グリゴリー・ラスプーチン

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グリゴリー・ラスプーチン
Grigori Rasputin 1916.jpg
生誕 1869年1月9日
Romanov Flag.svg ロシア帝国 チュメニ州ポクロフスコエ村
死没 1916年12月30日(満47歳没)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 サンクトペテルブルク
職業 農民
自称祈祷僧
配偶者 プラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブドロヴィナ
子供 マリア・ラスプーチン英語版

グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンГригорий Ефимович Распутин グリゴーリィ・イフィーマヴィチュ・ラスプーチン、ラテン文字転写:Grigorii Efimovich Rasputin、1869年1月9日[1] - 1916年12月30日ユリウス暦12月16日))は、帝政ロシア末期の祈祷僧シベリアチュメニ州ポクロフスコエ村出身。

奇怪な逸話に彩られた生涯、怪異な容貌から怪僧・怪物などと形容される。ロシア帝国崩壊の一因をつくり、歴史的な人物評はきわめて低い反面、その特異なキャラクターから映画や小説など大衆向けフィクションの悪役として非常に人気が高く、彼を題材にした多くの通俗小説や映画が製作されている。

出生から帝都進出まで[編集]

信者の女性たちに囲まれたラスプーチン(1914年)

1869年1月9日、シベリアの寒村ポクロフスコエ村の農夫の第5子として生まれる。翌10日に洗礼を受け、ニュッサのグレゴリオスから名前をもらい、「グリゴリー」と名付けられた[2]。ラスプーチンは学校に通わなかったため読み書きが出来なかった(1897年のロシア政府の調査によると、村人の大半が同様に読み書きが出来なかった)[3]。幼少期のラスプーチンについて、娘のマリア・ラスプーチン英語版が記録を残しているが、彼女の記録は信頼性が低いと見なされている[4]

1887年にプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブドロヴィナと結婚するが、1892年に父親や妻に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔した[5]。一説では、野良仕事をしているとき生神女マリヤの啓示を受けたといわれている。出奔後はen:Verkhoturyeの修道院で数か月過ごしたが、その際に出会ったマカリという人物に強い影響を受け、村に戻って来た時には熱心な修行僧になっていた[6][7][8]

1903年に再び村を離れ、キエフ・ペチェールシク大修道院で数年を過ごし、カザンでは司教や上流階級の人々の注目を集める存在となった[9][10][11]。ラスプーチンは十分な教育を受けていないため、独自の解釈で聖書を理解していたが、その熱心な姿勢が好感を与えていた[12]。その後、ラスプーチンはクロンシュタットのジョン英語版と共に教会建設の寄付金を集めるためにサンクトペテルブルクを訪れ、サンクトペテルブルク神学校英語版セルギウス1世英語版に寄付を求めた[13]。サンクトペテルブルク滞在中のラスプーチンはアレクサンドル・ネフスキー大修道院に宿泊していたが、その能力に感銘を受けたen:Theofan (Bystrov)に請われ、彼の宿舎に移り住む。

ロマノフ家の語学教師だったペーター・ギラード英語版によると、ラスプーチンがサンクトペテルブルクに来たのは1905年とされるが、歴史家のヘレン・ラパポート英語版は1903年の四旬節の頃と主張している他、1904年という説もある[14][15][16]

皇帝夫妻の友人[編集]

皇帝夫妻をラスプーチンの傀儡として描いた反皇帝派のポスター

サンクトペテルブルクに出たラスプーチンは、人々に病気治療を施して信者を増やし「神の人」と称されるようになり、神秘主義に傾倒するミリツァ大公妃アナスタシア大公妃の姉妹から寵愛を受けるようになる[17]。後にアレクサンドラ皇后に紹介され、血友病患者であったアレクセイ皇太子を治療して皇后の信頼を得た。1905年11月1日ロシア皇帝ニコライ2世に謁見し、以後、皇太子の病状が悪化する度に宮廷に呼び出された[18]。ラスプーチンが祈祷を捧げると、不思議にも皇太子の発作が治まって症状が改善した。その治療法は催眠療法の一種ではないかと推測されているが、こうして皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取り、「我らの友」と呼ばれるようになったラスプーチンは、皇帝夫妻の権威を背景に政治に容喙するようになった。

やがてラスプーチンは皇后はじめ宮中の貴婦人や、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めるようになる。彼が女性たちの盲目的支持を得たのは、彼の巨根と超人的な精力によるという噂が当時から流布しており、実際に彼の生活を内偵した秘密警察の捜査員が呆れはて、上司への報告書に「醜態の限りをきわめた、淫乱な生活」と記載するほどであった。第一次世界大戦が勃発してニコライ2世が首都を離れて前線に出ることが多くなると、内政を託されたアレクサンドラ皇后は何事もラスプーチンに相談して政治を動かし、人事を配置した。前線から届く不利な戦況から、敵国ドイツ出身であった皇后とドイツの密約説が流れ、皇后とラスプーチンの愛人関係までが噂されるようになった。こうしてラスプーチンは廷臣やロシア国民の憎悪を一身に背負うことになったのである。

しかし、ヨーロッパで最も官僚的といわれたロシア宮廷は、ラスプーチンが権勢を振るう環境ではなく、元々ラスプーチンも政治に強い関心はなかったとされている。皇帝に対して大戦不参加を説いたり、革命運動激化を考慮して農民層の減税などの提言をしたこともあったが、皇帝の政策決定に大きな影響を与えた証跡はない。

暗殺[編集]

皇后の信任を背景にラスプーチンが宮廷人事を左右しはじめた事に、宮廷貴族たちは危機感を抱き、ついに暗殺計画が立てられた。1916年12月29日、皇帝の姻戚であるユスポフ公は皇帝の従兄弟のドミトリー大公と共謀してラスプーチンを晩餐に誘い、彼の食事に青酸カリを盛った。しかしラスプーチンは毒入りの食事を平らげた後も態度に変化を示さず、周囲を驚愕させた[19]。食後に祈りを捧げていたラスプーチンは背後から鉄製の重い燭台で頭蓋骨が砕けるまで激しく殴打され、大型拳銃で2発の銃弾を撃ちこまれた。ラスプーチンは反撃に出るがさらに2発、計4発の銃弾を受け、倒れたところに殴る蹴るの暴行を受けて窓から道路に放り出された。それでも息が残っていたので、絨毯で簀巻きにされ、凍りついたネヴァ川まで引きずられ、氷を割って開けた穴に押し込まれた。3日後にラスプーチンの遺体が発見され、警察の検視の結果、に水が入っていた事から死因は溺死とされた。川に投げ込まれた時もまだ息があったのである。

死の前にニコライ2世に謁見したラスプーチンは、以下の様な予言めいた進言をしたとされる。

私は殺されます。その暇乞いに参りました。私を殺す者が農民であれば、ロシアは安泰でしょう。もし、私を殺す者の中に陛下のご一族がおられれば、陛下とご家族は悲惨な最期を遂げる事となりましょう。そしてロシアは長きにわたって多くの血が流されるでしょう。

その言葉通り、その後ロシアは革命によってロマノフ朝は崩壊、またそれに続く内戦ボリシェヴィキによる専制で膨大な死者を出すことになる。

また暗殺者たちに切り取られた「ラスプーチンの男根」とされる、13インチ(約33センチ)の巨大な男性器のアルコール漬標本が、サンクトペテルブルクの博物館に保存されている[20]

逸話[編集]

ラスプーチン
  • ロシア革命の指導者アレクサンドル・ケレンスキーは「ラスプーチンなくしてレーニンなし」と記している。
  • 暗殺には、第一次世界大戦でロシアの戦線離脱を危惧したイギリスの諜報機関の関与説もある。
  • 当時、ラスプーチンという姓は西シベリアでは比較的多く見られたが、帝政ロシアを崩壊に招いた人物の姓は忌み嫌われ、改姓する者が多く出た。
  • ロシアのプーチン大統領は元KGB情報部員であり、その過去についても不明な点が多く、首相就任時に影の薄かった彼が大統領に就任した際、その謎に包まれた経歴からラスプーチンに引っかけられ、「ラス・プーチン」と揶揄されたことがある。また、液化天然ガス産出および送出に関する重工業偏重の政治姿勢に絡んで「ガス・プーチン」とも呼ばれた。ただし、プーチンという姓はロシア語で「道」を意味するプーチ(Путь、Put')を思わせ、ラスプーチンのラス(Рас、Ras)は(さまざまな意味があるがその1つとして)「逆」という意味があるため、ロシア人の間では、プーチンは「道」、ラスプーチンは「道がない」という逆の意味だと好意的に捉える者もいる。なおプーチン本人は「ラスプーチンとは無関係である」と語っている。
  • 後述にもあるが、政財界に影で強い影響力を持つ人物のことを「~のラスプーチン」と称することがある。
  • 甘いものが何よりも好物であるが歯を磨く習慣がなかったため、虫歯だらけであった。暗殺の時も菓子に青酸カリを盛られた。

ラスプーチンの異名を得た日本の人物[編集]

関連書籍[編集]

ラスプーチンが登場するフィクション[編集]

その怪しげな経歴・容貌・女性関係・最期に加え、ロマノフ朝との関連等からある意味では神秘的な人物、あるいは稀代の怪人物とも言え、それゆえにフィクションの世界では国境の別なく非常に人気の高い人物である。そのキャラクターは帝政ロシア末期を舞台にした史実性を重視したドラマから、荒唐無稽なファンタジーや怪奇ストーリー、果てにはアダルト作品に至るまで、幅広い分野で用いられている。

書籍[編集]

漫画[編集]

オペラ[編集]

映画[編集]

  • 怪僧ラスプーチン(1932年)
  • 怪僧ラスプーチン(1954年)
  • ロマノフ王朝の最期(1981年 ソ連)
  • ラスプーチン(1996年)
  • ヘルボーイ(2004年)

アニメーション[編集]

ゲーム[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 伝説のラスプーチンを追いかけて”. ロシアNOW. 2014年5月13日閲覧。
  2. ^ Radzinsky (2000), pp. 25, 29.
  3. ^ Fuhrmann, p. 9.
  4. ^ Rasputin.
  5. ^ Nelipa, p. 16.
  6. ^ Spiridovich, p. 15.
  7. ^ Fuhrmann, p. 17
  8. ^ Moynahan, p. 31
  9. ^ Amalrik, A. (1988) Biografie van de Russische monnik 1863–1916, p. 45
  10. ^ Fuhrmann, p. 24
  11. ^ Moynahan, p. 43.
  12. ^ Gerald Shelley (1925) The Blue Steppes, p. 87.
  13. ^ The Life And Death Of Rasputin”. Orthodoxchristianbooks.com. 2013年4月28日閲覧。
  14. ^ Chapter Five. Rasputin. Alexanderpalace. Retrieved on 15 July 2014.
  15. ^ Iliodor (1918), p. 91. Archive.org. Retrieved on 15 July 2014.
  16. ^ Rappaport, p. 86.
  17. ^ Radzinsky (2000), p. 57.
  18. ^ Nicolas' diary 1905 (in Russian)”. Rus-sky.com. 2013年4月28日閲覧。
  19. ^ ラスプーチンが青酸カリによって死ななかった理由としては、(検死結果で毒物が検出されなかったことから)毒殺自体が作り話であるという説や、ラスプーチンが無胃酸症または低胃酸症であったため、シアン化水素が発生せず死に至らなかったという説がある。また、毒殺に使われた青酸カリに問題があったという見方もある。保存が適切になされなかった青酸カリを用いた殺人未遂事件は歴史上数多い上、当時のロシアには低品質の薬物や偽薬を扱う薬屋も多く、そうした薬屋から購入した偽物を盛ってしまった可能性も否定できない。更に、青酸カリは熱や酸に弱いため、料理の調味料や熱で青酸カリが変質してしまったということも考えられる。そもそも青酸カリを食物に混入すると強烈な刺激で口内に激痛が走るため嘔吐せずにはいられないにも関わらず、ラスプーチンは特に反応もなく毒が盛られた食事を口にしたためこの説が最も説得力がある(青酸カリ#その他の項目も参照の事)。
  20. ^ Museum of Hoaxes article: "Rasputin's Penis: Hoax or not?" 画像あり

関連項目[編集]

外部リンク[編集]