ王太子に王位を提供しようとした。

1216年10月にジョンが死ぬとルイ王太子がロンドンへ侵攻した(第一次バロン戦争)。マグナ・カルタはヘンリー3世の摂政ウィリアム・マーシャルの元で再確認され、バロン戦争を終結させた。そしてこのときやっと、御料林憲章(Charter of the Forest)が公布された。

ヘンリー3世はその後マグナ・カルタを守らなかったため、たびたび再確認・修正された。

マグナ・カルタの構成[編集]

前文と、63ヶ条から構成される。原文はラテン語が用いられている。写しが大量に書かれたため[3]、各地に残っているが、イングランド内に現存するオリジナルの文書は4通である。特に重要な5項目を挙げておく。

  • 教会は国王から自由であると述べた第1条
  • 王の決定だけでは戦争協力金などの名目で税金を集めることができないと定めた第12条
  • ロンドンほかの自由市交易の自由を持ち、関税を自ら決められるとした第13条
  • 国王が議会を召集しなければならない場合を定めた第14条
  • 自由なイングランドのは国法か裁判によらなければ自由や生命財産をおかされないとした第38条

イギリスの現行法令集w:Halsbury's Statutesに載っている条文は、1225年のヘンリー3世の時代に作られた新しいマグナ・カルタを、1297年にエドワード1世が確認したものである。前文と4か条が廃止されずに残っている。

  • 前文 国王エドワードによるマグナ・カルタの確認
  • 第1条 教会の自由
  • 第9条(1215年の原マグナ・カルタの13条に相当) ロンドン市等の都市・港の自由
  • 第29条(原39条および40条) 国法によらなければ逮捕・拘禁されたり、財産を奪われない(デュー・プロセス、適正手続)
  • 第37条(1225年のマグナ・カルタの37条および38条に相当) 盾金、自由と慣習の確認、聖職者および貴族の署名

脚注[編集]

  1. ^ 意訳。「イングランドに身柄のある敵国の商人は、原則として身体の自由と財産権をなんら損なうことなく留め置かれる。ただし、王か王室裁判所の所長が、敵国に身柄のあるイングランド商人がどのような待遇を受けているか知った後は、イングランド内の敵国商人は互恵主義に基づいて扱われる」 Constitution Society, The Magna Carta (The Great Charter), 1215, Article. 41.
  2. ^ John W. Baldwin, "Master Stephen Langton, Future Archbishop of Canterbury: The Paris Schools and Magna Carta", The English Historical Review, Volume CXXIII, Issue 503, 1 August 2008, Pages 811–846, saying, "As a postscript to Stephen Langton's role in Magna Carta, some detective work is required to account for the Unknown Charter at Paris. Initially found in the French archives by an English Royal Commission early in the nineteenth century, it lay buried in their unpublished reports. The French archivist Alexandre Teulet had edited it in 1863 in his comprehensive Layettes du Trésor des Chartes (vol. I, nos. 34 and 1053), but it was John Horace Round who ‘discovered' it thirty years later in 1893 as he was examining the reports of the Royal Commission in London."
  3. ^ マグナ・カルタ写本4点を初の同時展示、発布800周年で - ロイター(2015年 02月 3日 15:22 JST版 2015年2月3日閲覧)

参考文献[編集]

  • エドマンド・キング著 古武憲司 ほか2名訳 『中世のイギリス』 慶應義塾大学出版 2006年 141-148頁

関連項目[編集]