シオン賢者の議定書

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ロシア語版テキストの表紙
セルゲイ・ニルス著『卑小なるもののうちの偉大』(1920年)に収録されたロシア語版(1905年)の再版。

シオン賢者の議定書』(シオンけんじゃのぎていしょ、The Protocols of the Elders of Zion)は、「秘密権力の世界征服計画書」という触れ込みで広まった会話形式の文書。1890年代の終わりから1900年代の初めにかけてロシア語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。

ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、ドイツナチスに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたともいえることから「史上最悪の偽書」[1]、「史上最低の偽造文書」[2]とされることもある。

歴史[編集]

この文書は1897年8月29日から31日にかけてスイスバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン二十四人の長老」による決議文であるという体裁をとっている。そして、1890年代末から1900年代初めにかけてロシア帝国内務省警察部警備局により捏造されたとする説が有力である。1920年イギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死したため(実は原因は伝染病)、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。

ロシア革命によって、日本を含め世界中にこの文書は広がった。一般人だけでなく、ヒトラーヘンリー・フォードなどもこの文書を熱狂的に支持した。ロシアではソビエト時代になると発禁本とされた。

この文書は既に発行されていたモーリス・ジョリー著『マキャベリモンテスキューの地獄での対話』(Maurice Joly, Dialogue aux enfers entre Machiavel et Montesquieu[3]、仏語、1864年)との表現上の類似性が指摘されている。地獄対話はマキャベリの名を借りてナポレオン3世の非民主的政策と世界征服への欲望をあてこすったものである。シオン賢者の議定書は地獄対話の内容のマキャベリ(ナポレオン3世)の部分をユダヤ人に置き換え、大量の加筆を行ったものとされる。

1921年8月16日から18日にかけて英誌『タイムズ』は『シオン賢者の議定書』が偽書であると暴露した。

このことは1921年8月16日から18日にかけて英紙『タイムズ』が報道を行った。報道の中で、コンスタンチノープルの記者フィリップ・グレーブスは表紙にJOLIと印刷された古本がプロトコルの元ネタだと暴露した。『タイムズ』の編集部は大英博物館に保管されていた『マキャベリモンテスキューの地獄での対話』と本書とを比較して、その正体を明らかにした[4]。この報道のため、英国では熱は冷めてしまった。

ドイツでも反ユダヤ主義の運動において積極的に利用された。アドルフ・ヒトラーは『我が闘争』の中で「ぞくっとするほどユダヤ民族の本質と活動を暴露している」[5]「多くのユダヤ人が無意識に行っているかもしれないことが、この書では明確に述べられている」[5]と、この書に基づいてユダヤ人を批判した。ヒトラーは「この文書での秘密の暴露がどのユダヤ人の頭から出たものであるかはどうでもいい」[5]「それ(議定書)は偽書である、と『フランクフルト新聞』(ヒトラーはユダヤ資本と考えていた)は繰り返し世間に苦情を伝えているが、それこそがこの書が本物であるという証拠である」[5]としており、文書の出自自体を問題にしようとしなかった[6][7]ナチス・ドイツ政権成立後、ナチスはユダヤ人への迫害政策を継続的に行い、最終的にホロコーストを実施した。

アメリカでは1920年自動車王ヘンリー・フォードが、所有する『ディアボーン・インデペンデント』紙上でこの文書の連載を始めた。秋には『国際ユダヤ人』という書籍としてまとめられ出版する。この本はアメリカ国内で約50万部を売り上げ[8]、さらに16ヵ国語に翻訳された。1927年周囲の抗議や訴訟などを経てフォードは内容を否定し、本の回収に同意する[9]

また、プロトコルのある一章は、ドイツの小説家ヘルマン・ゲドシェ英語版が1868年に出版し、1872年にロシア語に翻訳されたBiarritz英語版という小説が元ネタである[10]。現在、大英博物館に最古のものとしてロシア語版のものが残っている。

日本でのシオン賢者の議定書[編集]

1918年日本はシベリア出兵を行うが、日本兵と接触した白軍兵士には全員この本が配布されていた。まず、シベリアから帰った久保田栄吉が1919年初めて日本にこの本を紹介した。後の大連特務機関長になる安江仙弘はシベリア出兵で武勲を上げ、日本に帰ってくると友人の酒井勝軍にこの本を紹介し訳本を出版させたり、また自らも1924年包荒子のペンネームで『世界革命之裏面』という本を著し、その中で初めて全文を日本に紹介した[11]。また海軍の犬塚惟重も独自に訳本を出版している。

安江と犬塚は満州国経営の困難さを訴えていた人らと接触するうちに、ドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることによってユダヤ資本を導入し、満州国経営の困難さを打開しようと考えるようになった。これが河豚計画である。安江仙弘や犬塚惟重は反ユダヤ主義とは全く正反対の日ユ同祖論を展開、書籍を出版することによって一般大衆や軍にユダヤ人受け入れの素地を作ろうとした。酒井勝軍も日ユ同祖論の本を出しているが、安江らの影響とも思われている。

また、安江仙弘が全文を紹介する以前の1923年『マッソン結社の陰謀』および『シオン議定書』と題するパンフレットが全国中学校校長協会の名前で教育界に配布されている[12][13]。さらに、戦争が激しくなると旧制の中高等学校で「ユダヤ問題」が盛んに論議されるようになった。戦前戦中は少年向け小説にもユダヤの陰謀をネタに使った物が多数あり、一般に広がっていた。

戦後はほとんど動きはなかったが、1986年宇野正美が『ユダヤが解ると世界が見えてくる』という本を出版し一大ブームとなる。その後この本のオカルト的要素に惹かれた人たちが延々と類書の出版を続けた[14]

近年でも、太田龍の補訳による『シオン長老の議定書』(2004年)が出版され、ブームこそ起こさないが、反ユダヤ主義者の根強さを語る[15]

ロシア秘密警察偽造説への疑惑[編集]

「当時反シオニズムを掲げていたロシア帝国内務省警察部警備局(オフラーナ)による偽書であると断定されている。オフラーナ在パリ部長のラチュコフスキーは、ロシア民衆の不満を皇帝からユダヤ人に向けさせるためにこの本を作成した」とする説がある。

この説は雑誌『アメリカン・ヘブリュー』誌に掲載された、カタジナ・ラジヴィウ公爵夫人が秘密警察当事者ゴロヴィンスキーから直接聞いたという「暴露証言」が唯一の根拠であるが、この証言では偽造が行われたのは1905年としており、1902年にはすでに『議定書』が公表されていた事実と矛盾するなど信憑性に欠け、また「表紙に大きな青インキの斑点があった」とする証言もわざとらしい。にもかかわらず確定した事実であるかのように宣伝されることが多い[要出典]

確かに、プロトコルが最初に新聞で言及されたのは、サンクトペテルブルクの新聞『新時代(ノーヴァエ・ヴレーミャ、Новое Время、ロシア語)』で、1902年4月のことである。保守派の政治記者ミカイル・メンシコフが連載していた「隣人への手紙(Письма к ближним)」で言及した。その記事によると、ある婦人[16]がプロトコルを持ち込んだが、メンシコフは出処が怪しいと判断して出版を見合わせた。

歴史家のノーマン・コーンの説によると、プロトコルが最初に世に出たのは、ペテルスブルクの新聞『軍旗(ズナーミャ、Знамя、ロシア語)』で、1903年8月26日から9月7日ユリウス暦)にかけて短縮版が連載されたものである。『軍旗』の編集長は反ユダヤ活動家のP.A.クルーシュヴァンである[17]

しかし、一般的にはプロトコルの最初の刊行者はロシアの神秘思想家、セルゲイ・ニルスなる人物とされ、その書物『卑小なるもののうちの偉大——政治的緊急課題としての反キリスト』(第3版)の出版は1905年の秋とされている。この書物はロシア皇帝ニコライ2世に献上するために作成されたと考えられている[18]

また、1905年12月(ユリウス暦)には既に、プロトコルの完全版を収録した『諸悪の根源——ヨーロッパ、とりわけロシアの社会の現在の無秩序の原因は奈辺にあるのか? フリーメーソン世界連合の新旧議定書よりの抜粋』という冊子が発行されていた。これは、革命派、社会主義者の暗殺とユダヤ人虐殺を目的とした極右団体黒百人組の創設メンバーであるG.V.ブトミが発行したものと推測されている[19]

このようにプロトコルは出所も作者も曖昧だが、後年、幾つかの状況証拠から、いずれにせよ当時フランス国内で諜報活動を行っていたロシア秘密警察の幹部が部下に命じてパリで捏造したものとみられている。

書誌情報[編集]

脚注[編集]

  1. ^ コーン(1991)
  2. ^ 久保田裕「《トンデモ用語の基礎知識》●シオンの議定書」、と学会(1995)、124-125頁。
  3. ^ Wikisource reference Maurice Joly. Dialogue aux enfers entre Machiavel et Montesquieu. - ウィキソース. 
  4. ^ コーン(1991) 75-77頁。
  5. ^ a b c d 谷喬夫「ヒトラーとドイツの東方支配」、『法政理論』第44巻2・3、新潟大学法学会、2012年、 26-80頁、 NAID 110009004603、39-40p
  6. ^ コーン(1991) 218頁。
  7. ^ H. Rauschning, Hitler Speaks.(『ヒトラーは語る』)London, 1939年、pp.235-236。
  8. ^ コーン(1991) 188頁。
  9. ^ コーン(1991) 192頁。
  10. ^ Segel(1996) 97頁
  11. ^ 包荒子(1925) 再版
  12. ^ 志水(1995)
  13. ^ 長山(2001) 178頁。
  14. ^ 宇野(1986)
  15. ^ 四王天&太田(2004)
  16. ^ フランスに滞在中の神智学に傾倒していた外交官の娘、ユリアナ・グリンカと判明している。
  17. ^ コーン(1991) 67頁。
  18. ^ コーン(1991) 68-69頁。
  19. ^ コーン(1991) 68頁。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]