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カンビュセス2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カンビュセス2世
𐎣𐎲𐎢𐎪𐎡𐎹
ペルシア
古代エジプト王として聖牛アピスを崇拝するカンビュセス2世(左上)
在位 紀元前530年 - 紀元前522年
別号 大王
諸王の王
諸邦の王英語版
バビロン
古代エジプト

死去 紀元前522年
アグバタナ
埋葬 パサルガダエ
配偶者 ロクサーナ
  アトッサ
王朝 アケメネス朝
父親 キュロス2世
母親 カッサンダネ英語版
宗教 イラン宗教(ゾロアスター教?)
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カンビュセス2世古代ペルシア語: 𐎣𐎲𐎢𐎪𐎡𐎹 Kambūjiya カンブージヤ[1][2]ペルシア語: کمبوجیه Kambūjiye カンブージイェ古代ギリシア語: Καμβῡ́σης Kambū́sēs カンビューセース、? - 紀元前522年)は、アケメネス朝ペルシア帝国の第2代(在位:紀元前530年 - 紀元前522年)。

略歴

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出生

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初代王キュロス2世の長子(母は王妃カッサンダネ英語版)として生まれた。弟にスメルディス、妹にロクサーナアトッサがいる。後にカンビュセスはロクサーナと結婚し、その後ロクサーナの姉アトッサとも結婚した。この結婚は確証を持っていえる最古の王家によるフヴァエトヴァダタであったとされる[3]

父王キュロス2世が紀元前539年バビロンを征服したとき、彼はすでに宗教的儀式を主催しており[4]、父王のバビロニア人への布告が刻まれた円筒印章キュロスの円筒印章)の中では、マルドゥク神への祈祷においてカンビュセスの名前が父王の次に記されている。父王の治世元年から書かれている粘土板において、カンビュセスはバビロン王と称されているが、その権勢は長続きしなかったようである。

王位継承

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紀元前530年、父王キュロス2世は最後の東方遠征を行なうにあたってカンビュセスに王位を授けた。当時作られた数多くの粘土板が、この王位継承により「諸邦の王英語版」となったカンビュセス2世の治世元年から書き起こされている。紀元前530年8月に父王が崩御し、カンビュセス2世は単独の王となった。バビロニアの彼の統治期間を記録した粘土板は、治世第8年目にあたる紀元前522年3月で終わっている。ヘロドトスは彼の在位をキュロス2世の崩御から始まるものとしており、その期間は紀元前530年から紀元前523年夏までの7年5か月としている[5]

エジプト征服

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プサムテク3世を捕らえるカンビュセス2世(紀元前6世紀のペルシア印章より)

父王キュロス2世が古代オリエントを制した後に、カンビュセス2世がその地方に唯一残った独立国家であるエジプトの征服に乗り出さなければならないと考えるのは当然のことといえる。遠征に出る前にカンビュセス2世は父王が東部地方の総督に任命した弟スメルディスを殺害している。ダレイオス1世はその日付を記録しているが、ギリシアの著述家たちはこの殺害をエジプト征服後のこととしている。戦争は紀元前525年に始まったが、このときエジプト第26王朝ではプサムテク3世がアマシス2世から王位を継いだばかりであった。カンビュセス2世はアラブの族長たちと同盟を結んで駐屯地に大量の水を届けさせることで、砂漠を通っての進軍に備えた。一方アマシス王はギリシアとの同盟関係を保てば、ペルシアの攻撃にも耐えられるとの希望的観測を抱いていた。

しかし、キプロスの町と大艦隊を所有していたサモスの僭主ポリュクラテスがペルシア側につき、さらにギリシア軍の指揮官であるハリカルナッソスのファネスが裏切ったため、アマシスの期待は外れることとなった。エジプト東端のペルシウムを舞台に戦われたペルシウムの戦い英語版においてエジプト軍は壊滅し、その後まもなくメンフィスは陥落した[6]。捕らえられた王プサムテク3世は反乱を試みたが処刑された。エジプトの碑文によれば、カンビュセス2世はエジプトにおいて公的に王(ファラオ)の称号や衣裳を纏うことにしたとのことである。

エジプト南西部征服の試み

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エジプトに続き、カンビュセス2世はクシュナパタ英語版およびメロエに栄えた王国、現在のスーダンに位置した)の征服を試みた。しかし、カンビュセス2世の軍隊は砂漠を横断することができず、深刻な敗北を喫して帰還を余儀なくされた。ナパタの碑文(ベルリン博物館所蔵)では、ヌビアの王ナスタセンがケンバスデン(すなわちカンビュセス2世)の軍を打ち破り、その軍船すべてを奪取したと語られている[7]スィーワ・オアシスへの再度の遠征もまた失敗に終わり、カルタゴ攻略計画もフェニキア人が自分たちの親族に対する軍事作戦を拒否したために頓挫した。

崩御

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一方ペルシア本国では、カンビュセス2世の弟スメルディスが謀反を起こしてアジア全域で王としての承認を受けていた。ただ、ダレイオス1世によれば、謀反人は実は本物のスメルディスではなくガウマータという名の神官(マギ)であり、本物のスメルディスは3年ほど前に殺害されていたとのことである。カンビュセス2世はこの反乱を鎮圧するため進軍を試みたが、成功する可能性がほとんどないことを自覚するに及び、紀元前522年3月に自らの手による死を選んだ。これは当時カンビュセス2世の槍持ちであったダレイオス1世による著述であり、カンビュセス2世の崩御は事故によるものであったとするヘロドトスやクニドスクテシアスによる著述よりも広く受け入れられている。ただし、実はダレイオス1世本人が王位に就くための下準備としてカンビュセス2世を暗殺したのではないかという推測もされてはいる[8]。ヘロドトス(第3巻64)によれば、カンビュセス2世はシリアのアグバタナ(おそらく現在のハマー)にて崩御した。フラウィウス・ヨセフスダマスカス、クテシアスはバビロンとしているが、いずれも事実である可能性はない[9]。カンビュセス2世の崩御から数ヶ月後に自称スメルディスはダレイオスに殺害され、ダレイオス1世が王位を継ぐことになった。

カンビュセス2世はパサルガダエに埋葬され、2006年にその陵墓の遺跡が発見された[10]

伝承

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ギリシア人によって記されたカンビュセス2世に関する伝承には、2系統の資料がある。1つはエジプト人によるもので、ヘロドトスの著述[11]の大部分はこれを出典としている。ここでカンビュセス2世はキュロス2世とアプリエス英語版の娘ニテーティス(古代ギリシア語: Νιτῆτις Nitêtis)のあいだに生まれた嫡子とされ[12]、のちにニテーティスが殺害されたときには簒奪者アマシス2世(イアフメス2世とも)の後継者にその復讐をしたとされている[13]。しかし、この伝承はペルシア人によるもう1系統の資料で修正されている。

カンビュセス2世はアマシス2世の娘との結婚を望んだが、アマシスは自分の娘の代わりにアプリエス英語版の娘を送り、この娘がカンビュセス2世に戦争を勧めたのだという。カンビュセス2世は聖牛アピスを殺すという大罪を犯したために狂気に陥る神罰を受け、兄弟姉妹を殺す罪を重ねた。そしてついには帝国を失い、そして聖牛を殺したのと同じ場所で、腰の傷が原因で自らの命も失ったとされる。この伝承にはギリシアの傭兵に伝わるいくつかの物語、特にエジプトを裏切ってペルシアに売り渡した指導者ハリカルナッソスのファネス英語版についての物語が混ぜられている。ペルシア人の伝承では、カンビュセス2世の犯した罪は弟の殺害とされ、その後酒に溺れてさらに多くの罪を犯し、急速に堕落していったと伝えられる。

こうした伝承はヘロドトスのほか、後世の記録でありながらもカンビュセス2世の家庭事情について信頼できる情報を伝えるクテシアスによる『ペルシア誌』の断片集などに見られる。バビロニア時代の粘土板やいくつかのエジプトの碑文を除くと、カンビュセス2世の治世に関する同時代の証言はベヒストゥン碑文に記されたダレイオス1世の短い記述しか残されていない。これらの資料のみからカンビュセス2世の正確な人物像を描くことは不可能であるが、彼が放縦な暴君であったということや、酒に溺れてしばしば残虐な振る舞いをしたということが推測される。

カンビュセス2世の失われた軍隊

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ヘロドトスによれば、カンビュセス2世はスィーワ・オアシスにあるアメン神の神託所を攻め落とすために軍隊を派遣した。50,000人の軍勢が砂漠を横断している途中、巨大な砂嵐が巻き起こって全員を砂に沈めたという。たいていのエジプト学者はこの物語を神話だとみなしているが、多くの人々が長年にわたってその兵士たちの亡骸を捜し求めた。ラズロ・アルマシー伯爵(小説『イギリス人の患者』のモデル)や地質学者トム・ブラウンなどもそこに含まれる。近年の石油採掘によって遺物が発見されたのではないかと考えている人々もいる。

ポール・サスマンによる2002年の小説 "The Lost Army Of Cambyses" (ISBN 978-0-593-04876-4) は、このカンビュセス2世の軍隊の遺物をめぐって競い合う探検隊たちの物語である。

フィクションに描かれたカンビュセス2世

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トマス・パターソンによる戯曲 "King Cambyses, a lamentable Tragedy, mixed ful of pleasant mirth" はおそらく1560年代に書かれたものである。またエルカーナ・セトルによる悲劇 "Cambyses, King of Persia" が1667年に制作されている。

藤子・F・不二雄は、クシュ遠征(作中ではエチオピア遠征)から始まるSF短編漫画『カンビュセスの籤』を著している。

脚注

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  1. ^ Akbarzadeh, D.; A. Yahyanezhad (2006) (Persian). The Behistun Inscriptions (Old Persian Texts). Khaneye-Farhikhtagan-e Honarhaye Sonati. p. 59. ISBN 964-8499-05-5 
  2. ^ Kent, Ronald Grubb (1384 AP エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明) (Persian). Old Persian: Grammar, Text, Glossary. translated into Persian by S. Oryan. p. 395. ISBN 964-421-045-X 
  3. ^ 『ゾロアスター教 三五〇〇年の歴史』講談社(Mary Boyce、2010年2月)p.117
  4. ^ ナボニドゥス年代記』 (Nabonidus Chronicle) 。新バビロニア最後の王ナボニドゥスが王座を追われたのちに書いた歴史書。
  5. ^ より詳細な情報に関しては、 Parker & Dubberstein, "Babylonian Chronology". を参照。
  6. ^ ダニエル・スミス『絶対に見られない世界の秘宝99』日経ナショナルジオグラフィック社、2015年、194頁。ISBN 978-4-86313-324-2 
  7. ^ H. Schafer, Die Aethiopische Konigsinschrift des Berliner Museums, 1901
  8. ^ www.herodotuswebsite.co.uk, "A Commentary on Darius"
  9. ^ A. Lincke, "Kambyses in der Sage, Litteratur und Kunst des Mittelalters", in Aegyptiaca: Festschrift fur Georg Ebers (Leipzig 1897), pp. 41-61; および History of Persia を参照。
  10. ^ Cultural Heritage New Agencyによる"Discovered Stone Slab Proved to be Gate of Cambyses' Tomb"参照。
  11. ^ 歴史』第3巻2-4; 10-37
  12. ^ Herod. 3.2, Dinon fr. II, Polyaen. viii. 29
  13. ^ Herod. 3.1 and Ctesias a/i. Athen. Xiii. 560

参考文献

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先代
キュロス2世
ペルシア
アケメネス朝
紀元前530年 - 紀元前522年
次代
スメルディス
先代
クラシュ
バビロン
(カンブジヤ)
アハマニシュ朝(第11王朝)
紀元前538年、紀元前530年 - 紀元前522年
次代
バルジヤ
先代
プサムテク3世
古代エジプト
(ケンビチェト)
第1アケメネス朝(第27王朝
紀元前525年 - 紀元前522年
次代
スメルディス