ジョン・モルガン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ジョン・ピアポント・モルガン
J. P. Morgan
ジョン・ピアポント・モルガン
生誕 1837年4月17日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 コネチカット州 ハートフォード
死没 1913年3月31日 (75歳)
イタリア王国の旗 イタリア王国 ローマ
職業 投資家 銀行家
配偶者 フランシス・ルイーズ・トレイシー
テンプレートを表示

ジョン・ピアポント・モルガンJohn Pierpont Morgan, 1837年4月17日 - 1913年3月31日)は、アメリカの5大財閥の1つ・モルガン財閥の創始者。投資家、銀行家、社会奉仕家であり、そして金融業と産業界を合併し支配する傍ら、芸術品収集に励んだコレクターでもあった。20世紀初頭、モルガンが絶頂期の頃、彼とビジネスパートナー達は多くの大企業に財政投資を行なった。1901年までに、彼は世界で最も裕福な人物の1人になっていた。

略歴[編集]

ゲッティンゲン大学を卒業後、父の始めたイギリスロンドンにあるJ・S・モルガン・アンド・カンパニーを受け継ぎ、着々事業を発展させて、19世紀末には世界最大の銀行家となった。多くの鉄道を経営・統合し、のちには海運会社も同様に経営・統合し、それぞれ一大トラストを作り上げた。また、いくつかの製鉄会社を統合したUSスチールを設立して製鉄業にも進出。19世紀末には金融界産業界を支配するアメリカ最大の財閥の1つとなった。

モルガンは二度、アメリカ経済を、場合によってはアメリカ連邦政府を救済したと広く信じられている。また、彼は巨大な芸術品コレクションをニューヨークメトロポリタン美術館コネチカット州ハートフォードワズワース図書館に遺贈した。

1913年イタリアローマで死去。75歳であった。彼の財産とビジネスは息子のジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア英語版、通称ジャックに引き継がれた。

生誕から青年まで[編集]

ジョン・ピアポント・モルガンはコネチカット州ハートフォードで生まれた。父はマサチューセッツ州ホールヨーク出身の銀行家ジューニアス・スペンサー・モルガン1814年 - 1891年)、母は教会の牧師の娘だったジュリエット・ピアポント(1816年 - 1884年)。

ピアポントは、父・ジューニアスにより種々の教育を授けられ、1848年秋、ハートフォード・パブリック・スクールに転科した後、チェシャの英国国教会アカデミー(Episcopal Academy、現チェシャ・アカデミー)に首席で進学。1851年9月には、キャリアとなるために有効な数学に秀でているボストン・ハイスクールに入学した。

1852年9月、リウマチ熱に罹患し、歩けないほどになった。ジューニアスはすぐに船を手配し、モルガンをポルトガル北部のアゾレス諸島に転移療養させた。約1年後に回復し、ボストンに戻って勉学を続けた。

ハイスクール卒業後、ジューニアスによりスイスヴェヴェイ近くにある学校に進学。流暢なフランス語を取得後、今度はドイツ語取得のためにゲッティンゲン大学に進学。6ヶ月である程度のレベルに達し、芸術の歴史もかじったあとヴィースバーデン経由でロンドンに戻り、学業を修了した[1]

若き日のモルガン.

1857年、モルガンは父の経営する銀行のロンドン支店に入社。翌年、ニューヨークに移り、ジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニーのアメリカ代理店であるダンカン・シェアマン・アンド・カンパニーに勤務。1860年には、J・P・モルガン・アンド・カンパニーを設立し、父の会社のニューヨーク代理店のエージェントの役割を果たした。1864年には、ダブニー・モルガン・アンド・カンパニーを構成。1871年フィラデルフィアの銀行家であるアンソニー・J・ドレクセルAnthony Joseph Drexel I)と提携し、ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニーを設立した。ドレクセルが1893年に死去した後、1895年J・P・モルガン・アンド・カンパニーとなり、現在のJPモルガン・チェースへとつながる。

南北戦争時には、モルガンは旧式のライフルを1挺3.50ドルで購入し、改良したのちに22ドルで北軍に売却するというスキャンダルがあった。モルガン自身は他の富裕層同様、1000ドルを代理人に支払うことで兵役を免れていた。

J・P・モルガン・アンド・カンパニー[編集]

J・P・モルガン・アンド・カンパニーは、フィラデルフィアドレクセル・アンド・カンパニーをはじめ、パリモルガン・ハージェス・アンド・カンパニー、ロンドンのJ・S・モルガン・アンド・カンパニー1910年からはモルガン・グレンフェル・アンド・カンパニー)と密接な関係を持ち続けた。1900年までに、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは世界でもっとも力のある金融会社となり、とりわけ再編・再建と統合を手がけることで知られた。そのころ、モルガンは、ジョージ・パーキンスをパートナーとした。

モルガンの権力志向はダイナミックな金融の競争において見られた。1869年ジェイ・グールドジム・フィスクからアルバニー・アンド・サスケハナ鉄道の経営を奪取。モルガンは株を引き受けるシンジケートを率いて、ジェイ・クックが独占していた政府の資金調達の役割を奪取。また、鉄道開発への投資に深く関わるようになる。

モルガンはヨーロッパで多額の資金を調達したが、単にそれだけではなく、鉄道の再建と効率化も併せて実行し、投機的な利益に興味を持つ投機家たちと戦いながら、革新的な鉄道輸送システムというビジョンを作り上げた。1885年、モルガンはニューヨーク・ウェスト・ショア・アンド・バッファロー鉄道を再建し、ニューヨーク・セントラル鉄道(NYC)に貸し付けた。1886年にはフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道を、1888年にはチェサピーク・アンド・オハイオ鉄道(C&O)を再建した。そして、「レールロード・タイクーン」と言われたジェームズ・ヒルとともにグレート・ノーザン鉄道(GN)の経営に深く関わっていく。

鉄道トラストとモルガニゼーション[編集]

1887年州際通商法が成立した後、モルガンは1889年1890年に鉄道会社の首脳を集めた会議を開き、各鉄道会社が新法に合わせた営業活動を行うことと、「公共的で、安価で、一定で、安定した運賃」を維持するための協定を結んだ。この会議は競合する鉄道会社同士のコミュニティとして機能し、20世紀初頭の鉄道の大再編への道筋となるものであった。

このような、モルガンの行った経営困難に陥っている鉄道を再建させる手法はモルガニゼーションと呼ばれた[2]。モルガンは事業の骨格とマネジメントを再編し、利益が出せるようにした。モルガンの銀行家としての名声は投資家たちの興味を誘い、モルガンが手がける事業に目を向けさせた[3]

こうしたトラスト形成の過程で、1901年にはエドワード・ヘンリー・ハリマンとの間でシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道(CB&Q)の争奪戦が起こり、ノーザン・パシフィック・コーナーと呼ばれる株式の異常高騰を誘発した。それが原因で起こったのが1901年恐慌である。経緯についてはノーザン・パシフィック鉄道を参照されたい。

合衆国の「中央銀行」として[編集]

モルガンの経済界における役割は、連邦政府より大きいと認識されており、この戯画では小さなアンクル・サム(アメリカを擬人化した人物)と大きなモルガン、即ちアメリカ全体より大きなモルガンとして描かれている。1881年。

1895年1893年恐慌英語版の影響でアメリカ合衆国財務省の保有していたの海外への流出が続き、底を突きかけた。シャーマン銀購入法英語版により、アメリカが事実上の金銀複本位制をとったために、ヨーロッパにおいてアメリカの有価証券に対する信用が落ち、ヨーロッパの資本家が金に換えてしまったのである。

当時の民主党グロバー・クリーブランドアメリカ合衆国大統領は、モルガンにウォール街のシンジケート(債権を引き受ける銀行団)を組織し、財務省に6,500万ドルの金を調達するよう要請。その半分はヨーロッパから調達し、財務省の1億ドルの債権の信用回復に使用されることとされた。このエピソードが、ヨーロッパ資本の引き上げ傾向に歯止めをかけて財務省を救済したが、クリーブランドにダメージを与え、1896年の大統領選挙において共和党ウィリアム・ジェニングス・ブライアンにより激しい非難を浴びた。モルガンとウォール街の銀行家たちは共和党のウィリアム・マッキンリーに多額の寄付を行い、マッキンリーは同年と、金本位制をうたった1900年の大統領選で勝利した[4]。マッキンリーは反トラスト法を発動させない、経済界にとっては都合のいい大統領であった。

なお、クリーブランドはモルガンの義父の法律事務所で働いたことがあり、モルガンと近い間柄であり、かつ金本位制の推進者であった。

海運トラストの形成[編集]

モルガンは東部・西部ともに鉄道網に深く関わっていたが、その頃、アメリカ西部の貨物は鉄道で東海岸に運ばれ、イギリスの海運会社などによりヨーロッパに運ばれていた。大西洋の航路は、モルガニゼーション以前の鉄道業界と同じく、運賃の値下げ競争が激しく、業界が疲弊していた。陸上輸送(鉄道)を支配していたモルガンは、海上輸送を他人の手に委ねておく手はないとし、海運業界の統合・支配を画策した。これにより、アメリカ西部の貨物をモルガンの息のかかった運送会社のみを経由してヨーロッパに届けることができるようになった。

1902年、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは大西洋の海運の統合をめざし、モンテズン・ラインやイギリスの海運会社を買収、国際海運商事International Mercantile Marine Co.、IMM)を設立した。IMMはホワイト・スター・ラインの親会社であり、タイタニックを建造・就航させたことで知られる。陰謀説もある[5]

鉄鋼トラストの形成[編集]

モルガンはフェデラル・スチールの創立に融資したのち、 カーネギー・スチールCarnegie Steel Company)及びその他数社の製鉄企業を合併して USスチールを設立。カーネギー・スチールの買収額は4億8700万ドルであった[6]。この取引は弁護士や契約書が介在しない取引であった。

この買収劇がメディアに届いたのは1901年1月半ばであった。同年、モルガンはいくつかの鉄鋼会社を統合しUSスチールを設立した。USスチールは世界初の10億ドル企業となり、株式の時価総額は14億ドルとなった[7]

USスチールは輸送経費・生産経費の削減と配当の増大とを両立させ、生産性の拡大をめざした[6]。これはまた、アメリカの製鉄が国際的な市場においてイギリスとドイツを打ち負かすための計画でもあった。USスチールは、初代社長のチャールズ・シュワブらにより、グローバリゼーションのために必要だと主張された [6]。USスチールはアメリカン・ブリッジアメリカン・スチール・アンド・ワイヤーなどの企業を傘下に納め、鉄鋼生産だけでなく橋梁製作、造船、鉄道車両やレールの製造、ワイヤーその他の生産においても他を圧倒しようとしており、シュワブは、1901年には鉄鋼生産の3分の2を占めたUSスチールのシェアはすぐに75%にまでなると信じていた[6]。批評家たちはUSスチールをトラストだと考えていた。

しかしながら、1901年以降、シェアは落ち込んだ。シュワブ自身が、自らの予測を覆す役割を演じたのである。すなわち、USスチールは巨大に過ぎた。シュワブは1903年にUSスチールを辞し、ベスレヘム・スチール(現ミッタル・スチール)を設立。建設現場で使用されるH形鋼を開発するなどしてアメリカ国内のシェアでは第2位となったのである。

電気・無線への投資[編集]

モルガンは後のゼネラル・エレクトリックを作るためにエジソン・ゼネラル・エレクトリックとトムソン・ヒューストン・エレクトリックの合併を実現させた。後述のように、自邸を初の電化住宅とし、個人の家として初めて電灯が灯った。 1900年、モルガンは発明家ニコラ・テスラが行う無線送電の実験にウォーデンクリフ・タワーWardenclyffe Tower)の建設費を含めた15万ドルを融資した。これは、無線送電の途中でフリー・パワーなるものを吸収し、送信時よりも受信時のほうが大きな電力になると主張するものであった。

しかし、1903年、タワーが完成する直前に、やむを得ない設計の変更が生じた。モルガンが、どこに電力メーターを置けばいいのかを質問した際、テスラは答えなかった。'フリー・パワー'なるものが、モルガンの世界的な視野では理解できなかったのである。テスラは送信システムのメンテナンス費用を支払うこともできなくなった。建設費は当初のものを使い切り、なんとか追加融資を得たが、1904年7月までにモルガンと他の投資家はこれ以上の融資をしないと決定。モルガンは他の投資家にも、この計画から手を引くようアドバイスした。

モルガンの敗北場面[編集]

鼻の奇形のため写真に撮られることを極端に嫌がった。撮影者に対してステッキを振り回すモルガン。

ロンドン地下鉄[編集]

1902年、モルガンにとっては珍しいことであるが、他者の後塵を拝した。当時、ロンドンの地下交通網において、地下鉄を掌握していたチャールズ・ヤークスCharles Yerkes)とモルガンが勢力を争っており、モルガンは地下鉄と対抗するための地下道路建設に関して議会の賛成を得るための努力を企図していたが、ヤークスが勝利した。モルガンはこの件に関して「知りうる限り史上最悪の卑劣な謀議だ」とコメントしている[8]

モルガンを襲った敵[編集]

モルガンは、三度、「銀行の敵」に襲われた。一度目はモルガンが金の買い付けで連邦財務省を援助している間、二度目は1907年恐慌の後、三度目はニューヨーク・ニューヘイブン・アンド・ハートフォード鉄道(NH)の財政悪化時である。

財務省を援助している間というのは、モルガンが金を買い戻し、アメリカの信用を回復したときである。1893年恐慌英語版が長引く農村地帯では、金銀複本位制を歓迎していた。金本位制であれば、通貨の供給量には限度があるために不況は長引き、農民は苦しむことになるが、金銀複本位制であれば通貨の供給量を増大させることができ、インフレーションが起こり、農産物価格も上昇する。ところが、モルガンをはじめとしたシンジケートが金本位制を定着させたとして、モルガンらは憎まれ役となってしまった。

1907年恐慌の後というのは、恐慌のたびに銀行に経済を救ってもらっていた合衆国政府は中央銀行の必要性を強く意識した。連邦準備制度を創設し、モルガンら銀行の勢力を削ぐことに力を注いだのである。これをもって、銀行と政府との関係も大きく変化していくことになる。

NHの問題というのは、ニューイングランド南部の交通網にモルガニゼーションを実施したために起こった問題である。問題はさらにふたつあり、ひとつはNHがその後、多くの事故を起こしたこと、もうひとつは、トラストを目の敵とするルイス・ブランダイスの関心を引き、モルガンの死期を速めたとも言われるプジョー委員会Pujo Committee、金融・通貨委員会内の小委員会)の介入を招いたことである(後節参照)。

NHは、設立時にモルガンの祖父が出資をしていたという経緯があり、モルガンが経営を握っていた。1903年には社長にチャールズ・サンガー・メレンを指名し、ニューイングランド州におけるモルガニゼーションに着手。鉄道、汽船、路面電車などの交通機関に敷衍し、ニューイングランドの交通機関の独占を図った。

その手法は、利益のまったく出ていない競合他社までをも巨額で買収するもので、その費用がかさみ、従業員は必要以上に増加した。さらに一部には近代化を施す費用もかかった。モルガン自身はその費用を調達するための社債等の発行手数料を100万ドルも得ていたほか、株主への配当は高配当であった。モルガンの後ろ盾があるため、超優良株でもあった。

しかし、経営状態は惨憺たる状態であった。前述の費用を賄うために、従業員の解雇や賃下げ、保線の間引きなどが行われた。そのために鉄道事故が立て続けに起こってしまった。メレンが社長を去り、モルガンが逝去した後までも、多数の死亡者が出る事故が続いた。

こうした状況を見たブランダイスは、企業と銀行の関係を公共の利益に反するものとして、目ざとく追求していくこととなった。

プジョー委員会による聴聞[編集]

1912年12月、モルガンはプジョー委員会で証言した。委員会は、金融機関の首脳たちが密かに結託し、自らの公的信用を利用して複数の産業を支配下においていると考えていた。 ファースト・ナショナル銀行ナショナル・シティ銀行の取締役として、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは222.45億ドルの資金があった。のちに合衆国最高裁判所裁判官となったルイス・ブランダイスはこの資産はミシシッピ川以西の22州の規模に匹敵するとした[9]

イギリスとアメリカのモルガン系企業の系譜[編集]

ロンドン[編集]

ニューヨーク[編集]

私生活[編集]

家族[編集]

モルガンは終生米国聖公会のメンバーであった。1890年までは指導的立場でもあった。

1861年にアメリア・スタージス(Amelia Sturges。愛称ミミ。1835年 - 1862年)と結婚。結婚前から肺病を患っており、結婚の翌年、ミミは逝去。1865年5月31日、フランセス・ルイーザ・トレーシー(Frances Louisa Tracy、愛称ファニー、1842年 - 1924年)と再婚し、4人の子供を儲けた。ファニーとの結婚生活は早くに破綻し、モルガンは老齢となってなお数々の浮き名を流し続けた。

4人の子供は以下の通りである。

モルガンの叔父にあたるジェームズ・ピアポントJames Pierpont (musician))は有名な作曲家で、ジングルベルの作曲者としても知られる。

容姿[編集]

モルガンの容姿は人々に強い印象を残している。ある者は「モルガンが訪ねてくると同時に強風が吹いたようだった」と語っている[10]。モルガンの両肩は量感があり、体は大きく、目は見開かれ、酒さによって鼻は紫色であった。この鼻は、モルガンにとって、生涯、非常に気にするところであった[11]。場合によってはその鼻を侮蔑されることもあったが、侮辱した人間はモルガンによって報いを受けた。そのため、モルガンは写真に撮られることを極度に嫌った。肖像写真では、鼻を修正したものしか使用を認めなかった。

嗜好[編集]

モルガンは葉巻、とりわけハバナが好きで、日に1ダースほども喫煙した。

邸宅[編集]

モルガンの自宅はマディソン通りにあり、ニューヨークで初の電灯を備えた個人住宅であった。彼の新たなテクノロジーへの興味は、1878年トーマス・エジソンエジソン電灯会社への融資からも見て取れる[12]。また、ニューヨーク州グレン・コーブのイースタン・アイランドを所有し、そこに別荘を持っていた。

[編集]

ヨット、コーセア(Corsair、海賊の意)号(2代目)。のちにアメリカ政府が購入し、「USSグロスター」(USS Gloucester、USS Gloucester (1891))と改名され、米西戦争に充当された。J. S. Johnston撮影。

モルガンは熱狂的なヨットファンとして、いろいろなサイズのヨットを所有していた。この場合のヨットは、大型で豪華なレジャーのための船である。「維持費を気にするような人間には、ヨットは買えない」という言はよく知られている。

このヨットは、経済界の機密会議に使われることもあれば、私的な女性関係に使われることもあった。

また、モルガンはタイタニックの実質的なオーナーであったため、初航海に乗船する予定であった。しかし、その直前になってキャンセル[13]。タイタニックはホワイト・スター・ラインが保有し、運航したものであるが、モルガン専用の特別室とプロムナードデッキがあった。

[編集]

1913年3月31日、モルガンは旅行先のローマ グランドホテルで就寝中に死去した。76歳の誕生日の直前であった。50歳代から医者に不摂生をたしなめられ、生命保険の加入を求められないほどであったが、晩年でもなお葉巻を吸い、大食漢であった。モルガンに連なる人々は、プジョー委員会からの攻めによる精神的疲労が死因であると主張したが、現実の健康面はそのような状態であった。

モルガンの死にあたり4000を超す弔辞が寄せられ、ウォール街半旗を掲揚した。モルガンの遺体がウォール街を通過する間、株式市場は2時間閉鎖された[14]

死去時、モルガンの資産は6830万ドルであった。今日の貨幣価値では13億9000万ドルにあたる金額であった。そのうち3000万ドルは株券としてニューヨーク・アンド・フィラデルフィア銀行にあった。また、芸術品のコレクションの価値は5000万ドルに上った[15]

おおよそ庶民の感覚からかけ離れた金額の遺産ではあるが、カーネギーに言わせると「彼が思ったほど金持ちではなかった」という。カーネギーやハリマンらの足下にも及ばない金額であった[16]

モルガンの遺体は、彼の生誕の地であるコネチカット州ハートフォードのセダー・ヒル墓地Cedar Hill Cemetery (Hartford, Connecticut))に埋葬された。

モルガンの金融事業は、息子のジャック・モルガンが引き継いだ[17]

モルガンと芸術作品[編集]

モルガンは書物、絵画、時計などの芸術作品の著名なコレクターであった。その多くはニューヨークメトロポリタン美術館に寄託、あるいは贈呈されている。モルガンはそのメトロポリタン美術館の設立に深く関わり、館長を務めた時期もあった。また、彼のロンドンの邸宅や、マディソン大通り36番街にある彼のプライベート文庫に保管されているものもある。

モルガンの息子、ジャックは父を記念して 1924年モルガン・ライブラリーを公共化。モルガンの私的な司書であったベラ・ダ・コスタ・グリーンBelle da Costa Greene)を初代の館長とした[18]

モルガンは多くの画家により肖像画を描かれていた。特筆すべきはペルー人のカルロス・バッカ・フローCarlos Baca-Flor)やスイス生まれのアメリカ人、アドルフォ・ミュラー・ウリAdolfo Müller-Ury)らも描いていることで、アドルフォはまたモルガンが愛した孫、マーベル・サターリーとの肖像画も描いている。この絵はマーベルの家の前でイーゼルに架けられたまま置いてあったが、あるとき失われてしまった。

宝石コレクション[編集]

J・P・モルガン・ライブラリー・アンド・アートミュージアム。

20世紀になるころには、モルガンはアメリカでもっとも重要な宝石や原石のコレクターとなっていた。その数は1000を超した。初めてのコレクションはティファニーのもので、ティファニーのチーフ宝石鑑定家にして宝石学の大家、ジョージ・フレデリック・クンツGeorge Frederick Kunz)がそれをセットした。

モルガンのコレクションより。

このコレクションはパリ万国博覧会 (1889年)にて公開されたもので2つの金賞を受け、一般見学者だけでなく、学者や宝石関係者からも注目されたものであった[19]。クンツは続けて第二の、さらに上質のコレクションをつくりあげ、パリ万国博覧会 (1900年)に出展した。これらはニューヨークアメリカ自然史博物館に寄贈され、モルガン・ティファニーと呼ばれている[20]。他にもモルガン・ビーメント・コレクションと呼ばれるものも展示されている。

1911年、クンツは新たに発見された宝石を、モルガンにちなんでモルガナイトと命名した。

後援者として[編集]

モルガンはアメリカ自然史博物館の後援者でもあるほか、上述のメトロポリタン美術館、グロトン・スクールGroton School)、ハーバード大学(とくにハーバード・メディカルスクール)、トリニティ・カレッジ、ニューヨークの産科医院、ニューヨークの職業訓練学校などの後援者でもあった。

モルガンはまた、写真家のエドワード・カーティスEdward S. Curtis)のパトロンでもあった。1906年には7万5,000ドルでネイティブ・アメリカンシリーズを発注している。カーティスは結局20巻におよぶ大作、北アメリカインディアンを刊行した[21]

カーティスは映画も撮影し、1914年にはイン・ザ・ランド・オブ・ザ・ヘッド・ハンターズ(首狩り族の大地)を完成させた。これは1974年に修復され、イン・ザ・ランド・オブ・ザ・ウォー・カヌー(戦闘カヌーの大地)として公開された。また、1911年には自らの写真とヘンリー・F.ギルバートの音楽を組み合わせた幻灯機によるスライドショー、インディアン・ピクチャー・オペラThe Indian Picture Opera)を完成させた[22]

脚注[編集]

  1. ^ http://www.financial-inspiration.com/JP-Morgan-biography.html
  2. ^ Timmons, Heather (2002年11月18日). “J.P. Morgan: Pierpont would not approve.”. BusinessWeek 
  3. ^ Morganization: How Bankrupt Railroads were Reorganized (HTML)”. 2007年1月5日閲覧。
  4. ^ Chernow (2001) ch 4
  5. ^ 広瀬隆には1986年の『億万長者はハリウッドを殺す』(講談社)などロックフェラーとモルガンの2財閥を軸にして近現代史を読み解くものや、主にロスチャイルド財閥を扱った1991年の『赤い楯』(講談社)などの作品がある。
  6. ^ a b c d Krass, Peter (2001年5月). “He Did It!(creation of U.S. Steel by J.P. Morgan)”. Across the Board (Professional Collection) 
  7. ^ "J. P. Morgan," Microsoft Encarta Online Encyclopedia 2006
  8. ^ Franch, John. Robber Baron: The Life of Charles Tyson Yerkes. Urbana: University of Illinois Press, 2006; p. 298
  9. ^ Brandeis (1995[1914]), ch. 2
  10. ^ John Pierpont Morgan and the American Corporation, Biography of America
  11. ^ findagrave.com
  12. ^ Chernow (2001) Chapter 4
  13. ^ Chernow (2001) Chapter 8
  14. ^ Modern Marvels episode "The Stock Exchange" originally aired on October 12, 1997
  15. ^ Chernow (2001) ch 8
  16. ^ 『モルガン家』ロン・チャーナウ著・青木榮一訳、1993年、日本経済新聞社
  17. ^ Cedar Hill Cemetery, John Pierpont Morgan
  18. ^ Auchincloss (1990)
  19. ^ Morgan and his gem collection, In George Frederick Kunz: Gems and Precious Stones of North America, New York, 1890, accessed online February 20, 2007
  20. ^ Morgan and his gem collections, donation to AMNH, In George Frederick Kunz: History of Gems Found in North Carolina, Raleigh, 1907, accessed online February 20, 2007
  21. ^ The North American Indian
  22. ^ The Indian Picture Opera - A Vanishing Race

参考文献[編集]

References[編集]

  • Atwood, Albert W. and Erickson, Erling A. "Morgan, John Pierpont, (Apr. 17, 1837 - Mar. 31, 1913)," in Dictionary of American Biography, Volume 7 (1934)
  • Auchincloss, Louis. J.P. Morgan : The Financier as Collector Harry N. Abrams, Inc. (1990) ISBN 0-8109-3610-0
  • ルイス・ブランダイス Other People's Money and How the Bankers Use It. Ed. Melvin I. Urofsky. New York: Bedford Book], 1995. ISBN 0-312-10314-X
  • Bryman Jeremy, J. P. Morgan: Banker to a Growing Nation : Morgan Reynolds Publishing (2001) ISBN 1-883846-60-9
  • Carosso, Vincent P. The Morgans: Private International Bankers, 1854-1913. Harvard U. Press, 1987. 888 pp. ISBN 978-0674587298
  • Carosso, Vincent P. Investment Banking in America: A History Harvard University Press (1970)
  • Chernow, Ron. The House of Morgan: An American Banking Dynasty and the Rise of Modern Finance, (2001) ISBN 0-8021-3829-2(ロン・チャーナウ著、青木榮一訳『モルガン家 金融帝国の盛衰』上・下(1993年)日本経済新聞社刊、ISBN 978-4532160999 、978-4532161002)
  • Fraser, Steve. Every Man a Speculator: A History of Wall Street in American Life HarperCollins (2005)
  • Garraty, John A. Right-Hand Man: The Life of George W. Perkins. (1960) ISBN 978-0313201868
  • Geisst; Charles R. Wall Street: A History from Its Beginnings to the Fall of Enron. Oxford University Press. 2004. online edition
  • John Moody; The Masters of Capital: A Chronicle of Wall Street Yale University Press, (1921) online edition
  • Morris, Charles R. The Tycoons: How Andrew Carnegie, John D. Rockefeller, Jay Gould, and J. P. Morgan Invented the American Supereconomy (2005) ISBN 978-0805081343
  • Strouse, Jean. Morgan: American Financier. Random House, 1999. 796 pp. ISBN 978-0679462750

関連項目[編集]