エジプト第13王朝

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エジプト第13王朝紀元前1782年頃 - 紀元前1650年[注釈 1])は古代エジプトの王朝。第13王朝の時代は現代の学者によってエジプト第2中間期ないしエジプト中王国のいずれかに分類されている[注釈 2]。第13王朝を中王国に分類する考え方は、この王朝がメンフィス近郊に作られた中王国の首都イチ・タウィからなお全エジプトを支配していた事を重視した見解である[3]。この王朝第12王朝の延長線上にある政権であり、その交代の際には大きな混乱はなかったと考えられている[4][5]。実態の明らかでない多数の王による政権であるが、そのほぼ全期間国家は安定しており中央政府の権威は全土に及んでいた[6]。その統治の末期には下エジプトデルタ地帯に第14王朝としてまとめられているアジア人[注釈 3]の地方政権が自立し[7][8]、エジプトの統一は崩れた。

歴史[編集]

第12王朝のアメンエムハト3世(前1842-前1797)の死後、非王族である可能性が指摘されている[9]アメンエムハト4世(前1798-前1786)が跡を継いだ。彼の治世についてはほとんど知られていない[10]。その後女王セベクネフェルが即位した。女王即位という事態は後継者問題の存在[11]、恐らくは男系王統の断絶を示すであろう[12]。女王の後、女王の大家令であったヘテプイブラー・アアムサホルネジュヘルアンテフが一時王位を簒奪していた可能性がある[13]。彼の名前の構成要素「アアムサ」は「アジア人」と言う意味であり、後にエジプト北部を支配するヒクソスに先立ってアジア系の人物が支配的な地位にまで登場している事が注目される[13]

その後、第13王朝が成立した。第12王朝から第13王朝への交代は大きな問題もなく行われたように思われるが[4][5]、第13王朝の王達については多くの場合詳細がわからない。その初代王はかつてトリノ王名表の記述からウガエフであると考えられていたが[注釈 4]、現在ではセベクヘテプ1世が初代であると認識されている[5]。現代の研究者はこの二人が名前(即位名)の類似(クタウィラーとセケムラー・クタウィ)のためにトリノ王名表の編者が両者を混同した結果、ウガエフが初代王であるという記載がされたのだと考えている[14]

セベクヘテプ1世と、第2代のセネブエフは第12王朝のアメンエムハト4世の息子である可能性がある[15]。だが、明らかに第13王朝の王達は単独の家系によって構成されておらず、数多くの明瞭でない出自の王達から成っていた[5]。このような状況は王位継承についての異変があったことを示すが、それぞれの王達の関係については系図の再構成はもちろん、王位継承順についても復元に問題があり、学者達は統一した見解を見つけられないでいる[16]。この原因の一つは第13王朝の王名、継承順についての主要史料であるトリノ王名表の保存状態が悪く、分析が困難であることである[16]

また、この王朝には平民出身の王が数多くいた。セベクヘテプ2世の父はネンと言う名前の平民であったことがトリノ王名表の記録からわかる[17]。即位前には高級官吏であったセベクヘテプ3世の父親は平民のメンチュヘテプ(メンチュヘテプA)であった[18]。彼の跡を継いだネフェルヘテプ1世もまた、その両親が平民であったことは各種の資料から明白である[18]

このような状況で、第13王朝の王権は極めて弱体化していたと見られる。マネト[注釈 5]はこの王朝はディオスポリス(テーベ)の60人の王からなるとするが、個々の王については何も触れない[19]。また、トリノ王名表には少なくとも36人の王が記録されている[12]。明らかに第13王朝の王達の平均在位期間は数年程度であった。にもかかわらず、第13王朝の政府機構は王朝が存続したほとんどの期間において正常に機能していた[12][6]。初代のセベクヘテプ1世や次のセネブエフは統治機関の短さとは裏腹に、記念碑の分布から全エジプトにその権威を及ぼしていた[12]し、セベクヘテプ2世以降はやや王位が安定し、やはりエジプト全土を支配下に置いている[12]

この理由として第12王朝時代に長期間かけて作り上げられ、センウセルト3世(前1878 - 前1841)によって完成されていた官僚機構が第13王朝時代にも正常に機能していたことがあげられる[20]。中王国の官僚組織は極めて完成度が高かったらしく、王権が弱体化しても事実上の統括者であった宰相を中心として国家を運営することが可能であったと見られている[3]。この見解は第13王朝についての伝統的な見解であるが、一方で資料の不足のためかつての(あるいはその後の)王朝と第13王朝の統治がどのように異なっているのか具体的には不明なため、こうした見解に異を唱える研究者も近年登場している[5]

セベクヘテプ4世像(ルーブル美術館収蔵)

上記の通り、第13王朝の歴史を細かく明らかにするのは困難であるが、政治の実権を握る宰相職の世襲が進んでいたことがわかっている。セベクヘテプ2世時代の宰相アンクウは、次のケンジェル(前1747年頃)王の治世下でも権勢を振るい、その後彼の子供、孫へと宰相職が世襲された[3]。このことが関係するのか必ずしも明らかではないが、アンクウの孫イイメルウが宰相となったセベクヘテプ4世[注釈 6]の時代には下エジプトナイル川デルタ地帯)のクソイス出身とされる政権(一般に第14王朝と言われる)が狭い範囲を支配下において第13王朝の統制を離れ、エジプトの統一は再び失われた[22]

1つ明らかであるのはこの時代には下エジプトで「アジア人」の勢力が増大していたことである[23]。彼らアジア人は少なくても第1中間期以来、傭兵奴隷、そして時には外敵としてエジプトに入っていた。彼らはエジプト人の歴史叙述においては「侵入者」と見なされるが、実際には中王国時代にアジア系の高官が輩出しており、その人的交流は相当に活発であった[24]

アイ王(前1720頃)は、第13王朝の王の中で最も長く在位した王であり、その治世は約23年間続いた。同時に彼は上下エジプトにその名を記した記念建造物を残す最後の王でもある[6]。彼の時代以降、下エジプトでは第13王朝の統制は完全に及ばなくなった。そのため中にはアイ王を中王国時代最後の王と見なす研究者もいる。

その後下エジプトでは第14王朝に続きアジア系の王が築いたとされる第15王朝が権力を確立していく。彼らアジア系の支配者はヒクソス[注釈 7]と言う名で知られている。マネトの記録によればヒクソス(第15王朝)はトゥティマイオスと言う名前の王の時にエジプトの支配権を握ったとされている[21]

終盤の第13王朝の王達ははヒクソスの宗主権のもとで上エジプト(ナイル川上流)を統治した可能性があるとされているが[21]、その終焉についての情報はない。ヒクソス支配下のエジプト北部と、南部とが分裂した時代は第2中間期に分類される。

歴代王[編集]

第13王朝の歴代王と即位順は完全には復元されていない。主な資料として、王の数を60人とするマネトの記録[19]、少なくとも36人の王を上げている破損が激しいトリノ王名表の記録がある[12]。またかなりの数の王は考古学的な記念物を残している[26]。そして、彼等の系譜を復元する上で手がかりになるのが、第13王朝時代の王名に特徴的な祖先の名を含む長い誕生名である。例としてアメンエムハト6世の誕生名「アメニ・アンテフ・アメンエムハト」は「アメニ(アメンエムハト5世)の孫、アンテフの息子、アメンエムハト」と理解されている[16]。これら基に第13王朝の王統の再構築が行われているが、一部の王位継承の順序については今なお議論が続いている[5]。そして第13王朝の王達は明らかに同一の家系に属していない[5]

以下に第13王朝の王の一覧を示すが、確定したものではない。採録する王は原則として参考文献『全系図付エジプト歴代王朝史』に依った。

第13王朝のファラオの一覧
ホルス名[27] 即位名[27] 誕生名 備考
メネク(…) セケムラー・クタウィ アメンエムハト・セベクヘテプ1世 第12王朝のアメンエムハト4世の息子である可能性がある[15]
メフイブタウィ セケムカラー アメンエムハト・セネブエフ 第12王朝のアメンエムハト4世の息子である可能性がある[15]
ネリカラー
セケムカラー アメンエムハト5世 アメンエムハト・セネブエフと同一人物とする説がある
アメニ・ケマウ アメンエムハト5世の息子と推定されている
セヘルタウィ スアンクイブラー アメニ・アンテフ・アメンエムハト6世 アメンエムハト5世の息子アンテフの息と推定されている子 ダハシュールピラミッドを残している[12]
セメンカラー ネブヌン
イウフェニ
ヘテプイブラー ケマウ・サホルネジュヒルイオテフ アメニ・ケマウの息子と推定されている
セワジカラー
ネジェムイブラー
セマタウィ カーアンクラー セベクヘテプ2世 父ネンは平民の出であった[28]
レニセネブ アメンエムハト6世の息子[17]
ヘテプイブタウィ アウトイブラー ホル レニセネブの息子と推定されている[28]
ヘリテプタウィ セジェファカラー カイ・アメンエムハト7世 前任者ホルの息子や兄弟ではなかったことは確実[28]である。
セケムネチェル クタウィラー ウガエフ 以前は初代王とされていた。トリノ王名表の編者がセベクヘテプ1世と混同したと考えられている[5]
ウセルカラー ケンジェル サッカラ南にピラミッドを残している[12]
セメンクカラー イミロメシャ
セヘテプカラー アンテフ4世
メリイブラー セテ(ィ)
クタウィ セケムラーセワジタウィ セベクヘテプ3世 ブルックリン美術館所蔵のパピルス断片(35-1446)に統治第1年と2年の記録がある[29]
彼の父メンチュヘテプは平民であった[18]
ゲレグタウィ カーセケムラー ネフェルヘテプ1世 アビュドス出土の石碑と、ビュブロス出土の浅浮彫に登場する[21]
彼の両親ハアンクエフとケミは平民であった[18]
メンワジラー サハトホル ネフェルへテプ1世の兄弟[30]
アンクイブタウィ カーネフェルラー セベクヘテプ4世 ネフェルへテプ1世の兄弟[30]
メルヘテプラー セベクヘテプ5世 前任者達と血縁関係は無かったものと推定されている[18]
カーヘテプラー セベクヘテプ6世
ワハイブラー イアイブ
メルネフェルラー アイ 上下エジプトにその記念碑を残す最後の王[6]
メルへテプラー イニ1世
スアンクエンラー セワジュトゥ
メルセケムラー イネド
(…)ウェブエンラー ホリ
メルカウラー セベクヘテプ7世
イニ2世
ネフェルへテプ2世
名称不明の5人の王
メル(…)ラーという破損した名前の王
メルケペルラー
名称不明の王
セワジュアラー メンチュヘテプ5世
(…)メスラーという破損した名前の王
(…)マートラー イビ
ホル(…)という破損した名前の王
セ(…)カラーという破損した名前の王
セヘカエンラー サンクプタヒ
セカエンラー
セワフエンラー セネブミウ

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 紀元前1650年頃と言う終了年はクレイトンに依るが[1]、西村はこの年代は中王国の終わりを指すものであり、第13王朝は更に継続しているとする[2]。実際に第13王朝がいつの時点で終わったのかは不明である。
  2. ^ 前者の例としてフィネガン 1983, 屋形 1998がいる。スペンサー 2009は、中王国と第2中間期の両方に分類している。
  3. ^ エジプト学の文脈では、アジア人と言う用語はレヴァントシリアアナトリア地方南岸の人々を指す意味で使用される。
  4. ^ クレイトンは『ファラオ歴代誌』にて初代にウガエフを配置している[1]
  5. ^ マネトは紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。
  6. ^ セベクヘテプ4世は、前2世紀アレクサンドリアユダヤ人アルタバヌスの記録の中で「メンフィスより上流地方の王」と記されているケネフェレス王であるかもしれない。ナイル川下流域に対する第13王朝の支配が弱まった事を反映した記録であるといわれる[21]
  7. ^ ヒクソスとは「異国の支配者達」を意味する古代エジプト語、ヘカウ・カスウトギリシア語形である。この語は数百年以上前からシリアパレスチナ方面の首長達を指す語であったが、やがてエジプトで支配権を握ったアジア系の王を指す語として転用された。しかし同じ名前で呼ばれているとは言っても、数百年前のシリア・パレスチナの政治勢力といわゆる「ヒクソス」を同一視することはできない[25]。詳細はヒクソスエジプト第15王朝エジプト第2中間期等を参照。

出典[編集]

  1. ^ a b クレイトン 1999 p.115
  2. ^ 第13王朝(紀元前1,773〜1,650年頃)” (日本語). 古代エジプト史料館. 2017年5月29日閲覧。
  3. ^ a b c 屋形ら 1998, pp.443
  4. ^ a b クレイトン 1999, pp.115-116
  5. ^ a b c d e f g h ドドソン, ヒルトン 2012, p.100
  6. ^ a b c d クレイトン 1999, p.116
  7. ^ フィネガン 1983, p.288
  8. ^ スペンサー 2009, p.47
  9. ^ ドドソン, ヒルトン 2012, p.95
  10. ^ クレイトン 1999, pp.113-114
  11. ^ クレイトン 1999, p.114
  12. ^ a b c d e f g h 屋形ら 1998, p.442
  13. ^ a b 近藤 1997, p.119
  14. ^ 13th Dynasty (1783-1640)” (英語). The Ancient Egypt Site. 2017年5月29日閲覧。
  15. ^ a b c ドドソン, ヒルトン 2012, p.104
  16. ^ a b c ドドソン, ヒルトン 2012, p.101
  17. ^ a b ドドソン, ヒルトン 2012, p.102
  18. ^ a b c d e ドドソン, ヒルトン 2012, p.103
  19. ^ a b マネトーン断片集 第13王朝” (日本語). Barbaroi!. 2017年5月29日閲覧。
  20. ^ 屋形ら 1998, pp.442-443
  21. ^ a b c d フィネガン 1983 p.287
  22. ^ 屋形ら 1998, pp.443-444
  23. ^ フィネガン 1983 p.288
  24. ^ 近藤 1997, pp.114-116
  25. ^ セーテルベルク 1973, p.150
  26. ^ フィネガン 1983 pp.286-287
  27. ^ a b The Second Intermediate Period” (英語). PHARAOH.SE. 2017年5月30日閲覧。 左記サイトを参考にした。
  28. ^ a b c ドドソン, ヒルトン 2012, pp.102,104
  29. ^ フィネガン 1983, p.286
  30. ^ a b ドドソン, ヒルトン 2012, pp.106-107

参考文献[編集]

原典資料[編集]

二次資料[編集]

外部サイト[編集]