メンフィス (エジプト)

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メンフィス
ミート・ラヒーナ
Memphis200401.JPG
ラムセス2世の列柱の間(ミート・ラヒーナ)
メンフィス (エジプト)の位置(エジプト内)
メンフィス (エジプト)
エジプトにおける位置
所在地 ミート・ラヒーナ, ギーザ県, エジプト
地域 下エジプト
座標 北緯29度50分58.8秒 東経31度15分15.4秒 / 北緯29.849667度 東経31.254278度 / 29.849667; 31.254278
種類 定住地
歴史
建設者 不明, イリ・ホルの治世には既に存在した。[1]
完成 紀元前31世紀以前
放棄 7世紀
時代 エジプト初期王朝時代 から 中世前期
登録名: メンフィスとその墓地遺跡-ギーザからダハシュールまでのピラミッド地帯
区分: 文化遺産
基準: i, iii, vi
登録日: 1979 (第三回 世界遺産委員会)
登録コード#: 86
地域: アフリカ
メンフィス

座標: 北緯29度50分40.8秒 東経31度15分3.3秒 / 北緯29.844667度 東経31.250917度 / 29.844667; 31.250917 メンフィス (アラビア語: منفManf  発音 [mæmf]; ギリシア語: Μέμφις) とは、現代のエジプトにある古代都市の遺跡。かつての下エジプト第1イネブ・ヘジ(Aneb-Hetch、Ineb-Hedj)の首都であった。遺跡はギーザの20キロメートル南、現在のミート・ラヒーナアラビア語版近郊に位置する。

マネトによって伝えられた伝説によると、この都市はメネスによって建設された。古王国時代、エジプト首都であり、古代の地中海の歴史を通じて重要な都市であり続けた[2][3][4] 。この都市はナイル川デルタの河口という戦略的要衝にあり、活動拠点として栄えていた。メンフィスの主要な港であるペル・ネフェル(Peru-nefer)には数多くの工房、工場、倉庫が存在し、王国全体に食料や商品を流通させていた。その黄金時代の間、メンフィスは商業、貿易、宗教の地域的中心地として繁栄した。

メンフィスは職人の守護神プタハの加護の下にあると信じられていた。その偉大な神殿 (エジプト)英語版フウト・カ・プタハ(Hut-ka-Ptah プタハ神のの住居)はこの都市で最も有名な建造物の一つであった。古代の歴史家マネトはこの神殿の名称をアイギュプトス(Aί γυ πτoς (Ai-gy-ptos))とギリシア語訳しており、これが現代の英語の地名であるEgypt(エジプト)の語源であると考えられている。

メンフィスの歴史は古代エジプトの歴史英語版と密接に関係している。メンフィスは最終的にはアレクサンドリア市の発展によって古代末期にその経済的重要性を喪失したために滅亡したと考えられている。その宗教的重要性もまた、テッサロニキ勅令英語版以後古代の信仰が放棄されるにつれて失われた。

このかつての首都の遺跡は、その過去について断片的な証拠を提供している。これらはギーザのピラミッド群と共に世界遺産として1979年から保存されている。遺跡は野外博物館として一般公開されている。

地名学[編集]

Memphis (mn nfr)
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mn
n
nfr f
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O24 niwt

メンフィスはその四千年に及ぶ歴史の中で複数の名前で呼ばれた。古代エジプト語の名前はイネブ・ヘジ(Aneb-Hetch、Ineb-Hedj)であり、「白い壁」という意味である[5][6][7]

メンフィスは巨大な都市であったため、都市の周辺地域や地区が繁栄するとその名称が同時代のメンフィスを指す呼称として知られるようになった。例えば、第1中間期の文書[8]にはテティ王のピラミッド英語版の名前からとってジェド・ストDjed-Sut 不朽の地)と呼ばれている[9]

またある時期にはアンク・タウィAnkh-Tawy 二つの地の生命)と呼ばれていた。これは上エジプト下エジプトの結節点にあるというその戦略的位置を強調する名前である。この名前は中王国時代(紀元前2055年頃-紀元前1640年頃)に登場し、古代エジプトの文書では頻繁に見られる[10] 。幾人かの学者はこの名前は実際にはプタハ大神殿とサッカラのネクロポリス(墓地)の間に広がり、神聖樹を含む都市の西部地区の名前であるという見解を持っている[11]

新王国時代(紀元前1550年頃)が始まると、この都市はメン・ネフェルMen-nefer 永遠の美)と呼ばれるようになった。この名前はコプト語ではメンフェMenfe)と変化する。メンフィスMenphis Μέμφις)はこれがギリシア語に借用された名前である。この名前の大元は都市の西にあるペピ1世のピラミッド英語版の名前である[Fnt 1][12]

聖書ではメンフィスはモフMoph)またはノフNoph)と呼ばれている。

諸元[編集]

国際宇宙ステーションから見たメンフィスとサッカラのネクロポリス。

位置[編集]

メンフィスの市街はカイロの南20 km (12 mi)にあり、ナイル川西岸に位置する(北緯29度50分58.8秒 東経31度15分15.4秒 / 北緯29.849667度 東経31.254278度 / 29.849667; 31.254278)。 カイロの南にある現代の居住地であるミート・ラヒーナ、ダハシュールアブシールアブ・ゴラブ英語版、そしてザウィト・エル・アリヤーン英語版の市街は全て歴史的なメンフィスの行政区分の内部にある。また、この都市は上エジプトと下エジプトの境界に位置していた(上エジプト第22州と下エジプト第1州の間)。

人口[編集]

都市があった地域は現在では無人であり、最も近い現代の町はミート・ラヒーナである。古代の推定人口は各種の資料によって大きく異なる。T.チャンドラーによれば、メンフィスの人口は30,000人であり、都市の成立から紀元前2250年頃までと、紀元前1557年から紀元前1400年にかけては、他と隔絶した規模を持つ世界最大の都市であった[13]。K.A.バードはもっと慎重な推定値を出しており、この都市の人口は古王国時代に6,000人程であったとしている[14]

歴史[編集]

この宗教的な像は主にメンフィスで崇拝された ネフェルテム神を現す[15]。 ウォルターズ美術館

メンフィスは古王国時代を通じて首都となっていた。第6王朝の下で、この都市は創造と芸術の神プタハの信仰の中心としてその威信の頂点に達した。プタハ神殿を守るアラバスター製のスフィンクスはこの都市のかつての権力と威信の記念碑となっている[16][17] 。創造神プタハ、その妻セクメト、そして彼らの息子ネフェルテムからなるメンフィスの三柱の神はこの都市における信仰の中核を形成した。

メンフィスは第18王朝によって新王国時代が始まると、テーベ市の勃興と共に政治的中枢としての機能を一部失った。そしてペルシア人の支配の時代には再びエジプトの首都となった。その後、アレクサンドリアが建設されエジプト第2の都市に転落した。アレクサンドリアはローマ帝国の統治下、最も重要なエジプトの都市であり続けた。メンフィスはフスタート(またはフォスタート)が紀元後641年に建設される頃には市街の大部分が放棄され、石材は周囲の集落で再利用された。12世紀頃まで堂々たる遺構が残されていたが、間もなく広大な敷地に建物の残骸と散乱した石が広がるだけの土地となった。

プタハ神、セクメト神と並ぶラムセス2世。

伝説的な歴史[編集]

マネトによって記録された伝説では、最初に上下エジプトを統一したファラオであるメネスがナイル川を堤防で迂回させ、ナイル川沿いの地にメンフィスを建設した。ギリシア人の歴史家ヘロドトスも同様の内容を残しているが、彼自身が残した記録によればヘロドトスはペルシア人の支配下にあったメンフィスに滞在しており、ペルシア人はナイル川の堤防に特に注意を払っているので、この都市は毎年のナイル川の洪水英語版から守られているのだと記している[18] 。学術的にはメネスはローマの王ロムルスと同じように恐らく神話上の架空の王であろうと見なされている。一部の学者が主張する説では、メンフィスが統一エジプトの最初の首都であることは疑いないが、エジプトは恐らく互いに必要性に駆られて統一され、文化的な繋がりや貿易関係が強化されたのだとされている[19]。また、多くのエジプト学者達は伝説的なメネス王を歴史上実在の確認されているナルメルと同一人物であると考えていた。彼はナルメルのパレット英語版の中で下エジプトのナイルデルタ征服し、自身を王とした姿が描かれている。このパレットは紀元前31世紀頃の物であり、これはメネスによるエジプト統一の物語と関連するであろう。しかしながら、2012年に先王朝時代の王イリ・ホル英語版がメンフィスを訪問していることを描写した碑文がシナイで発見された[20]。イリ・ホルはナルメルよりも2代前の王であるので、ナルメルがこの都市の創設者であると言うことはありえない[21]

古王国[編集]

古王国時代のメンフィスについては僅かにしか知られていない。この都市は神の如きファラオの王国の首都であり、ファラオ達は第1王朝の時からメンフィスで国家を統治した。ただしマネトの記録に従うならばメネス王の治世初期には玉座はより南のティニス英語版にあった。

マネトによれば、古代の記録では「白い壁」(イネブ・ヘジ)はメネスによって建設された。いくつかの文書では「白い壁の要塞」と呼ばれている。王は恐らく2つの対立していた王国から生まれた新たな統一王国をうまく統治するためにこの地を選んだのであろう。第3王朝ジェゼル王のピラミッド複合体は古代のネクロポリスであるサッカラにある。この王家の葬祭殿は、王室に必要なあらゆる施設(神殿、社、法廷、王宮と兵舎)を内包していた。

その黄金時代第4王朝と共に始まった。第4王朝ではメンフィスの王都としての主要な役割はさらに強まり、ファラオらはこの都市で上下エジプト統一の神聖な象徴である上下エジプト王冠を授けられた。戴冠式やセド祭英語版のような祝祭はプタハ神殿で挙行された。このようなセレモニーの最も初期の痕跡はジェセル王の間で見つかっている。

またこの時代にはプタハ神殿の神官達の影響力も拡大した。神殿の重要性はこの時代の王侯貴族の葬儀に必要な食料やその他の物資の提供によって証明されている[22]。この神殿はパレルモ石に記録された年代記の中でも言及されている。メンカウラー王の治世から少なくてもテティ英語版王の治世まで、王と対応するメンフィスのプタハ大司祭英語版の名前が判明している。

第4王朝の王家のネクロポリスであるギーザでの最近の発掘で知られるようになったこの時代の建造物は、当時の王国にとって主要な関心は王墓の建設にあったことを明らかにしている。この見方を強力に後押しするのが、第6王朝の王ペピ1世のピラミッド英語版と一致する都市の名前の語源である。メンフィスは先行する時代の記念碑を多数備え、長きにわたってその芸術的、建築的な慣行を継承した。

ラムセス2世の名前が上書きされた中王国時代の彫刻

これらのネクロポリスは全て、王墓建設専門の職人や労働者が居住するキャンプに囲まれていた。メンフィスはあらゆる方向に数㎞にわたって広がり、テメノス(聖域)で結ばれた神殿と、道路と運河によって結ばれた港と共にメガロポリスを形成していた[23]。都市の外周は徐々に広がって広大な都市が形成された。その中心はプタハ神殿複合体の周辺であった。

中王国[編集]

中王国が始まると、ファラオの宮廷と首都はメンフィスから南方のテーベへと遷り、メンフィスは首都ではなくなった。ただし玉座は遷ったが、メンフィスは手工芸品の生産地区とプタハ神殿の西にある墓地の発見によって証明されるように、恐らく最も重要な商業と芸術の中心であり続けた[24]

また、この時期にメンフィスが建築的な中心であったことを証明する痕跡も見つかっている。アメンエムハト1世英語版の切り出し場の巨大な花崗岩には、王による「真実の主プタハのための神殿」建設に使用するものであることが刻まれている[25]アメンエムハト2世英語版の名前が刻まれた別の岩塊ブロックはラムセス2世のパイロン[26]より先に作られた巨大なモノリスの基礎として使用されていた。これらの王達は王室の公的行為を記録したパネルによって、鉱脈探しや国境を越えた軍事遠征、神に奉納する記念碑や像を作ることを命じたことが知られている。プタハ神殿の遺跡ではセンウセルト2世英語版の名前が刻まれたブロックに、メンフィスの神々に捧げる建築であることを示す碑文が付いている[27] 。更にこの場所からは後の新王国時代のファラオによって修復された第12王朝時代の多数の彫像が見つかっている。例としては、神殿の遺跡の中から回収され、後にラムセス2世の名の下に修復された二つの巨大な石像などがある[28]

ヘロドトスによって記録された言い伝え[29]ディオドロス[30]によれば、最後にアメンエムハト3世英語版がプタハ神殿の北門を建造した。このファラオの業績に帰せられたこの建物は、フリンダーズ・ピートリーの指揮で実施されたこの地域の発掘調査で実際に発見され、彼はその事実関係を確認した。また、この間サッカラの王家のピラミッドそばに建設されたプタハ大司祭のマスタバは、当時王権とメンフィスの神官団が密接に結びついていた事を示す証拠として注目に値する。第13王朝はこの流れを継続し、この王朝の数名のファラオはサッカラに埋葬された。

ヒクソスが力を増大させていった紀元前1650年頃、メンフィス市は敵に包囲され占領された。その占領に続いて古代の首都の多くの記念碑や彫像が取り外され、ヒクソスの王によって略奪されるか棄損された。彼等は新たな首都アヴァリス[Fnt 2]を飾るためそれらを運んだ。その後、テーベの第17王朝の王達によるプロパガンダの記録によって、半世紀後にテーベのエジプト人が王国を再征服した事が知られる。

新王国[編集]

ヒクソスに勝利したテーベ人達によって第18王朝が開かれた。アメンへテプ2世(在位:紀元前1427年-紀元前1401/1397年)とトトメス4世(紀元前1401年/1391年-紀元前1391年/1388年)の時代にはメンフィスに王室の重大な関心が寄せられたが、それでも権力の大部分は南方に残っていた[31]。それに続く長期の平和の後、その戦略的重要性によってこの都市は再び繁栄した。この時代に他の帝国との貿易関係が強化されたことは、その外港ペル・ネフェルPeru-nefer 文字通り「良い旅 Bon voyage」を意味する)をビュブロスレヴァントを含む他の地域から王国に入るための入口とした。

新王国時代、メンフィスは王子や貴族の子弟の教育拠点となった。メンフィスで生まれ育ったアメンへテプ2世は、彼の父の治世の間、下エジプトの大司祭であるセテム(setem)を務めていた。彼の息子トトメス4世は若い王子としてメンフィスで暮らしていたころ夢のお告げを受け、有名な夢の碑文英語版にその内容を記録させた。カール・リヒャルト・レプシウス(1810年-1884年;プロイセンのエジプト学者・言語学者)は、この地で調査している時、プタハ神殿の東側でトトメス4世の名前を刻んだ一連のブロックと破損した列柱を発見した。これらは王宮跡に違いなく、厳かな儀式が執り行われる宮殿だったであろう。

恐らく第18王朝の時代、具体的にはアメンへテプ3世の時(在位:紀元前1388/86年-紀元前1351/49年)、アスタルテ女神(メソポタミア・アッシリアの豊穣と戦争女神、バビロニアのイシュタルに相当する)の神殿が創建された。ヘロドトスはこれをギリシアの女神アフロディーテーに捧げられた物と誤認している。そして、アメンへテプ3世がメンフィスで行った最大の事業は、「プタハと一体なるネブマートラー」(Nebmaatra united with Ptah)と呼ばれる神殿の建設であった。この神殿はメンフィスの大家令[32]フイが作成させた建造物リストを含む当時の多くの資料で言及されている[33]。この神殿の正確な位置は未だ判明していない。しかし、この神殿に使われていた褐色の珪石ブロックの一部がプタハの小さな神殿を建設するためにラムセス2世(在位:紀元前1279年-紀元前1213年)によって再利用されていることが判明している。このことから、何人かのエジプト学者はアメンヘテプ3世の建造した神殿はラムセス2世が作った小神殿と同じ場所にあったと主張している[34]

メンフィスで発見された碑文によれば、アクエンアテン(在位 紀元前1353/51年-紀元前1336/34年)はこの都市にアテン神の神殿を建設した[35]。このアテンに仕えた一人の神官[36]の墓がサッカラで発見されている[37]。彼の後継者ツタンカーメン(在位:紀元前1332年-紀元前1323年、即位時の名前はトゥトアンクアテン)は治世2年目が終わるまでにアクエンアテンが作った首都アケトアテン(アテンの地平線)からメンフィスへ王宮を遷した。メンフィスでは異端的と見られた一神教、アテン信仰の時代が終わり、トゥトアンクアメンは伝統的な神殿と習慣の復旧を始めた。

ホルエムヘブマヤ英語版のような、彼の治世における重臣達の墓はサッカラに建立されている。ただしホルエムヘブは自身がファラオとなった後(在位:紀元前1319年-紀元前1292年)、最終的に王家の谷に自身の墓を作った。彼はツタンカーメンとアイの治世下で軍司令官を務めた。マヤはツタンカーメン、アイ、ホルエムヘブ治世下における財務長官[38]である。アイはツタンカーメンの宰相であり、彼の死後ファラオとなった(在位:紀元前1323年-紀元前1319年)。権力基盤を確かなものとするため、彼はツタンカーメンの未亡人、アンケセナーメン(ネフェルティティの6人の娘のうちの3女)と結婚した。彼女のその後の運命は知られていない。ホルエムヘブは同様にネフェルティティの姉妹ムトノジメトと結婚した。

ラムセス2世の治世下では、メンフィスは新首都ペル・ラムセス英語版の近郊にあることで、その新しい政治的重要性を発達させた証拠がある。このファラオはメンフィスに数多くのモニュメントを捧げ、栄光を象徴する巨大なシンボルでそれらを飾った。彼の後継者メルエンプタハ(在位:紀元前1213年-紀元前1203年)は彼の宮殿を建設し、プタハ神殿の南東の壁を強化した。第19王朝の初期にメンフィスは王室から特に重要視された。この王朝は現在見られる遺跡の中に最も多くの痕跡を残している。

プタハ大司祭英語版シェションクを現したレリーフ。

第21王朝第22王朝の時代もともにラムセスによって始められた宗教的発展の継続の様子が見て取れる。メンフィスは国家が地政学的な大転換を迎えた第3中間期の間、衰退の憂き目は見ていないように思われる。一方、新たな東北に作られた首都タニスではファラオ達がメンフィス式の信仰を発達させた可能性が高い。その地に残された遺跡から判断して、そこにはプタハの神殿が存在していたことがわかる。サアメン英語版アメン神に捧げられた神殿を建設したことが記録されている。その遺跡は20世紀初頭にフリンダーズ・ピートリーによってプタハ神殿複合体の南で発見されている[39]

第22王朝を建国したシェションク1世英語版(在位:紀元前943年-紀元前922年)は、彼の建築作品に残された碑文によるとメンフィスのプタハ神殿の前庭とパイロンを建設した。このモニュメントを彼は「アメンに愛されたるシェションクの千年の城」と呼んだ。新王国でよく知られていたこのモニュメントを取り巻く葬祭儀式は、この神殿が建立されてから数世代後も機能していたことを示す。一部の学者はファラオ自身のための埋葬室が存在していたと主張している[40]。シェションクはまた、聖牛アピスのための社を建設するように命令している。この社は特にアピスのミイラ化を行う葬祭儀式のために建立された[41][42]

第22王朝の時代から作られた、日付まで正確に記録されたメンフィスの大司祭達のネクロポリスが広場[43]の西に見つかっている。ここにはオソルコン2世英語版(在位:紀元前872年-紀元前837年)の王子シェションク英語版によるプタハ神のための礼拝堂が含まれる。彼の墓は1939年にピエール・モンテ(Pierre Montet)によってサッカラで発見された。この礼拝堂は現在、カイロのエジプト考古学博物館の庭で、メンフィスで見つかったラムセス2世の三体の巨像の後ろに展示されている。

末期王朝時代[編集]

第3中間期と末期王朝時代の間、メンフィスはしばしばクシュ人やアッシリア人、ペルシア人のような外国の占領者に対するエジプトの現地人の王朝による独立運動の舞台となった。

クシュ人の支配者ピアンキによるエジプトの征服の後、第25王朝が成立した。その王座は遥か南のナパタ英語版に置かれていた。ピアンキのエジプト征服はゲベル・バルカルのアメン神殿にある勝利の碑文に記録されている。彼はメンフィスの占領に続き、リビア人の支配下では無視されていた神殿と信仰の復興を図った。彼の後継者はプタハ神殿の南西角に礼拝堂を作ったことが知られている[44]

まもなくアッシリアがエジプトに侵攻を始めると、メンフィスはその脅威によって引き起こされた混乱の中心となった。タハルカ英語版王の下、この都市は抵抗運動の前線基地となったが、クシュ人の王がヌビアへ追いやられるとすぐに瓦解した。アッシリア王エサルハドンは幾人かのエジプト人の王子達の支持を得て、紀元前671年にメンフィスを占領した。彼の軍隊はこの都市で激しい略奪を行い、住民を虐殺してその頭で塚を作った。エサルハドンは膨大な戦利品を携えて自身の首都ニネヴェへ帰還し、タハルカの王子を鎖に繋いだ図像と共に戦勝記念碑英語版を建てた。エサルハドンが去った直後、エジプトではアッシリアの支配に対する反乱が発生した。

アプリエスの宮殿の遺跡(メンフィス)

アッシリアではアッシュールバニパルが彼の父の位を継承し、エジプトに対する再度の攻撃を行った。紀元前664年の大規模な侵攻でメンフィスは再び占領され略奪された。クシュ人の王タヌトアメン英語版は敗北しヌビアまで退却した。この結果エジプトにおけるクシュ人の支配は完全に終わりを告げた。その後政権はアッシリアの協力者であった第26王朝(サイス朝)の手に入った。このことはアプリエス英語版王によって建設された宮殿によって証明される。アッシリア滅亡後には、彼らはバビロニア人による侵略を恐れこの都市を再建し強化した。

エジプトとメンフィスはペルシウムの戦い英語版の後、紀元前525年にカンビュセス1世によってアケメネス朝の支配下に入った。ペルシア人の下、メンフィスは新たなサトラップ(総督)の駐在地として保護され強化された。ペルシアの守備軍が都市内に無期限設置された。恐らくその場所はアプリエス王の豪華な宮殿のそば、都市北側の大きな城壁である。フリンダーズ・ピートリーの発掘でこの地区には武器庫が存在していたことが明らかになっている。ほぼ一世紀半の間、この都市はペルシアのエジプト(ムドラーヤ/ムスラーヤ)属州の首都であり続け、アケメネス朝によって征服された広大な領土の商業的中心となった。

支配者によって依頼され、サッカラのセラペウムで聖牛アピスに捧げられた石碑は、この時代の出来事を理解するための重要な鍵を提供している。末期王朝時代、聖牛の遺体を埋葬するためのカタコンベの大きさは徐々に大きくなり、エジプト全土、特にメンフィスとそのネクロポリスにおけるアピス信仰の拡大を示す記念碑と言うべき様相を呈した。この中にはカンビュセス2世によって捧げられた物も含まれ、この事実は彼が征服者として神聖な伝統に対して敬意を払わなかったというヘロドトスの証言への反証となっているように見える。

紀元前404年、アミルタイオス英語版の権力増大と共に、現地人による王朝が再建された。彼はペルシア人の支配を終わらせたが、紀元前399年にはネクタネボ1世によって打ち破られメンフィスで処刑された。ネクタネボ1世は第29王朝を打ち立てた。この処刑はアラム語のパピルス文書に記録されている(ブルックリン・パピルス13番)。ネフェリテス1世英語版は首都をデルタ地帯東のメンデス英語版に遷した。そしてメンフィスは政治的中枢としての地位を再び喪失した。しかしその宗教、商業、そして軍事上の重要性は維持され、ペルシアによる再度のエジプト征服の企てに対抗するために重要な役割を果たした。

ネクタネボ1世の下で、全土の神殿で大規模な再建計画が開始された。メンフィスではプタハ神殿に力強い新たな外壁が再建され、神殿複合体の中には神殿と礼拝堂が建設された。ネクタネボ2世英語版は前任者の仕事を継続しながら、大規模な聖域の建設を始めた。特にサッカラのネクロポリスの物は、パイロン、像、スフィンクスが並ぶ舗装道路で装飾されていた。しかしペルシア人による再征服を阻止しようとする彼の努力も空しく、紀元前343年の大規模な侵攻においてペルシウムで敗北した。ネクタネボ2世はメンフィスの南に後退し、アルタクセルクセス3世によって包囲されると上エジプトに逃走、最終的にはヌビアに逃げ込んだ。

反逆王カババシュ(在位:紀元前338年-紀元前335年)の下でメンフィスは束の間の間解放された。彼はサッカラで発見された治世第2年の彼の名前を伴う聖牛アピスの石棺によって存在が証明されている。結局ダレイオス3世の軍勢がこの都市の支配を取り戻した。

メンフィスは第3中間期の間に侵略者による支配と反乱による解放を繰り返し経験した。数度の包囲戦はこの国の歴史の中でも最も凄惨な場面となった。ギリシア人の同盟者の支援を受けてアケメネス朝の支配に対抗したが、にも関わらずエジプトは征服者の手に落ち、メンフィスは二度と国家の首都となることはなかった。紀元前332年、ギリシア人が到来すると彼らはペルシア人からこの国の支配権を奪い取った。

プトレマイオス朝時代[編集]

メンフィスのアピス神殿のアレクサンダー(Alexander at the Temple of Apis in Memphis)、アンドレ・カーステニャ 作(1898–1899)。

紀元前332年、アレクサンドロス大王はプタハ神殿でファラオに即位し、ヘレニズム時代が始まった。彼の後継者の将軍プトレマイオス1世による支配が始まった後もメンフィスは重要な地位、特に宗教的な地位を維持した。アレクサンドロスがバビロンで死去(紀元前323年)すると、プトレマイオスは多大な苦労の上でアレクサンドロスの遺体を回収し、メンフィスに持ってきた。大王自身が公式にエジプトに埋葬を希望したのだと主張し、遺体をプタハ神殿の中心に運び込み、司祭達に防腐処理を行わせた。マケドニア人の王達は慣例に従い、前任者を埋葬することで自らの王位の正統性を主張した。プトレマイオス2世はその後アレクサンドロスの石棺をアレクサンドリアに遷した。そこでは王室の墓がその埋葬のために建設された。その正確な場所は現在ではわからなくなっている。アイリアノスによれば、占い師アリスタンドロス英語版はアレクサンドロスが横たわった地は「永久に幸福であり征服されることがない」と予言したという。

その後プトレマイオス朝が開かれると、その治世の間メンフィスは徐々に衰退した。プトレマイオス1世はエジプトに、特にメンフィスに初めてセラピス信仰を導入した。この時代、サッカラのセラペウムで詩人達の間(the Chamber of Poets)や神殿を飾る羨道(dromos)、そして多くのギリシア風建築を含む多くの建設事業が行われている。セラピス信仰はエジプトの国境を越えて広がったが、その栄光は後に彼の後継者によって建設されたアレクサンドリアの大セラペウム英語版の陰に隠れた。

紀元前216年と紀元前196年にそれぞれプトレマイオス4世プトレマイオス5世によってメンフィス決議英語版が発行された。王国の主要な聖職者からなる代表者は教会会議(synod)を招集し、プタハ大司祭の後援とファラオの臨席の下で国の宗教政策を確立する。また手数料や税金を記録して新たな財政基盤を構築する。そしてプトレマイオス朝の支配者に貢物を行う。これらの法令は全ての人間が読めるようにするため三つの文字(デモティックヒエログリフ、そしてギリシア語)で石碑に刻まれている。これらの石碑の中で最も有名なものはロゼッタストーンであり、この碑文によって19世紀にエジプト文字の解読が可能となった。

この時代の葬儀に関する別の石碑が発見されており、それらはメンフィスのプタハ大司祭の家系である上級聖職者の系譜を伝えている。この家系はアレクサンドリアの王室と強く結びついていた。この関係は大司祭とプトレマイオス朝の王女との婚姻が行われることによって更に強化された。

衰退と放棄[編集]

ローマ人の到来とともに、メンフィスはテーベのようにその重要性を失った。アレクサンドリアはメンフィスよりもローマ帝国内の交通の要衝として有利な位置にあった。エジプトの新たな支配者達のメンタリティーに適合した習合神セラピス信仰は盛り上がったが、キリスト教が出現しエジプトに深く根付くようになるとメンフィスの古代からの宗教は衰亡への一途を辿った。 都市は徐々に放棄され、ビザンティンコプトの時代には存在しなくなった。この都市は7世紀にはエジプトを征服したアラブ人による新たな首都フスタート等、周囲に新しい居住地を作るための採石場となった。13世紀、アラブ人の年代記作家アブド・アッラティーフ・アル=バグダーディー英語版(Abd al-Latif al-Baghdadi)がこの地を訪れ、その遺跡の壮大さを証言している。

"この都市は非常に巨大でまた極めて古い。この都市には頻繁に交代する政府と複数の国家による悪意の軛が課せられている。即ちそれを破壊しようとする悪意、世界に残されたその痕跡を一掃しようという、それを構成している石と建材を持ち去るという、それを飾っている彫像を引き裂くという、遂に人類が4000年以上も成してきた全ての悪意にある中で、これらの遺跡は依然として見る者の目に、最も熟練した筆録者をして筆致の及ぶところにない驚嘆を与える。この都市を見れば見るほど我々の称賛の念は湧きあがり、遺跡に向ける次なる視線は新たな歓喜の源である。...メンフィスの街はいかなる方向にも半日かかる広がりがある。[45][46]"

だが、今日残っている遺構はアラブの歴史家が目撃したものと比べ何もない。それでも彼の証言は多くの考古学者の仕事に影響を与えている。19世紀の最初の調査と発掘、そしてフリンダーズ・ピートリーによる発掘は、古の都の栄光の一端を明らかにした。墓、マスタバ、神殿、ピラミッドを含むメンフィスとそのネクロポリスは1979年にUNESCOの世界遺産(「メンフィスとその墓地遺跡-ギーザからダハシュールまでのピラミッド地帯」)に登録された。

遺構[編集]

新王国時代、特に第19王朝の支配者達の時代、政治的にも建築的にもメンフィスはテーベと匹敵するほど栄えた。この発展の痕跡は、プタハ神殿に捧げられたセティ1世の礼拝堂に見ることができる。一世紀以上に渡ってこの地で発掘が行われ、考古学者達は徐々にこの古代都市の全景と発展を確認できるようになっている。

プタハ大神殿[編集]

メンフィスのプタハ大神殿の西側前景を描いたアーティストの描写

このフウト・カ・プタハ[Fnt 3]Hout-ka-Ptah)は創造神プタハを祀るメンフィス最大の、そして最重要の神殿である。都市の最も主要な建物の一つであり、都市中心部の大きな区画を占めていた。何世紀にも渡り崇拝を集めたこの神殿は古代エジプトの宗教において最も重要な三つの聖域の一つであり、他の二つはヘリオポリスラー神殿と、テーベのアメン神殿である。

今日この古代の神殿について知られている事の多くはヘロドトスの記録に依る。彼は新王国時代のかなり後、第一次ペルシア支配の時代にこの地を訪れている。彼はこの都市がメネス(ミン)によって建設されたと主張している。そして神殿複合体の主要な建物は王と神官達しか入ることは許されなかったとしている[47] 。彼の記録はしかし、神殿の物理的な特徴に言及していない。過去1世紀にわたり続けられてきた考古学の探求は、徐々に神殿の遺跡を掘り起こし、南、西、東の壁に沿って建つ複数の記念碑的な門を通って入ることができる巨大な壁の複合体を明らかにした。

この大神殿の遺構と敷地は野外博物館として元々神殿の南側の軸線上にあったラムセス2世像のそばに展示されている。 またこの地区には19世紀に発見された一枚岩でできた大きなスフィンクスがある。それは第18王朝の時代のものであり、アメンヘテプ2世トトメス4世の時代に作成された可能性が高い。これは現在でも原位置に残されているこの種の彫像の最も優れた例の一つである。

屋外博物館には他にも多くの彫像、巨像、スフィンクス、建築遺構がある。ただし、大部分の発見は全世界の主要な博物館に販売された。多くはカイロのエジプト考古学博物館に保存されている。

神殿の具体的な外観は現時点では不明であり、周囲の主要な門扉のみが知られている。最近の発掘の進展で、門や塔を飾った巨大な像が発見されている。これらはラムセス2世の時代の物である。このファラオは少なくても彼等が崇拝した神々に関連する三つの社を神殿の境内に建てた。

ラムセス2世のプタハ神殿 [編集]

プタハ大神殿の南西角に隣接して建設されたこの小さな神殿は三柱の国家神、ホルス、プタハ、アメンと共に神格化されたラムセス2世に捧げられた。アメンに愛される者、神、ヘリオポリスの支配者ラムセスのプタハ神殿として知られている[48]

その遺跡は1942年に考古学者アフマド・バダウィに発見され、1955年にルドルフ・アンテスによって発掘された。この発掘は塔、儀式が捧げられる中庭、列柱のホールに付随するポルティコ、三柱の聖域、全てが泥煉瓦の壁に囲われた宗教的建造物を発見した。その最も新しい外装は新王国時代の物である。

神殿は東側の別の宗教建造物に続く舗装路に向かって開かれていた。この考古学的探究は、都市の南部に実際にメンフィスの主神プタハに対して特に捧げられた多数の宗教建築が存在していることを明らかにした。

ラムセス2世のプタハとセクメトの神殿[編集]

更に東、ラムセスの巨像のそばに、第19王朝時代のこの小さな神殿がある。この神殿はプタハと彼の配偶神セクメト、同様に神格化されたラムセス2世に捧げられたと思われる。その遺跡は近隣の物と同様あまり保存状態が良くない。基礎の石灰岩は古代末期にこの都市が放棄された後に切り出されているように見える。

プタハ神に捧げ物をするメルエンプタハの姿。

中王国時代の二つの巨像は元々は西側に向かって開かれた建物のファザードを飾っていた。これらは上エジプトの白色王冠(ヘジェト)を被り行進している姿勢のファラオを描写したもので、メンフィスの博物館内に移動されている。

メルエンプタハのプタハ神殿[編集]

大神殿複合体の南東に第19王朝のメルエンプタハ王が都市神プタハに敬意を表して建立した新しい社がある。この神殿は20世紀初頭にフリンダーズ・ピートリーに発見され、彼はヘロドトスが引用したギリシアの神プロテウスの描写を確認した。

この場所は第一次世界大戦中にクラランス・スタンレー・フィッシャーによって発掘された。発掘は15㎡程の大きな中庭の前部で開始され、南側は大きなドアで開口しており、ファラオとプタハの別名がレリーフに納められている。神殿のこの部分だけが発掘され、残余の空間は北側の僅かしか発掘されていない。

この神殿は後世のファラオの時代の在籍者の急増で証明されるように新王国時代を通じて使用され続けていた。その後徐々に放棄され、民間人が他の用途に転用した。都市の活動で埋もれていたこの場所は、層序学的研究によって末期王朝時代には既に廃墟であり、間もなく新しい建造物が真上に建てられた事が示されている。

メンフィスのハトホル神殿の遺跡

ハトホル神殿[編集]

この小さなハトホルの神殿は1970年代にアブドゥッラーフ・アル・サイード・マフムード(Abdullah al-Sayed Mahmud)によってフウト・カ・プタハの巨大な壁の南で掘り出された。この神殿はラムセス2世時代のものである[49]。シカモア(Sycamore)の婦人ハトホル女神に捧げられ、特にカルナックの小さな神殿建築と同様の姿を見せている。その大きさから彼女の主要な神殿ではないように思われるが、この都市の遺跡に存在する唯一の彼女のために建てられた建物である。

この社は主要な祭りの間の宗教的な行進のために使われたと信じられている。エジプトにおいてハトホルに捧げられたより大きく最も重要な神殿がこの都市のどこかに存在していたと考えられているが、今日まで発見されていない。プタハ神殿の近くにあるのと同様の窪地が見つかればその位置を指し示すことができる。考古学者達は古代の資料によって語られている外郭と巨大なモニュメントを確認することができると考えている。

その他の神殿[編集]

ローマ時代ミトラに捧げられた神殿がメンフィスの北側の地域で発見されている。ヘロドトスによって記録されたアスタルテ神殿は、このギリシア人の作家が都市を訪れた時はフェニキア人に割り当てられた地区に存在した。ネイト女神の神殿はプタハ神殿の北にあると言われている。後者の二つはいずれも現在まで発見されていない。

メンフィスにはプタハに付き従う神々に捧げられた他の多くの寺院が存在していたと考えられている。複数の聖域の存在は古代のヒエログリフの記録によって証明されている。しかし未だこの都市の遺跡から発見されていない。調査と発掘はまだミート・ラヒーナの近郊で続けられており、恐らくこの古代の宗教都市の姿についての知識を増加させることができるだろう。

セクメト神殿[編集]

プタハ神の配偶神セクメト女神に捧げられた神殿は未だ発見されていないが、エジプト人の記録により存在が確認されている。考古学者はまだその遺構を調査していない。

それは19世紀後半の神殿複合体の遺跡の中でのセクメト女神の別名を思い起こさせる名前がある「大扉」(great door)[50]や、ラムセス2世を「セクメトに愛される者」と宣言する碑文[51]等の発見が示唆するようにフウト・カ・プタハの区域内に存在しているかもしれない。それはまたハリス・パピルス英語版を通じて証明されている。この資料はラムセス3世の時代にプタハ神、彼等の息子ネフェルテム神と並んでこの女神の像が作られ、大神殿の中心でメンフィスの神々のために納められたと記している[52][53]

サッカラのセラペウムで発見された聖牛アピスの像。

アピス神殿[編集]

メンフィスのアピス神殿はプタハの生ける姿と考えられた聖牛アピス信仰の中心となる神殿であった。その詳細はヘロドトスやディオドロス、ストラボンのような古代の歴史家によって記録されているが、その場所は未だに古代の首都の遺跡の中に発見されていない。

この神殿の中庭を巨大な彫像を伴うペリスタイルのものと描写したヘロドトスによれば、プサメティコス1世英語版によって建立された。

ギリシア人の歴史家ストラボンアクティウムの海戦クレオパトラに対して勝利した後に、ローマ軍と共にこの地を訪れた。彼はこの神殿は雄牛の間と、その母の間の二つから成っており、全てがプタハ神殿のそばに建設されたと述べている。アピスは神託として使われ、その動きは予言として解釈されていた。その息は病を治すと信じられており、その周囲にいる病人を祝福した。アピスの姿は神殿の窓を通して見ることができ、祝祭の日には宝石や花で飾られて街の通りを練り歩いた。

1941年、考古学者アフマド・バダウィはアピス神を描いたメンフィスで最初の遺構を発見した。その場所はプタハ大神殿の敷地内に位置し、専ら聖牛の防腐処理を実施するためだけに設計された葬祭施設であることを明らかにした。サッカラで発見されたネクタネボ2世英語版の一つの石碑は、この建物の復旧を命じている。この遺物は第30王朝の時代のもので、葬祭施設の北側部分で発掘された。これによって建物の北側部分の再建時期が確認された。この葬祭施設は古代の資料で言及されるより大きな神殿の一部である可能性が高い。この神殿の聖なる施設は残存する唯一の部分であり、ストラボンとディオドロスの記録を確認する。両者ともこの神殿はプタハ神殿のそばに位置すると述べている[54]

メンフィスのアメン神殿のまぐさ石に刻まれたサアメンのカルトゥーシュに跪くアンケフェヌムト(Ankhefenmut

既知のアピス像の大部分はサッカラの北西にあるセラペウム英語版として知られる埋葬室から発見されている。この場所で発見されたもっとも古い埋葬跡はアメンへテプ3世の治世まで遡る。

アメン神殿[編集]

第21王朝の時代、サアメン英語版によって偉大な神アメンの社がプタハ神殿の南に建設された。この神殿(または神殿群)はアメン、その妻ムト、彼等の息子コンスからなるテーベ三神英語版[55]に捧げられた可能性が高い。これは上エジプトにおいてメンフィスの三神(プタハ、セクメト、ネフェルテム)に対応するものである。

アテン神殿[編集]

メンフィスにアテン神に捧げられた神殿があったことはサッカラで発見された第18王朝の高官メンフィテの墓で発見されたヒエログリフの文書で証明されている。その中にはアクエンアテンの治世において「メンフィスのアテン神殿の家令[56]」としてキャリアを始めたツタンカーメンの物が含まれる。

19世紀から20世紀初頭にかけてのメンフィスでの初期の発掘以来、都市の様々な場所から日輪英語版の崇拝に捧げられた建造物があることを示す遺物が発見されている。その建物の場所は分からなくなっており、このテーマについてはアマルナ時代の特徴が発見された場所の遺構に基づいて様々な仮説が提唱されている。

ラムセス2世像[編集]

野外博物館にあるラムセス2世の巨像

古代メンフィスの遺跡はラムセス2世の姿を映した多数の彫像を齎した。

メンフィスの博物館には約10メートルの長さを持つ石灰岩で作られた記念碑的な石像がある。それは1820年にプタハ神殿の南門のそばでイタリア人の考古学者ジョヴァンニ・カヴィグリア英語版によって発見された。彫刻の基礎と足の部分は胴体部から切り離されているので現在は背中の部分を地面に付けて横たわって展示されている。一部の色彩が保存されているが、この像の美しさは人体の解剖学的構造の微妙さを完璧かつ詳細に表現していることにある。このファラオは上エジプトの白色王冠ヘジェトを被っている。

カヴィグリアはイッポリト・ロゼリーニ英語版の仲介を通して、この像をトスカーナ公レオポルド2世に送るよう提案した。ロゼリーニは主君に輸送にかかる莫大な費用についてアドバイスし、必要に応じて巨像を切断して運ぶ事を検討した。ワーリー英語版(総督)であり、自らエジプトとスーダンのカディーブ英語版と宣言したムハンマド・アリーはそれを大英博物館に寄付することを提案したが、ロンドンにこの巨大な像を輸送することは困難であるため提案は拒否された。従ってそれを保護するために建てられた博物館がメンフィスの遺跡地域に残った。

この巨像は歴史的にプタハ神殿の東のエントランスを飾った一対の像の片方であった。ラムセス2世像英語版も同じ年にカヴィグリアによって発見されており、1950年代に11メートルの高さで立った状態に復元された。最初はカイロのバーブ・アル・ハディード・スクエアで展示され、この施設はその後ラムセス・スクエアに名前が変更された。しかし不適切な場所であると見なされ、2006年にギーザの一時保管場所に移動し、現在は修復中である。この像は2018年開館予定の大エジプト博物館(Grand Egyptian Museum)のエントランスに展示される予定である。彫像のレプリカがカイロ近郊のヘリオポリス英語版に立つ。

サッカラ, ネクロポリス[編集]

メンフィスのネクロポリス、サッカラにある著名なジェセル王のピラミッド

古代の莫大な人口のため、メンフィスは複数の渓谷に沿って広がるネクロポリス英語版を持っていた。この中には最も著名なサッカラが含まれる。更に、都市部自体は大神殿の西側に建設された墓地で構成されている。この土地の神聖さは必然的にオシリスへの供物を捧げる敬虔な人々や、埋葬を行おうとする人々を惹きつけた。

アンク・タウィAnkh-tawy)と呼ばれる都市の一部は、既に中王国の時代にはネクロポリスに含まれていた。プタハ神殿の西側地区の広がりは、第22王朝の王達の命令でラムセス時代の栄光を取り戻そうとしていた。この地区には高官達のネクロポリスが建設された。

記録によると、この地域にはバステト女神の礼拝堂や小聖堂もあった。それはブバスティス英語版の信仰を齎した王朝の支配者達の記念碑と適合するように見える。また、この地区では複数の葬祭殿英語版が様々な新王国のファラオ達によって捧げられた。その機能はエジプト学者によってテーベのファラオ達の数百万年の館英語版[57]と同様の物であるとされている。

王宮[編集]

マネトによれば、メンフィスには8つの王朝英語版のファラオ達が王座を置いた。最初の王宮は第1王朝の創設者ナルメルの後継者アハによって建設された。彼はメンフィスに白い壁の要塞を築いた。エジプト人の記録は古王国の支配者達の宮殿について伝えており、その一部は著名なピラミッドの下に建設されている。それらは巨大であり、庭園や湖で装飾されていた[58]。それらの宮殿に加えて、他の資料はトトメス1世によってメンフィスに建設された宮殿の存在を示している。それはトトメス4世の時代でもまだ機能していた。

メンフィスを見下ろすアプリエスの宮殿の遺跡。

メルエンプタハは、彼の時代の公的文書によれば、新しい神殿と隣接した宮殿を囲う巨大な壁の建設を命じた[59]。後のファラオ、アプリエス英語版は、街を見下ろす豪華な宮殿を丘の上に持っていた。それは末期王朝時代に神殿の境内に建設された一連の建造物の一部であり、王宮、要塞、兵舎、武器庫を含んでいた。フリンダーズ・ピートリーはこの地区を調査し、重大な軍事活動の痕跡を発見した[60]

その他の建造物[編集]

中央に位置する宮殿と神殿は、多くの職人の作業所や造兵廠、造船所があった街の別地区に取り巻かれていた。居住区画もあり、その中には外国人が住んでいたものもあった(最初はヒッタイト人フェニキア人、後にはペルシア人、最後にギリシア人)。この都市は交易路の交差点に位置しており、それ故に地中海の様々な地域から輸入された商品が集積した。

古代の文書は市域の拡大が定期的に行われたことを示している。更に、何世紀にもわたりナイル川の流路が東に移っており、古い首都の東部域で新しい土地が占有されている証拠が見つかっている[61]。都市のこの地区はプタハ神殿の巨大な東門が聳えていた。

歴史記録と調査[編集]

メンフィスの遺跡は古代から有名であり、エジプト人と外国人の多くの古代資料で言及されている。各地にある外交的記録は地中海、中東、アフリカにある都市と同時期の様々な帝国との通信を詳らかにしている。それらの中にはバビロンの統治者やレバノンの様々な都市国家とメンフィスとの間の取引を詳述するアマルナ文書等である。後のアッシリア王はメンフィスを征服地のリストの中に宣言している。

古代からの資料[編集]

紀元前1千年紀の後半が始まると共に、特にギリシアとの交易関係の発展に伴い、この都市は古代の歴史家たちによって詳細に言及されるようになった。交易商人を追ってエジプトを発見した旅行者達によるこの都市についての説明は、メンフィスの栄光に満ちた過去を再構築するのに役立つ事が証明されている。主な古代の著者には以下のような人物がいる。

  • ヘロドトス:ギリシア人の歴史家。彼は紀元前5世紀のアケメネス朝による第一次ペルシア支配時代にこの都市の記念碑を訪れ記録した[62]
  • シケリアのディオドロス:ギリシア人の歴史科。彼は紀元前1世紀にこの地を訪れ、プトレマイオス朝後の時代のこの都市の情報を提供している[63]
  • ストラボンヘレニズム時代の地理学者。彼は紀元前1世紀後半のローマによる征服の際にこの都市を訪問した[64]

その後もこの都市はその他のラテンまたはギリシアの著作家によってしばしば言及されるが、スエトニウスのように都市の全体的な説明、またはその宗教の詳細を提供してくれることは稀である[65]アンミアヌス・マルケリヌスは特にアピスに対する崇拝に注意を払っている。この都市はその後のキリスト教時代には忘却の彼方へ放り込まれてしまい、最終段階の都市活動の様子についての記録はほとんど無い。

メンフィスについてアラブ人がエジプトを征服するまでの間の記録は無く、征服の時には既に廃墟となっていた。この時代を復元するための主要な記録は以下の物がある。

初期の調査[編集]

Memphis, Egypt in 1799.
ジェームズ・レンネルカイロとメンフィスの地図。1799年。ナイル川の流路変更が見て取れる。

1652年に、ジャン・ド・テヴノ英語版(Jean de Thévenot)はエジプトを旅行し、この都市の場所と遺跡を特定し、ヨーロッパに伝わる古いアラブ人の著作家の記録を確認した。彼の記録は簡潔であったが、後の考古学発展に向けた調査へと踏み出す第一歩の証である[66]。メンフィスでの考古学的調査の出発点は、1798年のナポレオン・ボナパルトによるエジプトへの大規模な侵攻であった。研究と調査によってテヴノの記録の正しさが確認され、その遺構の最初の調査はフランス軍に従軍した科学者達によって行われた。最初の科学的調査の成果は、初めてメンフィスの位置を正確に表す地図の出版であり、記念碑的な名著『エジプト誌英語版Description de l'Égypte)』に掲載された。

ラムセス2世像、メンフィスでジョセフ・ハケキヤン(Joseph Hekekyan)によって発見された。

19世紀[編集]

初期のフランスの探検隊は、19世紀から今日に至るまで数多の探検家、エジプト学者、主要な考古学機関によって行われたより深い調査を可能とする道を開いた。それらの部分的なリストは以下の通りである。

  • この遺跡における最初の発掘は1820年にカヴィグリアとスローンによって行われた。彼らはラムセス2世の巨像が横たわっているのを発見した。それは今日博物館で展示されている。
  • ジャン=フランソワ・シャンポリオン:1828年から1830年までのエジプト旅行でメンフィスを通過し、カヴィグリアとスローンが巨人を発見した際にこの地で掘り出された数多くの発掘品について語り、碑文の多くを解読したと説明している。彼はより多くの時間を研究に費やす事を誓ったが、1832年の突然の死によって、その野心を成し遂げる事はできなかった[67]
  • カール・リヒャルト・レプシウス:プロイセンによる1842年の探検の際に遺跡を素早く調査し、将来の全ての調査と発掘の礎となる初めての詳細な地図を作製した[68]
  • イギリス支配の時代英語版(British era)のエジプトでは、ナイル川の氾濫を利用した体系的な農業技術の発達が、相当数の偶発的な考古学的発見を齎した。発見された物の多くは、ロンドン英語版パリ英語版ベルリン英語版トリノの大博物館のためにこの国を旅行し、収集活動を行う著名なヨーロッパ人コレクターの手に渡ったであろう。

農作業に伴う偶発的な発見の一つが、1847年にミート・ラヒーナ村の近郊で農民がたまたま発見したローマ時代のミトラ神殿の一部である。

1852年から1854年まで、エジプト政府で働いていたジョセフ・ハケキヤンは、この地の地質学的調査を行い、コム・エル・ハンジール(Kom el-Khanzir プタハ大神殿の北東)で数多くの発見をした。この時発見されたアマルナ時代からのレリーフで飾られていたこれらの石は元々はメンフィスのアテン神殿に使われていたが、他のモニュメントの基礎を作るために再利用されていた。彼はまたピンク色の花崗岩で作られた巨大なラムセス2世像英語版を発見した。

この溢れるような考古学的発見の数々は、最終的にはエジプトの地からこれらの文化財が絶え間なく流出するリスクを生み出した。1850年にサッカラを訪問したオギュスト・マリエットは、エジプトで考古学的文化財の調査と保護を担当する機関を作る必要性を認識した。彼は1859年にエジプト考古機関(Egyptian Antiquities Organisation/EAO)を創立した。そしてメンフィスで発掘調査を行い、初めてプタハ大神殿の痕跡を明らかにした。また、古王国の王達の彫像を発見した[69]

20世紀[編集]

イギリス人のエジプト学者、サー・ウィリアム・マシュー・フリンダーズ・ピートリーが1907年から1912年にかけて行った主要な発掘調査は、今日見られる遺跡の大部分を明らかにした。この時の主な発見はプタハ神殿の列柱の間、ラムセス2世のパイロン、アラバスター製の大スフィンクス、アプリエス宮殿の大規模な北壁が含まれる。彼はまた、サアメンのアメン神殿の遺構、メルエンプタハのプタハ神殿も発見している[70]。彼の調査は第一次世界大戦で中断された。その後は、他の考古学者達に受け継がれ、この古代の都の忘れ去られたモニュメントを徐々に明らかにしている。

主要な発見の年表

  • 1914-1921:ペンシルベニア大学によるメルエンプタハのプタハ神殿の発掘調査で、隣接する宮殿が発見された。
  • 1942年:エジプト学者アフマド・バダウィの指揮によるEAOによる調査で、ラムセスの小さなプタハ神殿が発見され、第22王朝の王子シェションクの墓の礼拝堂も発見された[71]
  • 1950:エジプト学者ラビブ・ハバチ英語版(Labib Habachi)は、EAOの調査でセティ1世の礼拝堂を発見した。エジプト政府はピンク色のラムセス2世の巨像をカイロに遷すことを決定した。これは市内の鉄道のメインターミナル前に置かれ、続いてミッダン・ラムセス(Midân Rameses)という名前の広場に置かれている。
  • 1954:コム・エル・ファハリ(Kom el-Fakhri)で中王国時代の墓地を労働者が発見[72]
  • 1955-1957:ペンシルベニア大学による調査の際、ルドルフ・アンテスはラムセスのプタハの小さな神殿を詳細に調査し、アピスの防腐処理を行う聖堂を発見した[73]
  • 1969:偶然、ハトホルの小神殿の礼拝堂が発見された[49]
  • 1970-1984: EAOによる調査でハトホルの小神殿の詳細が明らかにされた。指揮はアブドゥッラーフ・エル・サイード・マフムード(Abdullah el-Sayed Mahmud)と、フレイル・ガリ(Huleil Ghali)、カリム・アブ・シャナブ(Karim Abu Shanab)。
  • 1980:アピスの防腐処理用礼拝堂の発掘でARCE(American Research Center in Egypt)が更に研究を進めた[74]
  • 1982:エジプト学者ジャロミア・マレックがラムセスのプタハ神殿で発見された記録の研究を行った[75]
  • 1970、1984-1990:ロンドンのEES(Egypt Exploration Society)による発掘。ラムセス2世の列柱の間とパイロンが更に発掘された。アメンヘテプ2世の時代の年代記を持つ花崗岩のブロックを発見。プタハ大神官の墓地の発掘。サッカラ近郊のネクロポリスでの調査と重要な発掘[76]
  • 2003:EAO(現在の考古最高会議(Supreme Council of Antiquities))のハトホルの小神殿における再調査。
  • 2003-2004:メンフィス北側の巨大な壁におけるロシアとベルギーの合同発掘調査。

画像[編集]

関連記事[編集]

備考[編集]

  1. ^
    <
    p p i i
    > Y5
    N35
    F35 O24

    Ppj-mn-nfr = Pepi-men-nefer ("Pepi is perfection", or "Pepi is beauty").
  2. ^ これらの遺物のほとんどは後にラムセス2世によって新首都ペル・ラムセスを飾り立てるために回収された。更にその後、第3中間期にはタニスに再び移動された。これによって多くの遺物はエジプト国内の古い首都の各地に散在している。
  3. ^
    Q3
    X1
    V28 O6 X1
    O1
    D28 O49

    ḥw.t-k3-Ptḥ = Hout-ka-Ptah

脚注[編集]

  1. ^ P. Tallet, D. Laisnay: Iry-Hor et Narmer au Sud-Sinaï (Ouadi 'Ameyra), un complément à la chronologie des expéditios minière égyptiene, in: BIFAO 112 (2012), 381–395, available online
  2. ^ Bard, Encyclopedia of the Archaeology of Ancient Egypt, p. 694.
  3. ^ Meskell, Lynn (2002). Private Life in New Kingdom Egypt. Princeton University Press, p.34
  4. ^ Shaw, Ian (2003). The Oxford History of Ancient Egypt. Oxford University Press, p.279
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  8. ^ Hieratic Papyrus 1116A, of the Hermitage Museum in Saint Petersburg; cf Scharff, Der historische Abschnitt der Lehre für König Merikarê, p.36
  9. ^ Montet, Géographie de l'Égypte ancienne, (Vol I), p. 28–29.
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  19. ^ Manley, Bill (1997). The Penguin Historical Atlas of Ancient Egypt. Penguin Books.
  20. ^ P. Tallet, D. Laisnay: Iry-Hor et Narmer au Sud-Sinaï (Ouadi 'Ameyra), un complément à la chronologie des expéditios minière égyptiene, in: BIFAO 112 (2012), 381–395, http://www.academia.edu/3844520/_Iry-Hor_et_Narmer_au_Sud-Sinai_ouadi_Ameyra_
  21. ^ P. Tallet, D. Laisnay: Iry-Hor et Narmer au Sud-Sinaï (Ouadi 'Ameyra), un complément à la chronologie des expéditios minière égyptiene, in: BIFAO 112 (2012), 381–395, http://www.academia.edu/3844520/_Iry-Hor_et_Narmer_au_Sud-Sinai_ouadi_Ameyra_
  22. ^ Breasted, Ancient Records of Egypt, p. 109–110.
  23. ^ Goyon, Les ports des Pyramides et le Grand Canal de Memphis, p. 137–153.
  24. ^ Al-Hitta, Excavations at Memphis of Kom el-Fakhri, p. 50–51.
  25. ^ Mariette, Monuments divers Collected in Egypt and in Nubia, p. 9 and plate 34A.
  26. ^ 訳注:原文 pylon この場合はエジプトの神殿に見られる特別巨大な塔門の事。詳細については http://www.kamit.jp/01_introdctn/5_mattan/mattan.htm を参照
  27. ^ Mariette, Monuments divers Collected in Egypt and in Nubia, § Temple of Ptah, excavations 1871, 1872 and 1875, p. 7 and plate 27A.
  28. ^ Brugsch, Collection of Egyptian monuments, Part I, p. 4 and Plate II. This statue is now on display at the Egyptian Museum in Berlin.
  29. ^ ヘロドトス, 『歴史』 巻2 §101.
  30. ^ ディオドロス 『歴史叢書』, 巻1, 2-8.
  31. ^ Cabrol, Amenhotep III le magnifique, Part II, Ch. 1, p. 210–214.
  32. ^ 訳注:原文は High Steward of Memphis 適切な訳語が見当たらないためこの訳語を置くが、学術的に確立した訳語に置き換えるべきである。
  33. ^ Petrie, Memphis and Maydum III, p. 39.
  34. ^ Cabrol, Amenhotep III le magnifique, Part II, Ch. 1.
  35. ^ Mariette, Monuments divers collected in Egypt and in Nubia, p. 7 & 10, and plates 27 (fig. E) & 35 (fig. E1, E2, E3).
  36. ^ 訳注:原文 one of the priests of this cult
  37. ^ Löhr, Aḫanjāti in Memphis, p. 139–187.
  38. ^ 訳注:原文は Overseer of the Treasury 適切な訳語が見当たらないためこの訳語を置くが、学術的に確立した訳語に置き換えるべきである。
  39. ^ Petrie, Memphis I, Ch. VI, § 38, p. 12; plates 30 & 31.
  40. ^ Sagrillo, Mummy of Shoshenq I Re-discovered?, p. 95–103.
  41. ^ Petrie, Memphis I, § 38, p. 13.
  42. ^ Maystre, The High Priests of Ptah of Memphis, Ch. XVI, § 166, p. 357.
  43. ^ 訳注:原文 forum ローマのフォルムのようなイメージでこの単語が使用されていると解した。
  44. ^ Meeks, Hommage à Serge Sauneron I, p. 221–259.
  45. ^ Joanne & Isambert, Itinéraire descriptif, historique et archéologique de l'Orient, p. 1009.
  46. ^ Maspero, Histoire ancienne des peuples de l'Orient, Ch. I, § Origine des Égyptiens.
  47. ^ ヘロドトス, 『歴史』 巻2 §99.
  48. ^ Anthes, Mit Rahineh, p. 66.
  49. ^ a b Mahmud, A new temple for Hathor at Memphis.
  50. ^ Brugsch, Collection of Egyptian monuments, p. 6 and plate IV, 1.
  51. ^ Brugsch, Collection of Egyptian monuments, p. 8 and plate IV, 5.
  52. ^ Breasted, Ancient Records of Egypt, § 320 p. 166
  53. ^ Grandet, Le papyrus Harris I, § 47,6 p. 287.
  54. ^ Jones, The temple of Apis in Memphis, p. 145–147.
  55. ^ 訳注:原文は The Theban Triad 適切な訳語が見当たらないためこの訳語を置くが、学術的に確立した訳語に置き換えるべきである。
  56. ^ 訳注:原文は steward of the temple of Aten in Memphis 適切な訳語が見当たらないためこの訳語を置くが、学術的に確立した訳語に置き換えるべきである。
  57. ^ 訳注:原文は Temples of a Million years 訳語はトビー・ウィルキンソン 内田杉彦訳『図説古代エジプト人物列伝』悠書館 2015 を参考にした。
  58. ^ Lalouette, Textes sacrés et textes profanes de l'Ancienne Égypte (Vol II), p. 175–177.
  59. ^ Herodotus, 『歴史』 巻2 §112.
  60. ^ Petrie, The Palace of Apries (Memphis II), § II, p. 5–7 & plates III to IX.
  61. ^ Jeffreys, D.G.; Smith, H.S (1988). The eastward shift of the Nile's course through history at Memphis, p. 58–59.
  62. ^ ヘロドトス, 『歴史』 巻2 §99, 101, 108, 110, 112, 121, 136, 153,176.
  63. ^ ディオドロス, 『歴史叢書』 巻1, Ch. I, paragraphs 12, 15, 24; Ch. II, paragraphs 7, 8, 10, 20, 32.f
  64. ^ ストラボン, 『地理誌』, Book XVII, chapters 31 and 32.
  65. ^ スエトニウス, 『皇帝伝』, Part XI: ティトゥスの生涯
  66. ^ Thévenot, Relation d’un voyage fait au Levant, Book II, Ch. IV, p. 403; and Ch. VI, p. 429.
  67. ^ Champollion-Figeac, l'Égypte Ancienne, p. 63.
  68. ^ Lepsius, Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien, booklets of 14 February, 19 February, 19 March and 18 May 1843, p. 202–204; and plates 9 and 10.
  69. ^ Mariette, Monuments divers collected in Egypt and in Nubia.
  70. ^ Petrie, Memphis I and Memphis II.
  71. ^ Badawy, Grab des Kronprinzen Scheschonk, Sohnes Osorkon's II, und Hohenpriesters von Memphis, p. 153–177.
  72. ^ El-Hitta, Excavations at Memphis of Kom el-Fakhri.
  73. ^ Anthes, works from 1956, 1957 and 1959.
  74. ^ Jones, The temple of Apis in Memphis.
  75. ^ Málek, A Temple with a Noble Pylon, 1988.
  76. ^ Jeffreys, The survey of Memphis, 1985.

関連書籍[編集]

  • ヘロドトス, 『歴史』 (巻2).
  • シケリアのディオドロス, 『歴史叢書』, (巻1).
  • ストラボン, 『地理誌』, Book XVII: North Africa.
  • スエトニウス, 『皇帝伝』, Part XI: Life of Titus.
  • Ammianus Marcellinus; translation by C.D. Yonge (1862). Roman History, Book XXII. London: Bohn. pp. 276–316. http://www.tertullian.org/fathers/ammianus_22_book22.htm. 
  • Jean de Thévenot (1665). Relation d’un voyage fait au Levant. Paris: L. Billaine. 
  • Government of France (1809–1822). Description de l'Égypte. Paris: Imprimerie impériale.
  • Champollion, Jean-François (1814). L'Égypte sous les Pharaons. Paris: De Bure. 
  • Champollion, Jacques-Joseph (1840). L'Égypte Ancienne. Paris: Firmin Didot Frères. 
  • Lepsius, Karl Richard (1849–1859). Denkmäler aus Aegypten und Aethiopien. Berlin: Nicolaische Buchhandlung. http://edoc3.bibliothek.uni-halle.de/lepsius/info.html. 
  • Ramée, Daniel (1860). Histoire générale de l'architecture. Paris: Amyot. 
  • Joanne, Adolphe Laurent; Isambert, Émile (1861). Itinéraire descriptif, historique et archéologique de l'Orient. Paris: Hachette. 
  • Brugsch, Heinrich Karl (1862). Collection of Egyptian monuments, Part I. Leipzig: J.C. Hinrichs. 
  • Mariette, Auguste (1872). Monuments divers collected in Egypt and in Nubia. Paris: A. Franck. 
  • Maspero, Gaston (1875). Histoire des peuples de l'Orient. Paris: Hachette. 
  • Maspero, Gaston (1902). Visitor's Guide to the Cairo Museum. Cairo: Institut Français d'Archéologie Orientale. 
  • Jacques de Rougé (1891). Géographie ancienne de la Basse-Égypte. Paris: J. Rothschild. 
  • Breasted, James Henry (1906–1907). Ancient Records of Egypt: Historical Documents from the Earliest Times to the Persian Conquest. Chicago: University of Chicago Press. ISBN 0-8160-4036-2. 
  • Petrie, W.M. Flinders, Sir (1908). Memphis I. British School of Archaeology; Egyptian Research Account. 
  • Petrie, W.M. Flinders, Sir (1908). Memphis II. British School of Archaeology; Egyptian Research Account. 
  • Petrie, W.M. Flinders, Sir (1910). Maydum and Memphis III. British School of Archaeology; Egyptian Research Account. 
  • Al-Hitta, Abdul Tawab (1955). Excavations at Memphis of Kom el-Fakhri. Cairo. 
  • Anthes, Rudolf (1956). A First Season of Excavating in Memphis. Philadelphia: University of Philadelphia. 
  • Anthes, Rudolf (1957). Memphis (Mit Rahineh) in 1956. Philadelphia: University of Philadelphia. 
  • Anthes, Rudolf (1959). Mit Rahineh in 1955. Philadelphia: University of Philadelphia. 
  • Badawy, Ahmed (1956). Das Grab des Kronprinzen Scheschonk, Sohnes Osorkon's II, und Hohenpriesters von Memphis. Cairo: Annales du Service des Antiquités de l'Égypte, Issue 54. 
  • Montet, Pierre (1957). Géographie de l'Égypte ancienne, (Vol I). Paris: Imprimerie Nationale. 
  • Goyon, Georges (1971). Les ports des Pyramides et le Grand Canal de Memphis. Paris: Revue d'Égyptologie, Issue 23. 
  • Löhr, Beatrix (1975). Aḫanjāti in Memphis. Karlsruhe. 
  • Mahmud, Abdullah el-Sayed (1978). A new temple for Hathor at Memphis. Cairo: Egyptology Today, Issue 1. 
  • Meeks, Dimitri (1979). Hommage à Serge Sauneron I. Cairo: Institut Français d’Archéologie Orientale. 
  • Crawford, D.J.; Quaegebeur, J.; Clarysse, W. (1980). Studies on Ptolemaic Memphis. Leuven: Studia Hellenistica. 
  • Lalouette, Claire (1984). Textes sacrés et textes profanes de l'Ancienne Égypte, (Vol II). Paris: Gallimard. 
  • Jeffreys, David G. (1985). The Survey of Memphis. London: Journal of Egyptian Archaeology. 
  • Tanis: l'Or des pharaons. Paris: Association Française d’Action Artistique (1987).
  • Thompson, Dorothy (1988). Memphis under the Ptolemies. Princeton: Princeton University Press. 
  • Málek, Jaromir (1988). A Temple with a Noble Pylon. Archaeology Today. 
  • Baines, John; Málek, Jaromir (1980). Cultural Atlas of Ancient Egypt. Oxfordshire: Andromeda. ISBN 0-87196-334-5. 
  • Alain-Pierre, Zivie (1988). Memphis et ses nécropoles au Nouvel Empire. Paris: French National Centre for Scientific Research. 
  • Sourouzian, Hourig (1989). Les monuments du roi Mérenptah. Mainz am Rhein: Verlag Philpp von Zabern. 
  • Jones, Michael (1990). The temple of Apis in Memphis. London: Journal of Egyptian Archaeology (Vol 76). 
  • Martin, Geoffrey T. (1991). The Hidden Tombs of Memphis. London: Thames & Hudson. 
  • Maystre, Charles (1992). The High Priests of Ptah of Memphis. Freiburg: Universitätsverlag. 
  • Cabrol, Agnès (2000). Amenhotep III le magnifique. Rocher: Editions du Rocher. 
  • Hawass, Zahi; Verner, Miroslav (2003). The Treasure of the Pyramids. Vercelli. 
  • Grandet, Pierre (2005). Le papyrus Harris I (BM 9999). Cairo: Institut Français d’Archéologie Orientale. 
  • Sagrillo, Troy (2005). The Mummy of Shoshenq I Re-discovered?. Göttingen: Göttinger Miszellen, Issue 205. pp. 95–103. 
  • Bard, Katheryn A. (1999). Encyclopedia of the Archaeology of Ancient Egypt. London: Routledge. 

外部サイト[編集]